2話 海への転落
夜11時を過ぎ、誰もいなくなったオフィス。
私は、上司から依頼された議事録を書き終え、帰宅しようとしていた。
電気を消しながら出口に向かって歩く。
コツ、コツ、コツ
お昼は怒鳴り声が飛び交うオフィス。
でも、誰もいなくなると、私がパンプスで歩く音が部屋全体に響いて不気味な感じが漂う。
振り返ると、真っ暗な空間が果てしなく続き、吸い込まれてしまいそう。
誰もいないと、びっくりするぐらい広い空間が静寂に包まれている。
誰もいない深夜のオフィスって、何かが襲ってくる気配がするわよね。
早く、オフィスを出て、エレベータに向かわないと。
その時だった。真っ暗なオフィスの中で、横のビルから漏れる光に照らされている。
先日亡くなった音羽の席だけがぽつんと。
音羽は、こんな激務の中でも、いつも笑顔で私を包みこみ、励ましてくれた。
そんな優しい人は、もう、この会社では他にいない。
この会社の激務は人の限界を超えている。
だから職場では怒号が飛び交い、相手の心配なんてできる余裕はない。
誰もが、自分のことだけで精一杯だもの。
でも、音羽は、仕事で大きなトラブルを起こしたの。
会社から毎日のように責められ、鬱になった。
そして、会社にほど近い埠頭から海に飛び込んで亡くなった。
そのトラブルは本当に音羽のせいだったかはわからない。
みんな、自分を守ることで精一杯で、失敗は他人に押し付けるのが普通の会社だから。
あんな優しい人が、あの事件のせいで自殺してしまうなんて、今でも信じられない。
私は、音羽を助けることもできなかった。
そんなに悩んでいるんだと気づくこともできなかった。
ごめんなさい。
バン、ゴロゴロ、ガシャーン
その時、音羽の机にあったガラスの花瓶が倒れた。
花瓶は、そのまま床に落ちて、粉々になる音が、音羽の悲鳴のように部屋中に響き渡る。
乾いたガラスが割れる音が、私の頭の中で、何回も繰り返し響く。
私を責めるように。
恐怖のあまり、私は動くことができず、風もなく倒れるはずがない花瓶をみつめていた。
後ろで睨んでいる音羽を感じ、怖くなって、私は、その場から走り出した。
でも、恐ろしいことは、それで終わらなかったの。
翌日の夜8時ごろ、私は、あまりの光景に凍りついた。
死んだはずの音羽が、オフィスで、係長の後ろに立ち、係長を刺すように睨みつけている。
ぽた、ぽた、ぽた
音羽はびちょびちょで、体の一部は溶け出し、足元には、砂混じりの水たまりがみえる。
頬には、どす黒い大きな穴があり、とても生きているようには見えない。
ただ、目だけはしっかりと係長に向き、口元からは大きな怒りが溢れている。
怒りの声なき声が私の頭の中で駆け巡っていた。
キー
頭痛がひどくなり、意味がないことは分かっていても、私は、手で耳を塞いでいた。
そして、水で濡れた髪の毛が係長の肩にかかり、係長の耳に顔を近づけ、何かを囁いた。
音羽は、囁いた後に、にやりとして、だんだん透明になって消えていった。
幻をみたのかしら。係長は、何もかわらず仕事をしている。
松本精機さんへの設計書はできたのか係長は、横の部下に聞いていた。
部下は、いろいろな言い訳をしている。
よくわからないけど、まだ終わっていないということみたい。
それを聞いた係長は、部下を怒鳴り散らす。
その怒号に萎縮した社員たちは、誰もが喋るのをやめた。
そして、職場は、空調の音だけが響く空間に変わる。
係長は立ち上がり、部下の机に書類を投げた。
でも、それでその場を去ったので、周りのみんなにはほっとした雰囲気が流れた。
そして、早く、その仕事を仕上げようと必死にパソコンに設計を書き込む。
私は、係長の行き先に目をやった。
音羽の席の近くに座る年配の男性2人に近寄ったの。
そして、耳元で、あの音羽と同じように何かを囁いた。
その2人の表情にはなにも変化はなかった。何だったんだろう。
翌朝、社内は大騒ぎとなっていた。
あの係長と年配の男性2人は亡くなったんだって。
昨晩、酔って、音羽が身投げをした海に足を滑らして転落したらしい。
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