11月14日土曜日 18:30再診①
1.11月7日土曜日 20:30
大阪の大学に通っている娘の
週明けの月曜日が朝から大阪への出張なので、名刺を補充しておく必要があったのを忘れていたのだ。
そこで、愛結実には近くのカフェで待っててもらうことにして、私は虎ノ門方面に戻って、事務所に取りに行くことにした。
休日と定時後のビル入館用の警備カードと社員証は財布に入れているので、それを使って、通用ドアから入館して、自部門の入居フロアに上がった。
ピッと社員証をかざして入室すると、入ってすぐの所で、顔見知りの総務部の緒方さんに声をかけられてびっくりした。
どうやら電話工事の立ち会いらしく、フロアの奥では数名の工事作業員が作業をしていた。
「なぁに?こんな時間から休日出勤?総務としては届け出無しのは、上長確認が必要なルールなんだから、そういうのは勘弁してよ。」
私がいそいそと緒方さんの方へ駆け寄ると、そろそろ60才になる緒方さんが冗談めかして言った。
「いやいや、まさか。週明けの月曜に出張が入っているんですが、名刺が無いのを忘れてまして…ちょうど近くに来ていたので、取りに来た次第です。」
私は事情を説明し、ついでに私が休日入館したことは穏便に流しておいてください、と頼んで、ロッカーにあった名刺を30枚ほど取り、そそくさと事務所を出た。
事務所を出たところで愛結実にLINEをすると、『みっちゃんが今バイト終わったみたいだから、ちょっと東京駅のとこで会ってくる!パパは先帰っといて!』とのこと。
“みっちゃん”というのは、愛結実の従妹であり、亡くなった妻の姪のことだ。
東京大丸のお菓子売り場でアルバイトをしており、何かとお菓子の贈答品が必要になった時は、私もみっちゃんこと、
私は、『あまり遅くならないように!』と、愛結実に返信して、さっきポケットに突っ込んだ社員証と警備カードを財布に直して、新橋まで歩いていくことにした。
すると、「あの、また落とされましたよ?これ…」と、背後から声をかけられた。
え?、また…?
私が振り向くと、そこには鮮やかな青色のコートの若い長身の女性が、紺色の私のカードケースを持って立っていたが、私にはなんとなく、この女性の優しげな雰囲気と声に憶えがあった。
「あれ?もしかして、そこの歯医者の加藤さんですか?」
私のことを知っていて、このカードケースのことも知っているとなると、そこの歯医者の歯科衛生士の加藤さんしかないだろう、と思って尋ねてみると、目の前の女性は、「はい、こんばんは」と返事をしたので、たしかにTファミリーデンタルクリニックの加藤さんだった。
これまでは大きなマスクをしている加藤さんしか知らなかったが、眼前にいる素顔の加藤さんはハッとするほどの整った顔をしていた。
「いやいや、すみません、その、同じものを二度も落として、それをまた二度も拾っていただくなんて。」
私は礼を言って、加藤さんからカードケースを受け取り、今度は落とさないようにショルダーバッグの中にちゃんと仕舞った。
「いえいえ、気になさらないで下さい。それより、今日もお仕事だったんですか…?」
「いえ、今日はこの近くで用事がありまして、そのついでに事務所に物を取りに行っていたんです。加藤さんはお仕事終わりですか?」
私がそう聞くと、「はい、さっき終わったところです」とのことで、加藤さんもこれから自宅に帰るところだそう。
私は再度、カードケースを拾ってもらったことのお礼と、来週に予約が入っているので、その際はまたよろしくお願いします、と挨拶をして、新橋までの道を歩いていった。
15分ほど歩いて、ニュー新橋ビルの前まで来たところで尿意を催して、トイレを借りて帰ることにした。
もう21:00近いため、ビル内の人は少なく、土曜日ということもあって、閉まっている店も多い。
用を足してJR新橋駅の改札を入ると、どうやら山手線と京浜東北線は、1つ隣の浜松町駅での人身事故で、共に運転見合わせ中らしい。
仕方がないので、私は上野東京ラインで赤羽まで出てから、その先の乗り換えを考えることにした。
上野東京ラインのホームに上がると、なんと、そこでまた加藤さんと遭遇した。
加藤さんもこちらに気付いたようで、「京浜東北線、止まっちゃってますねぇ」と苦笑している。
「あれ?私、京浜東北線沿線ってお話しましたっけ?」
たしか加藤さんとは住まいの話題はこれまでしたことが無かったはずだ。
「あー、そうですよね…実は、一昨日の朝に王子駅の近くでお見掛けしたんです。」
「もしかして、王子住みではなく、何かのご用事でした…?」
加藤さんは少し気まずそうにして付け加えた。
「いえいえ、確かに私の住まいは王子です。」
「と言っても…正確には、王子神谷の方ですが。」
私がそう答えると、加藤さんもすぐ近くの東十条の辺りだそうだ。
王子神谷だと南北線の方が便利じゃないか?と、加藤さんが言うので、何かとJRの定期の方が仕事の外回りでは都合がいいので、王子から京浜東北線で通っているんですよ、と話している内に、高崎線方面行きの上野東京ラインが入線してきた。
案の定、車内は京浜東北線の運転見合わせの影響で、通勤ラッシュの如くだ。
次の電車を待っても、どうせ同じ状況だろう。私と加藤さんはなんとかぎゅう詰めの車内に乗り込んだ。
電車が発車して大きく揺れると、ただでさえ引っ付くように並んで立っている加藤さんがもたれ掛かってきた。
加藤さんが長身なことも相まって、その整った顔が近い。
「わ、ごめんなさい。」
私の胸あたりに手を置いて身体を支えて、小声で加藤さんが謝る。
眉を八の字にして苦笑している加藤さんの仕草に、不意にドキリとする。
(おいおい、いい年して、なに照れているんだ…)
私は、いえいえ、と返して、車内モニターに視線をやって誤魔化した。
電車が東京駅に着くと、ラッキーなことにちょうど目の前の2人が降りたため、私たちはするりとその席に収まり、加藤さんと並んで座ること出来た。
ただ大勢が降りた割に、代わりに乗ってきた人も多く、車内は先程よりいっそう混み合ってきたように感じた。
私は、東京駅近辺にまだ居るであろう愛結実にLINEを入れると、やはり、「まだ丸の内にいる!」とのこと。
まだ京浜東北線は運転見合わせ中のため、愛結実には、「遅くならないように、あと、京浜東北線が止まってるから地下鉄の方がいいぞ」と、返しておいた。
電車は満杯の乗客を載せて上野に着いたが、やはり降りる人と乗る人の数にあまり差が無い様で、車内の混雑度合いは変わらない。
土曜日ということもあって、普段は通勤ラッシュの電車に乗らない人も多いのだろう。何処からか子どものぐずり声が聞こえてくるが、席を代わってやろうにも何処にいるのかも分からないので仕様がない。
すると、今度はホームで非常用停止ボタンが押されたようで、ドアが開いたままの車内にけたたましい非常音が鳴り響き、電車は停車したままになってしまった。
「何かあったんでしょうか…?」
加藤さんは心配そうにしている。
「うーん、この電車に乗れないから、いやがらせで押した人がいたのかも?」
こういった遅延の時には、鬱積したストレスの捌け口で、馬鹿なことをする奴も出てくる。
車内にはホーム上の安全確認をしています、というアナウンスが流れている。
しばらくして、ホーム上の非常音は止んだが、数分経っても、電車は発車する様子が無い。
すると今度は、「前を走る電車でお客様トラブルが発生し、この電車は引き続き停車しています」とのことだ。
(こりゃ、当分は動かないぞ…)
車内では諦めて降りる人も少しずつ出てきた。迂回ルートがある人達なのだろう。
「どうしまっしょっかねぇ…」
私が加藤さんに尋ねる様に聞いてみると、加藤さんも「うーん、悩みますねぇ。だいぶ時間掛かりそうですねぇ」と、スマホの乗換案内を見て唸っている。
「山手線もまだ動いてないみたいですが、上野だと他はJRは常磐線、地下鉄だと日比谷線と銀座線ですもんね…んー、大人しくコレに乗っておくしかないかもです…」
加藤さんの言葉で、ちょっとした良案が閃いた。
「そうか、日比谷線か。うん、先ずは日比谷線で三ノ輪まで行きましょう。」
「え?日比谷線で三ノ輪…ですか?」
「はい、三ノ輪で東京さくらトラムに乗り換えです。」
私はそう言うや否や立ち上がり、さあ、と加藤さんを促す。
加藤さんはまだよく理解できていない様子だが、私に続いて人の壁を掻き分けて、一緒に電車を降りた。息が詰まるような満杯の電車から降りると、少しの解放感を感じた。
ホームの下り階段を降りて、改札のところで使えるのかどうかわからないが、念の為、振替乗車券を貰っておく。
「えっと、あの、東京さくらトラムって何でしたっけ?」
振替乗車券を貰って、改札を出ようとしたとこで加藤さんがポツリと言った。
「えーっと、王子の駅前から路面電車が走っているでしょ?アレのことですよ。」
「あ!ええ!あのチンチン電車のこと!」
「あれが東京さくらトラムなんですね!」
加藤さんはようやく分かったようで、改札前で大きな声で驚いて納得した。
美人の女性が“チンチン電車”なんて言うものだから、近くにいた男性が思わず吹き出すようにしていた。
「で、東京さくらトラムが三ノ輪を走っているんですか?」
「はい、正確には三ノ輪橋駅ですが。三ノ輪駅から歩いてすぐのとこにあって、そこから走っています。“都電荒川線”と呼ぶ人もまだ多数いますが。」
東京さくらトラムは荒川区の三ノ輪橋から新宿区の早稲田まで大きく弧を描くようなルートで運行している。
朝夕は概ね2~5分間隔、日中帯で凡そ6~7分間隔、土曜日のこの時間でも10分も待たない間隔で運行しているため、だいぶ遠回りにはなりそうだが、いつ運転再開するか分からない車内で待っているよりはマシ、という判断だ。
日比谷線上野駅の改札口に到着すると、改札を出ていく人のほうが多い。
ホームに降りて、ちょうどやってきた電車も降車客の方が多く、混んではいるものの、先程の高崎線よりかは随分とマシだった。
三ノ輪で降りると、私たちと同じく三ノ輪橋駅方面に行く人が多い。
私たちもそれに続いて三ノ輪橋駅に向かった。
「王子神谷は長いんですか?」
日比谷線の車内がだいぶ暑かったため、加藤さんがハンカチで汗を拭きながら聞いてきた。
電車はちょうど行ってしまったところで、私たちは次の電車を待つことになった。
「王子神谷に移り住んで、そろそろ8年というところでしょうか。」
「ただ、その前も同じ北区の赤羽岩淵でしたからね。北区住まいはもう20年というところです。」
私は大阪の生まれだが、東京の今の会社に就職して以来、ずっと都内の本社に勤務している。
大学の2年後輩で、亡くなった妻の
結佳の実家は赤羽の近辺で3軒の薬局を営んでおり、薬学部卒の結佳は私に4年遅れて東京に戻ってきたが、結佳が実家の薬局の1つで薬剤師と働き始めるのと同時に、私たちは結婚した。
「へぇ、結構長いんですね。私は東十条はやっと2年というところです。」
加藤さんは大学を卒業後、2年ほど大学病院の歯科・口腔外科で働いていたが、2年前から今の虎ノ門のTファミリーデンタルクリニックで勤務しているとのこと。
「大学病院というのはやはり激務なんですか?」
私も大学病院の歯科には罹ったことはあるが、中で働く人の仕事はどんな感じなのかが分からないので、聞いてみた。
「そうですねぇ、基本的には予約制ですし、午後も夕方で終わりなので、さほど激務というほどではありません。」
確かに、私が以前に罹ったことのあるK大学病院の歯科・口腔外科も内科や外科といった診療科に比べれば静かな感じがした。
私がK大学病院の口腔外科で親知らずを抜いてもらったことを話すと、なんと加藤さんの前の職場もK大学病院で、下田医師は現在も勤務しているらしい。
もちろん、私がK大学病院の世話になったのはももう15年ほど前のことなので、加藤さんも下田医師も勤務し始める随分前のことなので、2人と以前に会っていたということはない。
「その…私は下田くんに誘われて、今のクリニックに移ったんです。」
なるほど、大学病院の歯科はそんなに激務ではないのですか、と返そうとしたところで、加藤さんはが先に今のクリニックに転職した理由を教えてくれたのだが、下田医師の“下田くん“という呼び方の方に驚いてしまった。
「ん?下田くん…あぁ、下田先生のことですね。」
「あ!、あ、はい……って、いや、そのぉ…」
「そう、下田先生ですね。えへへ。」
思わず、素で下田先生のことを“下田くん”と呼んでしまったことで、加藤さんは顔を赤くしている。
そうしているところに、路面電車がごごごぉっとやってきて、三ノ輪橋駅は終点のため、ぞろぞろと多くの人が降りていく。
私たちは空になった電車に乗り込み、また並んで座った。
「えーっと、下田先生とは地元の小学校の5、6年生の時の同級生でした。」
私が加藤さんと下田先生の関係が気になっているところに、加藤さんが下田医師との関係を話しだした。
「下田、くんは中学に上がる時に、お父さんの転勤で秩父の方に引っ越しをしたんですが、高校に上がる少し前に、また地元の中学に転向してきて、私たちは同じ高校に入りました。」
聞けば、加藤さんと下田医師の地元は埼玉県のW市だそうだ。
確かにW市からだと、同じ埼玉県内とは言え、秩父まで通勤するとなるとかなりの通勤時間だから、引っ越しするのも無理もない。
「そして、下田くんは都内の大学の医学部に入るのと同時に、東京の親戚のマンションに引越して、私は埼玉県内の大学に進学したんですが、偶然、私が最初に就職したK大学病院で彼と再会したんです。」
その後は、下田先生に誘われて、今のクリニックで一緒に勤務しているというわけか。
「それにしても、下田先生は感じの良い先生ですね。その、歯医者の腕前とかはわかりませんが、患者との接し方とか説明がはっきりとしていて分かりやすいし、ちゃんと必要なことをやってくれているんだ、という安心感があります。」
私は2度の下田医師の治療を受けた感想を、率直に加藤さんに伝えた。
「ええ、下田くんがちゃんと治療内容と計画を説明してくれるおかげで、私が処置をする時も患者さんが安心してくれているので助かります。」
加藤さんはまるで自分が褒められたかのように、誇らしげに下田医師のことを話してくれる。
加藤さんが下田先生に好意を抱いているのがよく分かる。
もしかすると、2人は既に付き合っているのかもしれない。
「そういえば、小野寺院長も先代の院長の後を継ぐほどの腕の良い先生と聞きましたが。」
先日、あの洋食店の女将に聞いたことを加藤さんに聞いてみた。
もちろん、女将から聞いたことは伏せて、でだ。
「え、どうして先代の院長のことをご存知なんですか?」
これまでニコニコとしていた加藤さんが、少し私を訝しむように表情が固くなる。
「ああ、えっと、ウチの会社の事務所は以前は田町の方でして、職場の先輩が以前の三田の病院に通っていたことがあって、私が最近、歯医者通いをしていることを話していたら、先輩もTファミリーデンタルクリニックのことを知っていまして…」
「その時に、先輩は三田の病院では徳永先生という院長先生に診てもらっていた、と聞きましてね。それで、この前見かけた小野寺院長ではなかったんですか?という話になりましてね。」
少しばかりの嘘は混ざっているが、職場の先輩がTファミリーデンタルクリニックの前身である、“三田ファミリーデンタルクリニック”に通っていたことは本当だ。
先輩は小学生の時に虫歯で痛い目を見てから、定期的に仕事帰りに三田ファミリーデンタルクリニックに通っていて、ずっと徳永院長に診てもらっていたそうだ。
それで、徳永先生が引退して三田の病院を閉めることになって、次は虎ノ門に移転するのだと、事業継承して開院予定のTファミリーデンタルクリニックを紹介されたらしい。
「はぁ、そうだったんですね。」
「ただ、私は直接は先代の院長とは面識は無いんです。私が今のクリニックで働き始めたのは虎ノ門に移転してからですし、それに…徳永先生はもうお亡くなりになっているので‥」
徳永先生が既に亡くなっていることは、洋食店の女将から聞いている。
時系列的なことまでは詳しくは聞かなかったが、どうも徳永先生が亡くなってまだあまり年月は経っていないようだ。
加藤さんは私の苦し紛れの説明でも一応納得してくれた様子で、固くなっていた表情も先程までの柔らかい感じに戻った。
しかし、何故か加藤さんが小野寺院長をあまり良く思っていないことは感じ取れた。
「小野寺院長も本当に丁寧な技術の高い先生ですよ。今はK大学では講義だけのようですが、三田の病院の時代は、大学病院の口腔外科の講師も兼任されていたようです。」
大学病院の口腔外科と言えば、私も昔、親知らずが埋没して生えていたため、近所の歯医者から紹介されて、K大学病院の口腔外科で抜いてもらったことがある。
口腔外科医の専門医の資格を取得するには、初期臨床研修の修了後に6年間の口腔外科専門医研修施設での研修と、日本口腔外科学会の認定試験に合格する必要がある。
小野寺院長はその講師をしていたくらいなので、相当に腕の良い先生であることが分かる。
「ん?小野寺院長はK大学病院で?」
「はい、徳永先生もK大学でしたので、今のクリニックの先生もスタッフもK大学の人がほとんどです。」
そうだ、小野寺院長は徳永先生の教え子で、下田医師は加藤さんの前職場で同じになったというのだから、確かにみんなK大学病院関連の人たちだ。
「なるほど、そういえば、加藤さんも小野寺院長の診察や処置の時に付くことがあるんですか?」
「いえ、私はもっぱらアルバイトの先生に付くことになっていまして、小野寺院長には日野さんというスタッフが付くことになっています。」
「日野さんは歯科衛生士と歯科技工士を兼任されている方で、小野寺院長がK大学病院から連れてこられたんです。日野さんはご結婚されていて、夕方には上がられているので、お見掛けされていないんだと思います。」
なるほど、どうりで私が日野さんというスタッフを見かけたことはないわけだ。
加藤さんは、ついでに小野寺院長は基本的に午前診療だけだということも付け加えてくれた。
路面電車は栄町を発車して、もうすぐ王子駅前に到着する。
加藤さんは結構な話好きな人の様で、王子駅前に付くまでの間、歯科技工士の資格も持つ日野さんに憧れているとか、日野さんのようにダブルライセンスになるために、専門学校にまた通おうかとも考えているとか、週に1度だけ来るもう1人のアルバイトの先生のことを聞かせてくれた。
ちなみに、そのもう1人のアルバイトの先生もK大学病院の先生とのことだ。
私たちは王子駅前で路面電車を降りて、JRの王子駅前のロータリーに出た。
すると、JR王子駅の改札から人がぞろぞろと出てきた。
ちょうど10分ほど前に運転が再開されたようで、降りてくる乗客の表情には疲労感が漂っていた。
「電車動いてるみたいですけど、1駅だし、私は歩いて帰ります。」
加藤さんは、たった1駅だけのためにおそらくは日比谷線以上に満杯であろう電車に乗るつもりがない、とのこと。
私も1駅だけ南北線に乗るつもりもないので、一緒に歩いて帰ろうとおもったところで、スマホがブルブルと震えた。
「パパ?今どこいるの?何度もLINE入れてんじゃん!」
愛結実からだ。
加藤さんとのおしゃべりが楽しくて、LINEを確認するのを忘れていた。
「ごめんごめん、電車に乗っていたから、気が付かなかったよ。今?今は王子駅に着いたところだよ。」
「え、王子にいるの?どこ?どこ…‥って、いた!」
と、通話が切れた。
「パパ!こんなところにいたの!?」
すると、愛結実がロータリー横の喫煙所のところから走ってやってきた。
「愛結実こそ、どうしてここにいるんだ?」
「秋奈おばさんに迎えに来てもらって、みっちゃんのバイトの友だちが王子だから、ここで降ろしてたあげてたの。」
「で、みっちゃんがタバコ吸いたいって言うから、そこに居たの。」
愛結実が喫煙所を指差すと、その先に実花が居て、加熱式タバコを咥えながら手を振っている。
で、秋奈はあっちだと指さした先に、義理の妹である秋奈の車が停めてあった。
「そーれーでー!ね、この人は誰なの?」
愛結実が睨みつけるようにして、加藤さんの方を向く。
元々、ファザコン気味の愛結実だったが、結佳が亡くなってからはいっそうその傾向は強くなり、私が知らない女性と話しているのが気に食わないのだ。
「ん?加藤さんのことか?」
「そうだよ!」
愛結実は小さな身体で背伸びするようにして、私に顔を近付けて詰問するように言う。
どうにも変に誤解をしているようだ。
「その、こちらの加藤さんは、最近お世話になっている歯医者さんの歯科衛生士さんだよ。」
「さっき、歯医者さんに通っていることは話したろ。」
夕食の際に、私が歯医者通いをしていることを話して、「パパはハミガキの時間が短すぎるの!」と、愛結実に叱らられている。
「それで、さっき会社の近くでお仕事終わりの加藤さんと偶然に会って、加藤さんも東十条にお住まいだと言うので、一緒に三ノ輪橋から路面電車で王子まで出てきたんだよ。」
「ふーん、そうなんだ…」
愛結実の誤解はまだ完全に解消されていないようだが、加藤さんが簡単にキーケースの件も話してくれたので、一応は愛結実も理解してくれたようだ。
気不味い雰囲気に、加藤さんは、「では、お先にです…」と、申し訳なさそうにして、小走りに東十条方面に向かって歩いていき、私は愛結実に引っ張られて、一緒に秋奈の車で送っていってもらうことになった。
(加藤さんには悪いことをしたな…次回の診察の時にお詫びしておかないと)
「あれ?パパ、これ。」
実花がタバコを吸い終えてこちらにやってきて、一緒に秋奈の車の方に向かおうとしたところで、愛結実が何かを拾い上げた。
小さなメモ帳のようだ。
水色の手の平サイズのもので、表にも裏にも名前は書いていないが、加藤さんが立っていた場所に落ちていたので、おそらく加藤さんの物だろう。
「多分、それ加藤さんのだよ。パパは加藤さんを追いかけて行くので、愛結実はちょっとだけここで待ってて。加藤さんが探しに来るかもだからさ。」
私はメモ帳を受け取り、加藤さんが歩いて行った方へ走って追いかけていくことにした。
加藤さんが向かった方向からすると、線路沿いに東十条まで歩いていくはずだ。
私は人の流れを避けながら、小走りに駆けていく。
北とぴあという東京都北区の複合文化施設の前の信号を渡って、全国チェーンのビジネスホテルのある道のところまで来て、前方に青ぽいコートの人影が見えた。
加藤さんだ。
夜道ではあるが、鮮やかな青色のコートは少し離れていても確認できる。
普段から殆ど運動をしていないせいで、小走りなだけでも肺がしんどくなるほどの状況だが、私は加藤さんに追いつくべく、最後の力を振り絞って歩速を上げた。
「か、加藤さんっ!」
そして、やっと2メートルくらいのところまで追いついたところで、私は加藤さんに呼びかけた。
「きゃっ!?」
夜道でいきなり男に呼び止められたら、誰でも驚くよな…
迂闊なことをしたとは思いつつも、加藤さんは呼び止めたのが私だと分かったことで、硬直から溶けたようだ。
「え?あ、どうしたんですか!?」
ぜぇぜぇと肩で息をしている私を見て、加藤さんは心配そうにして私を見ている。
「いやぁ、はぁぁ、あの、コレってか、加藤さんの物ですか…?はぁ、ふぅぅ…」
私は、喉から声を絞り出すようにして、ショルダーバッグのポケットに入れたメモ帳を見せた。
「あ、それ、私のです!え、でも、どうして、それを?」
私はふぅぅっと息を整えて、愛結実が落ちていたのを拾ったことを説明した。
「ありがとうございます。えへへ、今度は私が拾っていただくことになりましたね。」
加藤さんはメモ帳を受け取り、青色のコートのポケットにそれを仕舞った。
「これ、患者さんとお話したこととか、どういう人だとか、ちょっとした会話のことをメモしているものなんです。カルテには当然、こんなこと書けないけど、やっぱり少しでも患者さんのことを思い出した上で、処置させていただくほうが良いですから…」
真面目そうな加藤さんらしいな、と思った。
歯医者では患者は口を開けたままなので、あまり会話をすることはないけども、それだけに患者の特徴や前回の印象をメモしておくというのは、営業職の私の仕事にも通じることだ、と感心する。
(なるほど、2度しか会っていない私のこともちゃんと覚えているわけだ)
そうだ、と思い出して、愛結実に加藤さんに追いついてメモ帳を渡したことをLINEした。
『了解!』というスタンプとともに、「パパ、こっち戻って来る~?」と聞いてきたので、「こっちはもう歩いて帰るので、先に帰っておいてくれ」と返した。
加藤さんと一緒に帰りたいんじゃないの?と勘繰られるかと思ったが、再び、了解スタンプが帰ってきたので安心する。
「娘たちは先に車で帰るそうなので、私も歩いて帰りますが、加藤さんもここを真っ直ぐですか?」
「はい、私はここを真っすぐ行って、よく並んでるラーメン屋さんのとこらへんまで行きます。」
なるほど、あの行列店の近くなのか。
「私もラーメン屋さんのとこまでは同じなので、一緒に行きましょう。」
私たちは並んで、東十条方面に歩いていくことになった。
「これ、いかがですか?」
加藤さんと東十条・王子界隈の美味しい店の話をしていると、加藤さんがバッグの中からビスコを取り出して、私に見せた。
例の赤いパッケージに男の子が描かれたやつだ。
「へぇ、ビスコですか。懐かしい。」
私はありがたく頂戴し、加藤さんがパッケージを破いて食べ始めたので、私も同じようにする。
「えへへ、ちょっとお腹が空いちゃって。私、ビスコ大好きなんです。」
いたずらぽく加藤さんが微笑み、また1つ口に入れた。
「久しぶりだなぁ、ビスコ。ウチの娘も小さい頃は大好きで、よく買ってやりましたよ。」
そう言えば、愛結実もこのビスコが大好きで、結佳がよく徳用パックを買っていたな。
それでも愛結実をたまにコンビニに連れて行ってやると、お菓子コーナーでビスコを欲しがっていたので、相当、ビスコが好きだったんだろう。
私も同じお菓子でも少しでも子どもの健康に良いものを、と思うと、このビスコの方が良かったのだ。
「下田くんがビスコが大好きで、たくさんストックしているんですよ!」
「それで、それをよく貰うので、ついつい私もビスコ好きになっちゃいました。」
へへへと笑って、加藤さんはもう1つ食べ、私もそれに倣って1つ齧った。
なつかしい素朴なクリームの味が口内に広がり、久しぶりに食べたが、大人が食べてもやはり美味しい。
私がもう1つ口に入れたところで、また電話が鳴った。
もちろん、愛結実からだ。
私は、加藤さんと歩きながら電話に出る。
「愛結実?もうマンションに着いたの?」
「うん、さっき着いたよー、それでね、みっちゃんがタバコ買ってきて欲しいんだって…これ、なんてやつ?」
どうやら、そばにいる実花にタバコの銘柄を確認しているらしい。
「えっとね、ぷるうむ?、エックスってやつのきゃめるのメンソールのフレッシュの方、だって!」
「パパ、分かる?」
どうやら、実花はploomXのキャメルのメンソールフレッシュのことを言っているようだ。
私も2年前までは、同じものを吸っていたので分かる。
「はいはい、分かるよ。もうすぐ保健所の近くのコンビニのとこだから、そこで買って帰るよ。愛結実は何にもいらないのか?」
「愛結実はプリンが欲しいよ。大きいやつ。」
「でね、みっちゃん泊まるから、後でお布団出してあげて。」
「んで、秋奈おばさんも一緒だから、お酒飲みたいんだって!おつまみ買ってきて欲しいって!おつまみはね、えっとね、………」
こちらが返事をする間もなく、矢継ぎ早に愛結実が用件を言っていく。
要するに、秋奈と実花が来てるので、酒盛りの買い物をしてこい、というわけだ。
愛結実の一方的な会話を聞いていると、もうコンビニのところに着いた。
「コンビニ着いたから、もう切るよ?」
はーい、と答えて、電話が切れた。
隣りにいる加藤さんはクスクスと笑っていた。
「お買い物、いっぱいのようですね。」
「ええ、もう山ほどですよ。」
私はうんざりしながら、そう答えた。
「私も夕飯を買って帰りたいので、ご一緒してもいいですか?」
「この時間からだと、もうお料理するの面倒で…」と、加藤さんが付け加えた。
特に断る理由もないので、私たちはコンビニに入って、各々、ここで買い物をして帰ることにした。
ここのコンビニは私もたまに利用する。
私は、普段はJRの王子駅から大通り側を歩いて、王子神谷の自宅に帰るのだが、たまに気分転換で今日のように線路沿いのルートで帰る際に、ついでに寄っていくことがある。
加藤さんはレジ前を通って、その横の弁当コーナーへ向かう。
私は、先ずは酒だ、と愛結実(というより秋奈)のオーダー通りに、店内奥の飲料棚から酒類と愛結実のジュース類を買い物かごに入れていく。そういや、牛乳も無くなっていたはずなのでと、牛乳もかごに入れて、そばにあったプリンも入れた。
ツマミ類は、と……
私がお菓子コーナーのそばで、乾き物やおつまみをいくつか見繕い、スナック菓子も買っていこうとお菓子コーナーを覗くと、小さな男の子がしゃがんでお菓子を見ている。
紺色のトレーナーに黄色のズボン。
見た目からして、おそらく2歳半か、3歳くらいの子だろうか。
愛結実も小さい頃はよくあんなふうにして、お菓子を見ていた。
男の子を横目に、私はこのコンビニのPB商品のポテトチップスやおかき類などをかごに入れた。かごはもういっぱいになって、とりわけ酒とジュース類が多いため、かなり重い。
そういえば、愛結実がチョコ菓子も欲しい、と言っていたのを思い出して、反対側の棚からパイの実を取ろうとした時、
「ビスコ!おぃちゃん、ビスコ!」
お菓子を見ていた小さな男の子がしゃがんだまま顔をこちらに向けて、ビスコを手にとって「ビスコ!」と言っている…
小さな男の子が。
いや、あれは本当にヒトの、男の子なのか…?
「うっ、(わっ)!」
私は、思わず声に出てしまったが、なんとか途中で引っ込めた。
その男の子と思しき、小さな子どもの顔は…何も無かった。
その男の子の顔は黒い渦の様に潰れていて、そこにあるべき目も鼻も、そして、今声を発した口も無かった。
なんだ…?あの子?
眼の前の男の子が生きている子ども、否、この世のモノではないことは分かる。
怪我などのせいで不幸にも顔が潰れてしまった、という様子ではなく、男の子の顔は真っ黒な渦のような黒い穴になっている。
「ビスコ!ビスコ!ビスコおいしいねー!」
では、この子はどうやって声を発して、私に話しかけているのだ!?
後ずさりそうになる私の気持ちも知らないようで、眼の前の男の子は可愛らしい声で、「ビスコ!ビスコ!」と楽しそうに言って、私に赤いビスコを見せてつけている。
「ねぇ、、、ママはど、どうしたの?」
こんな私でも人の親だ。声が震えているのは分かっていたが、私は目の前の男の子に尋ねてみた。
「え、ママ?…ママ、ママいない…ママいないよぉ!」
男の子はキョロキョロと首を振って周囲を見渡したが、どうも母親はいないようだ。
確かに、私たちがこのコンビニに入店した時にこの子の母親くらいの女性は居なかった。
「ねぇ、ママどこぉ…」
男の子の声は泣き声になっている。
「ママ!ママ!まぁまぁー!」
すると、急に男の子は立ち上がって、小さな身体でレジの方に駆けていく。
ちょっと…!と、私もその場に手に持った買い物かごを置いて、レジ前を抜けて出口のところに出たが、あの男の子がいない。
ここのコンビニは自動ドアではなく、出入り口のドアは重いので、小さな子どもが簡単に開けて出ていけるはずがない。
もちろん、生きている子どもだったらの前提だが。
「あの、小さな男の子がここに走って来ませんでしたか!?」
私は、入口そばにいた初老の男性に聞いてみたが、首を振って否定した。
東南アジア人と思しき店員に聞いてみても、「キテナイですよ」とのことだ。
「えっと、あの、どうしたんですか?」
レジ前の加藤さんが心配そうにして、私を見ている。
顔の無い小さな男の子を、なんて誰も信じるまい。
「いや、その、ちょっと見間違いのようで、いや、ははは…」
私は逃げる様にお菓子コーナーに戻り、床に置きっぱなしの買い物かごを取り、何も無かったかの様にレジの店員に渡して、会計をしてもらう。もちろん実花のタバコも忘れずに注文した。
ふぅと息を整えて、店員が会計をしていく間に、そうだ、とお菓子コーナーにあったビスコも会計してもらった。
「あー、ビスコですね。気に入っちゃいました?」
加藤さんがビスコを指さして、いたずらっぽく笑って言った。
そして、「わたしの今晩のおやつはコレです!」と、レジ袋の中から買ったばかりのたべっ子どうぶつの箱を見せつけてきた。
会計を終えてコンビニを出て、私はきょろきょろと周りを見渡すが、やはり先程の男の子はいない。
「何かお探しですか?」
加藤さんが気になったようで聞いてきたが、「いや、何でもありません」とはぐらかした。
コンビニでお化けの男の子を見て、その子がまだ居ないか探してて…なんて、言えるはずもない。
私は、2つに分けてもらったレジ袋を両手に持って、保健所通りを加藤さんと歩いていく。ビスコは酒類に潰されてしまいそうなので、ショルダーバッグの中に退避させた。
「それでは、私はこっちの方ですので。」
行列のラーメン屋のところで加藤さんは横断歩道のところで立ち止まって、手で行き先の方を指した。
「じゃあ、来週はまた歯医者さんでよろしくお願いします。」
「はい、こちらこそよろしくお願いしますね。」
私たちはそこで別れ、私は重いレジ袋を下げてゆっくり歩いていく。
銭湯のところまで出て、両手に提げた重いレジ袋を道に置いて、一旦休憩する。
近くの二次救急の病院に向かっているのだろう、振り向くと、救急車がけたたましいサイレンを鳴らして走っていった。
ふぅ、と息を吐いて、肩を回す。
流石に少し疲れた。
「おぃちゃん、ビスコ…」
どこからか、またあの男の声が聞こえた気がする。
ん?と、声の方を向いたが、誰もいない。
(俺は疲れているんだ…)
私はブルブルと頭を振って、レジ袋を手に提げて、少し速度を上げて自宅へ向かう。
「おぃちゃん、ビスコおいしいね。」
すると、今度は耳元であの子の声が聞こえた気がした。
もう一度、私は後ろを振り向いた。
そこには紺色のトレーナーに黄色のズボンを履いた男の子が、女の子にも見間違えるような可愛らしい笑顔で、赤いビスコを持ってバイバイと、私に手を振っていた。
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