怪人は歯車の海へと沈む その4
警察バッチを片手でクルクルと回しながら、エレナ・バランタインは亀のように大きなあくびをした。自分の机に突っ伏して、どことなく目の焦点があっていない。
「もしかして、昨日の彼女か?」
時刻は朝九時五分前。眠気と戦いながらゆったりと出勤したマーク・マッカランだったが、エレナを見つけると一瞬で背筋が伸びた。普段から肌の白いエレナだが、今日は蝋燭もかくや、という程だった。エレナは緩慢な動作で顔を上げると、これまたじっくりとマークに目線を合わせた。
「人は……いつから徹夜が出来なくなるのかしら……」
「世を明かしたのか」
あのマリー・ボーンの瞳の輝きを思い出す。あんなものに仕事の後付き合っていたというのだ。マークは想像しただけで目眩がしそうだった。
「若さって時限制なのね……学生の頃は夜更けまで街中を走り回っても平気だったのに……」
「俺より随分と若い癖に何云ってんだか。ほら、就業時間だ。あとで俺の部屋に来い。コーヒーぐらい淹れてやる」
就業のベルが鳴った。
退屈な朝礼と定時報告を終えると、それぞれがそれぞれの部署へと消えていく。マークはエレナを自分の部屋へと招いた。事件のファイリングが詰まった棚と、コンピュータ、それとコーヒーの缶があるだけだ。人が二人も入れば窮屈さを感じる部屋だが、マークにとってこれは自分の城であった。捜査課には階級や年功序列は存在しておらず、全てが実績で判断される。個人部屋というのは、持っているだけで自身の価値を認められたようなものなのだ。
「マークのコーヒーはとっても個性的な味がする」
「褒めてるのか、それ?」
「もちろん。お店でも再現できないよ、この強烈な酸味は」
からかう様な調子で、舌をちょっとだけ出す。
「やっぱり褒めてないじゃないか。まったく」
幾分か本調子を取り戻した様子にホッとしつつ、マークは机の上に広がっている街の様子を眺めた。ところどころにピンがさしてあり、殴り書きのようなメモが添えてある。事件現場を整理し、一目で状況を理解できるようにしているのだ。今ではこういった手法は古臭いと云われがちである。階差機関を使って街の擬似空間を作り出す方が主流だ。だが、マークはそのやり方がどうも苦手だった。真っ黒な空間に緑色のワイヤーで形成された世界が、自分の中にある街とどうしても結びつかないのだ。一度試させてもらったこともあったが、夜の水底に沈んでいくような恐怖を感じて、三分と保たずにやめてしまった。
そういえば──と思い出す。エレナと出会ったのは確かその時だ。彼女はその頃、署内で浮いていた。警察学校を首席で卒業してきた秀才にして、貴族のお嬢様。おまけに艶のある黒い髪と琥珀のような瞳は、距離を置くのに十分な理由になり得た。それでもエレナはめげず、果敢に自分から距離を詰めようとしていた。誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くまで業務に当たっていた。だが、経験が伴わない、誰も指示してくれない状況での努力はひどく効率が悪い。空回る努力を、冷ややかな目で見る者たちが殆どだった。
そんな状況に業を煮やしたのが、同じように署内でも浮きがちだったマークであった。彼女が駆け回る姿をみていると、どうしようもなくソワソワとした。最初はピカピカだった革靴が、一月も経たないうちに泥だらけになっているのに気がつくと、それを見て笑う者たちに無性に腹が立った。彼女はきっと立派になれる。なのに、誰も育てようともしない。ならば、俺がやってやる。
それまで同僚たちとの交流も仕事上必要なだけ、最低限にしていたマークだったが、この時ばかりは怒りに湧きたった。
──しかし。とマークは思い悩む。それは単純に、どうやれば自然に声がかけられるのか、ということだ。今思えば同じ課にいるのだから、仕事のやり方でも聞けばすぐだったろうに、思い至らなかった。いい年した男が、二十歳そこいらの女にどう話しかければいいか分からなかったのだ。
そして、マークが自分なりに考えて、考え抜いた言葉が、階差機関で作る地図の見方を教えてくれないか、というものだったのである。
あまりに不自然だった。思い返すと顔から火が出そうになる。どもりつつ喋るマークに、エレナは微笑み了承する。まぶたが描く稜線が綺麗だった事を思い出すと、何だか落ち着かなくなる。
その感情の正体を、マークは知らない。男たちの中で育った来たせいで、経験が圧倒的に足りなかったのである。
──とまあ、そういった事があり、エレナはマークの下で学ぶ事になった。
「マーク、ねえ聞いているの?」
立派に独り立ちできるまで成長した今でも、マークとエレナの仲は良好だった。
意識が現実に引き戻される。ほおの産毛が見える程の距離にエレナの顔があり、心臓が止まりそうになった。
「お、おう。聞いているぞ。聞いてる」
エレナは半目でマークの顔をじっと睨む。
「……もう一度話すわね」
マークの前でくるりと回り、地図の前に立つ。片手には、彼女の華やかな服装とは不釣り合いな、分厚い手帳を持っている。
「やっぱり、地下水路から出てきた怪物が犯人という可能性は低いみたい」
マークは地図上にある、今朝増えたばかりのピンを見つめる。
「清掃局に問い合わせたのか?」
エレナは頷く。
「下水道の掃除は昨日行われたばかりだった。月一の定期清掃ではなくて、半年に一度の外部の傭兵も交えた大掛かりなものね。逃げ出した個体があるとは到底考えにくいかと」
「その傭兵が虚偽の報告をしている可能性は?」
「無いとは言い切れないけど……ほぼありえないでしょう。傭兵というのは社会的信用を何よりも尊ぶから」
「だが、計算だけじゃ人は動かないもんだろ。時には目の前のことに執着し、大局的にモノを見れないことだってある」
マークとて傭兵達を疑っているわけではない。ここまで聞くのは、後々になって足元をすくわれない為の確認である。
「それも無いでしょう。傭兵というのは総じて、計算で動く生き物ですから」
「──やけに詳しいんだな。彼らについて」
何気ない一言だったが、エレナは一瞬たじろいだ。
「い、いやあ? 昔友達が彼らと揉めたことがあって……」
と、目をあさっての方向へ向けながら話すものだから、それ以上の追求はやめることにした。
「しかし、徹夜だというのに朝からご苦労様だ。頭が下がるよ」
「街をより良く、より住みやすく。謎の怪物が突然現れて住民を襲うだなんて、看過しておけないもの」
こうして組むようになって気づいたことであるが、エレナは根っからの正直者だ。嘘を吐かないというよりは、嘘を吐くのに慣れていない。貴族様の娘とは思えない程、いや、貴族の娘だからなのかは、マークには分からないのだが。
「怪物は下水道からではない。やはり……お前はどうみる?」
そこまで調べているのなら、ある程度あたりは付いているのだろうと思い、聞き出してみる事にする。
では、とエレナは空咳を一度する。
「壁の向こうにいた獣たちが何処かから迷い込んできたのかも。どこか抜け穴があるのかな──」
「そんな物あったら、もっと騒ぎになってる。可能性は下水道より限りなく低いだろ──こいつはネオサピエンスの仕業だ。その可能性が一番高い」
ネオサピエンス。新人類とも呼ばれるそれは、人類の進化するべき可能性であった。高い身体能力と、超能力とした表現できない様々は力を持つ全く新しい人類の種類。彼らの多くは大昔の戦争末期に散布された毒ガスによって死滅したが、今も時折、普通の人類の間に突然変異的に誕生することがある。そうしたネオサピエンスは殆どが警察によって回収されるが、世間から逃れ、誰にも気づかれることなく大きくなった者もいる。
「うーん……」
「人間技じゃできない殺し方。だったら人間以外であると考えるのが道理だろ」
死者の出ている事件にかかわらず、署内でそれほど騒がれていないのもそれが理由だった。それに輪を掛けるような、目撃者の証言もある。「狼男のようだった」という箇所だ。
解決は不可能な事件である。最初からそういった扱いだった。納得をしていないのは、エレナ一人だけ。
「本当にそうなのかな。ネオサピエンスにしてはやる事が回りくどすぎる」
「だが現状を考えるに、ネオサピエンスの仕業と考えるのが一番可能性が高いのは確かだ。それはお前だって分かっているだろうに、何故避ける」
「それは──」
部屋の空気が張り詰めた頃、扉をノックする音が響いた。
二人は水をかけられたように我に返る。扉をあけて入ってきたのはマークの同僚で、彼は一枚の便箋を差し出すと黙って扉の奥へ引っ込んでしまう。
マークは手渡された便箋を眺める。送り主の名前はない。宛名はタイプライターで印字されており、そこにはマーク・マッカランとエレナ・バランタインの名前が並んで書かれていた。
「なんで連名?」
「さあな。とりあえず開けてみよう」
ペーパーナイフで封を開ける。一枚の手紙が入っているのみである。そこには挨拶も何もなく、ただ中央に一文だけ、これまたタイプライターで印字されているのみであった。
「ほう、これは……」
ロッズ・ザ・ワイルドターキーは貴族院議員とつながっており、違法研究を行なっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます