怪人は歯車の海へと沈む その3

 人か獣か分からぬその生物は、長い腕を振り子のようにして跳躍する。

 街を覆う夜霧も、屋根の上となれば地上よりは多少マシになる。見失うことはありえない。絶対の自信があった。最初はどこかに向かっていると思っていたが、進路を思い浮かべて見るに、闇雲に逃げているだけのようだ。なら体力勝負となりそうなものだが、あんな化け物を相手に持久戦をするつもりは毛頭なかった。

 兜の下を汗が伝う。

 オレがマリー・ボーンを追いかけたのはただの偶然だった。彼女に借りていた本を返すのを忘れていたのだ。駅で別れてから気がついたオレは、ふと何となく、先回りして驚かせてやろうと思った。

 誰もいないのを確認してから、壁を登り屋根に飛び乗る。屋根から屋根を移動するのが一番早いからだ。実際3階建ての家屋でもオレならば三秒とかからず屋上までいける。

 もし本を忘れていなかったら、追いかけようと思わなかったら、オレはきっと彼女の悲報を聞き、バラバラになった彼女の残骸を見て、一生後悔することになったろう。

──狼男の姿を見つけた時、そいつはすでに最初の獲物を三枚におろしたところだった。

息を殺して様子を観察した。本当は今すぐにでも飛び出したかった。せめてその亡骸だけでも無事に遺族の元へと返したかった。

 だが、それでは根本的な解決は望めないだろう。この獣がどこから来たのか、どこを根城にしているのかを確かめる必要がある。だが、その前にマリーがこの道を通り過ぎる可能性もある。出来れば今日だけは、別の道を進んでいてはくれないものか……。だが、そんな願いは叶わない。

 オレは鎧を着込む。トランクを持ち歩いていて助かった。

 マリーの足が小石を蹴飛ばす。

 オレは飛び出していた。振り下ろされた腕を受け止めて、流れるように反撃をする。倒すことが目的じゃない。こちらが脅威であると思わせればそれでいい。大げさに吹っ飛ばしてやると、獣は姿勢を変えて逃げ出した。

 追いかける前にチラとマリーの方を確認する。目の前の出来事に理解が追いついていないらしく、石のように固まったままだった。外傷は特になさそうだったのでホッとする。



 ──そして、時間は現在に戻る。霧の中で揺らめく月が天辺を過ぎた頃、仕掛けることにした。

 五歩かける距離を三歩に、三歩を二歩と短縮し、走るというよりは滑空に近い移動に切り替える。獣との距離はあっという間に縮まり、手を伸ばせば背中を触れられそうなぐらいになる。

 狼男は方向転換する余裕すら失われて、闇雲に直進を続ける。そして、大通りへと出てくる。屋根と屋根の間は一般的な家屋でも三軒分以上はあり、いくら運動能力が高くともためらう距離だ。

 そのためらいの時間だけで、追いつくには十分だ。

 オレは獣の肩を掴むと、足を軸にして遠心力で思い切り投げ飛ばす。

 獣はすかさず起き上がろうとするが、ずるり、と無様にまた転ぶ。二度、三度と繰り返すが、いずれも足をすくわれたような転び方をする。


「大人しくしろよな。お前には尋ねたいことが山ほどあるんだ」


 困惑に満ちた瞳がオレを睨む。


「そ。たぶんあんたの思ってる通りだ。だが薬物とか見えない武器とかいうものじゃない。あんたを動けなくしているのは、もっと単純な力だ。オレは特別性でね」


 獣は唸るような声をやめてオレを見つめなおした。観念したのか、なにをもっての行為なのかは分からない。


「やっと大人しくなったな。大丈夫だ、殺しはしない。ちょっと調べさせてもらうだけだ……」

「……ダ」


 最初は空耳だと思った。


「……しテ……」


 喉の奥から、荒い呼吸に混じった声がした。ラッパ菅に耳をすませた時に聞こえる風の音のようにかすかなものだったが、それは確かに、なにかの意思を伝えようとしている声だった。

 息を殺して、耳を傾ける。獣からはもう、人を食い殺そうなどという獰猛さは見て取れない。ただ、うわ言のような言葉を繰り返している。


「……ケて、イ……こ、コ、こワ……い……」


 ほとんどの音は意味を持っていなかったが、それでも、何かを伝えようとしている。その行為は、獣の姿には全く似つかわしくない。言葉を発する。そんな事が出来るのはこの世界にはたった一種類の生き物しかいないはず。

 震える手に触れて、その瞳を見つめる。真っ黒な瞳に兜を被った怪人オレが映る。


「お前は、人間なのか──?」


 狼男は小さく頷くような仕草をみせる──。

 その時、顔の上から皮がずり落ちた。

 真っ赤な筋肉が唐突に腐り落ていく。触れる手から力が失われていくのが分かった。そいつの表情はなにも変わらない。体の変化が唐突なあまり、感情が遅れてしまっている。


「おい、おい!」


 骨も溶け、たった数十秒でそいつは液状化してしまった。残ったのは二つの目玉だけ。明後日の方向へ向けられたそれに、意思が残っているとは思えない。

 手の間から、獣だったものがすり抜けていく。

 寒気がした。鎧が外気に晒されて冷えたからじゃない。おぞましいものを体感した。その恐怖によってだ。


「これは、まるで……街の外の毒ガスにやられたみたいじゃないか」


 大昔、街に来る前に見た光景を思い出させる。もう一秒だっていたくない。すんでの所で踏みとどまって、オレはグッと、そいつ観察する。怪人の格好をしていなかったら、きっと逃げ出していただろう。

 そして、目玉の他に残る物を見つけた。街灯の光を受けてキラリと光るそれは、薬莢のついた弾丸のような形をしており、先端には針が付いていた。小型の注射器のようでもある。

 注意深く観察したが、暗がりなこともありそれ以上は判断出来ない。そっと摘まんで、小袋の中に詰め込んだ。戻ってから解析すればいい。

 狼男の亡骸に手を合わせ、その場を後にする。

 屋上から屋上へ飛び回っていると、途中で見知った顔を見つけた。

 マリー・ボーンだ。

 彼女は誰かを引っ張るようにして、パブへと消えていくところだった。


「まだ飲むのか……」


 呆れ半分、安堵半分まじった溜息を吐く。姿こそ見えなかったが、相手が誰だかはおおよそ見当がつく。可哀想だけど、手助けが必要な事態にはなるまい。せいぜいマリーの記憶を、楽しいものに上書きしてくれ。

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