怪人は歯車の海へと沈む その2
「ええと、私、今日はパブでメイと会っていまして……」
「メイ、というのは?」
「友達です。すらりと背が高くて、王子様みたいな子なんです」
「──王子様みたいだなんて、その友達はとってもステキな人なんでしょうね」
マークはエレナの肩が小刻みに震えているのを見た。どうやら、笑うのを堪えているらしい。
「ええ、それはとても! 彼女は幼馴染で……いけない。事件の話ですよね。
駅でメイと別れたあと、ほろ酔い気分で歩いていたんです。霧は濃かったですが、いつも通る道ですし、そんなに怖くはなかったです。
突然、木箱に槌を打ち付けたみたいな破壊音がしました。それはすぐ側の曲がり角からしました。その先は行き止まりで、何もないはずなのにです。迂回も考えましたが、家に着くのが遅くなります。
すこし悩んで、一気に行くことに決めました。息を止めて、一気に駆け出します。その際に、好奇心から私はチラと行き止まりに目を向けました」
マリーは云いにくそうに口を閉じる。
静かに相槌を打っていたエレナが問いかけた。
「そこで、何を見たのかしら」
「あれを何と形容すればいいのか……エレナさ……バランタインさんは、狼男ってご存知ですか?」
「満月の夜に狼に変身し、人を襲うという都市伝説でしたか」
マークは話を聞きながら、昔読んだ雑誌に、そんな記事があったと思い出していた。人が狼になるという発想の原点は、ネオサピエンスにあるらしい。大昔、毒ガスによって住処を追われたネオサピエンスたちが、ガスから逃れるために自らの形を変えて動物の姿を取った。それからというもの、都市ではたまに狼のような獣が現れ、人を襲ったのだとか。
「あれはまさに狼男と呼ぶべき姿だったんです。毛皮を被った人間のようにも見えましたが、その顔は獣のそれでした。大人の男性ぐらいの背丈なんですが、両腕がその背丈よりもずっと長いんです。そこだけ巨人の腕と交換したんじゃないかと思えるほどに。
よく見れば、狼男の顔と腕は真っ赤に染まっています。
そこで私は、そいつが私の事を見つめていると気がついたんです。気づいた瞬間、足はすくみ動けなくなりました。このままでは、私はこれに食べられてしまうだろうと思いました。ですが、指一本でも動かしたら、これは全力で追いかけてくるだろうと理解できました。
──ことり、音がしました。私の足が小石を蹴飛ばした音です。無自覚なまま後ずさりをしていたと気づきました。音に反応するように怪物はその腕を振るいました」
マリーはそこで一息をついた。沈黙に耐えかねたのか、エレナが口を出す。
「待って。あなた、まるで殺されてしまったみたいじゃないの」
「ええ。普通ならきっと通報する事も出来ずに死んでいたと思います。実際、走馬灯が見えましたし」
混乱しているエレナを見てマークが口を出す。
「そこにはもう一人、いたという事か」
「居たというより、来たのです。その人は、何もない空から突然現れたのです──」
おとぎ話に出てくる騎士のようだったと、マリーは語った。
何重もの装甲を重ねたような兜を被り、鉄の腕を持つその怪人は、マリーと獣の間に降り立った。
獣の腕を付け根に近い箇所で受け止めると、拳の外側にうめこまれた大量のパイプから蒸気が噴出する。
獣が動揺したような唸り声をあげた。
マリーはそこで、何かを熱しているような音を聞く。
『……逃すかよ』
背中の小型エンジンが生み出すエネルギーがパイプを伝って拳へ伝わる。受け止めた方と逆の拳が打ち出され、獣の腹部へめり込む。巨大な鉄球に叩きつけられたような勢いで、獣は壁際まで吹っ飛ばされた。今度は殴った拳から蒸気が吹き出す。
「なにが起きているのか、理解できませんでした。死ぬ、もうおしまいだ! そう思ったら今度はあの ”グレンバーギ”が出てきたのですもの。もう怖いだとか、恐ろしいだとかそういった感情よりも、混乱が先に来てしまいました」
「グレンバーギ?」
「街を賑わす謎の怪人の名前だよ。街に近づいた賊の飛空船を一人で潰したとか、噂話の絶えないやつさ」
「へえ……そんな風に呼ばれているのね」
──マリーが再び我に帰る頃には、獣もグレンバーギも霧の中に姿を消していた。獣が壁を伝って逃げ出し、怪人がそれを追いかけたのではというのが、マリーの推論だった。
エレナは頷き、それからマークの方を見た。意見を求めているのは感覚で理解できた。
「狼男なんて、ネオサピエンス以外が作り出せるわけないだろう」
人の形をした獣。
市井の民を助けた謎の怪人。
ただ怪物が暴れただけ、というには少々不可解な箇所があるのも事実だ。
葉巻を加え、ライターで火を点け──。
「現場は禁煙ですよ、マーク」
そっと、消した。
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