煙の住人

都会の喧騒から少し離れた裏通りに、古びた喫煙所がある。錆びた金網に囲まれたその場所は、昼間でも薄暗い。地面には古い煙草の吸い殻が散らばり、誰も掃除しないのか、腐った臭いが漂っている。それでも、隠れるようにしてそこへ来る人々がいる。「ここなら誰にも見られない」と思っているのかもしれない。だが、実際には“何か”がじっと見ている。


サラリーマンの川田は、毎晩のようにこの喫煙所に立ち寄るのが日課だった。残業を終えて電車に乗る前に一服することで、1日の疲れを和らげる。それが彼にとってのささやかな楽しみだった。だが、ある日から奇妙なことが起こり始めた。


最初の違和感は音だった。誰もいないはずの喫煙所で、自分以外の「息づかい」を感じた。かすれた呼吸音が耳元で聞こえた気がして振り返るが、そこには誰もいない。ただ、白い煙がゆっくりと漂っているだけだった。


次に視覚が狂い始めた。煙草に火をつけた瞬間、煙の中に人の顔が浮かび上がる。年齢も性別もわからない、異様に歪んだ顔だ。川田は驚いて煙草を落としたが、足元の地面には影も何もない。それなのに、その顔だけが彼をじっと見つめている感覚が消えなかった。


「疲れてるだけだ……」

そう自分に言い聞かせ、川田はその日も喫煙所を後にした。


翌日、川田は同僚にその話をすると、意外な答えが返ってきた。

「お前、あの喫煙所、あんまり行かない方がいいぞ。昔、あそこで人が死んだって話、知ってるか?」


聞けば、10年前、借金に追われた男がその喫煙所で首を吊ったという。以来、その場所では妙なことが起こるらしい。「煙の中に人影が見える」「誰かが話しかけてくる声がする」といった話が後を絶たないそうだ。


同僚の話を笑い飛ばした川田だが、その夜も気づけばいつもの喫煙所に足を向けていた。習慣とは恐ろしいものだ。


川田が煙草に火をつけようとしたその時だった。背後から、「ちょうだい」という声が聞こえた。


低く湿った声に、思わず振り返る。しかしそこには誰もいない。ただ、地面に落ちた吸い殻が、風もないのに揺れていた。

再び「ちょうだい」と声がする。煙の向こうに、ぼんやりとした人影が立っていた。


「誰だ!?」

川田の声が震える。人影は答えず、静かに近づいてくる。やがて、その姿が煙の中から明らかになる。黒い影のような体に、皮膚が剥がれたような顔。目は焦げたように真っ黒だった。


「ちょうだい……煙を……」

その声は耳元に直接囁かれたように生々しかった。


川田は恐怖のあまり、煙草を地面に叩きつけて逃げ出した。後ろを振り返ると、喫煙所全体が濃い煙に包まれ、人影はその中で歪みながら川田を追ってくるように見えた。


次の日、川田は会社に来なかった。同僚が彼の行方を尋ねるが、誰も答えられなかった。後日、警察が川田の自宅を訪れたが、彼の姿はどこにもなかった。ただ、彼の部屋には異様なことに、喫煙所の吸い殻が大量に散らばっていたという。


そしてその喫煙所では、新しい奇妙な話がささやかれるようになった。

「夜中に行くと、川田って名前の男が煙の中に立っているらしいぜ」


今もなお、その喫煙所に煙草を吸いに行く人は減らない。しかし、煙の中で何が待っているのかを知る者は少ない。

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