第4話
フィンは再び水汲み場にやってきた。
すでに太陽は西に傾き、エンデンに戻る頃にはきっと暗くなっているだろう。
どうせ今日は何をしたところで晩飯が抜きなのは確定している。
寝るところも外だ。
無駄に疲れるだけとは理解している。
ただしみついた習慣が体を動かしていた。
責任感があるわけでもない。
誇りをもっているわけでもない。
誰にも認められず報われない状況が長く続いた結果、彼の思考力は麻痺していた。
(あー、こんな所まで黒くなっちまってら)
ゴブリンに襲われた地点を中心にかなりの範囲で赤黒い絨毯が広がっていた。
結局あの時は何匹のゴブリンがいたのか?
ボウに助けられた場面を思い出すがまったく分からない。
「はっ、そんな事も覚えていないくらい慌ててたってことかよ……。情けねぇ」
改めて自分の臆病ぶりに嫌気がさした。
頭を振って大きい桶を川の流れの中に浸す。
春になったとはいえ、水はまだかなり冷たい。
(そういえば……)
川から桶を引き上げ周囲を見る。
「……ゴブリンの死体ってどうなったんだ?」
ボウによって切り捨てたられたはずの死体が見当たらない。
夢なら良かったのかもしれないが、黒く染まった地面が現実の出来事だったと突きつける。
生き物の生態に詳しくはないが、これはかなりマズい事なのではなかろうか。
死んだ魔物を食べたヤツがいるのではないか?
……例えば熊。
冬眠が明けエサを求めて彷徨ったところ、偶然鮮度の良い食料を見つけて食べた。
……例えば狼。
風にのって広がった血の匂いを嗅ぎつけて、お腹をすかした群れが魔物の死体を食べた。
……例えば魔物。
たまたま近くを通った魔物が転がっていたゴブリンを食べた……。
どの可能性を考えてみても、自分はとんでもなく危険な場所にいるのではないかという恐怖で全身が逆立った。
不運なことにこの水汲み場は木が群生しており見通しが悪い。
どこになにがいてもフィンには分からないのだ。
フィンはこめかみの汗を拭うともう一つの桶に水を入れ、いつもより足早にエンデンへの道を戻ることにした。
フィンがエンデンに戻ると物々しい雰囲気が漂っていた。
家の窓を頑丈に塞ぐ木槌の音。
広場には包丁や鍬など武器になりそうなものが集められている。
中には荷馬車に家財道具を詰め込んで町を出ていく人の姿もちらほらと見かけた。
町の入り口には篝火が焚かれ、そこからなんとも言えない臭気が町を包む。
魔物除けに使われる植物から抽出した油を燃やしているのだ。
フィンは広場で肩に担いだ水桶を一旦その場に下ろすと人だかりへ目を向けた。
そこでは町長が、集まった人たちに何事かを説明しているところだった。
「皆、気持ちはわかるがこの町は本当に危険なんです! 逃げられる人はすぐに避難してください!!」
「ふざんけんな! 何の根拠があって危険なんて言ってんだよ、町長! そんなフラッと現れた風来坊のいうことを信じるなんてあんたおかしいぞ!」
そうだそうだと町長の必死の説明に反抗する人々。
その中にはフィンの主人の姿もあった。
「じゃあその魔物の大群は一体いつ攻めてくるんだよ! 今日か? 明日か? 一週間? 一ヶ月? その間は俺らはどう生活しろって言うんだ?!」
人間の醜さが詰まったような光景にフィンの中にあった魔物への恐怖が冷めていくのを感じた。
(……なんだ、結局人間が一番醜いじゃねーか)
どうやらエンデンに魔物が押し寄せてくるという警告を、町長が必死になって行っているようだった。
隣にボウもいるが、彼は厳しい表情のままことの成り行きを見守っている。
ファンも突然そんなことを言われても実感なんて湧かないが、集まった人から感じ取れるのは保身、疑念、敵意。
必死になって助けようとしている相手に向けていい類のものではないだろう。
町長はできた人だ。生きていく場所を失った俺を影から助けてくれた。
町長の奥様もいい人だ。冷えた体と心をほぐしてくれた。
「あのよっ!! 俺から一ついいか?」
気づくとフィンはその場にいる全員に言い聞かせるように声を大きくした。
フィンの主人はその声に気づくと、てめぇっ!! と言いながら人混みをかき分けてフィンの胸ぐらを掴み上げた。
「フィン、姿が見えないから心配したぞ……。ダニエル、手を離してやりなさい」
「町長!! こんなヤツの言うことを聞くんなんざ時間の無駄だ! すぐに黙らせるからちょっと待っててくれよ!」
「……ダニエル、もう一度言う。その手を離してやりなさい」
いつも柔和な町長が、はっきりと怒気を孕んだ声を発した。
これにはその場にいた全員が面食らう。
ボウもこの人物が怒ったことに内心驚いていた。
フィンの胸ぐらを掴み上げていた手の力が緩み、地面に足がついた。
「まったく、そんなことしている場合じゃないことくらい分からないのか。……それでフィン、お前は何を知った?」
町長に促されるようにフィンは先ほどの水汲み場の状況を思い出しながら話す。
黒く濡れた地面。
なくなった魔物の死体。
森で感じた妙な胸騒ぎ。
フィンの話を聞き終わると、その場は静まりかえっていた。
「……フィンよ、貴重な情報を話してくれてありがとう。さて、ボウ様、この状況から貴方はどんな風に先を読みますか?」
一斉にボウの方に視線が向く。
「おそらく、と言ってもほぼ確実だと私は考えていますが……。今日含め二〜三日中にはボレアスを滅ぼした大群がここにやってくると思われます」
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