第10話「深層区画への足音」

 薄暗いコンクリートの通路を進むたび、足音が水たまりを踏む音と重なって嫌な反響を生み出す。高峯理久(たかみね・りく)は、車輪付きの台車に横たわるアコアの少女・アルマの姿を何度も振り返りながら、鋭い息を吐いた。廃棄物のように積み上がった機械部品や配管の隙間を縫うこの道は、まるで巨大生物の腸の中に入り込んだような閉塞感を伴っている。


 ここは研究施設のさらに深い階層──B7フロアに続くとされる試験区画の裏ルート。ほんのわずか前まで理久は、封鎖解除のために上階を目指すしかないと考えていたが、結局、アルマの示唆に従って地底のような場所へ降りる選択をした。持ち主を失った彼女が、かつて「前のマスター」と訪れたかもしれない秘密の通路。その先に“外へ通じる非常トンネル”があるという。


 「……ホントにあるのか、こんな場所に」


 思わず独り言ちると、横を歩く桜来(さくらい)凛花(りんか)が苦い笑みを浮かべた。彼女は懐中電灯で足元を照らしつつ、もう片方の手でパイプを避けるように軽く押しのけている。


 「分からない。でも他に手がないから、やるしかないわ。少なくともアルマは、ここに“緊急出口”らしきものがあると感じてる。彼女の前のマスターが隠したカードキーも見つかったし……」


 凛花の声は抑えきれない不安を含んでいるが、その奥にかすかな希望が混じっていた。人目につかない深層区画に、政府や軍事関係者以外には伏せられている通路が存在する──荒唐無稽(こうとうむけい)にも思えるが、この施設が持つ闇を考えれば充分にあり得る話だろう。


 「理久さん、こっちは通れそうですよ」


 そう声をかけたのは、彼らと同行する若い女性スタッフ。名前はまだ聞いていなかったが、事務担当をしていたらしい。医療分野も多少かじっているそうで、緊急時の手当てぐらいはできるとのことでついてきた。彼女は泥水で汚れた靴を気にしつつも、台車の車輪がはまらないように器用に誘導してくれている。


 「助かる。何とかアルマが痛がらないように頼む……」


 理久はアルマの表情を確かめる。人工皮膚の額には汗のような液体がにじみ出ているが、瞼は半ば閉じたままだ。かすかに唇が動き、何かを言おうとしているようだが、うまく声にはならない様子だ。


 (お前のマスターが仕掛けてくれたカードキーを信じてるよ。どうか、このまま壊れないでくれ……)


 そう心で語りかけつつ、理久は台車の取っ手に力を込める。金属の車輪がキイキイと高い音を立て、無機質な配管が並ぶ道をゆっくりと進んでいく。数分も歩くと、途中でドアや小さな分岐らしきものが幾つも見つかったが、いずれも鍵がかかっているか、あるいは火災で崩落しているのか通行不能。行く手を阻む障害物を避けながら奥へ奥へと進むしかない。


 「ねえ……理久。この先、本当に空気は大丈夫なのかな」


 凛花が小さく言う。たしかに地下は通気が悪く、所々でガスのような生臭い匂いが混じる。場合によっては有毒物質が漏れている可能性すらある。


 「分からない。防毒マスクもないし、引き返すなら今のうちかもな……」


 理久は苦い顔で答えるが、引き返しても上層部が安全だという保証はどこにもない。すでに火災や警備ロボの危険が充満しているだろうし、彼らの仲間がどうなっているかも分からない。ここで賭けに出るしかないのだ。


 やがて通路の先に、やや広めの空間が見えてきた。天井が少し高くなり、パイプの配置も整然としている。まるで格納庫か格子状の倉庫を思わせる雰囲気だ。コンクリート壁に赤い非常灯が弱々しく点滅しており、床には金属製のプレートが敷かれている部分がある。


 「な、何かの実験室……? それとも機械室……?」


 凛花がライトを振ると、壁際に幾つものタンク状の設備が並び、ラベルには「液体冷却材」「防火用資材」などの文字が書かれている。ただ、長らく使用されていないのかホコリと錆(さび)がひどく、動くのかどうか不明だ。


 「アルマのマスター……こんなとこまで来てたんだな。いったい何を研究してたんだ……」


 理久が呟いたとき、ふと背後で音がした。カラン……と硬い金属が床で転がるような微かな音。思わず全員が身を硬くし、ライトを音のした方向へ向ける。しかし、そこにはパイプや配管が立ち並ぶだけで、人影はない。


 「気のせいかな……」


 凛花が警戒を解こうとするが、まだ油断はできない。警備ロボや何者かが追ってきてもおかしくない以上、一瞬でも気を抜けば命取りだ。


 「一旦、ここでアルマを休ませよう。体勢を整えないと、俺たち自身も疲労で動けなくなりそうだ……」


 理久がそう提案し、台車を壁際の平らな場所に寄せる。若いスタッフがさっとタオルを敷き直し、アルマの頭を保護してあげる。アルマの呼吸は不規則だが、一応は動いているようだ。


 「……大丈夫か? 何か痛むところは……」


 理久が声をかけると、アルマは瞼を開きかけ、そっと視線をさまようように彷徨(さまよ)わせる。かすかな唇の動きが見え、「……ここ……懐かしい……」という言葉らしきものを感じ取る。


 「懐かしい、か……。お前、マスターとこの区画で何をしてたんだ?」


 返事はない。アルマはまた目を閉じ、苦しそうに呼吸をする。もしかすると、この場所でかつて軍事実験や秘密のテストが行われたのかもしれない。彼女が思い出を語るには、あまりにも弱りすぎている。


 「理久、ちょっと周囲を調べてみましょう。あちこちにドアや仕切りがありそうだし、何か“非常口”らしき表示が見つかるかもしれない」


 凛花が意を決して声をかける。理久は頷き、若いスタッフにアルマの看護を頼み、二人で通路の奥へ進むことにした。もちろん離れすぎないよう注意しながらだ。


 暗がりの中を歩き回ると、整然とした部屋の配置こそないが、いくつか気になる扉や倉庫が見つかる。どれも鍵がかかっていたり、電子錠が破損していたりして簡単には開かない。凛花が工具で試みても、そうそう上手くはいかないようだ。


 「少なくとも、この先に通じるまともな通路は一つしかなさそう。あの角を曲がった先……」


 凛花がライトを当てた先には、大きめのシャッターが見える。そこには黒い文字で「TEST AREA」と書かれ、危険物のマークも貼られている。火災で焦げたような痕がついているが、まだ形を保っている。隙間から冷たい空気が漏れ出しているようにも感じる。


 「シャッターを開けるには、何らかの電源が要るか……。もしくは手動で引き上げる力づくしかないけど……」


 凛花が触ってみるが、びくともしない。取っ手も見当たらず、チェーンのようなものを天井付近に見つけたが、錆びついて固着している。理久が歯を食いしばりながら引っ張ってみても、一ミリも動かない。


 「……無理か。何か別の方法を考えないといけないな」


 と、そのとき背後でガタンという大きな音が響いた。二人が振り返ると、奥のほうで先ほどの若いスタッフが悲鳴を上げている。慌てて駆け戻ると、台車に乗せていたアルマが地面に身体をずらすように動いてしまい、スタッフが慌てて支えていたところ、足を滑らせて倒れてしまったようだ。


 「アルマ! 大丈夫か?」


 理久が駆け寄ると、アルマは苦しい息を漏らし、どこかに力を入れようともがいているようだが、思うように身体が動かないらしい。唇からは切なそうな声が微かに漏れる。


 「ボク……行かなくちゃ……あの奥へ……」


 「あの奥って、シャッターの先か? お前、そこに出口があるって分かってるのか?」


 問いかけても、アルマは返事にならない言葉を呟くばかりだ。「……マスターが……データ……ここで……」などと断片的に語っているが、会話としては成立しない。おそらくトラウマ的な記憶がフラッシュバックしているのだろう。


 「とにかく、あのシャッターさえ開けられれば先に進めるかもしれない。でも電源が……」


 理久が苛立ちまぎれに周囲を見回すと、壁に大型のブレーカーボックスが取り付けられているのに気づいた。表示はかなり古く、英文字で「AUXILIARY PWR(補助電源)」と書かれている。ハンドルを操作すれば通電する仕組みなのかもしれない。


 「これか……? 試しに動かしてみる?」


 凛花が慎重に蓋を開けると、中には分厚いブレーカーのようなレバーが並んでいるが、いくつかは燃えた跡やショートした痕跡があり、とても正常には見えない。それでも完全に壊れているわけではなさそうだ。


 「使えるかどうか分からないけど、試してみる価値はあるね。注意して……もしどこかが爆発しても困るから」


 理久が深呼吸してレバーを握る。錆びと塗装がひどく、簡単には動かなかったが、力任せにガリッと引くと低い振動音を伴ってレバーが下がった。すると、天井付近の配線がわずかに軋んで、青白い火花が散る。


 「うわっ、危ない……!」


 凛花がとっさに後ろへ下がり、若いスタッフも身を伏せる。幸い大きな爆発には至らなかったが、壁際のランプがチカチカと瞬き、何らかの電流が流れ始めたようだ。シャッター付近からゴーンという金属的なうなりが響き、どうやらモーターに通電がいったらしい。


 「理久、シャッターをもう一回試してみて!」


 凛花が促すと、理久はシャッターの取っ手付近にあるパネルを探る。火花が飛び散りそうで怖いが、緑の小さなボタンを見つけて押し込んでみる。するとやや遅れてギギギ……とモーターが回る音がし、シャッターが数センチだけ持ち上がった。


 「きたっ……でも何かが引っかかってるのか、途中で止まったか?」


 モーターは苦しげな音を立てて停止し、シャッターは床からわずかに10センチほど空いただけで動かなくなってしまった。そこから先は完全にロックされているか、あるいは破損したギアが邪魔しているのかもしれない。


 「うーん、隙間が小さすぎて身体は通らないわね。道具を使ってこじ開けるしかないかも……」


 凛花が顔をしかめる。10センチ程度の隙間では、とても人間や台車がくぐることはできない。もっと広げたいが、モーターは既に力尽きたのか、操作パネルをいじっても反応しない。


 「このままじゃダメだ……。あとは人力で押し上げるしかないか?」


 理久と凛花はシャッターの下端を手でつかんでみるが、ずっしりと重く、まったく持ち上がらない。若いスタッフも加わるがビクともせず、ただ金属が軋んで耳障りな音を立てるだけだ。


 「三人じゃ無理かな……。もっと人が必要だわ。勝峰さんたちがいれば――」


 その言葉に、理久の胸が痛む。離れ離れになった仲間が戻ってきた頃には、施設全体が火災と封鎖で崩壊している可能性もある。かといって、いまここで助けを呼びに戻る時間はない。アルマが一刻も早く外へ出る道を確保しないと……。


 「くそ、どうすりゃいいんだ……」


 イライラを抑えきれずに理久が唸る。そのとき、アルマがカートの上で小さく身じろぎし、「……管理者カード……」と微かな声を上げた。凛花がハッと反応し、慌ててポケットからカードキーを取り出す。


 「そうだ……さっきもカードを使って扉を開けたけど、シャッター側にもリーダーがあるかもしれないわ。あるいは“封鎖コード0425”を入力する仕掛けがあるとか……」


 意識を失いかけているアルマが、痛みに耐えながら指先をシャッターの端に向けている。理久は急ぎそちらを調べると、鍵穴のようなものがあるパネルを発見した。電子ロックと物理ロックが二重になっているらしく、上部にキーパッドらしきものも付いている。


 「これか……0425……」


 半信半疑のままキーパッドに数字を打ち込み、カードを差し込んでみる。するとシャッターに取り付けられた機械がウィーンと動き、カチリとロック解除音が鳴る。先ほどはモーターが壊れていたせいで完全には開かなかったが、少なくとも“ロック”自体は外れたはずだ。


 「よし、もう一度やってみよう!」


 理久がシャッターの下端を掴み、凛花と若いスタッフも加わる。さっきより手応えが軽い気がした。三人が息を合わせて持ち上げると、ギギギギ……と嫌な音を立てつつも10センチだった隙間が20センチ、30センチと広がっていく。


 「あと少し……がんばれ!」


 苦し紛れに声を出し、全員が力を込める。シャッターはさらに持ち上がり、人一人がようやくくぐれそうな高さになる。そこへ近くに落ちていたパイプを差し込み、てこの原理で固定する。シャッターが中途半端に止まった状態だが、これなら一人ずつ抜けられそうだ。


 「やった……だけど、いつ落ちてくるか分からないな。台車を通すには厳しいかもしれない」


 凛花が額の汗を拭って呟く。たしかに高さは1メートル弱ほどで、台車を斜めにして押し込めば通らないこともないが、時間がかかれば危険だ。パイプが外れれば一気にシャッターが降りるだろう。


 「何とか少しずつ通そう。アルマを抱えればいけるかもしれない……」


 理久が決断し、若いスタッフと二人でアルマを持ち上げる。カートごと通すのはリスキーなので、カートは先に倒して押し込み、アルマは丁寧にかがんでくぐり抜ける形にするしかない。


 「よし、いくぞ……1、2、3!」


 カートをぐいっと押し込み、パイプがギシギシと軋む音を上げる。凛花が無我夢中でパイプを支え、なんとかシャッターが落ちないように耐える。一方、理久とスタッフはアルマを慎重に滑らせ、ギリギリ頭が当たらないようにしゃがみながらシャッターの向こうへ体を運んだ。


 金属がきしむ恐怖と戦いながら、二人は必死にアルマを運び終える。最後に凛花が身を伏せて素早くくぐった瞬間、バキンという金属の折れる音が鳴り、支えのパイプが曲がってシャッターが数十センチ落下した。危うく凛花の背中を挟むところだったが、何とか間一髪で回避できたようだ。


 「はあ……危なかった……」


 息を吐き出しながら、理久たちはシャッターの裏側に転がり込む。これでもう戻れなくなってしまったが、先へ進むしかない。懐中電灯を向けると、そこには広い通路が伸びている。床は鉄骨のグレーチングのような素材で、下が見えないが妙に冷たい風が吹き上がっている。


 「アルマ、大丈夫か……?」


 理久がそっとアルマを下ろすと、彼女はうっすらと目を開け、「……ありがと……」とだけ呟く。そして、かすかな微笑みを浮かべた気がしたが、それもほんの一瞬。すぐにまぶたが閉じ、深い眠りに落ちるように息を荒げ始める。


 「急がないと、もうアルマが限界……」


 凛花の顔にも焦りが浮かぶ。ここで歩みを止めている時間はない。先へ進めば、本当に外へ続くトンネルがあるのかもしれない。カードキーに書かれた「0425」という数字が頭をよぎる。もしこれが別の扉にも使える暗号なのであれば、出口までの道はもう少しだ。


 「行こう、奥へ」


 理久はそう言い切り、アルマをしっかり抱きかかえる。カートを通すにも厳しい道幅のようだが、この際やむを得ない。若いスタッフがカートを畳んで抱え、凛花が通路の先をライトで照らす。下のほうから微かなモーター音のようなものが聞こえるが、何が動いているのかは分からない。


 まるで廃坑のような鉄骨通路を少し進むと、足元のグレーチングが揺れて危なっかしい。下を覗(のぞ)き込むと、闇が広がり、その中で冷たい空気が渦を巻いているように思える。あるいは地下水脈が近いのか、滴り落ちる水音が絶えず聞こえる。


 「気をつけて……足を踏み外したら大怪我じゃ済まないわ」


 凛花の忠告を胸に、理久とスタッフが慎重に進む。アルマは完全に身を委ねた状態で、微かに息をするだけになっている。


 (もしここを抜けた先に何もなかったら……どうする? そのときは、アルマを守る術があるのか?)


 頭をよぎる不安を振り払うように、理久は足を止めない。狭く先の見えない通路を照らし出すのは、懐中電灯一つと心許ないLEDランプだけ。外部ハッカーが封鎖をこじ開けるのが先か、槙村が何か企むのが先か、もしくはこのまま施設が崩壊するのが先か――どれも分からないが、少なくともここまで来た以上、引き返す道はもうない。


 沈黙のまま数十メートルほど進むと、通路が左右に分岐している地点に出た。そこには古い看板があり、かすれた英語の文字で「UNDERGROUND WATER PUMP」とか「CONNECTING PASSAGE」と書かれているようだ。どちらに行けばいいのか、まったく手がかりがない。


 「どっちだ……?」


 凛花が焦って辺りを照らすが、壁には古びたスイッチボックスらしきものがあるだけで、カードリーダーなどは見当たらない。が、よく見ると通路の片方(おそらく右側)のほうが風が強い。左側は湿った泥の匂いが強く、行き止まりのような閉塞感を感じる。


 「風が吹いてるってことは、もしかすると外気が通ってる証拠かも……?」


 理久がそう言うと、凛花は同意するように頷く。若いスタッフも「右に行ったほうが良さそうですね」と賛成の意を示す。こういうときは勘に頼るしかない。自分たちが“風向き”というわずかな手がかりを信じるのは必然かもしれない。


 「じゃあ、右へ……慎重にな」


 先頭を行く凛花が足を踏み出すと、床が急に斜面のようになっている箇所があり、崩れかけたコンクリート片が動いて足元がぐらつく。思わず「わっ……」と声を上げてよろけるが、理久が咄嗟に腕を掴んで支えた。アルマを抱えているのに、よく動けたなと自分でも驚く。


 「ありがとう……危なかった……」


 凛花は眉を寄せ、心臓の鼓動を落ち着かせる。通路が崩落していてもおかしくないのだ。地震や爆発の影響がここまで及んでいる可能性もある。


 「足元に気をつけて。このままじゃ全員落っこちるかも……」


 若いスタッフがカートを引きずるように持ち上げ、慎重に進む。アルマはまだ理久の腕の中で力なく横たわり、時折うめき声を漏らす。


 どれほど歩いたか分からない。暗闇と不安が意識を侵蝕(しんしょく)しそうになる頃、ようやく視界の先に白っぽい光が見えた。懐中電灯の光とは異なる、ほんのりと青みがかった照明らしきものがポツンと浮かんでいるようだ。


 「……何かある……?」


 全員が背筋を伸ばし、足を速める。通路がやや広くなり、コンクリートの床はなくなって鉄骨のグレーチングが続く。そこから10メートルほど先にドアがあり、上部に非常灯のような小さなパネルが光っていた。どうやら電源ラインが完全には死んでいないらしい。


 「もしや、ここが出口に繋がる扉かもしれない……! 急ごう!」


 理久は期待を込めて足を速める。アルマはかすかに首を振るように反応し、苦しげに呼吸する。そこが“本当の出口”なのか、彼女自身も分かっているかもしれない。


 やがてドアの前にたどり着くと、やはり電子ロックのパネルが存在した。カバーに亀裂が入っているが、緑色のランプが点滅していて、カードリーダーのスリットも生きているようだ。


 「例のカードキーが使えるかな……」


 凛花がカードを取り出し、ドアの差し込み口にそっと入れ込む。するとわずかにブザー音が響き、パネルに「ENTER CODE」の表示が浮かぶ。先ほどと同じ“0425”を入力すると、ドアのロック機構がカチリと外れる音がした。


 「開いた……!」


 興奮混じりの声を上げるや否や、ドアが横にスライドして奥の空間を覗かせる。しかし、それは静かな闇ではなく、湿った空気が吹き付けてくるような吹き抜けのような場所だった。天井は高く、どこか外気に繋がっていそうな風の流れが感じられる。


 ただし、足元を見ると背筋が凍る思いだ。そこには鉄骨の橋のような通路があり、足元に暗い淵(ふち)が広がっている。まるで巨大な縦穴を横断する橋のようだ。


 「すごい……これ、地下水脈とか地下空洞? こんな大空間があるなんて……」


 凛花が息を呑む。たしかに外気に近い空気が流れており、遠くのほうで風が呻(うめ)くような音を立てている。もし先へ渡りきれば、本当に“外”へ通じる穴があるのかもしれない。


 「アルマ……もう少しだ。お前のマスターがこういう場所まで用意してたなんて、相当気合が入ってるな……」


 理久は震える声で笑おうとするが、アルマから返事はない。ただ安らかな息を繰り返すだけだ。スタッフと凛花が先導し、鉄骨の橋の上を一歩ずつ進む。隙間から覗く深淵(しんえん)に落ちたら命はないだろう。視界の先には、かすかにコンクリートの壁らしきものが見えるが、また扉があるのか、あるいは崩落しているのか……。


 「足元、気をつけて……揺れるかも」


 凛花が警戒するが、意外と橋は頑丈なのか、それほどきしむ音はしない。そろそろと渡りきると、そこにはトンネルのような入口があった。奥には微弱な明かりが点いている気配があり、わずかに外気の匂いが強くなった。


 「ここだ……たぶんこれが、非常トンネル……!」


 希望を見いだしかけた瞬間、ズズンという大きな振動が遠くから伝わってきた。施設上層部でまた何かが爆発したのか、床と壁が鈍く揺さぶられる。鉄骨の橋が軋む音を立て、三人は思わず身を寄せ合う。


 「やばい……ここも時間の問題かもしれないわ。一刻を争うわね……」


 凛花の声には切迫感が滲む。若いスタッフも「急ぎましょう!」と叫びながら、台車を引き上げてアルマを安全な位置に移動させようとする。幸い、このトンネルの入り口はやや広くなっていて、台車を押せるだけのスペースが確保されている。


 「さあ、行くぞ。アルマ……もう少し、耐えてくれ!」


 理久がそう呼びかけ、懐中電灯を掲げてトンネルの奥へ踏み込む。すると冷気がまともに頬を刺すように吹き付けてきて、まるで洞窟の出口に近いような独特の臭いが鼻を突く。岩や土の混じった生々しい風──ここが人工施設と自然洞窟の境目なのかもしれない。


 (外だ……外が近い! 本当にここは脱出口なんだ!)


 ついに光が見えてきたのかと胸が躍る。アルマのマスターは、こんな遠回りな道を用意していたのか――理由は分からないが、これなら封鎖されにくいだろうし、世間に知られない軍事ルートとしては最適なのかもしれない。


 小走りでトンネルを進むうち、空気が徐々に澄んでいくのを感じる。すでに施設特有の薬品臭や焦げた匂いが薄れ、冷たい土や水の匂いへ移り変わっていた。まるで地上に近づいている証のようで、理久は目頭が熱くなる。ここを抜ければ、アルマを救えるかもしれない。


 ふと、アルマが理久の腕の中で指先を動かした。目を開けきれないまま、何かを訴えるように唇を震わす。


 「……ありがとう……ボク……前のマスターが……できなかったこと……あなたが……」


 声がかすれ、理久にははっきり聞き取れない。それでも、アルマの意志がここで止まるわけではない。そう信じたい。


 「いいんだ……お前が“生きる”道を、一緒に見つけるって決めたから……」


 短く答えて、理久は急ぎ足を再開する。前を見ると、凛花が興奮交じりに手招きしている。どうやら先に見える小さな光の先端が開けてきたらしい。


 「理久、見て! あそこ……空が……!」


 凛花の声に振り向くと、確かに暗闇の向こうに淡い光が射し込み、風が大きく吹き抜けている。外の空気──少なくとも自然光に近いものが差し込んでいるように見える。暗い洞窟を抜けた先にあるのは、もう確実に“外”だろうか。


 「アルマ……着いたぞ、出口だ、きっと……!」


 興奮を抑えきれずに理久は声を上げる。若いスタッフも喜びのあまり声を弾ませ、「やっと外へ……!」と台車を押す手に力が入る。凛花が最後尾を照らしながら駆け寄り、皆で息を合わせて最後の数メートルを駆け抜けようとした――。


 そのとき、不意に洞窟の出口付近の岩陰から重厚な足音が鳴り響いた。鈍い金属音が洞窟内で反響する。まるで鎧を着た兵隊が踏み込むような硬質な音……。皆が反射的に足を止めると、ライトの先にドス黒い外装をまとった機械の影が見えた。


 「なっ……警備ロボか……!」


 凛花が叫ぶように言う。その姿は以前に遭遇した警備ロボとは微妙に形状が違う。人型だが、やや大型で肩や腕にごつい装甲をつけている。頭部のセンサーが赤く光り、低い電子音を放っている。


 「まずい……こんなところまで……!」


 理久が焦りを滲ませた声を上げる。一瞬、警備ロボが動かず佇(たたず)んでいるかに見えたが、すぐに腕を持ち上げ、銃のようなアタッチメントをこちらに向けてきた。洞窟出口の光に照らされ、金属パーツがぎらりと嫌な輝きを放つ。


 「逃げろ……皆、伏せろ!」


 若いスタッフが台車を放り出しそうになるが、アルマが乗っている。理久と凛花が慌てて支え、「下がれ、下がれ!」と大声を張り上げる。しかしロボットは洞窟出口を塞ぐように両足を踏ん張り、すぐさま射撃態勢を取る気配だ。


 (くそ……あと数メートルで外だってのに……!)


 危機感が全員を支配する。理久はアルマを抱えながら、どうにか岩陰に隠れるが、通路は狭い。凛花とスタッフも横に並ぶように身を伏せるが、警備ロボが本格的に攻撃すれば逃げ道は皆無だ。


 「どうする……! このままじゃやられる……!」


 凛花が恐怖に歪んだ声を上げる。ロボットの武装は強力そうで、スタンガンやゴム弾ではなく実弾火器を携行している可能性すらある。一瞬でも油断すれば蜂の巣だ。


 (ここで終わるのか……アルマを連れてやっと外まで来たのに……)


 理久が歯を食いしばった瞬間、アルマの手がまた微かに動き、理久の服を引っ張るように握った。


 「……ボク……やる……」


 その小さな声は、今までになく覚悟を帯びて聞こえた。機能停止寸前のはずなのに、アルマの瞳には薄い光が戻りかけている。かつて警備ロボを一瞬だけ制御不能に追い込んだあの高次ハッキングを、彼女は再びやろうとしているのか。


 「駄目だ……お前、それをやったら……今度こそ……」


 言いかけた言葉を、アルマが震える指先で止める。彼女の唇は限界の笑みを浮かべ、かすれた声でこう言った。


 「前の……マスターが……守りたかったデータ……ボクは……あなたたちを守るために……ここまで来た。だから……最後まで……“ボク”でいたい……」


 それは、機械の論理ではなく“人間的な意志”そのものに思えた。理久は強く胸を打たれ、止めるべきかどうか一瞬迷う。しかし警備ロボが銃口をこちらへ向けて今にも撃とうとしている以上、時間はない。やはりアルマの力に頼るしか……。


 「……分かった。お前が後悔しないなら、俺はお前を止めない。だけど、絶対に死ぬな。俺が……」


 理久が苦しそうに唇を噛む。アルマは微笑む代わりに弱々しく瞳を伏せ、左腕の人工皮膚をずらして通信ポートを露出させようとする。凛花がそれを見て、絶句しつつも工具を取り出し、接触端子を取り付けてやる。


 「ボク……ボクはもう……ひとりじゃない……」


 アルマが最後の力を振り絞るように呟き、警備ロボへ意識を集中させる。周囲に淡い光が走り、低い電子ノイズが洞窟を満たす。相手が強化されたモデルでも、彼女の一瞬の干渉力なら制止できるかもしれない。


 ロボットが引き金を引くかアルマの干渉が先か――極限の戦いが、地下深くの洞窟出口で静かに幕を開けようとしていた。外は、もう目と鼻の先だ。


 (ここを越えれば……きっと世界が変わる……!)


 理久はアルマの細い肩を必死に支える。彼女が震える声で何かを呟く。

 「封鎖なんか……関係ない……ボクは、ここで……“生きる”……!」


 その言葉を最後に、青白い電流が一気に放たれ、警備ロボのセンサーが赤から白へフラッシュのように切り替わった――。

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