第9話「揺れる境界線」
暗い通路の奥に、いくつもの足音がこだまする。勝峰(かつみね)岳志と数人の研究スタッフたちが、倉庫区画を探そうと廊下へ出て行ったあとのこと。広いホールに取り残された高峯理久(たかみね・りく)と桜来(さくらい)凛花(りんか)、そして意識を失いかけているアルマを含む数名のスタッフは、戦々恐々としながら外の気配に神経を尖らせていた。
ホールの中央部には、大型の試験搬送エレベーターの残骸が半ば眠っている。ブロックのようなプラットフォームやスチール製の骨組みが垂れ下がり、地上階まで連なる巨大な通路が闇に溶け込んでいるのだが、非常電源もほぼ使えない現状では、どうにもならない。どこかで外部ハッカーがセキュリティを解除し、電源ラインを復旧してくれなければ、このルートで上層へは行けそうにない。
「……こうして待っているのも落ち着かないわね。槙村(まきむら)たちが戻ってくるとも限らないし、勝峰さんたちも危険を冒して倉庫を探してる。私たちにできることは……何かないのかしら」
凛花がタブレットを握り締めながらつぶやく。こんな非常事態にあって、彼女の端末もすでにほとんど機能を果たせない。ネットワークが切断され、端末内のキャッシュ情報は少ないうえ、アクセスが制限されている部分も多い。身動きが取れない焦燥が募るばかりだ。
「外部のハッカーに、こっちの存在を何とかして知らせるとか、できないのかな。連携できれば一気に封鎖を解く可能性があるだろ」
理久はホールの壁際にうずくまるアルマのそばに目をやる。彼女は薄目を開けたり閉じたりを繰り返し、どうにか意識を保とうとしているらしいが、先ほどのような会話はほとんどできない。ハッキングどころか、まともに動くことすら厳しそうだ。 凛花はタブレット端末を睨んだまま、苛立ちをこらえるように低く唸る。
「外部からの通信シグナルは、断続的に入り続けてるみたい。けど、こっちから“声”を届ける回線が残ってない。少なくとも通常の無線通信は妨害を受けてるわ。この地下区画の奥深くじゃ電波が通りにくいし、上層部が火災と封鎖で混乱しているなら、なおさらね」
「有線で繋ぐ手段は……やっぱりアルマが起きないと難しいのか」
理久はアルマを見つめ、歯噛みする。もしアルマが本調子であれば、サーバーや端末を経由して外部のハッカーとコンタクトを取り、連携して一気に封鎖を突破できるかもしれない。だが、いまの彼女の容体ではどうにもならない。
「……私が何とか代わりをやれないか試してみるわ。もちろんアルマほどの高度なハッキング能力なんてないけど、少しでもデータを送れれば――」
凛花が腰を下ろし、ホールの壁際にある作業台のような所にタブレットを置く。そこにケーブルを這わせ、以前倉庫で拾った変換コネクタ類を繋ぐ形で、わずかながら施設内の配線にアクセスを試みるらしい。
「期待はできないけど、じっとしていても何も生まれないものね。理久、アルマを少し離して大丈夫?」
「ああ……あまり遠くには行かないけど、そこなら目が届く」
理久は担架のシートごとアルマを少しだけ移動させ、凛花との間に二、三メートルの距離をとる。万が一、電流や火花が飛び散ってもアルマに影響が及ばないように……という程度の配慮だ。周囲を見回すと、スタッフ数名が不安げに右往左往している。
「落ち着いて。いま槙村や勝峰さんたちが戻ってきても、私たちが慌ててたら余計に足手まといになる」
ひとりのスタッフが、そう言って仲間をなだめている。彼らも事態の深刻さは理解しているが、それ以上に自分たちの命を守るだけで精一杯なのだろう。大半は工学や研究の専門家でもなく、避難を最優先に考えている。
理久はアルマのそばに膝をつき、声をかける。
「アルマ……苦しいだろうけど、もう少しだけがんばってくれ。俺たちだって、ただ座ってるわけじゃない。凛花がどうにか手を打とうとしてる」
アルマは瞼を閉じたまま、小さく頷いたように見えた。耳にはまだ入っているらしい。薄い唇が震え、か細い声が漏れる。
「……ありがとう……ボク、もう少しだけ……眠りたくないから……」
その言葉に、理久は思わず胸が締めつけられる。彼女は「眠る=停止する」ことを何より恐れているのだろう。自分を呼ぶ声が聞こえなくなる暗闇に飲まれてしまうことが、機械でありながら“生きる”意志を持った証拠のようでもあった。
「大丈夫だ、眠らせやしない。ここで終わったら、前のマスターが悲しむだろ?」
前のマスター――アルマが失った存在。理久がこの言葉を出すたび、アルマの表情に深い哀しみと悔しさが入り混じるように見えるが、それと同時に、かすかな光が宿るのも分かる。あるいは、その記憶こそが彼女を生かす支えなのかもしれない。
すると、不意に凛花が「うそ……少しだけ応答が返ってきた!」と声を上げた。理久は驚いて顔を向ける。先ほどまで真っ暗だったタブレットの画面に、奇妙な文字化けした文字列が浮かんでいる。
「どうやったんだ?」
「ここのホールの壁際に、まだ生きている回線が一部残ってたのよ。多分、試験搬送エレベーターの内部システムと繋がってる線。そこを介して、ほんの微弱だけど外部のハッカーのアクセスにかすってるのかも……」
凛花は息を詰めつつ、端末を操作する。画面上にはアルファベットと数字が乱れたコードが並び、意味の分からないエラーメッセージが頻繁に出ているが、ときどき“HEL”や“ACK”という単語らしきものが混じっているのが見える。誰かが必死にこちらへ信号を送っているのは間違いなさそうだ。
「向こうは何を言ってる? なんとか応答できないのか」
「やってみる……でも、正しいプロトコルが分からないし、ハッカー側も私たちが“アルマ”じゃないとは思ってないかもしれない。変なフラグ送ったら逆に遮断されるかも……」
理久は急に胸が高鳴る。もしこのままコミュニケーションが成立すれば、助けを求めたり、施設の各種デバイスを再起動させたりする具体的な段取りを詰められるかもしれない。外部ハッカーを“味方”と決めつけるのは早計だが、少なくとも槙村のように今すぐ武器を突きつけてくる心配はないだろう。
「俺も何か手伝えるか? といっても、プログラミングとかは疎いけど……」
「ううん、気持ちはありがたいけど、私がやるしかないわね。とにかく“こっちの意思表示”を伝えられればいいの。最小限の文字列で『人間がここにいる』『封鎖を解いてほしい』って意味を送れれば――」
そこで、凛花はタブレットのキーボードに指を走らせる。暗号めいた画面が一瞬だけガリガリとエラーを吐くが、彼女は粘り強くコマンドらしきものを打ち込んでいく。端末のバッテリー残量も残り少ないが、今が勝負どころだ。
「……いけっ、送信……!」
数秒の間を置いて、画面に再び文字化けが雪崩を打つように出現する。その合間に、一瞬だけ“HELLO?”という文字が見えた。凛花は眼を見開き、理久を振り返る。
「向こうから『HELLO?』って……! 誰かがこちらを探ってるわ。このままやり取りできれば……」
喉が痛くなるほどの緊張感が高まり、理久がごくりと息を吞む。ホールにいるスタッフたちも、「まさか通信できるのか……?」と期待を込めて彼女を見守る。
「よし……こっちも『HELP』とか『TRAPPED』みたいに簡単な単語を送ってみる。日本語が通じるか分からないけど、最低限は理解してもらえるはず……」
凛花が再度キーボードを叩き始めた。その瞬間――タブレット全体がバチバチとスパークを散らし、小さな火花が飛び出した。驚きのあまり、凛花は咄嗟(とっさ)に手を引っ込める。
「な、何!?」
「危ない!」
理久が叫び声を上げ、アルマを抱えるように庇(かば)う。どうやら壁際の配線が限界を迎えたのか、あるいは相手側のアクセス負荷が大きすぎてショートを起こしたのかもしれない。タブレット画面は一瞬だけ真っ暗になり、再び文字化けした画面がチラつくが、すぐに電源が落ちてしまう。
「嘘でしょ……! まだバッテリー残ってたはずなのに……」
凛花が再起動を試みるが、まったく反応がない。どうやら内部回路が焼けてしまったらしい。
「くそっ……!」
理久は唇を噛む。わずかなチャンスを掴めそうだった矢先に、この施設のインフラも端末も、すでに限界を超えているのだ。どうにか外部と連絡を取れそうだったのに、それすら絶たれてしまった。
「……さいわい感電はしなかったけど、もうダメね。これじゃ会話どころか、何もできない。ごめんなさい、理久」
凛花が項垂(うなだ)れる。彼女の声には深い無力感がにじんでいた。
理久は頭を振り、「仕方ない」と呟く。ほんの数秒のチャンスでは、こちらの状況を伝えることもままならなかっただろう。せいぜい「誰かがいる」と分かった程度かもしれない。
「……でも、向こうはこっちの存在に気づいたんだよな? もしかすると助けに来てくれる可能性が高まったんじゃないか?」
期待交じりの声をかけるが、凛花の表情は明るくならない。
「分からないわ。外部ハッカーも、目的が“助け”とは限らないし……。しかも、今のトラブルで回線は切れたでしょうし。それでも続けて攻撃をかけてくれる可能性はあるけど、私たちがそこで何か協力できる手段はもうない……」
沈黙が広がり、ホールにいたスタッフたちからも落胆のため息が漏れる。このまま待機していては、槙村や勝峰たちが何かしら成果を持ち帰ってくれるのを祈るしかない。
そのとき、アルマが微かに身をよじり、理久の腕の中で弱々しく声を上げた。
「……ボク、いま……少しだけ、電波を感じた……」
「アルマ? まさかお前、気づいたのか? さっきの外部とのやり取りを……」
理久が思わず問いかけると、アルマは苦しげに顔をしかめながら、絞り出すように言う。
「うん……ボクにも届いてきた。でも、もうダメ……機器が焼けて……。だけど、向こうは、たぶん……続けてる。だから……」
そこまで言ったところで、アルマの瞼がまた閉じかける。必死に何かを伝えようとしても、言葉が続かない。見れば人工皮膚のこめかみ付近に汗のような液が浮かび、内部が過熱しすぎているのが明らかだ。
「喋るな、無理するな。――それ以上負担をかけてお前が壊れたら……」
理久の声は掠(かす)れるようだった。アルマがもはや生死の境を彷徨(さまよ)っているのは誰の目にも明らかだ。このまま休ませるべきか、それとも再び“奇跡のハッキング”を期待すべきか。どちらを選んでも、リスクは計り知れない。
ふと、ホール奥でドローンが小さく電子音を鳴らした。槙村の手下が残していった監視用ドローンだ。何かを感知したのか、レンズをカシャリと動かし、壁際に装着されたパネルへ向けてライトを当てている。そこに表示されているのは「非常口:マニュアル操作レバー」の文字。
「非常口……? こんなところに扉があるのか?」
スタッフのひとりが首をかしげながら近づき、錆びついたパネルを開ける。するとレバーが一つだけ突き出ており、古い表示が貼り付けられている。「緊急時、このレバーを引くことで試験搬送ルートを開放できる場合があります……」と書かれているが、いつの時代の手順なのか不明だ。
「いや、待て。非常口っていっても、こっちは“実験用エレベーター”だから、地上への直通じゃないだろう? 下手すると、まだ深い区画に繋がるとか……」
別のスタッフが不安そうに言うと、ドローンがさらにカメラをズームし、パネル奥の状態をチェックしているようだ。ざっと見ても配線やギアがかなり傷んでいる。レバーを引いても、作動するかどうかは賭けに近いだろう。
理久はアルマの頭を撫(な)でながら考えを巡らせる。ここで手詰まりになっている以上、どこかへ進む選択肢を取るのもひとつの手かもしれない。槙村や勝峰が戻るまで待っている間に、火災が拡大したら全滅もあり得る。
「……どうする、理久?」
凛花が小声で問う。タブレットは使い物にならず、アルマも満足に動けない。外部ハッカーに期待してじっと待つか、それとも施設の奥に活路を探すか――。どちらを選んでも危険だが、このまま何もせず待つだけでは槙村に好き放題やられてしまう可能性が高い。
「難しいな……」
理久は鋭い息を吐きながら、ホールの天井を見上げる。そこには、かすかな排気ダクトのようなものが垂れ下がり、時折きしむ音を立てている。上層階がどうなっているかは、まったくの未知だ。
沈黙に包まれる中、アルマがまた微かに身じろぎし、理久のシャツを掴んだ。その力はほとんど感じられないほど弱々しいが、意志がこもっているのは確かだ。
「……下へ、降りて……試験区画から……外へ……」
その言葉に、理久は息を呑む。下へ降りる? このエレベーターで上層に行くのではなく、むしろ地下区画をさらに下るのか。そんな選択肢が本当にあるのか、と戸惑いが募る。
「アルマ、下へ行けば脱出できる道があるのか? まさか“地下道”みたいなものがあるのか……?」
アルマは答える前に息が切れたように肩を揺らすが、苦しそうにしながらも震える声を続ける。
「マスターと……一度だけ……ボク、すごく深い階へ……。軍事用か何か……裏ルート……警備が厳しくて……でも、もしそこが……開いていれば……外へ繋がる非常トンネルが……」
凛花やスタッフたちが顔を見合わせる。まさか、地上からは想像もできないような深層区画が存在するというのか。軍事的研究を請け負っていた施設なら、秘密の抜け道があってもおかしくないが……。
「そんな話、聞いたことがないわ。でもアルマが言うなら、嘘じゃなさそう。これだけの規模の研究だし、怪しげな抜け道ぐらいあっても不思議じゃない」
理久は迷いを抱えたまま、アルマに訊ねる。
「ただ、そのルートには鍵とかコードが必要なんじゃないか? 今みたいに封鎖されてるなら、どうやって開けるんだ……? やっぱりお前じゃないと無理なのか?」
アルマは瞳を閉じる。そして、首を振るように微かに動かした。
「ボクだけじゃ……無理。コマンドとか、マスターの……管理者カード……。でも……奥にはきっと……予備があるかもしれない。もし、誰も手を付けてないなら……そこへ行けば……」
次第に声がかすれ、まるで深い眠りに落ちる寸前の囁きのようだ。理久はギュッと拳を握り、追い詰められた気持ちを抑え込む。上に行く方法が行き詰まったなら、下への選択肢は残されているのか――。ただし、それが本当に外へ出られるのかは保証がないし、途中で軍事警備ロボに襲われるリスクもあるだろう。
「理久、どうする? 本当にそこへ行くの? 勝峰さんや槙村のグループとは離れ離れになる可能性が高いわよ。万一、危険が待ち受けていたら……私たちは丸腰よ」
凛花の言葉には痛切な不安が滲んでいる。理久はアルマを見下ろす。彼女にとっては“思い出の場所”かもしれないが、同時に“前のマスター”が残した手がかりがあるかもしれない区画でもある。
「……分からない。でも、こうして待っていても何も変わらないのは確かだ。槙村や勝峰たちがいつ戻るかも分からないし、戻ってきたとしても状況が好転する保証はない」
理久は深呼吸をして、自分の意思を固めるようにつぶやく。
「少人数でもいい。俺はアルマを連れて下へ行く。凛花……お前はどうする? 一緒に来てくれるか? ここで待ってたいなら止めない」
凛花は目を丸くしながら、その視線をアルマと理久の間に走らせる。たしかに地下へ向かうのは賭けに近い。だが、このまま封鎖された施設の中でジリ貧になるのも同じくらい危険だ。
「私も行くわ。――正直、アルマを置いていくなんて選択肢はないし、“ボクだけじゃ無理”って言うのなら、私がそばで手伝えるかもしれない。工学の知識ぐらいは一応役に立つでしょう」
凛花は吹っ切れたように微笑む。スタッフたちは戸惑いを隠せないが、「じゃあ、私たちはどうすれば……」という声が上がる。理久は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ここに残るか、一緒に来るか、好きに選んでくれ。地下が本当に外へ通じてるかは分からないし、危険度も高い。俺たちはアルマを守るために行くだけだから……槙村や勝峰さんと合流したいなら、ここにいるのも手だ」
しばらく沈黙が続いたあと、二、三名の研究スタッフが「私は残ります……」とおずおず申し出る。やはり大多数は勝峰や槙村のほうが頼りになると考えているのか、地下に下るという未知の行動を怖れているようだ。
ただ、一人の若いスタッフだけは「私も行きます……不安ですけど、アルマを置いていくのが嫌で……」と小声で言い、理久の横にそっと立った。彼女は事務担当らしく、実戦力はないが、医療の初歩的な知識を持っているという。
「……ありがとう。人数は少ないほうが動きやすいし、助かるよ」
理久は半ば強がりのように微笑み、凛花と目配せする。アルマをどうやって運ぶかが問題だが、担架シートのまま引きずっていくのは危険だろう。できればラックや台車があればいいのだが……。
ふと、ホールの隅に小型の台車が見えた。試験搬送の道具か、あるいは補給物資を運ぶ簡易カートのようだ。車輪がまだ動くなら、アルマを乗せて移動がいくらか楽になるかもしれない。
「よし、あれを使おう。アルマが揺れないようにタオルやクッション代わりのものを敷いて、なるべく負担を減らすんだ」
理久が指示を出し、凛花と若いスタッフが協力してカートにシートを敷き詰める。アルマを慎重に移乗させると、彼女はかすかな痛みの声を漏らしたが、すぐに息を整え、また目を閉じた。
「堪えてくれ、アルマ。お前の提案に乗る形だからな……」
理久の声に、アルマはうっすらと頷いたように見えた。こうして、わずかながら動けるメンバーがそろい、深層区画へと下る“賭け”に出る。
最後に残ったスタッフらと手短に言葉を交わす。槙村や勝峰が戻ったら「理久たちは地下へ降りた」と伝えてほしいこと、火災や崩落の恐れがあれば無理せずに避難経路を探すことなど。大して役立つアドバイスもないが、今は情報を共有するしかない。
「死ぬなよ、みんな……」
理久がぼそりと呟き、ホールの一角にある階段のような通路へ向かう。そこには「作業員以外立入禁止」と錆びついた看板がかかっている。どうやら試験搬送エレベーター以外に、下層へ降りるためのメンテナンス用ルートが存在するのだろう。
通路の入り口は薄暗く、冷たい風がかすかに吹き上がっている。アルマが言った“さらに深い区画”が、本当にここに広がっているのだろうか――理久の胸には不安が渦を巻くが、覚悟を決めて足を踏み出すしかない。
凛花が懐中電灯で先を照らし、若いスタッフがカートを押す形でアルマを支える。理久は後ろを振り返り、ホールに残る数名に手を振った。お互いに言葉はない。赤い非常灯の照り返しが、残留する人々の不安げな表情を映し出している。
(どうか、みんな無事でいてくれ……。俺たちが戻るときまでに、ここが崩れていないことを祈る)
そう思いながら、理久は通路へ消えていく。照明はほとんどなく、かろうじて非常灯の赤い色が遠くに明滅しているのがわずかに見えるだけだ。足元には配線やらパイプやらがむき出しで、段差も多い。カートがガタガタと揺れ、そのたびにアルマが小さく息を漏らす。
「ごめん……でも大丈夫。きっとマスターが残してくれた道があるんだろう? 俺たちが、それを見つけに行くんだ」
理久がアルマにそう語りかける。声は震えていないつもりでも、内心では恐怖がこびりついている。幼い頃の“AI事件”のトラウマが、狭い地下通路というシチュエーションと重なり、何度も悪夢のように呼び起こされそうになった。
(でももう逃げない。アルマを見捨てて楽になるなんて、したくない)
自分に言い聞かせるように、理久は一歩、また一歩と階段を下っていく。凛花が静かに指示を飛ばし、若いスタッフがカートを支えやすいように側面を調整する。
しばらく階段を下ると、踊り場のような場所に出た。そこには古びた扉があり、「B7階・試験区画」とプレートが掲げられている。B7階……地上からどれだけ深いのか、想像するだけでぞっとするが、さらに下があるのかもしれない。扉を引いてみると鍵はかかっておらず、ミシリと嫌な音がして開いた。
「……ここは予備の冷却水タンクとか、軍事実験で使う薬品のストックがありそうね。気をつけて」
凛花が懐中電灯を投げかけると、巨大なタンクやパイプが並ぶ機械室のような空間が広がっていた。金属の床はところどころ腐食が進んでおり、あちこちに水溜まりができている。配置された機械には「危険物」や「高圧」というステッカーが貼られ、まるで工場の廃墟を彷徨(さまよ)っているかのようだ。
「うわ……別世界だな。ここ、本当に人が出入りしてたのか……?」
若いスタッフが声をひそめる。天井は高くないが、パイプの迷路のように入り組んでおり、見通しが悪い。警備ロボが隠れていたらどうしようという不安がよぎるが、いまは立ち止まることはできない。
と、通路の奥から小さな光が見えた。赤い非常灯とは違う、淡い緑色のランプのようだ。こういった地下施設では、重要区画に非常用ランプが設置されている場合がある。そこが先ほどアルマが言っていた“軍事レベルの裏ルート”に繋がるのだろうか……。
「行ってみよう。慎重にな……」
理久が先頭に立とうとすると、凛花が腕をつかむ。
「私が行くわ。あなたはアルマを守って」
そう言いきって、凛花が懐中電灯を両手で構えながら足を進める。彼女の表情には恐れと決意が同居している。普通の女性なら腰が抜けてもおかしくない状況だが、やはり“コーディネート”による高い知能と度胸を持っているのだろう。
狭いパイプの間を抜けると、小さな扉があった。厚みのある金属製で、視察窓のような部分に緑色のランプが点灯している。錆(さび)ついた取っ手を回そうとしても、鍵がかかっているのか、ビクともしない。そこには「Authorized Personnel Only」という文字が消えかかった塗料で書かれていた。
「くそ……またロックか。しかも軍事用だとしたら、容易には壊せないだろうな」
凛花が途方に暮れかけたとき、アルマが担架で僅かに身を起こそうとした。理久が慌てて支えると、彼女は小声で言う。
「そこ……たぶん……中央管理室への、裏ドア……。前のマスターが、『いざというときのために保管してある』って……」
「保管……?」
理久が聞き返すと、アルマはかすれ声で続ける。
「カバンか、工具箱か……思い出せない。でも、ここに何かが隠されている。もし、それを見つければ……ロックを開けられるかも……」
そう言い終えると、また意識が薄れたのか頭を垂れてしまう。理久は彼女の背中を支えつつ、凛花に声をかける。
「聞いたか? この近くに、鍵が隠されてるかもしれないって。探そう」
凛花はすぐに作業モードに入り、周囲にある箱や機械の下をライトで照らしながらチェックを始める。若いスタッフもカートを壁際に寄せ、アルマを安定させてから探索に加わる。錆びついた工具箱や、ほこりをかぶった棚、廃棄された資材など、膨大なガラクタの山から手がかりを探す作業は骨が折れそうだ。
「どこかに“意外な場所”があるって言ってたな……前のマスターも、わざわざこういうところに隠すとは思えないが……」
理久は独りごちた瞬間、アルマの先ほどの言葉を思い出す。“意外な場所に隠してた”――そう言っていた。まさか、工具箱や棚といった定番の物入れではなく、もっと別のところにあるかもしれない。
「このタンクの裏とか、配管の中とか……?」
愕然(がくぜん)とする。こんな膨大な設備をくまなく探すのはほぼ不可能だ。しかし、時間をかけて少しずつでも当たっていくほか道はない。外部の封鎖が解けるのが先か、それとも施設が崩落するのが先か、まるでデスゲームのようだ。
「ちょっと、パイプ上部の方までライト当ててみるわね」
凛花が脚立代わりになりそうな金属箱を見つけ、そこに乗ってパイプの上を覗き込む。すると、埃と油汚れが積もった配管の付け根に何か四角い金属の箱がくくり付けられているのが見えた。
「……あれ、怪しくない? 普通の配管ユニットには見えないわ。もしかすると小型の収納箱かも」
「マジか……どうやって取り外すんだ」
理久が慌てて凛花を支え、彼女は慎重にパイプへ手を伸ばす。金属の箱は頑丈な針金で巻き付けられており、腐食が進んでいるようだがなかなか取れない。凛花が工具で針金を切り、ようやくそれを引き剥がすことに成功する。
「……よし、ゲットした。開けてみるわよ」
床に下りてから、二人で箱を観察する。見た目は安価な金属製の弁当箱のように見えるが、きっちりテープが巻かれていた。カッターで切り、蓋をこじ開けると……中には耐水性のビニール袋に入ったメモ帳と、小さなカードキーがひとつ。
「これ……管理者カード!? ほんとにあったのか……」
理久が思わず歓声を上げそうになるのをこらえ、凛花と視線を交わす。まさしく“意外な場所”に隠してあったというわけだ。メモ帳をめくると、いくつかコードらしき文字列が書かれており、ページの最後に走り書きでこうあった。
> 「有事の際はアコア(アルマ)と共にこのカードを使え。封鎖コードNo.0425――
> 階下の扉を開き、トンネルを抜ければ外へ……誰にも知られてはならない……」
文面から察するに、前のマスターが何らかの緊急事態を想定して隠していたのだろう。理久と凛花は同時に息を呑み、カードキーをまじまじと見つめる。
「これで開くんじゃない? さっきの厚い金属扉、緑色のランプがついてたし……」
「ええ、アルマが言ってた“奥の管理室”か“トンネル”ってやつに繋がるんでしょうね。封鎖コード0425も忘れずにメモしておこう。忘れちゃいけないわ」
凛花がスマホ代わりのメモ帳に急いで書き留める。理久は急ぎ足でアルマのもとに戻り、見つけたカードとメモを見せる。彼女はかろうじて視線を向け、震える声で「よかった……マスター……」と呟いた。
「あなたのマスター、ほんとに用意周到だったんだな。きっとお前を守るために、こういう緊急プランを用意してたんだ……」
理久の声に、アルマは切なそうに唇を噛む。おそらく、もし前のマスターが事故に巻き込まれず生き延びていれば、もっとスムーズにこのルートを辿ることができたのだろう。いま残されているのは、マスターが最後にアルマのために仕掛けてくれた“救いの装置”だけだ。
「さあ、行こう。ほら、凛花。さっきの扉をこれで開けられるはずだ」
理久がカードキーを握りしめ、扉のほうへ向き直る。若いスタッフはアルマのカートを慎重に操作し、後をついてくる。パイプの隙間から顔をのぞかせると、相変わらず緑色の小さなランプが点灯しているのが見えた。あれが読み取り装置なのだろうか。
扉の前へ到着し、凛花が懐中電灯を当てる。見ると、扉の右下にカードリーダーらしきスリットがはみ出している。埃と錆で埋もれかけているが、拭き取れば差し込めそうだ。
「よし……やってみるよ」
理久は深呼吸してカードを差し込む。ゴリリ……と古い機械音がして、一瞬だけ赤ランプが点滅するが、すぐに緑ランプが追加で点灯した。続いて扉の上部のインジケーターがチカチカと明滅し、低いブザー音が鳴り始める。
「認証プロセス……動いてるみたい」
凛花が固唾を飲んで見守る。やがて金属の内部がゴウンゴウンと回り始め、厳かなモーターの振動が足元に伝わってきた。扉そのものはまだ閉じたままだが、封鎖が解ける合図なのか、やたら重厚なロック解除音が響く。
そして――ガチャンという金属音の後、扉が左右にわずかに開きはじめた。どこかで動力が生きているのか、思ったよりスムーズにスライドする。しかし、扉の内側から冷たい風が吹きつけてきて、まるで隙間から地下水道のような腐臭が漂う。
「……あんまりいい匂いじゃないわね」
凛花が鼻をつまむ。若いスタッフも思わず顔をしかめるが、理久は「行こう」と決意した表情で言う。これが本当に外へ出られる道かどうかは分からないが、今は進む以外に選択肢はない。
「アルマ……カード、ありがとうな。お前のマスターが残してくれた道だ。俺たちが責任もって突破してみせる。お前は……できるだけ休んでてくれ」
アルマはかすかに目を開き、首を縦に振るように見えた。もう声を出す力も残っていないのかもしれない。ともあれ、道は開いた。
「よし、入りましょう。気をつけてね、理久」
凛花の言葉にうなずき、理久と若いスタッフがカートを押して扉の向こうへ足を踏み入れる。懐中電灯の光がコンクリートの壁を照らし、まっすぐな通路が続いているのが分かる。湿度が高く、足元の水たまりを踏むたびに嫌な音がする。どこか天井付近から水滴が落ちる音も聞こえる。
「軍事研究だか何だか知らないけど、こんな場所を作ってたのか……」
理久が苛立ちまじりに呟く。もしここで何かに遭遇しても、後戻りするしかない。火災や暴走ロボから逃れられるという保証もないまま、行き先は不透明だ。
それでも――アルマが示してくれたヒントを無視するわけにはいかない。彼女が前のマスターと歩んだかもしれないこの通路を、自分たちの足で踏みしめることで“未来”を掴むしかないのだ。アルマ自身がそう望んでいる、そんな気が理久にはしていた。
「……行こう。ここから先は、俺たちで道を作るんだ」
自分に言い聞かせるように声に出し、理久たちは薄暗い地下通路をさらに奥へと進んでいく。想像もしなかった深層区画の秘密、そして外へ通じるという“非常トンネル”。本当にそれが救いの出口なのか、あるいはさらなる地獄への入り口なのか――いまは知る由もない。
静かな水滴の音だけが、彼らの行く手を遠くから嘲笑(ちょうしょう)しているかのようだった。
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