第11話「一筋の光」
暗い洞窟の通路に、青白いスパークのような光が走る。外気をわずかに感じられる出口のすぐ先を、重厚な警備ロボの影が塞いでいた。高峯理久(たかみね・りく)はアコアの少女・アルマの肩を必死に支えながら、息を呑んでその一瞬を見守る。
警備ロボの頭部センサーがぎらりと赤く光る。金属質のボディが低くうなり、今にも銃火を噴きそうな雰囲気だ。しかし、アルマが放つ“ハッキングの波”は確かにロボへ到達しつつあった。きしむ電子ノイズが洞窟内に満ちるなか、彼女は残り少ない機能を酷使するように震える声を絞り出す。
「……ボクは……ここで……みんなを……守る……!」
そう呟いた刹那(せつな)、ロボの脚部がガクガクと痙攣(けいれん)するように振動し、銃口の先がわずかにブレる。すかさず凛花(りんか)が「伏せろ!」と叫び、理久を含めた全員が岩陰に体を投げ出す。次の瞬間、鋭い銃声のような破裂音が洞窟にこだまするが、弾道は斜め上へ逸(そ)れて壁面の岩を砕いただけにとどまった。
「助かった……? まだ分からないわよね……!」
凛花が息を詰めてアルマを見やる。アルマは血を吐くように咳き込みながら、さらに集中を深めているらしい。人工皮膚のこめかみは炎症を起こしたように赤く染まり、今にも過熱でショートしそうだ。
警備ロボは何度も暴発音のような火花を散らし、制御不能のまま右腕を振りかざしている。だが、その動きは先ほどより明らかに鈍い。おそらくアルマの高次ハッキングがモーター制御や火器管制を狂わせているのだろう。とはいえ、完全に動きを止めたわけではなく、油断すればこちらを射撃するか突撃してくる恐れがある。
「あと少し……アルマ……大丈夫か……!」
理久が必死に呼びかけるが、アルマは頭を振るように小刻みに震えるだけ。視線は焦点を失いかけ、唇には微かな泡が浮かび上がっている。どう考えても危険な状態だが、彼女は諦めない。自分の“存在”を懸けて、この警備ロボを押さえ込もうとしているのだ。
洞窟の出口付近から吹き込む風が、警備ロボの黒い装甲を撫(な)でて鈍い反射を生む。ロボが断続的に痙攣を起こす中で、頭部センサーが急激に点滅しはじめた。そして、まるで怒号のように機械的な咆哮(ほうこう)を発しながら、崩れた岩の破片を蹴散らして体を捻(ねじ)る。
「まずい……! こっち来るか!?」
凛花と若いスタッフが石を拾い、ロボに投げつけるような仕草をしたが、当然そんな攻撃が効くはずもない。たった一度でもロボが銃をこちらに向けて乱射すれば、それだけで全滅の可能性がある。
そのとき――アルマが小さく叫ぶように息を吐いた。
「うあああっ……!」
電流の干渉音が一際大きく洞窟内にこだまし、警備ロボの姿勢ががくんと崩れる。両脚が同時に縺(もつ)れて転倒しそうになるが、そこから辛うじて踏み止まったのか、今度は背中を仰け反らせるようなポーズになった。銃口が天井へ向き、連射モードのような火花を散らすが、すべて空砲のように洞窟の岩肌へ吸い込まれていく。
「……効いてる……!」
理久がアルマの背を支えながら唇を噛む。彼女が完全制御に近いレベルでロボのOSに侵入し、暴走を食い止めているのだろうか。しかし、その代償はあまりに大きい。アルマの顔は死人のように青ざめ、呼吸が乱れている。
すると、警備ロボの頭部ランプが不規則に点滅しだし、体全体がビリビリと振動を起こした。まるで中枢プログラムを上書きされているかのような挙動だ。一歩でもこちらに踏み込めば弾丸が飛んでくるかもしれない危険な状況なのに、ロボはその場で大きく腕を振り回し、歯軋りのような駆動音を上げている。
洞窟の内部は土煙(つちけむり)と炸裂痕(さくれつこん)が漂い、視界がやや曇りがちになった。だが、理久たちはまだ出口から距離を取ったまま伏せており、ロボが倒れるか沈黙するのを待つしかない。
「アルマ、もういい……! 危ないから、一回撤退しよう!」
若いスタッフが悲鳴交じりに呼びかける。たしかにアルマがこのまま限界を超えれば、彼女自身が再起不能になる恐れが高い。しかし、それでもロボを放置すれば外へ出られず、ましてアルマの意志を踏みにじることになってしまう。
警備ロボが再度発砲姿勢を取り戻すかに見えたその瞬間――アルマが凛花の手首を掴(つか)むように伸ばした。凛花は驚いて目を見開くが、アルマが握りしめたのは、先ほどロボとの接続に使ったケーブルの片方だった。
「……ボク……最後まで……あなたに預ける……」
短い言葉。どうやらアルマは、何らかの形でロボの制御権限を凛花に譲渡しようとしているのかもしれない。だが、そんな芸当が本当に可能なのだろうか。
「待って、アルマ! 私に渡しても、私はコーディネートだからアコア所有の権限が――」
慌てる凛花の声を遮るように、アルマの瞳が青く鈍く光を放つ。人間とは違う異質な光。ハイエンドアコア特有の自己書き換え機能が、一瞬だけ外部へ伝播(でんぱ)していくような波動が生じた気がする。
「コーディネートでも……関係ない……いまは法なんて…………あなたは“持てる”……」
アルマの声は途切れ途切れだが、不思議と凛花の表情は固まったまま何かを理解したようでもある。そのやり取りの間も、ロボは強烈な短絡音を響かせながらバタバタと制御喪失を繰り返している。
「……私が、あなたを“持つ”……? アルマ、そんな……」
凛花が半ば呆然(ぼうぜん)としながらケーブルを握り返す。一瞬、青白い火花が指先に散り、アルマの思念が流れ込むような感覚が凛花を襲ったらしい。彼女ははっと体を強張(こわば)らせるが、すぐに理久を見て短く頷(うなず)いた。
「……分かったわ。アルマ、あなたの命を私に預けて。私も、あなたを失いたくない!」
そう言い切るや、凛花の瞳にかすかな決意の色が宿る。彼女はもう片手でタブレットの一端――すでに壊れかけていた端末――を取り出してロボとの回路を無理やり繋ぎ、アルマが残しているハッキング経路を追おうとしているようだ。たとえコーディネートされた人間に“正規の所有権”が与えられなくても、いまは非常事態。非合法スレスレでも動かすしかない。
警備ロボの咆哮が頂点に達し、腕が大きく振り上げられる。銃口が岩を砕きながらこちらに照準を合わせようとするが、凛花が何やら強引に入力を行うと、ビリビリと大型ショートを起こしてロボの膝関節が崩れ、がくんと転倒しかけた。
「やった……?」
理久がアルマの背を抱きしめたまま呟(つぶや)く。だが、ロボはまだ完全沈黙には至っていないらしく、肩の部分を地面に叩きつけて火花を散らしている。おそらく最終的なトドメを刺すか完全停止を促す“コマンド”が必要だ。
凛花は眉間に深い皺(しわ)を刻み、一心不乱に端末へ入力を続ける。アルマの残したアクセスの隙間を使って、ロボの認証システムを凛花自身に書き換えるつもりなのかもしれない――一種の“所有権譲渡”を強制的に行う形といえる。軍事レベルのシステムなら本来は不可能なはずだが、アルマの一度きりの強力なハッキングが下地になっているからこそ、これも可能になっているのだろう。
「……この最後のコマンドを入れれば――!」
凛花が声を上げた瞬間、警備ロボが再び起き上がろうと力を込める。地面を鋭くガリガリと爪を立てるように抉(えぐ)り、センサーが赤と白の点滅を繰り返す。まさに最後の抵抗とでもいうかのように、背部装甲から何かのユニットがせり出してきた。
「まだ隠し武器を持ってるのか……!?」
若いスタッフが悲鳴を上げるが、凛花は動じず指を走らせる。ロボの背部からはカチリと開閉音が鳴り、円筒形のパーツがせり出し――しかし、そのまま火花を伴って暴発したように折れ曲がり、地面に落下した。破片が土煙を上げながら転がり、やがて沈黙する。どうやらハッキングがギリギリで起動シーケンスを狂わせたらしい。
ロボのセンサーが急激に明滅し、最後の威力を振り絞るかのように腕を振りかざす。が、もはや制御が崩壊しているのか、狙いを定めるどころか自分の頭部にぶつかりそうな動きになっている。そして――。
「――っ!」
耳を劈(つんざ)く衝撃音が洞窟に反響し、ロボの頭部パーツが砕け散った。どうやら自らの腕をぶつけた形で完全破壊に至ったらしい。血煙ではなく火花と金属の破片が飛び散り、ロボのボディはガクンと沈み込むように膝を折った。センサーの光は消え、もはやピクリとも動かなくなる。
「止まった……?」
理久が恐る恐る顔を上げる。凛花は肩を上下させながらしゃがみ込み、握りしめていた端末を落としそうになった。警備ロボは動かない。完全に沈黙したようだ。
「はぁ、はぁ……やった、の……かしら……」
凛花が息を荒げながら呟き、理久はアルマの無事を確認する。アルマは腕をぶらりと下ろし、瞳を閉じたまま動かなくなっている。外傷は増えていないようだが、ここまで全力でハッキングをやりきったのだから、限界なのは明らかだ。
「アルマ……! おい、聞こえるか? 終わったぞ……お前が止めてくれた……!」
声をかけてもアルマからは返事がない。まだかろうじて呼吸音は感じられるが、どんどん小さくなっていくかのようだ。
「……まずい、もう本当に限界だ。外へ連れ出すんだ、急ごう!」
凛花と若いスタッフが慌てて台車を引き寄せ、理久はアルマを慎重に抱えて移す。あの巨大ロボが倒れた先には、わずかな空間ができており、その向こうに洞窟の出口らしき場所が見える。太陽の光……いや、まだ薄暗い朝か夕方の光かもしれないが、自然光がうっすらと照らし込んでいるのがはっきりと分かる。
「理久、あっち……外だわ! 本当に外へ出られる……!」
凛花が興奮を隠せない声を上げる。一同は警備ロボが完全に沈黙しているかを確認しつつ、なるべく急ぎ足で岩場を抜け、傾斜した狭いトンネルをかき分けるようにして前進する。台車が転ばないように注意を払いながら、それでも全員の足取りは速かった。
数十メートル進むと、冷たい風が吹き込んできて、目の前に開口部が現れた。そこは岩の裂け目のような形状になっており、外の世界と直接繋がっている。灰色の空がわずかに見える――日の光は弱く、地平線か山の稜線(りょうせん)が見えるようだが、確かな空気感が“外”を感じさせる。
「……で、出た……っ!」
若いスタッフが泣きそうな声を上げる。理久も衝撃に近い感動を覚えながら、アルマの体温を腕に感じている。まさか本当に脱出できるとは――そう実感できずに呆然(ぼうぜん)とするほどだった。
裂け目の外は雑木林のような地形になっているらしく、岩壁と木々が入り混じった荒地が広がる。施設から遠く離れた裏山かもしれない。人の立ち入りがほとんどない場所なのか、苔(こけ)と落ち葉が積み重なり、獣道のような細い小径(こみち)が見えるだけだ。
「見て、あっち……遠くに街が……」
凛花が指差す先には、微かに建物のようなものが見えるが、都市部ではなく郊外の風景のようにも思える。煙が立ち込める様子もなく、燃え盛る施設のすぐ裏とは思えない穏やかな景色だ。施設が地下深くまで広がっていたのだと改めて痛感する。
「……救急車や医療設備、どこかに連絡しないと……アルマを助けられない……」
理久がハッと我に返る。ここで倒れては意味がない。今は緊急的にアルマを保護してくれる場所を探さなければいけない。通信機器は壊れ、施設から支給されていた端末もほぼ使えない。だが、街に出れば公衆の回線か何かがあるかもしれない。
「早く町まで下山しましょう。このままじゃアルマが……」
凛花が腕をまくり上げ、疲労に耐えながらも足を踏み出す。若いスタッフも同調するように顔を上げ、「そ、そうですね……なんとか頑張って運びます」とカートを押し直す。だが、地面は不安定で、台車の車輪が落ち葉や岩に引っかかってうまく進まない。
「仕方ない、やれるところまでやろう。俺が抱えて歩くか……」
理久はアルマを再び抱きしめる形で持ち上げる。彼女の体は思ったより重く感じるが、悲鳴を上げる筋肉を叱咤(しった)しながら、一歩ずつ足を動かす。凛花も荷物や工具を抱え、スタッフが後方から台車をなんとか転がしていく。
やがて、林を抜けるように斜面を下るうち、ぽつぽつと人家のような建物が見え始めた。あまり大きな町ではなく、農村や山間部の集落のようだ。けれど、たとえ小さな村だとしても、人がいれば連絡手段があるだろう。
「アルマ、あと少し……がんばれ……」
理久が呼びかけても、アルマからの反応はない。まるで抱き人形のように、彼女の身体は微動だにしない。人工皮膚から伝わる体温が徐々に下がっているような気がして、理久は焦りを抑えきれない。
(外へ出たとはいえ、ここからさらに医療機関を探して搬送しなきゃならない……アルマを修復できる専門家なんているのか?)
不安ばかりが募るが、一歩ずつ進むしかない。ようやく舗装路らしき場所が見えてきたとき、うっすらと朝焼けのような淡いオレンジ色が空を染め始めていた。辺りを見回すと、けもの道に近い細い車道が繋がっているらしく、人気(ひとけ)こそないが、どこかへ続く気配がある。
「おおい……誰かいないか……!」
理久が声を張り上げてみるが、返事はない。まだ時間が早いのか、あるいはそもそも人家が少ない場所なのかもしれない。凛花とスタッフは息を切らしながらも、「一軒でも家を探そう」と声をかけ合う。
森を抜けると小さな集落が見え始める。ポツンと立つ古い建物や簡素な神社のようなもの。田畑が広がっているが、誰も作業している様子がない。もしかすると山の反対側が大きな集落なのかもしれない。
「そっちの道を行こう。きっと集落の中心があるはずだ……!」
凛花が指し示す先にある砂利道を辿る。一同は疲労困憊(こんぱい)ながらも気力を振り絞って歩を進める。崩れかけのバス停のような建物が見えたり、古い木製の電柱が立っていたりするのを確認すると、近代のインフラが通っていないわけではなさそうだ。ほのかな安堵(あんど)が胸に広がりつつある。
「くそ……あと少し、あと少しでアルマを救えるかもしれない……」
理久はそう言い聞かせ、抱く腕の中のアルマに目を落とす。返事はない。表情も変わらない。ただ、肩を上下させる呼吸だけが、一縷(いちる)の生存を示している。
そのとき、遠くからエンジン音が聞こえた。車だろうか。山あいの道を走るバイクか軽トラックか、とにかく人がいる――そう思うと同時に、凛花が「こっちだ!」と声を張り上げる。
やがて視界の先に古めかしい小型トラックが一台、林道のようなところから顔を出した。田舎の軽トラに違いない。運転席には中年男性が乗っており、彼もこちらに気づいて驚いたようにブレーキを踏んだ。
「すみません……! 助けてください……!」
若いスタッフが必死に手を振り、理久もアルマを見せるように背中を向けながら「救急車を呼んでくれ!」と叫ぶ。男性は困惑した表情を浮かべつつも車を寄せ、「ど、どうしたんだい!? 大丈夫か!?」と声をかけてくる。
「怪我人がいるんです……というか、あの、ロボットなんですが……! 医療用か技術者か、誰でもいい、早く見てくれる人を……」
理久が混乱しながら説明すると、男性はますます目を丸くして「ろ、ロボット……?」と呟く。しかし、すぐに理久たちの切迫した様子を察したのか、「まあとにかく乗れ! 病院までは遠いが、村の役場に行けば通信が使えるかもしれん」と申し出てくれた。
「ありがとうございます……助かります……!」
こうして理久は凛花やスタッフとともに軽トラの荷台にアルマを乗せ、男性の運転で小さな村の中心地を目指すこととなる。ガタガタと揺れる道を走る間、アルマの体はさらに冷えていくかのようで、理久はずっと抱きしめたまま「しっかりしろ……」と繰り返す。
数分ほど車に揺られると、簡素な村役場の建物が見えてきた。時刻は朝方か夕方か、空の色は曖昧だが、少なくとも人影があるようで数名がこちらを不審そうに見ている。
「おいおい、どうしたんだ、こんな朝っぱらから……その子、どこかで事故でもあったのか?」
役場の職員らしき中年男性が駆け寄り、理久たちは激しい息を整えながら「救急車を……早く連絡を……!」と懇願する。ここに通信回線があるのなら、必ず呼べるはずだ。田舎とはいえ緊急車両が来るまで時間がかかるだろうが、何もしないよりは遥かにマシだ。
職員は慌てて建物へ戻り、電話を取ろうとする。凛花もついていき、「普通の医療ではなく、アコアの修理が必要なんです! 工学関係の施設か、専門家に繋げますか?」と声を上げるが、相手は戸惑うだけのようだ。
それでも、彼らにとっては人間だろうがロボットだろうが、ひとまず救急車の要請をするしかない。地元の消防隊や警察にも連絡が回るかもしれないが、背に腹は代えられない。
「理久さん、大丈夫……アルマ、どんどん息が弱く……」
若いスタッフが泣きそうな声を上げる。理久は車の荷台でアルマを抱きしめ、「もう少しだ、持ちこたえてくれ……!」と祈るように呟(つぶや)いた。
この小さな村に高度なAIメンテを期待するのは酷(こく)かもしれないが、外へ出ることさえできなかった施設内よりは遥かに希望がある。あの施設が火災や爆発で崩壊していくなか、アルマたちは――少なくとも理久たちは――“自由”を勝ち取ったのだ。
問題は、ここから先の世界がどう動くか。遺伝子コーディネートされた凛花や、“正式所有”ができないアルマなど、法の縛りが山ほどある。ましてや軍事的な背景を持つアルマを世間に晒(さら)すことが、どんな混乱を招くか分からない。槙村 真人(まきむら・まこと)や勝峰(かつみね)岳志たちはどうなったのか。施設に残った仲間たちは無事か――疑問は尽きない。
しかし、それでも理久の腕の中にはアルマが確かに存在し、“まだ”生きている。ボロボロになりながらも、最後のハッキングで警備ロボの攻撃を防いでくれた。彼女を救い出せば、その“意志”はきっと失われずに済むはずだ。
「アルマ……聞こえるか……? 今、救急車を呼んでもらってる……! お前はもう、ひとりじゃない……!」
風に乗って遠くからサイレンのような音が微かに響き始めた。果たしてそれが本物の救急車の音かどうか分からないが、すでに日は昇りつつある。散らばった雲の隙間から朝陽が差し込み、村の風景を淡く染めていた。
「やっと……世界に戻ってきたんだ……」
理久は静かに目を閉じ、アルマを抱きしめて何度も呼びかける。彼女の瞳は閉ざされたまま開かないが、その胸には微かな振動が残っていた。もしかすると、脳――いや、コアユニットの中で最終調整を続けながら再び“起動”できる準備をしているのかもしれない。そう信じたかった。
凛花が側に来て、震える手でアルマの人工皮膚を撫でる。コーディネートである自分が望んでも持てなかったアコア。それを、いま懸命に守り抜こうとしている。あまりにもアイロニカルだが、その目には確かな愛情とも言える感情が浮かんでいた。
「この子が生きてくれたら……私、今度こそ所有したいわけじゃない。普通の人みたいに、ただ一緒に暮らしてみたい……」
凛花の苦笑まじりの言葉に、理久はそっと頷(うなず)く。アルマを“もの”として所有するのではなく、“誰か”として傍に置く――そんな当たり前の関係を認めない世界の歪(ゆが)み。その歪みと、彼女たちはこれからどんなふうに戦っていくのだろう。
村人たちが少しずつ集まり、「なんだなんだ」と覗(のぞ)き込む。役場の職員が「救急車、連絡したからな!」と叫ぶ。理久はそれに力なく微笑み、「ありがとう……」と返す。
(きっと、ここからが本当の試練なのかもしれない。アルマを修復するにしても、軍や政府が動けば騒ぎになる。凛花や勝峰さん、槙村……あの施設の行方だって。だけど、とりあえずアルマが“生き延びる”ことが先決だ)
理久はそう思い定め、アルマの耳元で低く囁(ささや)いた。
「大丈夫だ……お前はもう、死なせない。絶対に」
遠くでサイレンが近づいてきて、村の空をかすかに震わせる。弱い朝陽が輝き始める中で、理久たちは小さな安堵(あんど)と、これから訪れるであろう新たな困難を予感していた。だが、ひとまず――恐怖に満ちた地下施設からは抜け出したのだ。
アコア・アルマが抱いていた“前のマスター”との思い出は、いま理久たちの手で繋がれ、かろうじて息を保っている。この先、法や社会がどう動こうと、少なくとも彼女は“ひとり”ではない。そう信じながら、理久はじっとアルマの顔を見つめる。彼女の瞳が、いつか再び開くそのときを夢見て――。
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