閑話
蝙蝠女の肖像~如何にして彼女は悪魔に心酔したのか~
エリーゼ=ローズレイドは、王国でも高名な音楽家夫婦の間に生まれた。
父は超一流のバイオリニスト。母は国民的人気を誇る歌手。
二人の間に生まれた娘は、まさに音楽家のサラブレッド。さぞ才能に溢れた娘に違いないと、両親は期待していたことだろう。
しかし――
「エリーゼ。私たちの天使」
「さあ、その可愛い声を聞かせておくれ」
『ア、ヴ。……■■■■』
赤子のエリーゼが発したのは、聞くに堪えないダミ声だった。
少女どころか人のものとは思えない、獣の唸りじみた酷い声音だ。
両親は大層驚き、恐れ、混乱したことだろう。腕のある《才神官》にも診せたようだが、病気や疾患の類ではないと診断された。先天的かつ前例のない障害で、つまり治療で改善される見込みがない欠陥品。
口を開けば耳障りな雑音ばかりの娘を、両親は到底我が子として受け入れられなかった。この子の存在を世間に知られれば、とんだ笑い物だ。
さりとて、殺してなかったことにできるほど、非情にもなり切れず。
中途半端とも言える、良心と自尊心と愛情と保身の葛藤。
その末に両親が選んだのは、エリーゼを地下室に幽閉して育てることだった。
衣食の不自由こそないが、扉は幾重にも施錠され、外から断絶された部屋。
外の世界を目にすることなく、エリーゼはそこで成長した。
しかし、彼女に不満はない。外に出る必要を感じなかったのだ。
九歳になった、ある日。様子を見に来た父に、エリーゼは言った。
『ねえ、御父様? 御母様でない女性どの睦み合いば楽じがっだ?』
『――!? なぜ、そんなことを? 外のことなど、お前にわかるはずもないのに』
『だっでぇ、見えなくでも聞ごえるんだもの』
エリーゼは地下室に幽閉されたまま、両親の秘密を知り尽くしていた。
エリーゼのような娘が生まれたことに対し、相手の不義を疑い合って冷え切った夫婦関係。やがて実際に不義を働き、互いに別の異性と関係を持ったこと。果ては悪徳商人や悪徳貴族と結託した不正・悪事の数々まで。
それらをエリーゼが知り得た理由は二つ。一つは、屋敷の特殊な構造だ。
『自分たちの演奏が美しく響き渡る家を』という音楽家夫婦の要望。それに応えて建築された屋敷は、音が伝わりやすい構造になっていたのだ。それこそ、地下にまで会話や物音が届くほどに。
無論、普通の人間であれば、それだけで屋敷の様子を微細まで把握することなど不可能だ。そこで、もう一つの理由に行き着く。
エリーゼは声音が破綻している一方で、非常に優れた……人間離れしたレベルの聴覚と音感を生まれ持っていたのだ。
地上から僅かに伝わる音を余さず聞き取り、その一つ一つを正確に聞き分ける。
あるいは口を閉ざしたまま、楽器の演奏でも仕込めば、優れた演奏家に育ったかも知れない。しかし声を聞くのも耐え難いと娘を拒絶した両親に、もうそんな選択の余地はなかった。
『ねえ、御父様? 私のお願い、聞いでぐれるわよね?』
エリーゼは地下に幽閉されたまま、両親を支配した。幽閉されているとは思えない、豪華で贅沢な暮らしを楽しんだ。
両親はエリーゼに逆らえない。彼女を殺すこともできなかった。
秘密を握られた今、エリーゼを害することは、「後ろめたい秘密を握られた」と自白するに等しい。無論、どちらも薄々気づいてはいる。しかし「完璧で理想的な夫婦」として世間から脚光を浴びる二人は、その虚構が壊れることをなにより恐れていた。
栄光。名声。面子。世間体。……そんな嘘っぱちの輝きを守りたいがために、夫婦は娘の奴隷と成り下がった。
『ああ、馬鹿馬鹿じい。みーんな、馬鹿ばっがりね』
人間なんて、どいつもこいつも嘘つきだ。
上辺だけ綺麗な顔を装って、腹の底は醜悪で薄汚い。
そして善人ぶった仮面の下を暴いてしまえば、簡単に支配できるのだ。
――エリーゼは確かに特別な才を持っていた。しかしそれに傲ってもいた。
有り体に言えば、『井の中の蛙』というヤツだ。地下室で育った彼女は屋敷よりも外、世界の広さを知らない。世の中など、部屋にこもったままで操れる、ちっぽけな箱庭だと信じ切っていた。
しかし十一歳の頃。エリーゼの箱庭は崩れ去った。
地下室の天井が、両親のいる屋敷ごと吹き飛んでしまったのだ。
原因は、都市も更地に変える力を持った《ストームグリフォン》の襲来。
そして……そのグリフォンを単身でくびり殺した、悪魔だった。
『お? なにしてるんだ? そんな狭苦しくてつまらなそうな場所で』
『あ、あ、あ』
支配者気取りの自信など消し飛び、エリーゼは心底震え上がった。
初めて見る空。想像より遙かに広い外の世界。死体でも恐ろしい魔物。
なによりこの、人の皮を被った悪魔が怖い!
『なんなの、あなだ? 人間じゃ、ないの?』
『――へえ? わかるのか。目……いや、耳だな? 俺の体が発する、普通の人間にはありえない異音を聞き取ったな? この、改造された肉体の音を聞き分けたんだな? いいねえ。お前、おもしろいぞ』
秘密を暴いたはずなのに、悪魔は動じるどころか興味深そうに笑う。
秘密を握れば意のままに相手を支配できる、というエリーゼの持論は崩れた。
だって、この悪魔は最初からなにも隠してなどいない。
血の流れがおかしい。肉と骨の軋みがおかしい。臓腑の蠢きがおかしい。
全ての音が、なにもかもおかしい!
父とも母とも、他の人間とも明らかに異なる音。
異常。異形。それをなんら偽ることなく、いっそ得意満面でさえあった。
逆にエリーゼの特異性を見透かし、恐れるどころか玩具を見つけたとばかりに、悪魔は笑う。
『お前は今日から俺の物だ。その耳も声も体も全部、俺が楽しむために使う』
それは命令でさえない、逃れようがない悪魔の決定。
――このときエリーゼは、自分が本当は如何にちっぽけな存在かを思い知った。
両親も亡くなったであろう今、支配者ごっこは終わり。自分に食事を運ぶ者も、もういない。こんな恐ろしく広い外の世界で、今更一人で生きてはいけない。
自分には、新しい所有者、庇護者、支配者が必要なのだと。
『びゃ、びゃい!。ご主人様……っ』
『え。いや、ご主人様呼びは別にいらないんですけど』
こうして支配する両親を失った少女は、支配される悦びを知ったのだった。
☆☆☆
――そして現在。
エリーゼ=ローズレイは、己が支配者より新たな名を授かった。
《悪夢参謀》メフィスト。蝙蝠の怪騎士《ヴァンプナイト》。
人体を改造する御業により、両親に疎まれた喉は魔性の美声を奏でるようになった。
男を惑わすだけでなく、戦闘員を使役し、支配する素晴らしい力だ。
主によれば、エリーゼの喉は元々欠陥品ではなく、常人にはない特異な造りになっていたそうだ。改造はあくまで、秘められた才能を引き出すためのものだと。
主の改造技術を知った者は、生命を冒涜する悪魔の所業だと言う。
しかしエリーゼのような、欠陥品だと蔑まれる者にも、主は価値を見出し真価を引き出してくれる。自分たちには彼こそが偉大な主、救いの神なのだ。
「満足したかー?」
「は、はひ。ありがとうございまひゅ……」
偉大なる主の忠実な下僕として働き、今宵も『ご褒美』として存分にこの肢体を貪って頂いた。主に奉仕し、貪られ、偉大な存在に支配されている実感。
未だ外の世界の広さが恐ろしいエリーゼは、そうやって安心感を得ているのだ。
だから行為を終えた後、主――ギルダークから興味をなくしたように放置されても、彼女に不満はない。所有物は、所持されているだけで幸福なのだ。
読書に耽る主の背に、エリーゼはふと気になったことを尋ねる。
「また、魔法の勉強ですか? 主には無用の物だと思いますが……」
「いやいや。《怪騎士》の研究に時間を注いだ分、魔法に関しては無知なくらいさ。だから学ぶことも多いし、学ぶのは楽しい。知識が増えれば、悪だくみも幅が広がるってもんさ。教え上手の『先生』がいるのも助かってる」
……その『先生』が、あの育ちだけは良い蜘蛛女だというのは面白くないが。
魔法も、世界も、なにもかも。全てを貪り支配せんとする、偉大なる主の前では些事だ。自分はただ平伏し、服従し、奉仕するのみ。
それが、エリーゼには心地好かった。
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