第18話

「らっしゃい!」

 大声があがった。

「おう。増田か」

 みねちゃんが言った。

 なかに入り、後ろを振り返った。

 小晴が入ってきて引戸を閉めた。

 みねちゃんが表情を崩した。

「珍しいな。増田が女連れなんて初めてだな」

 もちろん間違っている。何度か連れてきたことがあるし、慶子は三度連れてきて「彼女です」と紹介もしていた。飲み屋の人たちは誰を連れていっても必ず「女連れなんて初めてだな」と言う。他のカップルにもそう言っているのを見て私は理解していた。

 小晴と並んでカウンターに座ると、熱いおしぼりをふたつ投げてきた。あまりに熱いので小晴が驚いている。

「なに飲む」

 みねちゃんが聞いた。

「焼酎の番茶割りを。二人とも」

 私が頼むとすぐに用意してくれた。

「こいつ、ススキノの〈ジャックスバー〉で働いてます。小晴っていいます」

 私が言うと小晴がみねちゃんに頭を下げた。

「おう。そうか。俺も一回行ったことがあるぞ。五年くらい前な」

「彼女は二年前からなんで会ってないと思います」

 みねちゃんももちろん私と慶子が別れたことは知っているだろう。しかし噂は知っていても余計なことはいっさい言わなかった。それがみねちゃんのあらゆることに対するスタンスなのだ。

 サーバーで中ジョッキに生ビールをぎ、それを私たちのグラスに合わせて飲みはじめた。竜澤がまだ札幌にいるころ「みねちゃんややまうちさんはいいよな。生ビールがただで飲めるんだから」と私が言うと、「そんなわけないよ。買ったビールをなかに入れてるんだから。相変わらず抜けてるな」と笑われた。頭いいなと思ったがたしかに私が抜けているのかもしれない。まわりからは「二人とも抜けていて、二人でようやく一人前に見える」と言われていた。

「このあいだ吉田たちが来て『増田さんはちっとも道場に来てくれない』って文句言ってたぞ」

「今日、いま行ってきましたよ」

「なんだ、おい。道場の帰りか」

「はい。追いコン試合以来です。ほんとに久しぶりに」

「もっと行ってやれよ」

「いや、仕事が忙しいんで」

 みねちゃんが大笑いした。

「なに言ってんだ、おまえ。ここには来るじゃないか」

 そのとおりである。

 ここ、そして上のバップにはときどき来る。秋馬さんや制作のを連れてきたことは三度ほどあるし、社会部の先輩女子や道庁の記者を連れてきたこともある。そういえば萬田さんも連れてきた。

「今年はいけるんじゃないか」

 みねちゃんが空になったジョッキに生ビールを注ぎながら振り返った。七帝戦のことだとすぐにわかった。みねちゃんは今では正式なレスリングコーチなので道場にも顔を出している。

「いや。でもわからんですよ。京大だって弱くなったわけじゃないし、西岡、ゴトマツ、のぶの三枚看板が抜けたのは大きいでしょう」

「吉田が伸びてる。中井と松浦も伸びてる。も伸びてる。がわも伸びてる。みんな伸びてる。小さいけど粒ぞろいだ」

「でも西、ゴトマツ、暢の穴は、そうとうにでかいですよ」

「まだ十カ月もあるんだ。今年のチームは練習練習で伸びてるチームだ。この十カ月は大きいんだ」

 みねちゃんは興奮したように生ビールをまた空けてしまった。そして今度はコップを手にし、カウンターの上の焼酎の一升瓶から一杯に注ぎ、それに口をつけた。

 そして大皿に盛った巨大なホッケと、名物のつくねを出してくれた。

「すいません。私、あつかんつけてもらえますか」

 小晴が言った。

「おい。本格的に飲みはじめたか。よし。増田の彼女だ。一番いい酒をつけてやる。二合徳利でな」

 みねちゃんがご機嫌で言った。

 そして冷蔵庫から豚やら鶏やらを出して串に刺し始めた。

 今日は七割の入りだ。他の客の注文も多いが、ずっと私と小晴の話し相手をしていてくれる。しばらくすると二合徳利を出し、小晴にぐい飲みを渡して注いでくれた。

「増田を幸せにしてやってくれよ。頼むぞ」

 言ってからワハハハハと大声で笑った。

 二時間ほど飲んでから二階のバップへ移った。

「おう。エキ」

 マスターは指先に短くなったロングピースをつまみ、音楽に合わせ小さく体を揺すっていた。マイルス・デイヴィスである。私はこの店でジャズを少し覚え、宮澤まもるからロック、慶子や小晴からポップスの影響を受けた。といってもほんの少しだ。説明を受けたわけではなく何となく耳に入ってくるカセットやCDの題名をちらりとのぞいたのが積もってきた程度で、自分でCDを購入して聴こうとは思わない。

「珍しいね、おまえが女連れてくるとは」

 マスターがにやつきながら言ってコップをふたつ差し出した。みねちゃんと同じく水商売のそんたくである。八脚あるカウンターの半分ほどが埋まり、店内全体に煙草がけぶっていた。

 私と小晴は並んで座り、入れてある焼酎のボトルを受け取って番茶割りを作った。私がハイライトに火をつけると、小晴もセブンスターを出した。みねちゃんでは私はあまり煙草を吸わない。コーチをやってもらっているということもあると思う。

 他の客たちがちらちらと小晴を見ている。ヨット部や陸上部のOB。応援団もいた。

「小晴っていいます。ススキノのショットバーで働いてます」

 私が紹介すると「どこの店」とか聞いて、それが話題になっていく。

「いつ閉めるんですか」

 私が聞くと「再来週の火曜日だ」とマスターが言った。

 マスターはこの店をやめ、しばらくインドを放浪するという。

「帰ってくるのは?」

「わからないね。うん。百年か二百年。もしかしたら太陽系の一生」

 言って、新しいロングピースに火をつけた。そして、曲がちょうど終わったCDプレーヤーを振り返り、マイルスを抜いて別のCDを入れた。ほこりと料理の油にまみれたプレーヤーのまわりにびっしり積んであったCDがほとんど無くなっているのは整理を始めているからに違いない。よく見ると、棚の焼酎ボトルの数も減っている。幽霊客のものから処分しているのだろう。

 私はいつも小晴に「バップのバンバンジーい」と話しているのでそれを注文し、二人で食べて辞した。酔って18条駅から地下鉄に乗り、座席に座った二人は初めて手を繫いだ。私は女性と手を繫いだり腕を組んだりするのが苦手なのでいつも嫌がっていたが、今日それをしたのは、やはり小晴に対して罪悪感を持っているからだろう。

 私はひとりで内地へ行こうとしていた。

 マンションに帰ると、順番にシャワーを浴び、ベッドに潜り込んで一緒に映画を観た。途中で疲れて二人とも眠ってしまった。小晴はいまでは九割方を私のところで過ごしており、自分のマンションに行くのは週に一度、着替えを取りにいくときくらいであった。



 このところ会社帰りに飲みに誘われても断ることが増えた私に、秋馬さんも多々良も不満そうであった。転職を決心したことを私は誰にも言わなかった。この二人にも黙って家に戻ると入社試験の勉強をしていた。ひとつは時事問題。ひとつは小論文である。時事については整理の仕事に打ち込んでいるから現在のことは問題ないが、市内の古書店を回ってマスコミ受験者の定番『新聞ダイジェスト』のバックナンバーを十年分そろえ、徹底的に家でまとめなおしていた。時系列を年表にまとめ、重要語句を覚えていく。そして時事英語。これらはしっかりやっておけば問題ない。むしろ小論文が重荷であった。

 文章を書くのは得意である。しかしマスコミの小論文は大学受験のものに似て、先進的で鋭角的なものではなく、定型的であっても適温でまとめたものに点数が与えられる。そしてとにかく制限時間が短い。これは時計を見ながら何度か書いてみてわかっていた。北海タイムス入社時に一人だけで受けさせてもらった追加入社試験でも時間が足りなくなり、試験官と一対一の試験であるのをいいことに、彼をいいくるめて延長してもらったのである。そういえば北大入試で共通一次後に水産系と文1系と文3系で迷って、文3を最初に切ったのは二次に小論文があったからである。水ものすぎて二浪では避けるべきだと思ったのだ。

 毎日、深夜に帰ってくると、私は時間制限をもうけて三本の小論文を書く練習を続けた。2Bの鉛筆で書き、消しゴムで訂正しながらスピードをつけて書いていく。脇のベッドでは小晴がいつも文庫本を読みながらそれを見ていた。

 私にはもうひとつやらなければならないことがあった。『北大柔道』のゲラ校正である。前年のものが間違いだらけだったので私が「やる」と買って出ていたのだ。この忙しいときに引き受けるべきではなかったと思ったが、引き受けたときは他社の受験を決めていなかったのだから仕方ない。

 今回作っている『北大柔道』は西岡主将の代の引退号である。

 毎年学生たちの寄稿には現役時代からどれも感じるものがあったが、今回もっとも強く感銘を受けたのはおおもりいちろうのものであった。期としては私の一期下、西岡の一期上、城戸主将の代である。《涙を知らないと言ったお前は》という題名のついたその文章は、フィジカルにすぐれない大森が入部してから引退までやりきったことの苦しみと向き合っていた。


《 理学部地質鉱物学科五年目

            大森一郎

 最後の最後まで部誌は書かないつもりだった。卒論で忙しくて部誌を書く暇がないなどというのは言い訳で、確かに卒論は提出しなければ卒業できないという〝重荷〟ではあるけれど、精神的、肉体的にも部誌を書くという作業の方がずっと重かったからにすぎない。何度も催促に来てくれた二年生に大変申し訳なく思っている。

 今日、昼食時に中央食堂で二年目の後輩に会った。久しぶりに会ったからと言うこともあるのかも知れないが、やけに大きく見え、俺はかなり緊張した。

 同期の連中とは以前と変わらずに普通に会える。そして同期ほどではないけれど、一つ下のやつともまあ話せる。でも今日は緊張した。それは単に学年が離れているからではなく、あいつが現役だからだと思う。昔、俺がいてそして逃げ出したその場所にあいつが今いて、戦っていて、恐らく苦しんでいることに対する思い。

 苦しむと書いた。俺はその場所で苦しんだ。楽しいこともいっぱいあったし、嫌で嫌でしょうがなかったわけではない。その場所に初めていったときに思ったこと、強くなりたいという気持ちは最後までもっていた。

 でもきついのはやっぱりきつい。苦しくてたまらんかった。俺は、ちっとも苦しくないよなんて言うやつがいたら、そいつはうそつきだと思う。

 俺の苦しみとは質も量も違うのだろうが(本質は同じだと思いたい)あのおかいさおだって苦しんだのだから。うん、わかった。俺にはどういう苦しみか良くわからんが、お前が自分は苦しんだと思っていることはわかったよ。でも何でそんな苦しいことをやっていたのか、苦しいことをやって何が楽しいの。それは、強くなりたかったからだ。強くなるためなのだから、苦しくたって苦しくない。強くなりたいと思わない奴はいない。

 人それぞれ求めるものが違うのだから、強いという言葉の意味は広くとってもらおう。

 今の俺には現役の連中に対してできることは何もない。教える技もないし、道場に行くことはまだつらい。失礼を承知で書くが、何がありがたいかって、道場に来てくれる先輩が一番。ぐっと下がって、いっぱい寄付をしてくれる先輩。だから俺はたくさん寄付をしよう。とは言っても金を稼ぐようになるのはずっとずっと先のはなし。

 諸先輩方には大変感謝している。どうもありがとうございました。言葉で伝えられる思いではないけれど。

 そして逃げ出した俺を許容してくれた後輩たちにも感謝したい。お前らの前でまだ胸をはれないけれど、もうすぐ、いつか道場へ行こう。

 北大に大学が決まったころちょっとした年上の知り合いが俺にこう言った。体育会には入らないほうがいいよ。他に何にもできないからね。

 確かに何にもできなかったけれど、俺は北大で柔道やったよ》


 しかしこれを読んだ私は大森一郎に申し訳ないという気持ちが先に立ってしまった。彼を柔道部に引っ張り込んだのは私と竜澤だったのだ。

「四年間やれば絶対に強くなる」

 そう言って、半ば強引に入部させた。

 しかし彼は想像以上に同期や後輩たちに実力で水をあけられていく。練習しているだけで苦しくて仕方がないメニューである。しかしその実力差がさらに精神を追い込む悪循環になる。

 私は最後の七帝戦に後悔を残していた。

 最後に最下位を脱出できたことはチームとしてはうれしかった。しかし、自分はあのとき全力を出しきれたのかということだ。

 対とうほく大学、輿こしみずとの戦いである。副将同士、四年目同士であった。そこまでタイ。北大大将には三年目の大森一郎、東北大大将にも三年のよしのり。しかし大森一郎は置き大将、小野義典は実力者であった。置き大将とは十五名のメンバーのなかでもっとも弱い者を大将に置くことである。つまり、私が輿水と分け、大将決戦になった時点で、北大陣営は敗戦を確信していた。しかし大森一郎の驚異の粘りによって首の皮一枚で繫がり、あずまえいろうと城戸勉が代表戦に出てくれたことによってちゆうせん勝ちにまで持ち込めたのだ。いわば後輩たちによる勝利であった。

 私も全力を尽くせれば後悔はなかったと思う。しかし前年、三年目のときにとうだいおおざわと当たり、組際に突っ込んでいってカウンターの大外刈りで一本負けしてしまったのだ。

「抜いてこい。去年のようなことだけは気をつけろ」

 輿水との試合の前に岩井監督に言われ、必要以上に用心深い試合をしてしまった。試合時間に闘志をすべてぶつけることができなかった。攻撃精神を爆発させることができなかった。すべてを出し尽くすことができれば後悔はなかった。それができなかったのだ。そして大森一郎にまわして大変な負担をかけてしまった。

 大森はここに本心を書いた。

『北大柔道』のゲラを読みながら、私の胸は痛んだ。



 朝刊勤務の日は、会社に行く前にいくつかの新聞社に電話した。夕刊勤務の日は休憩時間に、メモ帳を片手に公衆電話から電話した。みな入社試験を終えており、朝日、讀賣、毎日、につけいも終わっていた。ときどき予想以上に入社辞退が出た社が追加試験をやっていたが、それもみな「終わりました」と言われた。

「そこを何とか会ってくれませんか」

 頼んでも無理だった。

 そもそもが相当に高い倍率の試験なのである。追加でやってくれるほど甘くない。

「来週、筆記試験だ。受けにいらっしゃい。十六日だ」

 そう言ったのはりゆうきゆう新報社の人事部長だった。

 壁に掛けてあるカレンダーを見て、机の上にある整理部の勤務表を手にした。

 筆記試験は午前中に行われるという。おそらく早朝第一便で行っても札幌からでは試験に間に合わないだろう。前日に行って泊まって試験を受け、その日の夜の便で札幌に戻るしかない。あるいはもう一泊して早朝の便で沖縄を出、夕刻からの朝刊整理の仕事に入るか。どちらにしても勤務の調整が必要だ。

 月の休みが四日しかない北海タイムスで二連休を取れば、残りの二十九日間で二回しか休みはなくなるが、いつものことだ。仕方ない。メモ帳代わりの原稿用紙にサインペンでメモし、ベッドを振り返った。小晴が眼に涙をたたえていた。

 勤務日をきゆうきよ代わってもらい、試験前日のチケットを予約した。しかし小晴にしんとせ空港まで見送りにきてもらいながら、飛行機がなかなか飛ばなかった。沖縄が台風に飲み込まれていた。

 二人とも夜勤ばかりの職場である。眠気をこらえて朝から空港に来ていた。

 ベンチで交代で眠り、次の便、次の便と、待ち続けた。途中で売店のサンドイッチを買って食べたり、週刊誌や文庫本を買ったりした。しかし最終便まで待ったが沖縄行きは飛ばなかった。がっかりしてマンションに戻った。

「もう今年の受験シーズンは終わりだ。来年にかけよう」と思っていながら、最後にダメ元でちゆうにち新聞社に電話した。するとここが少し前のめりになってくれた。

「経験者か。そうか。受けにこいよ。なんとか受けられるようにはずしてやるよ」

 人事部次長にそう言われた。

 私がダメ元だと思ったのは、中日新聞が全国紙に次ぐ巨大新聞社だからだ。いや、次ぐというより匹敵すると表現したほうがいい。題号を変えて出している『東京新聞』や『ほくりく中日新聞』などを含めると、いまや毎日新聞社を超える部数をもつ日本三位の新聞社なのだ。讀賣、朝日、中日の順で、海外の新聞社はあまり部数が多くないこともあり、世界的にも有名なメガ新聞社である。

 日本の新聞社は大きく分けて「全国紙」「ブロック紙」「地方紙(県紙)」の三つである。さらに県紙より小さな新聞社も多くあり、たとえば北海道でいえば、かち毎日、とままい民報、むろらん民報、くし新聞、はこだて新聞などがある。そして業界ごとにある「業界紙」。これらをすべて含めると一千社以上あると言われている。


▼全国紙

・讀賣新聞

・朝日新聞

・毎日新聞

さんけい新聞

▼ブロック紙

・中日新聞

・北海道新聞

西にしにつぽん新聞

▼地方紙(県紙)

・秋田魁新報

きたにつぽん新聞

・岐阜新聞

しな毎日新聞

・熊本日日新聞

・大分合同新聞

 など。


 全国紙に産経新聞を含めるのは「関西圏以外が薄すぎる」「部数が二百万部もない」という二つの理由で異論もある。また日本経済新聞は一種の専門紙であるが部数が二百七十万部を超え販売域も全国に拡がっているので全国紙に入れるべきとの声もある。

 ブロック紙は県境をこえて部数が圧倒的な新聞社である。このうち道新は北海道内だけが販売域だが部数が百二十万部を超えている。宮城県を中心としたほく新報や広島県域で大きな影響力をもつ中国新聞、そして神戸新聞などもブロック紙に含めることがときどきあるが、基本的には中日・道新・西日本の三紙がブロック紙と呼ばれる。この三社は「三社連合」という友好社として、互いに記事のやりとりや補完をしたり、連載小説を三社合同でやったり、将棋や囲碁のタイトル戦の主催をしたりして、全国紙に対抗している。

 日本だけの特徴として県紙の強さもある。どの県にも堅固な地元経済界の擁護を受ける二十万部前後の新聞社が君臨し、全国紙の侵食を迎撃している。これら地方紙が力を持つのは戦争に原因がある。戦中、それまで小さな地方紙が県内に割拠していたのを、国が情報統制をしやすくするために強制的に経営統合をさせたのである。それが戦後も残り、経営基盤が安定した県紙が全国各地に存在しているのだ。

 今回、私が受験する中日新聞社は、前述のように圏を中心としたブロック紙でありながら、毎日新聞社や日本経済新聞社、産経新聞社より部数の多い怪物新聞社である。中日ドラゴンズの親会社でもあり、ジャイアンツの親会社である讀賣とは犬猿の仲だ。

 名古屋本社で発行する「中日新聞」だけで二百七十五万部を超え、東京圏で出す「東京新聞」、金沢で出す「北陸中日新聞」、名古屋本社で出すスポーツ紙「中日スポーツ」や東京本社で出す「東京中日スポーツ(トーチュウ)」を含めると四百五十万部になんなんとしている。日刊スポーツは朝日系列であり、スポニチは毎日系列、報知は讀賣系列だが、中日スポーツは中日新聞社内の部署のひとつである。また東海テレビなど地元テレビ局の多くが中日新聞の影響下にある。

 かつて一九七四年、名古屋進出を果たした讀賣新聞との一九七〇年代から一九八〇年代にかけての激突は〝名古屋戦争〟とも呼ばれ、讀賣の販売の神様・たいみつと中日の販売の神様・とういちろうが率いての全面戦争に発展した。

 私も小学生時代にしきりに流れたテレビCMを覚えているが、讀賣はじつに月極五百円という破格の価格で乗り込んだのだ。

 しかし一方の中日は讀賣を愛知県内の記者クラブから締め出したり、優秀な記者を次々と引き抜くなどして対抗。最終的には中日の一方的な勝利に終わった。朝日新聞社も名古屋圏内では数十万部から部数を増やせず大苦戦しており「東京財界が名古屋財界に負けた」とも揶揄され、逆に中日新聞社の圧倒的な力を誇示することとなった。トヨタ自動車やそのグループ会社をはじめ製造業中心に財力を蓄える名古屋圏──愛知・岐阜・三重・静岡などは、こうしてアンタッチャブルな巨大財界として日本を陰で動かすひとつの勢力となっている。

 おそらく電話が一日ずれたら受けさせてもらえなかったのではないか。あるいはたまたま電話を取った人事部の人が大きな裁量権をもつ人だったのかもしれない。どちらにしても幸運だった。私が名古屋の出身で、高校まで名古屋で過ごしていたことも有利に働いたと思う。

 そこから勤務を代わってもらっては中日へ試験を受けにいった。そのさい、電話で父に「飛行機代がないから貸してくれ」と言ったら「その歳になって飛行機代すらないのか」と怒られた。しかし私は生まれて初めて父に激高した。

「金がないからって馬鹿にしないでくれ! 俺たちタイムスの人間は他の社の五倍も六倍も働いてるんだ! 他社以上に記者としてのプライドをもって働いてるんだ! 社の問題で収入が少ないからって馬鹿にされる筋合いはない! 困ってるから貸してくれるかどうか聞いてるんだ! どっちなんだ!」

 言っているうちに涙がこぼれてきた。

 電話の向こうで父は黙った。

 しばらくすると「いくら必要なんだ。振り込んでやる」と言った。

 一次試験のペーパーはうまくいった。一週間後、無事に通ったという電話があった。

 次に一次面接があった。これもそつなくこなした。二次面接も通って、最終面接に行った。

 じゆうたんの敷き詰められた部屋で、大きなテーブルを挟んで会長や社長、副社長、そのほかの重役、合わせて二十数名が向こうに並んでいる。「父親の県警での階級を教えてくれるかな」とか「サツまわりの経験はあるかね」とか「水産学に関しては少しは勉強したのかね。三重県の支局へ水産業に詳しい者をりたいんだが」とか、具体的なことを何人かに聞かれた。

 司会役の人事部次長が「では」と言ってストップウォッチを手にした。

「最後に自己アピールを二分間してください」

 唐突な指示に、私は詰まった。

 そしてテーブルに視線を下げ、しばらく考えた。十五秒ほどして顔を上げ、言った。

「男が人前で自分の長所をアピールするようになったらおしまいです。申し訳ありませんが、できません」

「ほう」といったような息がいくつか漏れた。何人かは上半身を起こし、何人かは眉間にしわを寄せている。私を睨みつけている重役もいた。

 これは落ちたかもしれないと思いながら札幌に戻った。

 しかし二日後、人事部から封書が来て合格したことが書かれていた。小晴が「おめでとう」と泣きながら言った。

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