第17話

第6章 久しぶりの北海道大学柔道場



 ベッドの縁に座り、煙草に火をつけた。

 前夜、客数人と飲みにいって早朝七時に帰ってきたはるは、まだ横で眠っていた。

 床を見ながら何服か吸い、空缶で揉み消した。あれもこれもさまざまなことがもう限界だった。

 折り畳み椅子の上に畳んであるジーンズの尻ポケットから財布を抜き、なかから折り畳んだ紙を出した。煙草をくわえなおして開いた。三日ほど前に一〇四で聞いた電話番号が記してある。

 せきばらいをし、受話器を手にしてかけた。

みなみにつぽん新聞社でございます」

「今年の正規採用試験についてお尋ねしたいのですが」

「お待ちください」

 イントネーションに特徴のある女性が答え、保留の音楽が鳴った。しばらくすると「人事です」と若い男性が出た。

 私は新聞社勤務二年目の者だと名乗り、今年の採用試験について聞いた。

「筆記試験が先週終わったばかりでしてね」

「そうですか……」

 礼を言って電話を切った。キッチンで水を飲むために立ち上がろうとするとTシャツのすそを引っ張られた。小晴が二日酔いの腫れぼったい眼でじっと見ていた。

「どこにも決まったわけじゃないから」

 私の言葉に彼女はまったく反応しなかった。

 何しろ六畳一間しかない。しかも元ビジネスホテルだから、普通のマンションと較べてもその六畳の規格が小さいのである。二人に緊張があるときは居づらくて仕方ない。

 立ち上がった私はキッチンに行き、二つだけ置いてあるマグカップをひとつ手にした。蛇口をひねって水を満たした。それを飲みながらベッドの脇に戻ると小晴は先ほどの眼のまま私を見ていた。

「決まったわけじゃないから」

 私はまた言い訳のように言った。

 立ったまま水をひとくちだけ飲み、マグカップを小晴に渡した。彼女は私と同じようにちびりと飲み、それを返して、背中の後ろに肘をついた。そして体を捻りながら上半身を起こした。私はその横に座って片膝を立てた。

「今日はどこに電話したの?」

 小晴が聞いた。

「南日本新聞社」

「それはどこにあるの?」

「鹿児島だ」

「どうして鹿児島なの?」

「意味はないよ」

 もちろん本当は理由があった。さつぽろにいるあいだに気づいたことだが、私は踏みならされていない土地が好きなのである。北海道も異国だが鹿児島も異国である。

 内地の平野はどこもこの二千年のあいだに様々な人が住み、行き来し、人間の臭いがしないところは滅多にない。開発された街中はもちろん、田舎へ行き、ちょっとしたつじを曲がって車一台通るのがやっとの路地に入っても、あらゆる土の上に足跡があった。過去の長い時間に思いをせると、誰かが踏んだ場所ばかりなのである。鹿児島は北海道のように広くはないが、海岸沿いの岩場の裏などはいつも波に洗われて人の臭いがないかもしれない。

 少し前にあきさきがけ新報とおおいたごうどう新聞に連絡したのも同じ理由からだった。秋田や大分ならそういう土地がまだ少しは残っているだろうと。しかしここも試験が終わっていた。

 小晴がまた私のマグカップを奪い、水を飲んでためいきをついた。

「行っちゃうの?」

「それはわからない。結果次第だから」

 だが、気持ちはもう固まっていた。後ろ髪を引かれる思いはある。昨年同期として大卒で入社したのは十二人。そのうち記者職は私を含めて八人だった。しかし一人はすでによみうり新聞に引っ張られて辞め、もう一人にもまいにち新聞から声がかかっているようだ。記者の仕事はこくだ。そのなかで根性のある者を引き抜こうと、各社たんたんと記者クラブで若手を観察しているのだ。

 しかしこうした引き抜き合戦は外回りの取材記者ばかりである。整理部は内勤なのでなかなかそういう機会がない。うわさは聞こえてくる。どうしんの整理部のエースは誰々だとか、あさの北海道本社では誰々が頭ふたつ抜け出てるとか。しかしそれらはざいさつの新聞社で行う「六社対抗朝野球」で噂になるくらいで、仕事の引き抜き話はなかなかない。

 だから早く外に異動したいのだが、整理部の場合はそれがかなわない特別の理由がある。整理の仕事ができる新人はなかなか取材部署にまわしてもらえないのだ。そして仕事ができないと取材部署からお呼びがかからない。私は編集局次長のまんさんのマンツーマンの指導で相当な実力をつけてきているのが自分でもわかっていた。だから社会部や運動部からの誘いを、萬田さんや整理部長、デスクたちがことごとく潰してしまっていたのだ。

 一方、不器用なあきけんしんさんは逆である。整理部デスクたちとのけん、制作部員との喧嘩がともに絶えず、人間関係から浮いてしまっていた。彼は取材記者になりたいという気持ちを誰よりも強く持っていたが、いつまで経っても声がかかることはなかった。

「朝飯は俺が作る」

 私はそう言って立ち上がり、キッチンへ行き、棚にある食パンを手にしてトースターに入れた。そして小型のフライパンを電熱器で温めながら油を引き、冷蔵庫からベーコンを二枚出して焼いた。そこに卵をふたつ割り入れてベーコンエッグを作り、焼き上がったトーストと一緒に皿に載せてベッドへ運んだ。仕事用のデスクの上に皿を置き、二人で折り畳み椅子を開いて食べた。

 私もついていっていいんだよね?

 小晴はその言葉を言わなかった。相当に我慢しているのがわかった。それはしかし、いまついていくと仕事の邪魔になりそうだとか、ついていくことイコール結婚に近い長距離移動なので私に心的負担をかけたくないとか、そういう理由ではなかった。私の心がまだいちはらけいにあることを知っているからだ。

 しかし私が別の社に移ろうと決めていたって、それは私が決めただけであって向こうの会社が決めたわけではない。マスコミ人気は相変わらずのようで、月刊『つくる』や、同じ会社が出しているガイドブック『マスコミ就職読本』を読むと、どこの新聞社も五十倍から百倍の競争倍率がある。春から勉強は続けているし、会社でも新聞を読み込むのが仕事である。新卒学生には負けないと思うが倍率が倍率だ。そんな簡単にはいくまい。



 夕方、社に顔を出して朝刊二面の面担席でラテ面解説のレイアウトをしていると、誰かがうなり声をあげながら編集局に入ってきた。片脚を引きずっていた。秋馬さんである。

 棚の上から金属の箱を手にし、倍尺を持ってやってきて国際面の机に放り投げた。顔面に青あざがある。

「また喧嘩したんすか」

 私が聞くと「何?」とにらみつけながら座った。

 そして「なんでおまえが知ってるんだ」と言った。

「顔に怪我してるからですよ」

「転んだのかもしれんだろが」

「覚えてないんですか」

「わからん。わからんが、もし喧嘩したなら新聞に出てるはずだろ」

 そう言って横の机に積んである朝刊と夕刊を一部ずつ取り、社会面を開いた。

「何も載ってねえじゃねえか」

 いつもそういうことを言うのだ。俺が殴ったら一人くらい死んでるはずだ。きよくしんせいけんとはそういうものだと。

「僕は死にましぇーん」

 ベルトコンベアを挟んだ席で誰かが小声で言った。すでに向かい側の席には五人ほどが座っている。声を変えているので誰なのかはわからない。秋馬さんは赤い顔で奥歯をみしめている。いつもこうなのだ。何人かが眼だけを上げてこちらを見た。秋馬さんは部内で陰湿なイジメのようなものを受けていた。

 このイジメ。きっかけはさいなことだったらしい。私は聞いただけなので詳細はわからない。ただこの動きをあおっているのがデスクのどうじまさんだということは知っていた。それを堂島さんの取り巻きが大きくしているのだ。私がまだ入社する前、秋馬さんが何かを聞く際、堂島さんの後ろから肩に手をかけたらしい。それを堂島さんが怒ったのだ。堂島さんの気持ちもわかる。わかるが、それをいつまでも秋馬いじりのネタにするのは見ていて嫌な気分になる。

「空手バカ、空手とったらただのバカ」

 堂島さんの取り巻きは、秋馬さんがいないとき、そう陰口を言った。漫画『空手バカ一代』の題名を使ったである。そういうとき私を取り込みたいのだとわかったが、私は視線をそらし、その要望には応えない意思を示した。彼らが私を頼るのは、私が柔道をやっていたからだ。秋馬さんの暴力の臭いに、ますの暴力の臭いをぶつけようとしていた。だが私は、何がどうあろうと秋馬さんの味方だ。

 酒席になると、この秋馬さんイジメはひどくなった。彼らは酔うと陰口ではなく面と向かって秋馬さんを挑発した。秋馬さんはおそらく子供のころから不器用で、こういう風に言われることに慣れているのだろう。いつも我慢していた。私もその横でいつも我慢していた。本当は爆発したかったのだが、それをやると整理部全体の人間関係がメルトダウンしてしまいそうだった。誰もがほつかいタイムスの薄給と、それに伴う人材流出に苦しんでいた。組合運動は全国の新聞社の中でも突出して激しかったが、いくら組合があらがっても、ここまで内部から崩れてしまった組織に再生の方策はないように思われた。

「まず全員で会社を愛することから始めなきゃだめです」

 私はことあるごとに先輩たちにそう言った。

 昼飯のときにも深夜零時すぎの朝刊編集時にも。そしてもちろんきんたまでの酒席でも。



「連れていってよ」

 小晴にそう言われていたほくだいキャンパスにようやく行く決心がついたのは、次の休みの日だった。

 このところ休みの日は新聞社の入社試験の勉強ばかりしていたが、このまま小晴を北大に連れていかずに札幌を去るわけにはいかないと思ったのだ。私は自分たちが引退した年の追いコン試合以来、一度も北大に行っていなかった。自分が仕事で一人前になる前に道場に顔を出すのがはばかられたからだ。

 正門から入り、クラーク像まで歩き、農学部の前に出た。

「この建物は、上から見ると《北》という漢字の形をしてるらしい」

 誰かから聞いたうんちくを言いながらメーンストリートへと曲がると小晴が「わお」と感嘆の声をあげた。

 ストリートの行き止まりである北18条門までまっすぐ延びた太い道は、先がかすんで見えないほど長い。左右に並ぶにれの巨樹たちは、三~四分ほど秋色に染まり、残っている緑と交じり合ってストリートにかぶさっている。

「こんなところ何度も来てるだろう」

「増田さんと歩きたかったのよ」

 ジーンズにジャンパー姿の若い学生たち、大学院生らしき白衣姿の学生たち。よそ行きのカラフルな服装の観光客たちはカメラを手にときどき立ち止まって写真を撮っている。

 私は「ここが理学部だ」とか「右側が文系学部。つながってるから文系長屋って呼ばれてる」とか、ときどき小晴に説明した。

「文系の校舎は味も素っ気もないのね」

 彼女の言うとおり、戦後にできた文系の建物は一斉に建てられたからか、公立中学や公立高校の建物のような鉄筋コンクリート造りで何の特徴もない。その建物が渡り廊下で繫がっているので北大生たちから「文系長屋」と揶揄されているのだ。

 札幌農学校を起源とする北大はもともと理系大学だ。著名な卒業生たちもみな理系出身である。たとえばいなぞうは農学、うちむらかんぞうは水産学を専門とした。やがて学生数を増やしていった札幌農学校は北海道帝国大学となり、その附属の旧制高校北大予科は高専柔道の名門として名を馳せた。一九三四年(昭和九年)には悲願の全国高専大会優勝を成し遂げている。

 もしかしたら高専大会優勝メンバーは全員が理系だったのではないか。そういえば私を含め、同期もみな理系である。いのうえやすしの『北の海』にもあったが、寝技は理系と相性がいいようだ。文系の連中は「大学にきてまでどうしてこんなにきついことを」と悩むが、理系の人間はななてい戦に優勝するという目標を得るとそこに真剣に向き合う。

「この左にある建物が工学部だ。奥にも深く繫がってるからかなり大きな建物だよ」

「だったらみやざわさんに会っていこうよ」

 小晴が陽気に言って私のジャンパーを引いた。私は苦笑いしながら抗った。大学院の研究室に唐突に行ったら迷惑だろう。そもそも私は彼女を柔道部の同期の誰にも紹介したことがなかった。なぜなのかはわからない。おそらく慶子と別れたこと、しかも自分から捨てるように別れたことが恥ずかしいのだ。私は自分に負けたのだ。精神的に耐えられなくなったのだ。「俺が幸せにする」と言って慶子を当時の恋人と別れさせておきながら、俺から別れた。慶子のことは私しか救えないと思っていたが、それはごうまんだった。私では救えなかった。しかしそのことに私は向き合えなかった。

 宮澤に合わせる顔なんてない。メーンストリートをまっすぐ行った。

 しかしここをまっすぐ進んでいくということは、つまりもっと心にわだかまる柔道場へ近づくことになる。今日北大に来たのは「キャンパスを案内してほしい」という小晴の言葉に数カ月経って応えたからだが、小晴が言っていたのは「柔道場を見てみたい」ということだった。私は笑ってうなずいていたが、ほんとうは行くつもりはなかった。歯学部の手前で右折して、銀杏いちよう並木を通って外に出るつもりだった。しかし成り行きなのか何なのか、自分の足は北18条の北大武道館に向かっていた。

 教養部のところを右に入っていき、体育館の前を通って左の木立へと歩く。二人で落葉を踏みながら、私はうつむいて歩いた。小晴は私の動きで察して横から私の顔を見上げている。静かな木立のなかで落ち葉を踏む音だけがぱりぱりと鳴った。武道館の前で立ち止まり、建物を見上げた。柔道場の窓が汗の蒸気で白く曇っていた。

 柔道部の部室の窓には《柔》《道》《部》と大きく手書きされた紙が、昔のまま貼ってある。小晴がまた私の横顔を見ているのが眼の端にうつった。私は意を決してエントランスに上がった。そして鉄製の重い扉を引いた。ひゅうと風の音が鳴って、なかから少林寺拳法部の気合いが聞こえてきた。靴やサンダルが脱ぎ散らかされている玄関で裸足になり、二人で中へ入っていく。

「そこに座って待っててくれ」

 自販機の横の青いビニールソファを私はさした。

 小晴は文句を言うと思ったが、意外と素直に肯いた。

 私は左手の階段を上がっていく。顔を出してほんとうにいいのだろうか。いわまこと監督も来ている曜日である。それを思い出して少し足がすくんだ。

 二階の小さな踊場に立って、大きく呼吸した。ノブを握って柔道場の扉を引いた。

「ファイト出していけ!」

 大声がした。その声に応えて「ファイト!」「ファイトです!」と多くの声があがる。最初の声はキャプテンのよしのぶひろのものだろう。しかしどこにいるのかわからない。私たちのころとは比べものにならないほど増えた部員数のせいもあるが、汗の蒸気で視界が霞んでしばらく誰が誰だか判別できなかった。やがて道場の真ん中で汗まみれになって組み合う吉田の姿が見えた。そのまわりで十五組ほどの二人組が、ごろごろと畳の上で組み合っており、その一つひとつから大量の蒸気がゆらゆらとあがっている。組み合うなかでひときわ目立つ巨体はコーチに就いたばかりのゴトマツである。同じくコーチの大学院生も壁際に立っていて驚いたように私に頭を下げた。

 師範席のほうへ歩いていくと、座って腕を組んでいた岩井監督が私に気づいてにやにやしている。

「珍しいな」

「すみません」

 私が頭を下げると相好を崩した。私はその前にひざまずき「数が多いですね」と言った。

「ああ。みんないい稽古してるぞ」

 私はまた頭を下げ、岩井監督の横に怖々と座った。師範席に座るのは初めてである。緊張した。いや。師範席に緊張したのではなく、唸りをあげて乱取りをする現役学生たちに気後れしたのである。私がこの二年間で失った分厚い筋肉を彼らは持っていた。私だって素人から見れば筋肉で武装した人間だろう。しかしいま眼前でぶつかり合う現役学生と組み合えば何もできず吹っ飛ばされる。

「オラッ!」

「ちくしょう!」

「ファイト!」

「来い!」

 バケツで水をかぶったようにびしょれのほうはつを振り乱し、ぶつかり合っている。畳はあちこち汗で水溜まりになっており、寝技で組み合う者たちがぶつからないように怪我人の見学者たちが間に入っている。

「これだけ人数がいるとレギュラーになるのも大変ですね」

「春になればまた一年目も入ってくるしな」

 たしかにそうだ。

 七月に幹部交代したばかりなのでまだ吉田寛裕たちは三年目なのだ。来春四月になれば彼らが四年目となり、最後の七帝戦を戦う。

 寝技で転がる者たちのうち、私が知っているのは三年目の幹部たちだけだ。私たちの代が四年目のときの一年目である。十五名ほど残っており、みな小柄だが鍛えられている。一年目のときこそ誰も七帝戦出場はできなかったが、二年目になると城戸主将のもと、吉田寛裕、まつうらよしゆきなかゆうといった者たちがレギュラーにばつてきされはじめ、今年の西にしおかきよたか主将のチームでは中堅選手として何人もが畳に上がった。

「お久しぶりです」

 城戸が師範席まで挨拶にきた。

 ゴトマツもやってきた。そして城戸の同期でありながら獣医学部五年目として現役を続けるもりむらとしふみもやってきた。今年の七帝戦できようだい主将のえんどうたいのカメ取りの新技をしのぎきり、京大の十一連覇を阻んだ立役者である。

 岩井監督もまじえ皆で話しているうちに乱取りが終わり、〆の腕立て伏せが延々と続いた。そして綱登りを三本やったあと吉田寛裕の声が響いた。

「整列!」

 学生たちが走って集まり、整列していく。その列は二列になっていた。

 向き合ってこちら、神前側に岩井監督が座った。

 OBは卒業年度順に座ることになっているので、私は恐縮しながら監督から五人分ほど空けて座った。二人分ほど空けて城戸つとむが座り、さらに二人分空けてゴトマツが座った。

「黙想───!」

 吉田寛裕が大声をあげ、全員が眼を閉じた。私の高校にもこの黙想の時間はあったが北大にはなかった。おそらく吉田が主将となってから作った時間だろう。

「やめ」

 眼を開けた。

「正面に礼」

 正座したまま全員で正面に向き直り座礼。

「神前に礼」

 神棚に全員で座礼した。

 現役学生とOBがまた向き合った。

「一年目と二年目は初めてだな。平成二年卒業の──いや、卒部の増田先輩だ」

 岩井監督が言うと学生たちがどっと笑った。

 三年目はもちろん私の中退を知っているが、一年目や二年目も知っているようだ。私たちも現役時代に『北大柔道』を隅々まで読んでOBたちのことをマニアックに知っていたが、いまの学生も同じようだった。

 岩井監督が続けた。

「三年前、北大が五年連続最下位から脱出したときのたつざわ主将の代の副主将だ。いま北海タイムスの記者をしている」

 そして私を見て「よし。増田」と言った。

 ああ、きたと私は思った。

 これも嫌だったのだ。

 いわゆる訓話である。

 そもそも何かを学生たちに語る資格が私にあるのか。

「増田」

 岩井監督が促した。

 学生たちの汗にまみれた顔が私を見ている。

 ひとつ息をつき、岩井監督をちらりと見てから私は言った。

「一年目、二年目の皆さん、はじめまして。平成二年卒部の増田といいます。酒席では顔を合わせることもありましたが道場では初めてです。今日、大勢で練習をしている姿を見て頼もしく思いました。来年はきゆうだいをやぶって優勝してください」

 言い終え、からつばを飲み込んだ。

 吉田寛裕が岩井監督を見た。監督が肯くと「ミーティング!」と声をあげて立ち上がった。他の学生もきびきびとした動きで立ち、小走りで部室へ駆け込んでいく。全員が入るとバタンとドアが閉められた。

 岩井監督は立ち上がりながら「また来いよ」と笑い、師範室に入っていった。

「先輩、相変わらずダンディですね」

 城戸がにやつきながらいつものヨイショをしてきた。

「どうですか、仕事は」

 帯をほどきながら聞いた。

「まあ粛々とやってるよ」

 守村敏文とゴトマツもまじり、しばらく仕事や学部、大学院の話をした。そのあいだに上半身裸になった岩井監督が首にタオルをかけて師範室から出てきて階下へ降りていった。シャワー室に行くのだ。

「下に人を待たせてるからそろそろ帰るよ」

 私は城戸たちに片手を上げ、やはり階下へと降りた。小晴は青いビニールソファに座って缶コーヒーを飲んでいた。ずいぶん長く待たせたのに文句を言わなかった。玄関の外はすでに真っ暗だった。

 二人で外に出た。

 ジャンパーのジッパーをいっぱいまで上げ、襟を立てた。

 小晴はバッグから薄いショールを出して首に巻いた。

 現役時代と同じく鉄製ポールのあいだを通って道路へ出た。馬術場の臭いが漂っていた。18条駅へ歩きながら「みねちゃんへ行くか」と私は言った。彼女は私に合わせ、今日は勤務を休んでいた。

 隣を歩きながら小晴が驚いて私を見た。

 慶子とのことがあるのにいいのかということだろう。私もそれがあるので今日はもちろん行くつもりはなかった。そもそも北大にだって来たくはなかった。それがなぜみねちゃんへ行こうなどと気が変わったのか。練習を見たからに違いない。道場で道衣にさえ着替えずに練習を見たのは初めてかもしれない。いや膝の手術のあとは道衣は着なかったかもしれない。しかしジャージとTシャツには着替えたと思う。普通の格好で練習を見るのはOBだけである。

 18条の交差点は冷たい風が吹き抜けていた。

 歩行者信号が青になったところで二人で背中を丸めて渡った。ホテル札幌会館の玄関前を通り、裏通りに入る。回転寿司に変わった〈すしまさもと〉の前を行き、鉄扉を引いた。

 小晴がなかに入りながら廊下をぐるりと見た。

「これが噂のカネサビルね」

 会ったこともない人たちのことを知り、来たこともない場所を知っていた。

 赤ちようちんをよけ、紺色のれんを分けて引戸をひいた。

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