この瞬間だけは永遠

ななみん。

第1話

 目覚めると見知らぬ歩道の上にいた。

 轢かれそうになっていた子猫を助けようとしていたはずなのに、その子の姿はどこにもなく私一人だけ取り残されている。何度思い出そうとしてもなにも覚えていない。

 もしかすると頭を打ったのかもしれないと、あちこちに触れてみても変わったところはなかった。

 ――きっと助かってるよね。だから、今はあんまり深く考えないようにしよう。


 薄曇りの今にも降り出してきそうな空の下。車や人通りのない道を歩き出せばすぐに違和感を覚えた。

 どうにもおかしいのが目線の異常な低さで、ふと視界に入った縁石と同じくらいの高さに私のそれがある。いつもどおりに立っているはずなのに、まるで地面に伏せている時のような見え方をしているのだ。

 どこかに鏡でもあればと切に思う。そうすれば、この異変を確かめることができそうなのだけれど周囲を見渡してもなにも見当たらない。


 ――今はとにかく、暖かいお風呂に入って、それから……。

 何とも言えない気味の悪さからいったん目を逸らし、正面の踏切を見据えると赤い色の電車が通過していく。

 あれには見覚えがあった。線路に沿うようにして歩道を進むと『三乃宮さんのみや』と書かれた駅が見えてきた。思ったとおりでこのままあと二つ駅を通り過ぎれば家に辿り着くことができる。それを思えば嬉しくなり足取りは断然軽くなった。


二ツ橋ふたつばし』の駅を過ぎ、『一ヶ谷いちがや』商店街にある馴染みのケーキ屋が見えてくる。誕生日と言ったらここのチョコレートケーキが浮かんでくるくらいには頻繁に立ち寄っているお店だ。

 ただ、中の様子を覗き込もうとしても何も見えてこない。その代わりにショーウィンドウには猫の姿が反射して映り込んでいて、まるで私が助けようとしたあの子と同じ真っ白な毛並みをしている。

 けれど後ろを振り返っても誰もいない。ウィンドウに向かって手を振ったところ猫の動きが完全にシンクロしている。何度やってみてもそれを繰り返すばかりで、まさかと思い始めていると背後から足音が聞こえた。


「わー、可愛い」

「ケーキに興味あるのかな?」


 その声は見あげた遥か上の方からしている。そこには制服姿の女の子達が立っていて、一人の子がしゃがんで私の喉の辺りを撫でた。抵抗して声を出そうにもとしか発することができず、ここで疑念は確信に変わった。


 ――私、やっぱり猫になってる!

 視点のおかしさにようやく納得がいったけれど、どうしてこんなことになってしまったのだろう。わしゃわしゃと撫でまわす手を振り切って、ざわついた心のまま商店街を駆け抜けた。

 もうすぐ家が見えてくる。この姿では私だと認識してもらえないことくらいわかっているものの、どうにかして帰らなくてはと焦っていた。


 この体は思っている以上に身軽でジャンプすると塀の上をのぼることができた。ひたすらに進んでいくと赤い屋根が見えてくる。走る足はさらに速くなる。ついに私は家の庭に降り立った。

 いつもなら縁側から部屋の中を覗くことはできないけれど、今はちょうどカーテンが開きっぱなしになっている。誰かいないかと覗き込んだ途端、お母さんが横切るのが見えてどきりとした。


 どうにか気付いて欲しくて視線を送り続けていたところ、お母さんは仏壇の前に座り手を合わせ始めた。確かおばあちゃんの月命日にはまだ早いような気がする。しばらくするとその場を立ちリビングの方へ消えていった。


 仏壇の写真を食い入るように見つめ、その姿がはっきりしだすと呼吸と心臓の鼓動が速くなっていく。

 ――こんなの嘘に決まってる。

 フレーム内で弾けるような笑顔を見せているのは、おばあちゃんではなく妹の美加みかだった。


 降りだした雨の中、強い眩暈めまいを伴って世界がぐにゃりと揺れる。懸命に口呼吸を繰り返しようやく落ち着いてきた頃、美加と仲違いしたままだったのを思い返し深い後悔の念に駆られた。


 美加とは双子として同じ日に生まれ、わずかに早かった私が姉になった。

 幼い頃は仲がよかったけれど、高校受験を控えたあたりからお互いに折り合いが悪くなり言葉をかわすことも少なくなっていった。

 結局美加は私とは別の学校へ進み、勉強もあまりせず外を出歩いてばかり。それは両親が困り果てているのもあって、代わりに私がいさめようとしたある日のこと。


「二人とも心配してるよ。勉強しろとは言わないからせめて夜遊びはやめよう?」

「あの人達にはお姉ちゃんがいるからいいじゃない。あたしみたいな出来損ないはどうあっても変われないんだからほっといてよ」


 夜、出かける支度を急ぐ美加は不貞腐れた様子で目を合わせてくれない。その髪色や服装は日に日に派手になっていて、なにかのトラブルに巻き込まれるのは時間の問題だ。

 私はどうにか止めようと美加の肩を強く揺さぶり訴えかけた。


「そんなこと絶対にない。私達はそんな風に思ったこと一度もないよ」

「だからそういうのがウザいんだって。二人に頼まれて思ってもないことばっかり並べ立てていい子ちゃんぶってさ。……ああ、その善人ぶった顔ほんっとウザい。どうせ今だって心の中で嘲笑あざわらってるんでしょ優等生様は!」


 美加は表情も変えずにまくし立てはじめ、最後は勢い任せに吐き捨てるように言った。私は気持ちを理解されていないのに腹を立て意地を張ってしまっていた。


「ねえ、ちゃんと話を聞いてよ。私はただ美加のことが心配でね」

「うるさい黙れ……。嫌い。お姉ちゃんなんて大嫌い!」

「どうしてわかってくれないの!」


 私は出て行こうとする美加の頬を思わず引っ叩いてしまった。みるみる険しくなっていくその表情に、私の心のキャンバスには後悔はいいろがじわじわと蝕むように広がっていく。

 待って、と口にした時には美加の姿はもうどこにもない。

 結局これが私達の交わした最後の会話となった。


 まだ美加は近くにいるのではないかと、私は一緒に過ごした思い出が残る場所を探し始めた。

 憧れの先輩を眺めていた中学校の校庭。夜通し歌い明かしたカラオケボックス。引っ越していった同級生のカナちゃんの家。立ち読みばかりして怒られてしまった本屋。リズムゲームをひたすらに練習したゲームセンター。

 ――ねえ、どこに行けばまた会える?

 どの場所にも美加の姿は見つからず、私はうな垂れたまま家に戻ってきた。雨上がりの空はすっかり赤みを帯びてきて縁側のカーテンも閉まっている。

 当然ながら他に行くあてもないわけで夜が明けるまで軒下で過ごすことにした。


 翌日も変わらず美加を追い求めた。もういい加減諦めてしまおうか。何度も挫けそうになるけれど、その都度美加への罪悪感だけが私の背を強く押す。

 結局夕方頃とぼとぼと帰宅し、庭に着地するのとほぼ同時に家のカーテンが開いた。何度瞬きしても目を擦っても、そこには美加が私を見下ろすようにして立っている。


 ――――ああ、あの写真私だったんだ。

 安堵のため息と同時に猫の姿になっていた理由にも納得がいった。あの時車に撥ねられたのは私で、なんらかの奇跡が起きた結果こうして生まれ変わったのだと。

 けれど誰とも話すことができなくなってしまった以上、もうここにいても意味はないだろう。


 ――美加さえ生きていてくれるならそれでいい。

 この先どうなっていくのかはもちろん不安だ。それでも今は何も考えず背を向けて立ち去ることにした。


「……お姉ちゃん?」


 背後から呼びかける、聞き覚えしかない声に息が詰まる。すぐに振り返ると美加が開いたガラス戸の隙間から私をじっと見ていた。

 なぜだか涙はまったく出てこない。けれど両目にじんわりと熱を帯びているのがわかる。

 存在を示そうとひたすらに鳴き声を響かせると、美加は私を抱きかかえお互いに視線がしっかりと合った。


「ねえ、あなたお姉ちゃんなんでしょ?」


 ――こんな姿になっちゃったけど彩加あやかだよ。

 美加の血色はあからさまに悪く頬もほっそりとしている。その表情をうまく読み取ることができないまま、問いかけにと応えると美加は私の手を優しく握った。


「おかえり。ずっと帰ってくるの待ってたよ。あたし、お姉ちゃんと比べられてるって思い込んでひどいこと言っちゃった。本当にごめんなさい」


 ――私の方こそ叩いてごめん。

 首を横に振ると、それが伝わったのか美加からは涙が落ちてきて私の顔を濡らす。


「一緒にいられるように説得してみるから、もうどこにも行かないで」


 その震える声が、想いがどんなものよりも嬉しい。

 次の日から私は美加の膝の上で過ごすようになり、当の本人は染めていた髪を黒く戻し勉強に取り組み始めた。両親に掛けあって成績が上がるのを条件に私を飼う約束を取り付けたのだという。


「ここ正解だったら二回鳴いてよ。そういうのできる?」


 参考書を一緒に覗き込み視線が合う。


 ――美加は覚えてるかな? まるで中学の時みたいだよね。

 それは双方向とはお世辞にも言えない、私達にしかわかりあえない会話だけれど、心だけはしっかりと繋がっていて暖かい気持ちが体じゅうを満たしていく。

 雪の降る試験日の昼下がり、私はいつもの縁側で美加のマフラーに包まっている。

 どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしく、美加と二人で助けた子猫を甲斐甲斐しくお世話する、本来ならあったかもしれないそんな夢を見ていた。


「見てほら。お姉ちゃんほどじゃないけど学年三十位に入ったんだよ!」


 満面の笑みを浮かべる美加は褒めてと言いたげに頭を近づけ、私は爪を立てないよう優しく撫でたあと抱きつく。この先、どんなことがあっても今日という日を忘れはしないだろう。

 私が正式にこの家の一員となって月日は経ち、春を迎えると美加は私より一つ上の年齢になった。薄めのメイクや髪型、両親を気遣うような接し方はどこかかつての私のようで、もしかすると美加なりに私の分まで生きようとしているのかもしれない。


「これからもずっと一緒だよね?」


 美加が私の頭を撫でて微笑んだ。

 ――ねえ、でもそれは永遠じゃないんだよ?

 私が突然いなくなってしまったように、生きているものはすべて何の前触れもなく旅立ってしまう。ましてやこの体は十年と持たない。

 そう遠くないうちに訪れるだろう、美加にとって二度目となる別れを思えばどうしようもなく胸が締めつけられる。


 そのはずなのに、美加に触れられただけで不思議と苦しみが和らいでいく。美加の瞳に映る私が、以前ひとの姿をしてと笑ったような気がした。


 ――――そうだとしても、今この瞬間ときだけは。


 その翌日。私達は桜舞う並木道を歩いている。

 不意に心地のいい風がひげを優しく揺らし、ふと見上げれば美加が私を見ていた。


「行こ、お姉ちゃん。まだまだ話したいことがあるんだ!」


 その言葉とともに、成長した私達が手を繋ぐ幻影が浮かんでくる。それがたまらなく嬉しくて愛おしくて、ただひたすらに切ない。


「みゃあ!」


 私が元気一杯に頷くと美加は幸せそうに微笑んだ。

 永遠の別れとなるその日まで、私達は残された日々を懸命に駆け続ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この瞬間だけは永遠 ななみん。 @nanamin3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ