2. I cannot WIN the game.
外に出ると、柔らかくもまだ冷たさを持った風が肌に触れてくる。しかし、太陽の温かみが程よい涼しさを風に与えてくれていた。そんな午前中が過ぎていく。
「寒すぎなくていいな」
アルバートがカラフルな家々を眺めながらそう呟く。じきに視界は木々を映しだすだろう。
「もう春だからね。冬の時代はおしまいってわけだ」
「公園まではどのくらい?」
「十五分くらいかな。眠いなら眠ってていいよ」
少し気だるげに話すアルバートに優しさを見せる。この程度で恋は始まらないことを、オリバーはよく知っている。
「俺の代わりに歩いてくれているのに、申し訳ないな」
「大丈夫だよ。無理に起こしている方が、俺も悪いなって思っちゃうよ」
お言葉に甘えて、という言葉が六十秒も経たないうちに寝息に変わる。飴色の髪に形の良い眉。赤みを帯びた肌。
まるで物語に出てくる妖精のようなこの男に、オリバーの心はバビロンの囚人のごとく囚われ続けていた。
ゴールネットをアルバートのロングシュートが貫く。
五年前、まだ大学生だったアルバートはフットボールプレイヤーの側面も持ち合わせていた。
運動神経に恵まれなかったオリバーとは異なり、アルバートは大学のフットボール部でその才能を開花させていた。
長いホイッスルが試合の終了を告げると、オリバーの隣にいた少女が手を振り、アルバートの名を叫ぶ。
「アル! ナイスシュートだったわ!」
その声に気付いたアルバートはオリバーの方を、正確にはその隣の少女へと手を振る。
「ほうら、オリバーもなんか言ってあげなさいよ」
少女にそそのかされ、オリバーも負けじとアルバートに叫んでやる。
「今晩は、お好きなゴールにシュートし放題だな!」
少女のもう! という声とアルバートのクソったれ! という言葉が混ざり合う。
試合を終えてグラウンドの外れでアルバートを待っていると、ユニフォームから私服に着替えたアルバートが戻ってきた。
「お疲れ様、アル」
「観に来てくれてありがとう、ケイティ」
ケイティ、ブロンドの髪を肩のあたりで切りそろえた少女は、アルバートに抱き着く。言うまでもないが、二人は愛し合っている。
「オリバーも、わざわざ講義すっぽかしてきたのには感謝してやるが、チームメイトの前であんな発言すんなよ。次やったらぶっ殺す」
「怖い怖い」
そう言ってオリバーは笑う。ケイティもそんな彼にいきなりびっくりしちゃったじゃない、と笑みとともに答える。
オリバーの立ち位置は二人、アルバートとケイティの「友人」だった。
ずっとこの脆くも適切な関係性が続くと思い込んでいた。やがてアルバートとケイティは結婚し、オリバーも同じ道を辿る。
毎日忙しく社会を駆け回り、時にパブで言葉を交わす。よくいる社会人になれる。そう思い込んでいた。
「着いたよ」
オリバーの言葉でアルバートは目を覚ます。ずっと昔の夢を見ていたような心地がする。まだケイティが生きていた頃の。
「おはよう……」
意識がはっきりとしきらないままに挨拶だけをこぼす。オリバーはいつの間にかベンチに腰かけていた。アルバートの車いすを、ベンチの隣に置くことにしたらしい。
「よく寝てたね。良い夢は見られた?」
正直内容はあまり思い出せない。しかし、良い夢だったことは間違いない。そう確信して頷く。
「ケイティの夢?」
サンドイッチを手渡しながらオリバーは夢へ言及してくる。サンドイッチを受け取ろうとしたオリバーの手が動きを止める。
「どう……だったかな」
言葉を絞り出す。夢の中ではまだ足があって、昔のようにフットボールに興じていたことだけは確かだ。
それに、すぐ側にはケイティもオリバーもいたはずだ。だがいつまでも過去に縋りついていてどうする。
「良いんじゃない? 大切な人を何年も想い続けるって」
光を失った瞳がアルバートに向けられる。口元に浮かべられている笑みとその眼は、別々の感情を写しだしているようで、異質なものに思えた。
「お前、やっぱり料理上手くなったな。これほど美味いサンドイッチは食べたことない」
厚く切られたベーコンを頬張りながら、アルバートはオリバー特製のサンドイッチを口にする。
これ以上失ったものの話をしたくない。耐えられないと心が判断したのだ。
「お前も味が分かるようになったか! 最近は食感にもこだわってるんだ。今回はベーコンだね。噛み応えがあって楽しいだろう?」
正直なところ、食感の違いが分かるほどアルバートの味覚は繊細ではなかったが、頷いておく。
料理の話をさせておけば、フットボール選手時代を含む、全ての過去から逃れられるような気がしたのだ。
「実は、今日は水筒にお茶を入れてきていてね」
オリバーは弾むような声でそう話すと、水筒のコップを外し、なみなみと赤い液体を注いでいく。
その調子に合わせてサンドイッチを口に放り込んだアルバートに、次は庭園のような甘い匂いを漂わせる紅茶が渡される。
「ローズヒップティーだよ。心が落ち着くかなと思ってさ」
サンドイッチをかじりながらアルバートの様子を伺ってくるオリバー。
感想を求めているに違いないと感じたアルバートは、湯気の立つ紅茶を一口、喉の先へと流し込んだ。
香りに対してはっきりとした味わい、対照的にどこか心の落ち着く心地。どうしてだか、アルバートは昼寝の最中に見た夢を思い出す。
戦争に招集される前の最後の試合。スコアはドロー。
後半アディショナルタイムでゴールを揺らした方が勝利の果実にありつける緊張の時間。
フォワードからパスを戻されたアルバートは前進。残りの体力など考えることなくセンターサークルを通り過ぎディフェンスをくるりと躱す。
グラウンドの周囲から聞こえる歓声とチームメイトの叫び声。キーパーと正対する自分自身。
左上を狙ったロングシュート。沸き上がるチームメイトに対して、ケイティの声しか聞こえなかった勝利。
「どうして……」
アルバートの記憶の中では、この夜に疲れが取れるだろうとオリバーが淹れてくれたのもローズヒップティーだった。
記憶と記憶が繋がり、閉じ込めていた感情が溢れだす。
「おい、アルバート」
水のこぼれる音がする。足元へ視線を向けると、ローズヒップティーが全て重力に導かれていた。
「ああ、すまない」
アルバートが咄嗟にそう答えると、オリバーは紅茶じゃなくて、と切りだし
「アルバートお前さ、泣いてるんだよ」
そう告げられた。確かに、頬を紅茶より少しだけ冷たい液体が流れていくのが分かった。
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