第29話 夜

       ◆


 リリギとその仲間からは、銭を奪った。

 僕の手元に銭はなかったし、ミズキ、そしてアオイの持ち物を探るのは気が引けた。もっとも、どちらでも同じことかもしれない。罪は罪だし、既に死んでしまっていることでは変わりない。

 銭を手に山を降りるものの、自分がクズリバの街から見てどちらの方向の山にいたのか、降りたことがなかったので分からないでいた。

 適当に降りるのも不安だったので、リリギたちが辿ったであろう道筋を選んだ。足跡も残っていれば、他にも痕跡は多かった。細い木が切り払われていたり、草や落ち葉が踏み分けられたりしていた。

 日が暮れる前に道らしい場所に出たが、さほど広くはない。右にも左にも行けたものの、さすがに道には人が最近に通った痕跡は見つけづらい。しかし夜を道で迎えるのも違う気がして、僕は左を選んだ。直感だ。日の差す方向で方角だけはわかりそうでも、太陽はちょうど背後にあったので、太陽の位置で方角はわからなかった。

 仕方がない、という思考を振り払い、歩を進める。

 しばらく進んだものの、集落のようなものは見つからなかった。

 このまま野宿か、と覚悟した時、何かが燃える匂いがした。本当にかすかだが、確かに焦げ臭い匂いだ。どこかに人がいるのか、と見回したが、はっきりとは見えないままだった。

 それでも先へ進むと、それは薄闇の中から湧いて出るように視界に入ってきた。道のすぐ脇に小屋があるのだ。その小屋の粗末な壁板の隙間からかすかな明かりが見て取れるようになったのは、だいぶ近づいてからだ。

 さらに接近する段階ではさすがに警戒したが、小屋の中には大勢がいる様子ではない。静かだし、ものがごく気配もないに等しい。

 足音を忍ばせて近寄り、軽く戸を叩いて「すみません」と声をかけた。返事は、すぐにはない。覚悟を決めて言葉を続けた。

「道を尋ねたいのだが」

 その僕の言葉には、返事があった。

「どうぞ、お入りになって」

 しわがれた声だったが、聞き覚えはない。

 そっと板戸を開いて、僕は中に入った。

 小屋の中では、老人が一人きりでかすかな明かりの中で座り込んでいた。かすかに何かを焼いたような匂いがする。食事の痕跡かもしれない。

 頭を下げる僕に、老人は身振りで空いている空間を示した。ゆっくりと腰を下ろす。老人は僕を自分の左側に座らせたが、果たしてこちらの刀に気づいていたか。

 黙っている僕に、どうぞ、と水筒が差し出された。丁寧なことだ。

 僕は無言で一礼し、水筒を受け取った。水筒に毒が仕込まれている可能性など考えなかった。そうする理由がない。そのはずだ。リリギとその仲間がおかしいのであって、他は平穏な土地なのだ。

 ぐっと水を口に含むと独特の味がした。しかし毒ではない。

 急に渇きが意識されたものの、欲求を無視してひと口だけ飲み、水筒を返した。

「何か食べたかい」

 老人がいやに掠れた声で言った。僕を気遣っているようだ。

「お気遣いなく。腹は、減っていませんから」

 そうか、と老人は僕の少し事実とは異なる言葉を気にした様子もない。

 自然と沈黙がやってきて、僕にはさほど苦痛でもない時間が始まった。老人が気にしなければいいのだが、と思ったけれど、老人は老人で気にしていないようだ。

 ただ、沈黙を破ったのは老人の方だった。

「昨日、いや、今日のことだが、そばの道で老人が一人、切られていたそうだよ」

 僕が視線を上げても、老人はじっと顔を俯けていた。いや、灯りを見ているのだ。じっと視線を据え、動かそうとしない。

「なんでも、クズリバの街からやってきた老人だったとか。しばらく前に近くの集落に滞在を始め、刀を研いでいたそうだ。その刀はどこかへやってしまって、最近は食料を買い求めていたというのが、私の聞いた話だ」

 そうですか、と僕が答えるのにも、老人は視線を動かさなかった。

 僕は口を閉じ、しかし黙り続けるのも難しかった。

「クズリバの街は、どちらですか」

 その問いかけに老人は簡潔に、指をさすことで答えに変えた。

「助かります」

 僕の言葉に老人は頷き、酷いことだ、と絞り出すように言った。

「切られていた老人は、刃物を持っていたわけでもないそうだ。まったく無害な人間を切るとは、どういうことなのかね」

「知りませんね」

 そう答えた僕に、初めて老人が視線を上げ、僕の顔を見た。

 疑うような瞳ではない。呆れるような瞳でもなかった。

 ただ憐れむような光り方の目だった。

「それならいい。私も言うべきことはない」

 つと視線を明かりに戻し、老人はそれだけ口にすると、わずかに体を揺すった。落ち着ける姿勢に体の位置を変えたようだ。僕も姿勢を整え、目を閉じた。

 老人が義憤にかられれば、何かが起こるかもしれない。僕はどこかに突き出されるだろうか。老人が自身の手で斬り殺されたという老人の仇を討つことも、ありえないことではない。老人と僕はかなり狭い間合いにいるのだから、不意打ちで短刀でも突き込まれれば、小屋の狭い空間では何が起こるかは予想がつかない。

 十中八九、老人を無力化できるとしても、老人を無事で済ませる自信はない。

 そうならないでくれ、と思った理由はわからない。

 今更、一人を余計に傷つけても何も変わらない思いは確かにあった。

 九人なりを切り、その上で恩人の死を見過ごしたのだから、ここで一人に手を出さなくても僕の罪に大差はない。

 それでも一人だけでも助けるべきだと、僕はそう思っているようだった。

 灯りがかすかな音を立てる。老人は無言で、動いていないようだった。時折、風が吹いて小屋が軋んだ。灯りの火も揺れているようだが、僕はそれを見なかった。

 目を瞑るのがこれほど怖いことも珍しい。

 時間の流れが緩やかになり、いつまでも夜が明けない気がした。瞼の奥の漆黒を見つめながら、僕は昼間に起こったこと、自らが生み出した地獄の光景を繰り返し思い出した。

 どれだけ振り返っても、現実が変わることはないというのに。

 自分のうちに後悔に似たものがあるのは、意外だった。

 理解して道を選んだはずだ。

 何が起こるか、知っていたはずだ。

 ミズキが僕を見たときの、あの眼差し。

 絶望した瞳。

 僕はため息を細く吐いた。老人は、反応しなかった。

 眠ることもできず、拷問と言ってもいい時間はいつまでも続いた。

 少し老人が動く気配があり、僕は瞼を上げた。いつの間にか灯りは消え、代わりに壁板や板戸の隙間から日が差していた。老人はすでに立ち上がり、まとめていた荷物を背負おうとしていた。

「お先に」

 そんな言葉を残して、無表情に僕を見遣った老人はあっさりと小屋を出て行った。

 堂々と背中を向けたのは、老人の豪胆さの表れか。それとも、僕の中の逡巡、苦悩を知っての上での行動だったか。

 いずれにせよ、僕は老人を見送り、一人になった。

 僕はしばらく周囲の気配を探ったが、何の気配もなかった。

 誰かが襲ってくる様子はない。

 ため息を吐き、僕はゆっくりと立ち上がると小屋を出た。もう老人の姿はどこにも見えなかった。もう一度、ため息を吐いて、僕は歩き出した。

 老人が指差した方向、クズリバの街があるという方向は真実だろうか。

 老人の指差す様を思い出し、それからあの俯かせた顔を思い描いた。

 嘘を言うわけがない。

 嘘とは思えない。

 しかし僕は、違う。僕はミズキに、本当のことを伝えなかった。

 今、飛び出せば死ぬことになる、とミズキに伝えないまま、状況を進めた。僕は見殺しにするだろうと、教えなかった。

 先へ進みながら、ミズキの気配がまとわりついてくるような錯覚があった。

 死者はこの世界に何ら干渉はできない。

 僕が死者を感じるとすれば、僕自身が死者が何らかの形でそこにいると思いたいからだ。

 足取りは重いが、前には進んでいる。

 どれだけ進んでも、僕は何かを引きずっているような感覚を拭えなかった。

 こんなことでは、と思う。

 これから僕は切るべき人を、切らなくてはいけないのだ。

 こんなことでは、それは難しい。

 こんなことでは。



(続く)

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