第30話 協力
◆
夕方にはクズリバの街へ戻ることができた。
老人は正しいことを教えてくれたのだ。
街を囲んでいる城郭の名残を利用して、一度、道を外れてから人目につかないように街に入った。ナクドの道場の門人たちは僕をよく知っているだろうが、街の規模からすれば少数で、咎められる可能性は低かった。
とはいえ、落ち着ける場所はないに等しい。ナクドの道場は近くのも不可能で、アオイがやっていた食堂も同様だ。
では、どこが残るかと言えば、世話になった旅籠しかなかった。
これはこれで賭けだったが、入ってみると番頭は表情一つ変えずに「いらっしゃいませ」と頭を下げた。
僕の名前を帳簿に書いたはずだが、まるで初めて会ったかのように名前を聞かれた。
「しばらく逗留したいのですが」
思い切ってそう言っても、番頭は顔色を変えずに「承りました」と一礼した。
その番頭が呼んだ女中は例の女中ではなかったが、僕が部屋に入ってすぐに以前に僕の相手をした女中が顔を見せた。まだ名前も知らない女中は、あれあれ、などと言葉にして目を丸くしていた。
「お侍さん、あんな風に出ていって、もう二度と会えないと思っておりましたよ」
思わず笑いそうになった。僕と会いたかったのですが、と冗談を返す余裕も危うく顔を出しそうだった。
「またお世話になります」僕は頭を下げた。「もう少し、この街に用事があるのです」
女中は頷いて、やはりお酒はいらないのですか、と笑っていた。
少しすると膳が出て、酌をする必要もないのに女中は部屋にとどまった。これまでにもあったことだけれど、今日は別だろう。女中の本心はどうか知らないが、番頭あたりは僕の真意を探っておきたいだろう。なにせ、暗に追い出される形で、逃げ出すように出て行った旅の侍が、すぐにまた戻ってきたのだ。何があるのか、気になるのが自然だ。
案の定、女中が食後の僕の湯のみに茶を注ぎながら質問を向けてきた。
「旅の予定は無くなったのですか?」
「いいえ、旅は続けますが、この街に用事がありまして」
「それって、道場の先生が切られたとかいう噂と、関係ありますか?」
僕は答えずに、ゆっくりとお茶をすすった。
ほほほ、と女中が口元を隠しながら笑った。
「お侍さんは嘘が下手ねぇ。そこは堂々と、知らんなあ、などというものですよ」
「それはそれで嘘だと見破れる、と聞こえますが?」
「そうそう、そういうことですね。こういう時は、黙っても、トボけてもダメなんですね。嘘がうまい人は、噂は知っているけど関係ない、とか言うんじゃないかしら。ま、私がそう思うということは、それもダメなんでしょうけど」
意外に女中がしゃべるので、僕も気持ちが楽になった。これだけ度胸のある女子は珍しい。何せ、僕が人斬りに関わっていると彼女自身が断定的に口にしているのだ。もし僕が何かに絶望して自棄になり、旅籠で刀を抜くことになったらこの女中が真っ先に刀を向けられるのだから、ここまで余裕で構えるのは難しい気がした。
僕はさりげなく自分のすぐそばに置いてある刀を見た。それは女中にもわかったはずだが、女中は平然とした態度を変えようとしない。
「お茶はもういりませんか?」
やれやれ、と僕の方が諦めることになった。
湯のみを差し出し、少し注ぎ足してもらってから、僕は説明することにした。
「僕のやったことは、あなたや旅籠の人は知らない方がいいでしょう。ですから、何も明言はできません。しかし、あなたや他の方が思っている通りです」
「これは、私からの厚意ですが」
女中がわずかに僕に近づき、声をひそめる。
「実はお侍さんが出て行ったその日、役人がここへやってきました。あなた様を探しているようでしたが、私どもは何も言わずに済ませました」
それは、と僕はうまく言葉を続けられなかった。女中は穏やかに微笑んでいる。
「よくあることでございます。旅をする方は、おおかた何かから逃げているんですから。あなた様もそうなのではないか、と思いましたが、まさかこうしてお戻りになるとは想像もしていませんでした」
「そうですか、それは、助かります」
揉め事はこちらもごめんなんですよ、と女中はちょっと眉間にしわを寄せた。
「店の評判も大事ですが、役人に目をつけられるのもよくないですしね。ですから、ここで刀を抜くようなことはおやめ下さいましね」
僕は頷いてみせた。真剣に頷いたのが通じたのか、女中も頷いている。
「あの、頼みたいことがあるのですが」
そう口にすると、ええ、ええ、と女中が頷き、ちょっと目を丸くして上を見るような表情を作った。
「揉め事に巻き込まれている方は、私どもにいろいろなことをお頼みになります。で、なんでございましょう?」
言いづらくはあったが、他に頼れる相手はいない。
「クズリバ様にお目通りが叶うように、書状を書きたいのですが」
これには女中も眉をひそめた。
「お侍様、あなた様はクズリバ様の街で騒動を起こしたのですから、クズリバ様はあなた様をお探しではないのですか?」
「どうでしょう。そこがわからないので、どうか、僕の名前を出さずにできませんか」
そんな無理は通りませんよ、と女中は笑い出した。
「先ほども申しましたように、私どもがクズリバ様から目をつけられるわけにはいかないのですよ。それは譲れないのでございます。それに、ただの旅籠から領主様に書状を出しても、あまり無理は通らないかと存じます」
それもそうか、と思ったが、なんとか無理が利かないか、僕は思案した。しかしいきなり妙案が出るわけもない。
「それで、お侍様はクズリバ様にどのようなご用がおありなのですか?」
女中がそう聞いてきて、僕はとっさに答えていた。
「クズリバ様と直にお会いしたいのです」
それはそれは、と女中は今度は楽しそうだ。
「何か大事なお話でもするのですか? それとも、お忍びで?」
妙な展開だったが、話せることは話しておくべきか。さすがに、クズリバを切りたいとは言えないが。
また嘘を見破られる気もしたものの、この女中は嘘だと見抜いても知らないふりをする気もした。
「できれば、あまり人目につかないところで、お会いしたい」
「人目にねぇ……」
何かを考えるような顔になった女中を見ていると、どこか演じているように両手を合わせた。
「暦を見ればはっきりわかるのですが、クズリバ様とお会いできるかもしれませんね」
えっ、と声が漏れてしまった僕を見て「少しお待ちを」と頭を下げた女中は、部屋を出て行ってしまった。
彼女が何を思いついたか知らないが、思い当たる節があるらしい。
僕は手元の湯のみを口に運んだ。話しているうちに時間が過ぎたようで、お茶はぬるくなっていた。
空の湯のみに自分で茶を注ぎ直そうとしたところで、女中が戻ってきた。あっという間だ。
女中は座り直すと、五日後でございます、と話し始めた。
僕は湯のみを置いて、彼女の話に集中した。
(続く)
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