第26話 罰
◆
山中の小屋を転々として、十五日ほどが過ぎた。
僕は動けるようになっている。万全ではないけれど、アオイやミズキの足手まといにならなくなったのは助かる。
アオイやミズキ、ツルミはクズリバの街ではなく、近くの集落から食料などを調達してくれているようだ。もうクズリバの街は危険だという認識は、僕も同感だ。
起き上がれるだろうと思い切って立ち上がった時、手足の感覚の曖昧さにやや落胆した。
僕の体に回った毒は肩の浅い傷から入っただけで、もっと深い傷がある脇腹から毒が入っていれば僕は流石に助からなかったかもしれない。命があるのだから、感覚への影響など無視してもいい。
それにしても、リリギの刀に毒が塗られていなかったのか、リリギの刀が彼の仲間の体を貫いてから僕を抉ったので、それで毒が薄くなったのか、どちらだろう。いずれにせよ、リリギは僕が生きていると思っていないはずだ。
アオイが数日前にツルミから受け取ったいう刀が、僕に手渡された。
あの食堂での騒動では、僕は意識が朦朧としていたし、はっきりと刀を確認する余地がなかったけれど、改めて手元で眺めてみると別の刀に見える。
拵えも整えられているし、鞘だって新しい。こうなっては最近作られた刀のようだ。
鞘を払うと、その刃も美しい。見るからに切れそうだ。
体の感覚を取り戻すのと同時に、刀に慣れるように、半日ほどは僕は小屋の外へ出て刀を抜いていた。
刀を振ることはない。
ただ刀を構えているだけで、修練になる。
いつかサザレも同じことをしていたのを思い出す。僕自身はあまり好きなやり方ではないが、空間が自由にならない時、体が自由にならない時にはこの稽古をしていた。
今、僕の前には幻の相手が立ち、刀を構えている。
僕の体が動く感覚があるが、それは錯覚だ。
僕は微動だにしない。
空想の中で僕が動いているだけだ。そしてそれに合わせて、幻の相手も刀の構えを変える。
すっと刀が僕の前に突き出される。
払いのけ、即座に反撃。
しかし幻の切っ先は幻に届かない。
ここで攻撃を続けなければ姿勢が乱れると攻めを続行。
相手がぱっと体を開き、刀を振りかぶる。
僕は体を横へ投げ出し、牽制の振り。
幻が跳ねて間合いを取り、構えを取り直す。
僕は細く息を吐く。少しだけ刀を下げた。幻が消えていく。
僕は全身にびっしょりと汗をかいていた。木立の中は日差しも直接は届かず、吹き抜ける風が涼しく瑞々しい。
着物の袖で顔の汗を拭い、片手に保持したままの刀を軽く振る。
新しい刀の間合い、重さなどは頭に入ってきた。あとは実際に振って確認していくべきだろう。
「先生、お水を」
背後からの声に、すっと鞘に刀を戻して振り返る。少し離れたところでミズキが器を手に立っていた。山の中に井戸などなく、そばの小川の水を沸かしてくれている。
進み出てきたミズキから器を受け取り、少しずつ水を飲んだ。
「アイリ先生、お聞きしてもいいですか」
ミズキの控えめな声に、僕は彼女の方を見た。ミズキは僕を見ずに、遠くを見ていた。しかし言葉は僕に向いている。
「初めて、人を切った時のことを覚えていますか」
その問いかけはミズキとしては勇気が必要な、躊躇うような質問だったようだが、僕にとっては過去に聞かれたこともある問いかけだ。
「覚えていますよ」
「それはつらいことですか?」
どうですかね、と僕は答えた。
僕が初めて人を切ったのは十七くらいの時だった。
道場が悪党に襲撃され、十人以上による乱戦になったのである。悪党が道場を襲ったのは、門人の一人が金を借りたまま踏み倒そうとしたからだったが、それは後になってわかったことで、僕にも他の門人にも、師範さえも事情はわかっていなかった。
僕だって覚悟が出来ていないどころか、自分が命の取り合いの場に立つなど、想像もしていなかった。
僕は刀を抜いたものの最初に相対した悪党の強烈な斬撃を受けているうちに、壁際へ押し込まれ、死を確信した。
死ぬとわかった時、僕の体は思い切った動きを取った。
ぶつかるように間合いを詰め、刀を押し込んだ。
手に鈍い感触があり。
急に刀の感覚が軽くなり。
何かが顔に吹きかかり、粘り気のある液体が視野を濁らせた。
柄から離した手で顔を拭うがうまく拭えないし、僕を切ろうとした悪党がのしかかってきたので、冷静ではいられなかった。
いつの間にか脱力していた男に押し倒され、恐慌状態で叫んで暴れたが、そのうちに誰かが死体をどかし、僕を抱え上げてくれた。その時になって、道場の中が静かになり、悪党は斬り伏せられるか、逃げたのだとわかった。
血みどろの僕の手は、刃が根元から折れた刀をまだ握りしめていた。どれくらいの時間が過ぎていたのか、僕の体に吹きかかった悪党の血は固まり始めていた。
あの時が僕が初めて人の命を奪った場面だった。殺した相手の名前は今も分からないし、家族がいたのか、どこの出身だったのか、何も知らないままだ。
やがて旅に出て、人を切ることに躊躇いがなくなったかといえば、なくなったけれど、慣れることはない。
戦乱の時代は終わったとしても、全てものが富み、全てのものが平穏に暮らしているわけでもない。まだ暴力が必要とされる場面もあれば、暴力によって立つものもいる。
それは刀があるから、というような単純な問題ではないし、社会の問題でもないのかもしれない。
人間は必ず力を求める。
刀がなければ別の何かで暴力に走るのではないか。
僕が誰かを切ることも結局、それと同じこと。
相手に殺されたくないから、殺されるのを避けるために、逆に相手を切るのは理想とは程遠い。
別に理想などを追い求めるつもりはないけれど、いつか刀を手放せればと思うことも増えた。やろうと思えば、いますぐ刀をどこかへ捨て、代わりに鍬でも持てばいいのだろうけど、本当に刀を捨てる気にはなれなかった。
それが僕の愚かさか。
僕が黙り込んでしまったからだろう、ミズキは僕をじっと見つめていた。
その視線に視線を合わせ、僕は頷いた。
「つらい、という表現が正しいかはわかりませんが、たまに思い出して、悩むことはあります」
「それは、罰なんだと思います」
ミズキの言葉に、僕は少し笑った。
「かもしれませんね。人を殺したわけですから、罰を受けるのは当然です」
「その罰を、私も背負うことにします」
クズリバを切るという計画のことを言っているらしい。
現状では具体的な内容は出来上がっていない。
「罰は、僕が背負います」
そう言葉にして、僕は空の器を返した。
その時、ふいにその音が聞こえてきた。
最初はかすかな音だったのが確かな輪郭を持つ。
草が、葉が、枝が、根が踏まれる音。
ミズキが胡乱げに視線を巡らす。僕も視線を素早く走らせた。見えはしないが、音は近づいてくる。
人間が、近づいてくる。
(続く)
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