第15話 背中
◆
翌朝、まだ夜も明けないうちに僕は起き出し、身支度をした。
昨晩は風呂に入っていないが、許されるだろう。着物を整え、荷物を背負う。もちろん刀を腰に帯びている。
部屋を出ようとした時、襖の向こうに人の気配がした。
とっさに刀の柄に手が伸びたが、「もし」という声は例の女中の声だった。まだ本当に安堵はできない。誰かしらの策謀で、女中がそれに抱き込まれていないとも限らない。
「なんでしょうか」
低い小さな声を向けると、それで相手に意図は通じたようだ。返事があるが、声ははっきりしていた。
「今、表の戸を開けさせますが、それでよろしいですか」
まったく、至れり尽くせりだ。
お願いします、と口にしてから襖を開けたが、さすがに無防備に出る気にはなれなかった。少し待つが、女中が顔を出し、例の訳知り顔の笑顔になった。
「私の他には誰もおりませんよ。本当です」
でしょうね、とは答えたが、信じきるのはやめて慎重に廊下に出た。本当に女中しかいないし、人の気配もない。他の部屋の客はまだ寝ているのだろう。
「こちらへ」
静かな声で女中が促すので、彼女に続いて廊下を進み、階段を降りていく。
階段というのはこういう時、かなり気になる。上下で挟み撃ちにされると、ただの狭い場所で挟み撃ちにされる以上の極端な困難が生じる。足場が段差になっているので、相手が相当の間抜けでなければこちらの命はない。
実際には何事もなく階段を下りることができた。
番頭の姿はなく、待っていたのはまだ幼い少年だった。奉公人の一人か。女中が頷くと、その少年が表の板戸を開けてくれた。一枚だけ、人が通れるだけの幅だけだ。
「お世話になりました」
そう礼を言うと、女中が深く頭を下げ、少年は何か解せないという様子で一礼した。
僕はそっと表に出た。まだ日は昇っていないけれど、何も見えないほどの闇ではない。空気は肌寒いが、問題ではない。
静かな歩調で僕は通りを進み、ナクドの道場へ向かった。ナクドは一人で生活しているから迷惑はかからないだろう。クタという老人もこの時間はまだ道場にはいないと思われた。
通りはしんと静まり返っている。まだ起き出す人も少ない時間帯だ。
どこか乱すのが躊躇われるほどの静けさの中を進んでいくと、まるで自分がいるのが現実の世界ではないような心地になる。
例えばここは死後の世界、そうじゃなければ死後の世界に通じる通りで、僕は先へ進むごとに本当の死に近づいているのではないか。
昨日、斬り合いになって殺した相手はどうなっただろう。
もう遺体はどこかに引き取られただろうか。それとも、誰も引き取りに来ることなく、どこかに留め置かれているのか。誰が埋葬するのだろう。誰かが念仏を唱えるのだろうか。
誰ともすれ違わないまま、僕は明け方の街を一人行く。
いつの間にかよく知っている通りも、今は別の街角に見える。
道場の建物が見えてきた。人の気配は当然、ない。全くの静寂の中で道場も眠りについている。
僕は敷地に入り、建物の玄関を開けようとしたり叩くこともなく、裏手へ回った。勝手口がそこにあるのだ。そっと開けようとすると、意外にも開いた。
本当は開かないことが前提で、それから戸を軽く叩くつもりだった。
しかし予想外だ。何故、開いているのだろう? ナクドが忘れたのか。別の理由は何があるか……。
戸は開いてしまったのだ、僕はすり抜けられるだけの空間を作ると、中に入った。
「ナクド殿、アイリです。ナクド殿……」
返事はない。
人の気配はするともしないとも言えない。
昨日の今日だ。帰宅していないのか。だから裏の戸が開いているのか。
上がりこんで、台所の様子を見たがかまどに火があるようではない。匂いからして、昨日の夕方に使われたかも怪しい。
土間から上がり、居間へ。ここにも人の気配はない。ナクドは寝間にいるのかとそちらに進む。
何かが僕の感覚を刺激する。
言葉では言い表せないが、肌を刺すような違和感がある。
好ましいものではない。むしろ警戒するべきだ。
寝間と居間を隔てる障子を前に「ナクド殿?」と声をかけた。
返事は、なかった。
「ナクド殿」
返事はやはりない。
そっと障子を開ける。緊張したが、手が震えたりはしない。様々な緊張を体験するうちに、緊張しているほど冷静に、落ち着いて行動できるようになっている。
障子の隙間から中を覗くが、寝間には布団も敷かれていなかった。
留守なのか。
道場の方を覗いてみようと思ったのは、何故だったのか。
こんな時間に道場に誰かがいるわけがない、と思うのが自然だった。なのに僕はこの時、やはり言葉にはできない直感が道場を見ることを訴え、それに従うことになった。
廊下はかすかに軋み、その音がいやに耳障りだ。
廊下を抜ければ、そこが広い板の間だ。
足を止めたのは、極端な静寂に押し戻されたからか。
道場には、背中がある。座った人物が、こちらに背中を向けている。
明かりはほとんどない。戸も窓も閉め切られていて、明かりはないように見えた。それなのに真っ暗闇ではないのが不思議だと思ったが、よく見れば小さな灯火が隅に一つ、申し訳程度にあった。
その唯一の光源からの乏しい明かりが、男の背中を浮かび上がらせている。
ナクドだ、とわかった。
ホッとする思いで一歩、道場に踏み出した。
声をかけようとしたが、ナクドの方が先だった。
「昨日、人を切りましたね」
思わぬ言葉だった。一度、心臓が強く打ったが、次にはもう落ち着いている。
別に隠してはいないし、隠しようもない。僕はその場にいなかったが、ナクドはあの食堂を出てから道場へ帰ってきたわけだから、斬り合いの現場のすぐそばを通ったはずだ。
「ご存知でしたか」
そう応じて進み出るが、ナクドは動こうとしない。
その様子に心がざわつく。
僕はもう一度、足を止めた。
何かがおかしい。普段通りのナクドとは程遠い。発散する気配もだが、口調も違う。声の低さも違った。
普段の明るさはなく、昏い。
背中から漂う気配は、怒りだろうか。それと、憎しみ?
「ナクド殿?」
「アイリ殿ではなければ良いと思いましたが」
すっとナクドが立ち上がった。そして時間をかけてゆっくりと振り返る。
こちらを向いたナクドの顔を、あるかないかの光が照らす。
はっきりと表情が見えないはずなのに、彼の中にある負の感情が見て取れる。
それも溢れんばかりの、抑えきれない激情が。
「先に伝えておきます」
放射される気迫とは裏腹に、ナクドの声は静かすぎる、落ち着きすぎている。
「ミズキさんを、助けに行きなさい」
「ミズキを、助ける、ですか?」
返事はなかった。
もう話すことは何もない、というような沈黙は、言葉ではないもので破られた。
ナクドが腰に刀を差し込み、鯉口を切り、さっと刃を抜いた。
突然の展開に対応できる自分が、どこか愚かにも思えた。
背負っていた荷物を素早く床に落とし、刀の柄に手を置いていた。
抜かなかったのは、まだ聞くべきことがあったからだ。
最も重要なことだ。
「ナクド殿、何があったのですか」
返事はない。
返事の代わりに、じりっとナクドが間合いを加減した。
もう会話はない、という意思表示だった。
僕はあっさりと対話を諦めた。
刀を抜くことは、何よりも明確な対話の拒絶に他ならない。
僕はわずかに腰を落とし、すり足で弧を描くように立ち位置を変えていく。それに合わせて、ナクドも動いた。
薄明かりの中で、ナクドの刀が光を反射するのは、どこか幻想的ですらあった。
その美しさが、これから起こる残酷さと比べれば、天地の差だとはわかっていた。
わかっていても、回避する術はなかった。
(続く)
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