第5話 途上の一座
アナンターの父親はドゥルクと名乗った。今宵の食事は彼と若い者たちが作るのだという。
「冷えるだろう。焚火に当たっていてくれ」
そう言い残してドゥルクは野営地の端の方で作業をしている少年たちの方へ歩み去っていく。ダルシャンとジャニはしばし顔を見合わせたが、言われたとおりにすることにした。
藪の中に隠していたヴァージャを改めて目の届くところに繋ぎ直す。それから焚火に歩み寄り、火を囲むように置かれた敷物に腰を下ろした。
すると、少し離れたところでじっと様子を見ていたアナンターが寄ってきて、
「ずいぶん懐かれたな」
「……ええと」
丸い目でこちらを見上げる子どもに、どう声をかけたものか迷う。
そのとき、高く伸びる声がふいに空気を裂いた。
――獣の遠吠え。
ただの獣ではない。狼だ。
その声が四方八方から、互いに呼びかけ合うように響いてくる。
ジャニは思わず身構えた。森の中に養父とたった二人で暮らしていたころ、虎や狼は最も警戒すべき獣だった。幼い頃の怖かった思い出がどうしてもよみがえってしまう。
ダルシャンの手がそっと肩に触れた。
「――大丈夫だ、ジャヤシュリー。これだけ人の気配がすれば、獣は寄りつかんだろう」
「……はい」
小さな声で答える。それでもこの遠吠えは、首筋がざわつくほどに近かった。
「心配しなさんな」
しわがれた声にジャニは驚いて振り返る。いつの間にか、背後に白髪の老婆が立っていた。
古いが
「あの子たちなら、野営地は襲いやしないよ。今夜は兵士も寄ってこないだろうから、ゆっくりお休み」
それだけ言って老女は歩み去ってゆく。当惑して見送るジャニの隣でアナンターが笑んだ。
「ムルガナーばあちゃんが言うなら、大丈夫」
「……そうなのですか?」
「うん」
頷いたアナンターは、この話題は終わった、と言わんばかりに枯れ枝を拾い、小刀で削り始める。あまり子どもと交流したことのないジャニには、アナンターのこの気ままさがよくあるものなのかどうか判断がつかなかった。
片やダルシャンは、アナンターの手元を覗き込むように軽く身を乗り出した。
「何を作っている?」
「矢」
「矢か。矢羽根は何色にする?」
「青」
「なるほど。よい色だ」
褒められたアナンターは得意げに笑む。削り落とした余分な小枝を焚火に放り込んだ。
しゃん、しゃんと涼やかな音がした。見やると、豊かな黒髪と浅黒い肌をもつ美しい女――アナンターの母が歩み寄ってきたところだった。軽い音は、彼女の足飾りにつけられた鈴の鳴る音だったようだ。
「アナンター、お前、遊んでもらってるのかい?」
「ん」
「そうかい。すまないね、お客さん方」
言いながら女は、皿代わりなのだろう大きな草の葉を地面に置く。そしてジャニとダルシャンに視線を向けて微笑んだ。
「挨拶が遅くなっちまったけど、あたしはディーパ。うちの子が世話になったね」
「いえ……」
「ゆっくりしていきな」
目を細め、ディーパは他の敷物の前にも葉を並べていく。野営地の端の方から少年たちが二人がかりで鍋を持ってくるのが見えた。
出された食事は豆の煮込みと青菜を細かく刻んで煮たものだった。知らない香りのする香辛料も使われていたが、どこか養父と暮らしていたころが思い出されて懐かしかった。一部の大人は素焼きの酒瓶を回し合っていたが、念のためジャニもダルシャンも断った。
食事が終わりかけたとき、酒が入って機嫌のよくなったらしいディーパが突然に声を上げた。
「ちょいと、誰か! 音楽をやっておくれよ」
若者の一人がからかうような目でドゥルクを見やった。
「だそうですよ、座長」
「俺を見るなって。お前が何か歌ってやったらどうだ」
「
そうだそうだ、と焚火の周りから声が上がる。ディーパもあぐらをかいて頬杖をつき、笑みを浮かべて夫を見つめている。やがて諦めたらしいドゥルクがかぶりを振った。
「――やれやれ。特別だぞ」
ドゥルクは立ち上がり、近くの荷車から布の袋を二つ取ってきた。中から現れたのは太鼓だった。大きさはそれぞれ人の頭程度だろうか。片方が一回り小さく、いずれにもつややかな革が張られている。
改めてあぐらをかいたドゥルクが太鼓を軽く叩くと、高い音が響いた。話したり囃したりしていた人々が口を閉じ、一斉に彼の方を向く。音を試すような無造作な動きが、やがて舞うような手さばきに
――音が踊る。
高く軽やかな、それでいて異なる二つの太鼓の音が競い合い、鮮やかな拍子へと編み上げられていく。
王宮の楽師が奏でる太鼓を聴いたことはあったが、ドゥルクの腕はそれに全く劣らぬように思われた。
ふいにディーパが立ち上がった。酒の器を隣の若者に預けたかと思うと、焚火の前に進み出て、あでやかに舞い始めた。
一同がわっと歓呼の声を上げる。焚火の周りから手拍子が起こった。
ディーパが回るたびに、長い裾がふわりと円の形に広がる。一歩を踏み出すたびに、足首についた鈴が鳴る。その音がドゥルクの奏でる音楽と涼やかに絡み合い、夜空へと昇っていく。
美しい光景だった。少しだけ、婚礼前夜に催された指甲花の祝いを思い出した。
あのときも侍女たちが踊っていた。――パーヴァニーが、踊っていた。
目じりに熱がにじむ。まぶたを伏せ、じっと音楽に耳を傾けた。
踊り終えたディーパが、華麗に礼をして元の場所へ戻っていった。拍手や指笛が響く中、ドゥルクも太鼓を袋にしまい始める。そこにダルシャンが声をかけた。
「旅芸人だったか」
ドゥルクが目を上げ、うなずいた。
「ああ。諸国を回って日銭を稼ぐ、しがない芸人一座。それが我々だ」
「そうか。あなたも奥方も、実に見事な腕前だ。王都の楽師や踊り子にも引けを取らんだろう」
ダルシャンが言うと、ドゥルクは余裕の漂う笑みを浮かべた。
「そいつは光栄だ。ま、王都にはあんまり近づきたくないがな」
「異なことを。王都は稼ぎやすかろうに」
するとディーパが微笑んで言った。
「かもね。でもあたしたちは、これからパラーンタカへ行くのさ。ちょいと方角が違うね」
「パラーンタカ? ニーラ河畔の街ならスヴァスティの方がよほど大きいだろう」
ダルシャンが首を傾げると、ドゥルクが頷いた。
「いいんだ。そういう時期なんだよ」
その言葉にダルシャンはますます怪訝な顔をする。分からん、と言いたげな視線を投げてくるので、ジャニも首を傾げた。
※
ドゥルクたちが余った天幕を使わせてくれた。それをヴァージャを繋いだ場所の近くに張り、中に入る。お世辞にも広いとは言えない空間だったが、昔住んでいた家のようで逆に居心地がよかった。
貸してもらった衣を寝具代わりに肩にかけ、ダルシャンを見やる。黒い瞳がこちらを向いた。
「……これから、どうします?」
そう声をかければ、ダルシャンは小さく溜め息をついた。
「ちょうど同じことを考えていた。おそらく他の関所にもサンジタの手は回っているだろうな」
ジャニも頷いた。さっきの関所は、普段であれば静かだと聞いている。それがあれだけ警戒されていた以上、他も推して知るべしだろう。
「今すぐの出国は現実的ではないと言わざるをえない。そうなるとしばらく市井に身をひそめるほかないだろうな。近くの街にでも行って、頃合いを見計らうか……」
「……そうですね」
ジャニはしばし考えた。そして、ひとつの可能性に思い至った。
「――ダルシャン様。しばらくの間、この一座に同行を頼めないでしょうか」
「何?」
ダルシャンがまばたいた。
「向こうが男女の二人連れを捜しているなら――大所帯の旅芸人一座にまぎれるのも、そう悪くないのではないかと」
「……ふむ」
ダルシャンが腕を組む。ジャニは考えながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「これは私の印象にすぎませんが、裏表のなさそうな人たちに思えます。それに、皆さんは大河ニーラの方に行かれるのですよね。国境近くの街に留まれば、捜されることもありそうですが……移動し続けるのであれば、かえって安全な気もします」
ダルシャンの黒い瞳がじっとこちらを見つめる。ややあって、彼の口の端が上がった。
「そうだな……よい考えだ。よくぞ思いついた、ジャヤシュリー」
彼が嬉しそうにするのを見るのは、ひどく久しぶりな気がした。
そっと手を伸べ、彼の膝に触れた。
「明日、お願いしてみましょう」
そうジャニが言うと、ダルシャンは目を細めて頷いた。
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