第4話 森の焚火

 アナンターと名乗る子どもは、軽やかな足取りで森の奥へと進んでいく。太い蔓を押しのけ、木の根を飛び越え、そしてもう一度立ち止まり、こちらを待つように振り返った。ジャニとダルシャンは顔を見合わせた。


「どうします? ダルシャン様……」 


 ジャニが問いかけると彼は眉根を寄せた。


「うむ……あの子どもが危険だとは俺にも思いがたいが」


 言いたいことは分かる。ただただ得体が知れないのだ。ジャニの知る構造の中で生きている存在のようには見えなかった。それはダルシャンにとっても同じことだろう。

 だが、ここでまごついていては危険であることだけは確かだった。


「……ついていってみましょうか」

「そうだな。少なくとも王都の手の者ではなかろう。それだけでまずは十分だ」


 言ってダルシャンはヴァージャの手綱を引き、子ども――アナンターの待つ方へと足を踏み出す。ジャニもそのあとに続いた。


 生い茂る植物や張り出す木の根を避け、アナンターを追って進んだ。しばらく行ったところで、ふいに人の話し声がした。ヴァージャが耳を立て、ダルシャンが警戒するように目を凝らす。その視線を追うと、木々の向こうから赤みを帯びた光が漏れているのが見えた。


「着いたよ」


 アナンターが光を――おそらくは焚火のそれを指さし、駆け足で向かってゆく。細い腕を伸ばし、丈高い草をぐいと押しのけた。硬い緑の葉の間に現れたのは、木々に囲まれた空き地だった。

 ただの空き地ではない。野営している人々がいる。二人、三人、いや――十名以上は間違いなくいるだろう。鮮やかな色に染められた衣が目立ち、金属の装飾が焚火にちらちらと光る。華やかだ。だが、王宮で目にするたぐいの華やかさとは何かが異なっていた。

 いったい何者だろう。見たこともないような人々だ。

 ジャニの疑問を汲み取ろうとしたかのように、ダルシャンが呟いた。


「旅芸人か……?」


 そのとき、アナンターが空き地にひょいと飛び出していった。


「父さん」


 がさ、と音を立てて草が元の位置に戻る。空き地の様子は見えなくなった。代わりに、朗々とした男の声が響いた。


「アナンター! お前、また勝手にふらふらと出ていって……危ないことをするなと何度言えば分かるんだ」

「平気だよ。僕、逃げるの得意だから」


 次いで聞こえたのは、快活そうな女の声だった。


「はは、そいつは確かに。森の中じゃ無敵だもんねえ。――ほらね、あんた。心配するなって言ったろう?」

「お前が心配しなさすぎなんだ」


 周囲からも笑い声が上がる。穏やかな空気だった。その温かさにつられるように視線を動かし、草の向こうを覗こうとしてしまった。ほんの少しの体重移動だった。だが運悪く、ぴしり、と足元の小枝が折れた。

 ジャニはその場で固まった。野営地の会話もぴたりと止む。ややあって、男が警戒感のにじむ声を発した。


「……誰だ?」

「大丈夫。僕がお客さんを連れてきた」


 そう答えたのはアナンターだ。ぱたぱたとこちらへ駆けてくる。草が音を立ててかき分けられ、ひょこりと顔が覗いた。


「お姉さん、お兄さん。出てきて」


 ダルシャンは一瞬ためらうようにしたが、ヴァージャの手綱をそばの枝にかけて、慎重に進み出た。ジャニも後に続き、野営地を見渡した。


 広い空き地にはいくつかの焚火が燃えており、馬や驢馬ろばなどの姿があちこちにあった。十数名の人間が天幕を張ったり料理をしたりと思い思いの作業をしていたようだったが、今はいずれも手を止め、こちらをじっと見つめている。

 アナンターは彼らのうち、ジャニとダルシャンに最も近い位置に立つ二人の元へ駆け寄った。片や屈強な中年の男、もう片方は美貌の女だ。抱き寄せられたアナンターには、どこか二人の面影があった。おそらく両親なのだろうとジャニは思った。


「何者だ?」


 アナンターの父と思しい男が用心深く目を細めて問いかける。ダルシャンが静かに答えた。


「突然に申し訳ない。我々は無辜むこの罪にて兵士に追われる身だ。その途上で偶然、お二人のお子に出会った次第である」


 すれば、男は濃い眉をひそめた。


「待て……兵士に追われているとは聞き捨てならないぞ。何の罪だ?」


 ダルシャンが答えに迷っているのが分かった。だが、ここで何も言わないことはかえって怪しまれる理由を作るだけのような気がした。


「……人を殺した罪を着せられています」


 ジャニが言うと、アナンターの両親は表情を硬くした。周囲の人々からもざわめきが上がる。アナンターが両親の顔を見上げ、言った。


「この人たち、悪い人じゃないよ。自分たちが追われてるのに、僕を助けようとしてくれた。別に大丈夫だったけど」

「何? 本当か。なぜそれを早く言わんのだ」

「父さんが聞かないから」


 む、と男が唸る。女が代わりに口を開いた。


「この子を助けたって……何があったんだい?」

「流れ矢が当たりそうになって……それで」


 両親が息を呑み、アナンターの顔を見やる。当のアナンターはまじめくさった表情で頷いた。


「うん、すごかった。さすがの僕でも驚いた」


 父親が溜め息をついて額に手を当てる。母親は何事かを呟き、まじないをかけるような手つきでアナンターの額と頬を触った。

 アナンターの父親が一歩前に進み出た。ジャニは身を固くしたが、彼の口から発された声は穏やかだった。


「……我が子を救ってくれたことに、まずは感謝する」


 ダルシャンがジャニを見やる。ジャニは恐縮してかぶりを振った。


「確かに、あんたたちは悪人には見えん。それに、それなりの礼をしなければアナンターも納得せんだろう。とりあえず――たいしたものはないが、食事でもどうだ」


 言って男は焚火を示す。ジャニが黙って見上げると、ダルシャンが視線で頷いた。


「……恐れ入ります」


 そうジャニが答えると、アナンターが至極嬉しそうに微笑んだ。

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