第49話 香りは帰る——最後の座席
朝の港は、晴れていた。けれど店の前はざわついていた。
「アマラ」の入口に、見知らぬ三脚とマイク。スマホを胸に構えた若者が、「金属粉、ほんとに大丈夫なんスか?」と軽い口調で言い、コメント欄の炎をそのまま手にぶら下げている。
「おはようございます」
遠藤茜が暖簾を半分だけ上げ、抑えた声で言った。「本日は再開の日です。——が、開店前に**公開の“検証”**を行います。短く、公正に。静けさを守れない方はご遠慮ください」
砂原蓮は、厨房で深く息を吸った。ステンレスの小鍋は磨かれて光る。柄の角度は昨日と同じ、油はいつもの深さ。
塩見幸一は欄間の角度を半歩だけ下げ、換気扇を弱にする。「今日は、匂いが言い訳になるようにじゃなく、匂いが真実になるようにやる」
片桐が入ってきた。襟元はノーネクタイ。手には役所の封筒。「市の衛生課が“参考立会い”。動画の“磁石検証”の件、事実関係の確認だけで済みそうです。——むしろ、こちらから開いた調理で見せましょう」
扉が開き、帽子の老婦人が一歩、中へ。いつもの席ではなく、入口近くの壁にもたれて立つ。「今日は“最後の座席”に座らないわ。——店が話すのを、聞く日だから」
午前10時。
茜が黒板の下段に三行を書いた。
「1)器具はステンレス統一/金属衝突なし
2)“音”で火を止める(録音基準あり)
3)待ちは3分。理由は『香りが席に座るため』」
「まず、“磁石動画”について」片桐が前へ出る。声は低いが、はっきりと通る。「**現場のステンレス器具では磁性はごく弱く、工程上“削り出し”は生じません。**また市の簡易検査でも異物は確認されていません。——が、疑う権利はある。だから、見て、嗅いで、食べて確認してください」
ざわめきが少し静まる。
塩見は蓮に顎で合図した。「2皿、同じ工程。違うのは“待ち”だけだ」
1皿目:ピクルス——席——タルカ——待ちなし——盛り付け。
2皿目:ピクルス——席——タルカ——待ち3分——盛り付け。
レードルの先が油面に触れ、店内スピーカーから小さく“基準音”が鳴る。
チ、チチ——カラン。
香りは、椅子の高さで滑るように動く。
1皿目が前列のテーブルに置かれ、2皿目の3分の砂時計が返される。
スマホのカメラが砂を映す。音はない。待ちの音は、誰の胸にもともとある。
「はい、比べてください」茜が微笑む。「“匂いの穴”がある方と、ない方を」
前列の男がスプーンを口に運び、眉を寄せる。「……香り、薄い?」
隣の女性が2皿目を嗅ぎ、目を丸くした。「こっちは“先に来る”。鼻の奥の、座る場所に」
衛生課の職員がマグネットシートで皿の縁を撫で、首を振る。何も付かない。
片桐は手元の紙に“異物なし/待ちによる香りの差を感知——参加者多数”と走り書きした。
「料理は、“早く正しい”より“正しく遅い”が、時々勝つ」
塩見の声は、いつもより少しだけ柔らかい。「数字で証明できることもあるし、席に証明させることもある。——ここは、席でやる」
ざわつきは、やがて拍手に変わった。
その拍手に紛れて、店の外で誰かが咳払いをした。
灰色の帽子。古びたコート。背の高い男。
帽子のつばの影で、目は見えない。けれど、背中は写真と同じ角度で、入口に立っていた。
塩見の指が、わずかに震えた。「……父さん」
空気が一枚、換わった。
帽子の男は会釈もそこそこに、胸ポケットから封筒を出した。薄茶の紙。——宛名、「香辛航路協会」。差出人、S.S.
「遅くなった」
男の声は、潮に擦れていた。「この封筒、志帆に渡すはずだった。渡せないまま、港の倉庫に置いて、逃げた」
「S.S.は、**Shiomi Saburō(塩見三郎)**であり、**Sunahara Shiho(砂原志帆)**でもある」
茜が小さくつぶやいた。男は頷いた。「二人で始めた。香りが航路を持つという無茶な夢を」
店内の視線が、一斉に封筒に集まる。
男は封を切らず、蓮に渡した。「開けるのは君の役目だ。店を続ける人の手で」
「……どうして、今」塩見の声は低い。怒りというより、乾いた海風のようだった。
「志帆が亡くなって、夢は半分死んだ。残り半分は、君に嫌われる形で続けた」
男は視線を外に向け、港の空を一度眺め、戻す。「——だが、**“最後の座席”**を見て、帰る道が見えた。席がある限り、人は帰れる」
ざわめきの中、もう1つの影が店に入ってきた。
オイル業者の笠松——セントラル化を押していた男だ。顔は硬い。手には透明な袋がひとつ。「誤解を解きに来ました」
「誤解?」片桐が一歩、前に出る。
「“磁石動画”の素性です」
笠松は袋を掲げる。中には、鉄粉。——工場の研磨工程で出る、ごく細かい粉。「投稿者が、うちに営業に来たフリーのコンサルタントでして。『これ、カレーに入れて“炎上→和解→PR”の仕掛けにしましょう』と言われた。私は断った。……だが誰かがやった」
店の空気が、一瞬だけ凍る。
笠松は深く頭を下げた。「疑いを呼ぶ下地を作ったのは、私だ。標準化を急がせた。“早く正しい”で勝てると信じすぎた。すみません」
沈黙。
老婦人が、壁にもたれたまま言った。「“早く正しい”が悪いんじゃないのよ。“早いしか正しくない”って顔をするのが、寂しいだけ」
塩見が短く笑い、皿を一枚、笠松の前に置いた。「食べて座ってから、話そう」
笠松は一口食べ、しばらく黙った。「……席が、先に『おかえり』と言う。営業の時に、こんな言葉を覚えておけばよかった」
茜が黒板に、四行目を書き足した。
「4)“早い”と“正しい”は仲直りできる——席が仲直りさせる」
検証が終わると、茜は封筒を蓮に渡した。
蓮はゆっくり封を切る。紙が鳴る。
中から、航路図が一枚。黒い線が波の上を走る。港から港へ、小さな丸が等間隔につながる。
端に、短いメモ。
——音は海から来る。
——オイルは陸を渡る。
——席は、町で待つ。
末尾に、**S.S.**のイニシャル。ふたつの名前の、ひとつの手跡。
「次は、オイルの道へ行け」
塩見の父は、静かに言った。「志帆と決めた。港で“音”を拾い、陸で“オイル”を渡し、町に席を残す。それが“香辛航路”と“油路(オイル・ロード)”だ」
片桐が口をひらく。「会社は、別解を正式採用します。本店は“音レシピ”で継承、外販は体験設計。『最後の座席』の思想は、規定に入れます。——笠松さん、人にやさしい標準化、一緒にやりませんか」
笠松は驚き、力なく笑った。「負けたな。いや、学んだと言った方がいい。やらせてください」
正午の鐘が遠くで鳴った。
茜は暖簾を全て上げ、札を裏返す。「開店します」
最初の客は、少年と父親。
少年は胸を張って“待ち係”を名乗り、砂時計を高く掲げた。「3分!」
父親は笑って、「先に匂いに座ってもらおう」と席を引いた。
**“最後の座席”**は空いたまま。
空いているのに、写真の中の人影がそこに座っている気がした。
塩見の父は、その席の方を向いて、小さく礼をした。「志帆、遅れた」
塩見は父の横に立ち、深く頭を下げた。
怒りより前に、椅子が二人を座らせた。席がある町は、喧嘩の順番も教える。
午後、広報が小さな質問を出した。「この物語を、一言で?」
茜は短く答えた。
「“待つと、家が先に座る”。」
拍手が、自然に広がる。
その音が落ち着いたころ、塩見は片桐に目で合図した。「“憲章”を作ろう」
「憲章?」片桐が首をかしげる。
「匂いの憲章だ。誰でも使える、短い約束。
——“最後の座席”をひとつ、残す。
——“待ち”を、説明できる言葉で伝える。
——“音”で火を止めるとき、叩かず、鳴らす。
——“香り券”は、町で回す。
——人が帰れる匂いを、残す」
黒板に、五つの短い行が増える。
それはレシピではない。けれど、町が続くための作り方だった。
夕方、老婦人が帽子を手に、**“最後の座席”**の前で立ち止まった。
彼女は席に向かって小さく言った。「今日は、ここでいい?」
椅子は、もちろん返事をしない。けれど、香りが先に座って微笑んだ。
笠松は会計の横で封筒に紙を差し入れた。香り券。
その上から片桐も一枚、差し入れる。
塩見の父も、帽子のつばを触りながら、一枚。
封筒は、ふわりと重くなった。**誰かの“ただいま”**の重さだ。
閉店間際。
蓮は、封筒の航路図をもう一度広げ、茜と並んで見た。黒い線は港から港へ、オリーブの印を辿っている。
「次は、イタリアンか」塩見が言う。「塩とオリーブの帰り道。海で“音”を拾い、陸で“オイル”を渡す」
「行きましょう」茜が頷く。「席は、町で待つから」
港の方角で、遅い汽笛が一度だけ鳴った。
椅子は音を立てず、そこにいた。
香りは、帰る。
帰るから、人は続けられる。
――
匂いの一句:待つと家、香りが先に椅子へ座る。
(作中注)“最後の座席”:空席のまま残す象徴の席。効率ではなく“帰り道”のための余白。座る人がいなくても、匂いが先に座る日がある。
【毎日13時に実食】旅系グルメ小説〜究極のグルメ〜 湊 マチ @minatomachi
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