第43話 最後の座席
翌朝の港は、昨夜よりも潮の匂いが軽かった。
「アマラ」の扉を開けると、木の床に日の帯が伸び、粉の小さな粒が光をはじいた。砂原蓮はいつもより早く出てきて、窓枠を布で拭いていた。指先の動きが落ち着いている。眠れなかったはずなのに、不思議と目が澄んでいる。
「思い出会、今日もやります」
遠藤茜がそう言って、レジ横に昨日の告知紙を貼り直した。小さな文字で“写真とお話をお持ちください”と添えてある。
塩見幸一は、客席の椅子を1脚ずつ持ち上げては床に置き、脚のキズの向きで風の通りを確かめていた。
「椅子で、わかるんですか」蓮が尋ねる。
「木は風を覚える。脚の擦り減りかたが、空気の道を教える」
塩見は隅の席——店の最も奥、壁と窓の角に挟まれた小さなテーブルの前で動きを止めた。「ここだな」
扉の鈴が鳴り、老婦人が入ってきた。昨日の帽子に、今日は薄い水色のスカーフ。「早く来すぎたかしら」
「いえ、助かります」蓮が笑った。「今日は席を少し入れ替えてみるところで」
「隅の席は、そのままにしておいてね」老婦人は指で席の背を撫でる。「ここは、風がやさしいから」
茜はノートを開き、席の地図を描き始めた。入口、カウンター、窓。街からの風と、厨房からの湯気の流れ。塩見は入口の上にある小さな欄間を開け、換気扇の強さを一段落とす。
「香りは、走らせすぎると転ぶ」
そう言って、塩見は蓮に指示をした。「今日は早仕込みのピクルスを先に出す。酸味を軽く舌に置いて、香りを受ける準備をする。カレーは、そのあと。タルカは席を見てから」
「席を見て、ですか」
「香りは人に向かって歩かせる」
10時を過ぎるころ、魚屋の若旦那が昨日の続きを話しに来た。「志帆さん、雨の日はね、入口を半分だけ開けてた。『風の肩を借りるの』って言って」
古い製麺所の奥さんは写真を持ってきた。開店祝いの日の一枚。隅の席で志帆が笑い、向かいの席は空いている。「あの人は、よく先に椅子を引いて待ってたのよ。『おまえの匂いが先に来るから、俺が遅れないように』って」
隅の席は、誰もいないのに温かい。
塩見は、その椅子の足を紙やすりでほんの少しだけ整えた。カタン、と音が軽くなる。椅子を引くと、木が床を撫でる音がやわらかく伸びた。
昼前、片桐が現れた。今日はノーネクタイ、目の下に薄いクマ。「昨日の件、上とも調整しました。……“検証”としてなら、今日だけはクローズに目をつぶる、と」
「ありがたい」塩見は短く頷き、手を止めない。「あなたも座ってください。今日は“試食会”じゃなく、“帰り道の練習”です」
「帰り道の、練習?」
「うまい匂いは、家への矢印になる」
塩見の言い回しに、片桐は眉をひそめたが、それ以上は言わなかった。茜が、彼の前にも小さな水を置き、笑って頭を下げた。
仕込みは進む。蓮は昨日よりゆっくりと手を動かす。玉ねぎが鍋の中で色を変える時間を、急がない。指が覚えるまで、何度も“軽く砕く”をやり直す。カスリメティの葉が、指先の温度で少しだけ呼吸を取り戻す。
「ピクルス、できました」茜が浅い小皿に盛る。大根、人参、玉ねぎ。甘やかで遠慮のある酸味。
「じゃあ、やってみよう」塩見は老婦人に向き直る。「昼前に、少しだけ開けます。いつもの席に。……“先に座ってる匂い”が、ちゃんと来るかどうか」
「開店」の札を裏返す。客は、老婦人と、魚屋の若旦那と、偶然通りかかった親子連れだけ。
蓮はピクルスを先に運び、次にカレーの皿を準備した。タルカの鍋を弱火で温め、入口と隅の席の距離を目で測る。
「タルカ、行きます」
油面にレードルの先が触れる。チ、チチ。昨日よりも、音がやわらかい。
香りが、隅の席へ向かって歩くのがわかる。入口の欄間からの風が、香りの肩を押す。老婦人は目を閉じ、スカーフの端を指に巻きつけた。
「……あの人、先に座ってます」
老婦人の声が、ほとんど息の温度だけで出た。「席、引きました。いま」
蓮の喉が上下した。片桐は腕を組み直し、余計な言葉を吞み込んだ。
魚屋の若旦那が、思わず拍手した。「これだよ、これ。入口から回って、ここでふわっと来るやつ」
「“匂いの帰り道”ができた」塩見は静かに言った。「提供は、この順番でいく。ピクルス——席の確認——タルカ——3分の待ち——カレー」
「3分、待つんですか」片桐が反射的に口を挟む。「回転が」
「待ちは、儀式です」塩見は視線を上げない。「店が客を迎える時間。客が席に、自分の今日を置く時間でもある」
茜が横からフォローした。「3分で、空気が落ち着いて香りが座るんです。数じゃなくて、場の静けさが決め手」
「……静けさ、ね」
片桐はテーブルの木目を指でなぞった。何か言いかけて、やめた。代わりにピクルスを口に運び、噛む回数を丁寧に数えた。
その間にも、店の外では小さな出来事が続いた。
親子連れの子は、ガラス越しに鍋を見つめ、母親の袖を引っ張る。「いい匂い。家にも帰れる匂い」
母親は笑って、子の頭を撫でた。「家だよ、ここも」
“3分”が過ぎた。蓮は皿を運ぶ。隅の席に置くときだけ、ほんのわずかに動きをゆっくりにした。
老婦人はスプーンを握り、ひと口。二口。少しだけ顔を上げた。
「今日は、先に席を引く音まで、聞こえました」
店の空気が柔らかく緩んだ。
蓮はカウンターの向こうで、皿の縁についたソースを布で拭った。手が、昨日より静かだ。
昼の検証は、2度繰り返した。
1度目は、入口の欄間が開きすぎて香りが遠くへ走った。2度目で、風の肩を借りる角度をつかむ。
塩見は数値を残さない。代わりに、言葉の短冊を書いて蓮に渡す。「風、半歩」「椅子、軽く」「待ち、息1つ分、長く」
「数えられないと不安になります」蓮が苦笑した。
「不安は、いい調味料だ」塩見は返す。「ただし、しょっぱくしすぎるな」
午後、思い出会の人たちが途切れた頃、片桐が唐突に言った。「“最後の座席”を、作りませんか」
「最後の?」茜が首をかしげる。
「この席です」片桐は隅の席を見た。「空いていたら、必ず1席は残す。誰かが帰ってくる匂いのために。……非効率ですが、象徴になる」
茜と蓮が驚いて顔を見合わせる。
塩見は、短くうなずいた。「いいと思う。店に、ひとつ儀式が増える。人は儀式のある場所を、帰り道にする」
「ただし」片桐は現実の顔に戻る。「他の席の回転と、提供時間の管理は要ります。“ゆっくり”は、全席ではできない」
「ゆっくりは、全員にするものじゃない」塩見が応じる。「必要な人に、とどくようにやる」
話がまとまると、蓮は小さな札を作った。“最後の座席”。紙に手書きの文字、角は丸い。
老婦人はその札を見て、笑った。「私が来ない日にも、その札は置いておいてね。どこかで誰かの匂いが、先に座れるように」
「置きます」蓮は頭を下げた。「いつでも」
夕方、港の空が薄紫に変わり始めたころ、蓮は1人で鍋の前に立った。
茜はスマホをオフにして、椅子に腰かけた。録らない。今日は、匂いの記憶を“場に残す”回だ。
「行きます」
蓮の声が、昨日より低く、芯がある。
チ、チチ——。音が、油面で小さく弾み、すぐに落ち着く。タルカの香りが、欄間から入る風と肩を並べて隅の席へ歩く。
席は、空いている。だが、空いているからこそ、そこに座る匂いがある。
片桐は立ち上がらずに、短いメールを1通だけ打った。すぐにポケットにしまう。
彼は誰にも聞こえない声で、「……帰ろう」と言った。自分に向けて。
店を閉める支度をしていると、老婦人が扉のところで振り返った。「明日も、あの席に“おかえり”をお願いします」
「はい」蓮は答えた。「明日も、必ず」
彼は厨房に戻り、最後の鍋を磨く。底に映る自分の顔は、疲れているが、どこか明るい。
塩見は壁の写真の前で立ち止まり、若い志帆と隣の背中の男性に会釈した。写真の中の風が、少しだけこちらへ吹き返した気がした。
「順番を、守ろう」塩見が言う。「ピクルス——席——タルカ——待ち——カレー。店の呼吸だ」
「はい」蓮は大きく息をした。「店の呼吸、覚えます」
茜は黒板にチョークで今日の学びを書いた。“匂いは人に向かって歩く”。
その下に、小さくもう一行。“最後の座席は、誰かの帰り道”。
港の方角で、ゆっくりと汽笛が鳴る。
店の灯りを落とすと、隅の席だけが、外の残照を受けて薄く浮かび上がった。
――
匂いの一句:椅子を引く、見えない手まで香りは呼ぶ。
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