第42話 匂いの穴は誰のもの
海の方角から、潮と油の混ざった匂いが風に乗ってくる。
港町の路地の突き当たりに、カレー専門店「アマラ」はあった。細い階段を2段上がると、磨かれた木の扉。取っ手の金属は手に馴染む丸みで、何人もの常連がここを開け閉めしてきたのだと教えてくれる。
「……閉め切るぞ。今日は客を入れない」
開店前の厨房を見回し、塩見幸一は短く告げた。低い声に、店主の砂原蓮が驚いたように目を上げる。
彼はまだ30代半ば、痩せているが、手の甲に薄く火傷の痕が点々とある。努力の痕跡は、料理人のもっとも誠実な名刺だ。
「え、でも、監修って……。今日は試食会のはずじゃ」
「試食はする。だが、客は入れない。いま欲しいのは拍手じゃない、“顔”だ」
「顔……?」
「食べさせる相手の、だ」
傍らでスマホのカメラを準備していた遠藤茜が、視線だけで「いつものやつ」と笑う。彼女はSNSのグルメライター、10万人のフォロワーがいる。けれど、この男の横に立つときは、ひとりの聞き手になることを選ぶ。
「じゃあ、まずは作ってください。レシピの通りに」
「……はい」
蓮が鍋を火にかける。油が熱でゆらぎ、香辛料の小瓶が静かに並ぶ。タマネギが汗をかき、焦げつかせぬよう薄い木べらでこそぐ音。店は狭い。しかし狭いことが、匂いを壁に撫でさせ、天井に遊ばせる。
塩見は黙って見ていた。火加減だけを、ときどき顎で指す。茜は工程と音を録る。
やがて、タルカ——熱した油にスパイスを落として香りを立ち上がらせる仕上げ——の手前で、蓮の動きがほんのわずかに固くなる。
「……行きます」
レードルの先が油面に触れ、チチ、と弾ける。
香りが立ち上がる——はずだった。だが、鼻の手前で、薄くほどけて消える。最初の一撃がない。胸の奥に灯る前の、息だけが置き去りにされる。
「味は、合っている」塩見は言った。「だが、立ち上がりが死んでいる」
蓮は唇を噛む。「すみません……何度やっても」
「謝るのはやめよう。うまい、まずいの問題じゃないからだ」
塩見は皿に近づき、空気を嗅ぐように目を閉じる。「ここに穴がある。匂いの穴だ」
「穴……」
「誰の穴か、を探す」
入口が開いて、スーツ姿の男が顔を出した。「おはようございます。片桐です。今日はパネルの方々も——え、クローズ?」
外部資本のプロジェクトマネージャー、片桐だった。きっちりしたネクタイ、スマートウォッチ。急ぎの世界の住人。
「今日は店を閉めます」塩見が淡々と言う。「試食は俺たちだけ。条件が整っていない」
「困りますね、スケジュールが——」
「匂いにスケジュールはない」
「は?」
「あなたも、帰り道に“この匂いがすると少し早足になる”って道があるでしょう。そういうやつだ」
片桐は言葉を詰まらせ、咳払いをした。「……で、何をするつもりですか」
「思い出会だよ。亡くなった創業者の」
店の壁には白黒の写真がいくつか飾られている。鍋の前で笑う女性——志帆。エプロンのポケットに片手を突っ込み、もう片方の手でレードルをくるくると回している。客席のショットには、小柄な老婦人が、隅の席で湯気の向こうに微笑んでいる。
そして1枚。若い志帆と、背中だけの男性が並んで映っていた。帽子のつばが影を落とし、顔は見えない。
「この人は?」茜が指をさす。
「……わかりません。母の古い友人か、仕入れの誰かか」蓮は首を振る。「母は、あまり話をしない人で」
「話さない人ほど、香りにものを言わせる」塩見が写真を見つめる。「今日は開店をやめて、話そう。ここで母さんのことを」
茜は「聞き書きノート」を広げた。片桐は時計を見たが、やがてため息をつき、椅子に腰を下ろす。「30分だけですよ」
「30分もあれば、匂いは喋り出す」
厨房の火を落とし、客席の照明を少し落とす。蝋燭のような小さなライトが、木のテーブルに丸い輪を作った。
最初に来たのは、近所の魚屋の若旦那だった。「志帆さんはね、朝、道の真ん中で立ち止まって、海からの風を1回吸ってから店に入ったんだよ。『今日は潮が甘い』とか言ってさ」
続いて、常連の老婦人。帽子のつばに小花の刺繍。「あの席にね、いつも座ってました。あそこ、入口からの風がちょうどよく回るんです」
「旦那さんと?」茜が尋ねる。
「ええ。あの人、席を取るのが早いから。匂いが、先に『おかえり』って言うの」
老婦人は笑って皺を深くした。
蓮は、その笑顔を真っ直ぐ見られずに俯いた。膝の上の手が、少し震えている。
「母の味を、戻したくて」蓮の言葉は、すぐに乾いて床に落ちた。「レシピは、全部あります。量も時間も、何百回も計りました。でも、あの……」
彼は顔を上げられないまま、空中に手を上げた。「この辺にあるはずのものが、見えなくて」
沈黙。塩見はその沈黙を、破らなかった。
代わりに、彼は静かに立ち上がり、壁の時計の針の音に耳を澄ませた。チ、チ、チ。
やがて、棚の奥から古い小瓶を一本取り出した。ラベルの角がすり減っている。中には淡い緑色の乾いた葉——カスリメティ。
「これは」
「お母さんの癖を覚えているか?」塩見が問う。「仕上げの前、何かしていた」
「……ポケットに手を入れてました。エプロンの。で、ふうっと息を吐いて」
「それだ」
塩見は葉を指先でそっと潰し、蓮に手渡した。
指先に、乾いた葉の粉が少しだけつく。匂いがひと筋、立つ。
蓮は目を閉じた。
「……指の温度だ」
声が細く震えた。「母の手の、温度です。熱くない、でも冷たくもない。あの人の、朝の手」
「手は、覚えている」塩見は言う。「それを皿に連れてきなさい。今日は客がいない。失敗していい」
蓮は鍋の前に立った。火を弱め、油を温め直す。手を洗い、よく拭き、葉をひとつまみ。指で軽く砕く。
茜はカメラを下ろした。録らない方がいい瞬間があることを、彼女は知っている。
「行きます」
レードルが油面にふれ、チチ、と鳴る。さっきよりも静かで、深い音だった。
香りが、立った。完全ではない。けれど、さきほどの空白には、柔らかな影が入った。鼻の奥が温まり、記憶がゆっくりと呼ばれる感じ。
老婦人が、帽子のつばを指で押さえ、目を閉じた。「……今、あの人が席を引いた」
片桐は腕を組んだまま、何も言わない。表情の端だけが緩む。
蓮は鍋から目を離せなかった。皿に盛り、スプーンを置く。その手が、少しだけ確かになっている。
「まだ足りない」塩見は静かに言う。「だが、穴の縁には触れた」
店の奥で、風鈴が小さく鳴った。午後の海風が、ひと呼吸だけ、換気扇の空気を押し戻す。
塩見はもう一度、壁の写真を見上げる。若い志帆の隣の、背中の男性。帽子のつば。肩の角度。
胸の奥で、何かがわずかに軋んだ。
「この人、どこで撮ったんです?」と茜。
「港の前だと思います」蓮が答える。「母が仕入れに行ってた、古い倉庫のあたり」
「名前は?」
「……わからない。母は、名前を言わない人でした」
カウンターの引き出しを開けると、薄いノートが出てきた。志帆の字で、細かい工程が記されている。ページの角は指でめくられ、柔らかくなっている。
最後のページだけが、破れていた。
「仕上げ——」蓮が読み上げかけ、声を止める。「ここで、終わってます」
「いい終わり方だ」塩見は苦笑した。「料理は、いつも途中だ」
「でも、これじゃ……」
「続きは、お前の手で書く」塩見はノートを閉じ、蓮に返す。「ただし、書く前に、聴け。音を」
「音、ですか」
「火が消える音だよ。油が静かに落ち着く音。人の気配が椅子に戻る音」
片桐が立ち上がった。「……私は、正直、時間がない。けど——」
彼は言いよどみ、ふっと息を吐いた。「今日は、ここにいて良かった」
茜はカレンダーにペンを走らせる。「思い出会、明日もやりましょう。常連さんに声をかけます。写真も集めたい」
「お願いします」蓮は深く頭を下げた。顔を上げた目は、さっきよりも濡れていない。
店の外で、船の汽笛が鳴る。海鳥がひと声、空を切り、光が木の床に札のように落ちる。
塩見は厨房に戻り、火をつけた。鍋の底に炎が映り、赤い楕円形がゆっくり呼吸する。
「もう一度だ」
「はい」
二度目のタルカは、少しだけ近かった。
三度目は、遠ざかった。
四度目、蓮は自分の呼吸の長さを、油に合わせることを覚えた。
夕方、店の前に小さな影が立った。老婦人だった。扉の隙間から顔だけをのぞかせ、誰にも見られないように、隅の席に向かって深く頭を下げた。
誰もいない席にも、匂いは座る。そういう瞬間が、この町には確かにある。
閉店札を裏返し、今日を終える支度をしながら、茜が言った。
「匂いの穴って、誰のものなんでしょうね」
「作る人の、食べる人の、待っている人の。三つとも、だ」
塩見は壁の写真に指先を添え、ほんの少しだけ触れずに離した。「それから——不意に背中で覚えてしまった、誰かの」
潮が満ち始める。
次の一皿に向けて、鍋は静かに冷めていく。
――
匂いの一句:砕けた葉、指の温度が火を止める。
(作中注)タルカ:熱した油に香辛料を落とし、香りを一気に立ち上がらせる仕上げの技法。
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