第44話 器を洗う手

 朝の水は冷たいのに、指先だけは温かかった。

 砂原蓮は、流しで器を洗っていた。昨夜はゆっくり眠れたわけではない。それでも、動きが静かなのは、手が仕事を思い出したからだ。器の縁を指腹でなぞり、高台を親指で支え、くるりと返す。布は柔らかい。洗剤は無香料に替えた。


「無香料に?」遠藤茜が気づく。


「昨日、ピクルスの香りが一瞬だけ、器に負けた気がして」

 蓮は照れたように笑い、もう一度うがいのように水を回した。


 開店前、扉が控えめに叩かれた。片桐が早い。いつもより背広の肩が落ちている。ネクタイはない。目元のクマは深く、手の甲に細かなひび割れがあった。


「おはようございます。……早くてすみません」

 片桐は入ってくると、まっすぐ流しに目をやった。「器、僕にも……やっていいですか」


 蓮と茜が驚く。塩見幸一は、いつものように驚かない。


「洗えますか?」蓮が言う。


「下手ではないと思います。実家が、ずっと商売を」

 片桐は袖をまくり、手を水に入れた。指を伸ばし、縁に沿って回す。高台(器の底の輪)の角に当てる指が、やわらかい。泡を多く立てず、音を立てない。


「器にも、帰る場所があるんです」片桐が言った。「丁寧に洗うと、香りが座る」


 言ってから、少し照れたように笑う。

 茜は横でタオルを渡した。手が濡れても、彼のスマートウォッチはしばらく沈黙したままだ。


「昨日、上に通しました」片桐は洗い物の手を止めない。「“最後の座席”の件は、コンセプトとしては通るかもしれません。『象徴の設計』として。……ただし、回転と安全の数字を付けることが条件です」


「数字か」塩見が頷く。「つけよう。だが今日は、数える前に、器を決める」


「器?」


「香りが座る椅子だよ」


 午前の思い出会は、器の話になった。

 最初の来客は、近くの古道具屋のご主人。土ものの浅い鉢を二つ抱えてきた。釉薬の貫入が細かく走っている。「志帆さん、うちでときどき選んでたんだ。『香りが逃げない器を』って。これは口縁が開いてるけど、浅いから座る」


 続いて、常連の老婦人。紙袋から小さな皿を包みで出した。「夫が若いころ、陶芸教室で作ったの。歪んでるけど、私は好きで」

 皿の裏の高台に、指の跡が残っている。左寄りに土が薄く削れていて、指の癖がそのまま化石になっている。


「左利きだった?」塩見が尋ねる。


「ええ。器を回す手が、左で」


 片桐は、その皿を両手で持った。土の重みが、彼の手のひび割れに優しい。「……重い器、嫌いじゃないです」


 昼の試しは、器を変えての提供だった。

 まず、金属のトレー。熱の伝わりは早く、香りは立ち上がるが、走りすぎて隅の席に届くころには薄くなる。

 次に、土ものの浅鉢。熱の座りがよく、タルカで立った香りが“どさり”と落ち着く。隅の席の老婦人は、目を閉じるとすぐに笑った。


「これ、家の台所の匂いに近いです。夕方、あの人が鍋を持ってくる音と一緒の匂い」


 片桐は金属のトレーにカレーを盛り、厨房の隅で自分用に一口食べた。無言で、土ものに替え、もう一口。

 何も言わず、流しに戻って器を洗う。洗い終えた器を布で拭く手が、さっきより柔らかくなっている。


「片桐さん」茜がそっと声をかける。「手、荒れてますね」


「……まあ。父の介護が少し。夜中に起きることが多くて。手を洗う回数が増えると、こうなるんです」

 片桐は、言ってから少し俯いた。「すみません、仕事に私事を持ち込みたくはないんですが」


「持ち込んでください」塩見が即答した。「食べ物の仕事は、人の暮らしを持ち込んでやっと意味が出る」


 片桐は、笑ったのか、泣きたくなったのか、自分でもわからない表情をした。「……父が、固いものが苦手で。レトルトばかりだと機嫌が悪い。温かい匂いがすると、ちゃんと椅子に座るんです。だから僕は“標準化”が嫌いじゃない。どこでも同じ温かさがあることは、救いになる」


 蓮はうなずいた。「わかります。僕も、店を続けるために『揃える』を覚えた。でも、母の皿は、揃いのない皿でした」


「揃っていないから、帰れることもある」塩見が器を掲げる。「この浅鉢、口が広いのに、香りが途中で止まる。止まる場所が席の高さと合う」


「……数字にできますか」片桐が現実に戻す。


「できる範囲で」茜がメモに書く。「器の直径、高さ、厚み。提供時の温度。席との距離。風の角度。——でも、最後は“待ち”で決めましょう」


 午後の検証は、静かな稽古になった。

 蓮は、土ものの浅鉢に盛り付ける練習。縁から二センチ内側にソースを落とし、中央の山を少し低くする。タルカの香りが鉢の内側で一度座り、ふっと立ち上がる。


「レードル、金属のままでいい?」茜が聞く。


「今日はそれで」塩見は頷く。「音が合っている。……片桐さん、どうだ」


「……“早く”が、少しだけ減っても、いいかもしれません」

 片桐は、自分でも驚いたように言った。「“最後の座席”にこれを出すなら、待ってもらう理由になる」


「理由より、物語だ」塩見は笑う。「『待つと香りが座る』。それでいい」


 そのとき、扉が開いた。昨日の親子連れの少年が、母親と一緒に立っていた。「昨日の匂い、また来た」

 母親は会釈して、「今日は見学だけ」と笑った。


「見学、ようこそ」茜は黒板に“本日は検証日・静かにどうぞ”と書き足し、少年に紙とペンを渡した。「匂いの絵、描ける?」


 少年は真剣な顔で頷き、丸をたくさん描いた。小さな丸が入口から隅の席に向かって並ぶ。「こうやって、帰ってくる」


「いい図だ」塩見が覗き込む。「大人の会議に出してほしいくらいだ」


 笑いがひとしきり収まると、片桐が口を開いた。「明日、役員が来ます。ここで、食べてもらう。——“最後の座席”も、置いておきましょう」


 蓮は頷いた。「札、磨いておきます」


「器は、土ものにしましょう」老婦人が言った。「あの人の手が、喜ぶから」


 夕暮れが近づくころ、流しでは器がまた洗われていた。

 片桐は黙々と洗い、拭き、重ねる。重ねるときの音を小さくするために、器の間に柔らかい布を一枚挟む。動きが、やさしい。


「器、きれいにしておくと、匂いが座る場所がわかる」蓮がぽつりと言う。


「そうね」茜も頷く。「私たちも、帰る場所がわかると、座れる」


 塩見は壁の写真の前に立った。若い志帆の隣、背中の男性。帽子のつば。写真の端に、小さな映り込みがある。看板の角——「港倉庫」。

 塩見は何も言わず、視線だけをそこに留めた。


 閉店の支度に入るころ、老婦人が包みを抱えて戻ってきた。「これ、預けてもいいかしら」

 包みの中には、あの小さな歪んだ皿と、もう一枚、深めの小鉢が入っていた。小鉢の高台に、消えかけた印。「海」の字が、波のように揺れている。


「夫が昔、港の倉庫でもらった土で焼いたの。『潮の匂いが混ざる』って笑ってた」


 蓮は受け取り、両手で高台を撫でた。土が、指に落ち着く。「明日、これで“最後の座席”に出してもいいですか」


「ええ。あの人も、席を引いてくれる」


 片桐は、老婦人に頭を下げた。「ありがとうございます」

 彼の声は、いつもより少しだけ低く、柔らかい。


 人が帰り、灯りが落ちた店内で、片桐は最後の器を拭いた。布の端で高台をそっと押さえ、棚に置く。

 そのとき、棚の奥で紙が一枚、滑り落ちた。古い伝票だ。店名の欄に、薄いインクで「港倉庫」とある。備考に、小さく書き込み——“香辛——”。途中でインクが掠れて読めない。


「何ですか、それ」茜が駆け寄る。


「わからない」片桐が伝票を渡す。蓮は手で受け取り、光に透かす。掠れた文字の続きを、読みたがるように。


 塩見は、それ以上は何も言わなかった。ただ、伝票の隅に押された小さな判に目を止めた。丸い印。波の上に、細い道のような線。

 彼の胸の奥で、何かがまた、きしんだ。


「明日、器は決まった。順番も」塩見が言う。「ピクルス——席——タルカ——待ち——カレー。——それから、器を洗う手」


「はい」蓮が笑った。「器を洗う手から、やり直します」


 片桐はタオルを畳み、ポケットにスマートフォンをしまった。「今日は、帰ります。寄り道せずに。……父が、匂いを待ってるので」


「どうぞ、帰ってください」茜が頭を下げる。「お父さまにも、温かい匂いが座りますように」


 扉が閉まる音は、軽かった。

 店の中で、土ものの浅鉢が、静かに呼吸している。器は、洗われ、拭かれ、並べられ、明日の匂いを待っている。


――

匂いの一句:土の鉢、指で洗えば香りの椅子。


(作中注)高台:器の底にある輪状の足。ここを支えて持つと、香りを邪魔しにくい。

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