第5話 そう簡単には終われない
睡眠薬を、小瓶に残っている分の全て飲み干した私は、世界がグルグルと回るような感覚に苛まれながら、意識を失った。
まるで酷い船酔いになったように、自分がまっすぐ座っているのか倒れ込んでいるのかすら分からない。
ただ唯一はっきりとしていたのは、指先から一気に寒気が襲ってきたことである。
体内の血が一瞬にして氷水になったような、気味の悪い感覚。
それが私の命を奪いに来ていると、初めての感覚ながら本能的に分かった。
その後、ふっと体がふわりとような浮かんだような気がした。
これまで動かない足が鉛みたいだったのに、腕にすら重みを感じない。
さっきまで全身が凍えるように寒かったのに、いつの間にか日向で寝そべっているような心地よい気分になっていた。
雲の上で大の字になって横になり、何にも邪魔されずにのんびりとする。
案外本当の幸せとは、お金も何もかからないシンプルなものなのかもしれない。
「もうずっと……このままでいいかな……」
つい口元が緩んでいく。
それでも、自分が直前に何をしたのか忘れたわけではない。
自ら命を放棄して、大量の睡眠薬を飲んだのだ。
それでこんなことになっているのだから、きっとここは死後の国なのだろう。
私は多くの人を苦しめたし、泣かせてきた。
足を怪我して贖罪すらさせてもらえなかったのだから、きっとこのあと地獄に引きずり込まれるに違いない。
ならば、それまでの束の間を、この安らかな空間で休んでも良いじゃないか。
どうせ余生に未練はない。
開き直って眠ろうとした私だったが、突如耳元で、大きな女性の声が鳴り響いた。
「はいは~い!
そんなことをしている暇なんてないですよー!
起きてくださーい!」
「何々!?」
思わず飛び起きた私は、その声の主と思い切り頭をぶつけてしまった。
目の前に火花が散ったような痛みが走り、私は頭を抑える。
「いてて……すみません……」
「ビックリしたなぁ。
気を付けないと、可愛いお顔が台無しだぞ?」
結構な勢いだったため、私は涙目になりながら相手の顔を見た。
その人は、ナース服を着ている。
20代前半くらいだろうか。
長身で、160センチはありそう。
私より15センチくらい背が高く感じた。
スタイルもよく、まるで外国のモデルさんみたいである。
顔もテレビで見そうなほど整っており、切れ長な目が色っぽさを醸し出していた。
同じ女である私ですら見惚れてしまうほどの美女は、私の渾身の頭突きを受けて尚、ノーダメージみたいに笑っている。
「あの……頭は大丈夫ですか?」
「う~ん、勉強したことないから悪いかもしれないな」
返って来た言葉がかみ合っていない。
良くない所に当たったのかもしれない。
「えっと……」
「あ! そうだそうだ。
そんな世間話をしている暇はないんだった!」
そのナースは、思い出したかのように手をポンと叩くと、私の赤くなったおでこを優しく撫でながらニコニコと微笑む。
その慈愛に満ちた仕草に、私は思わず頬に熱を持った。
「加奈さん、あなたは今から自分の責務を果たさないといけないんだよ!」
「責務?」
「そう!
やらなきゃいけないことがあるの!」
意気揚々と捲し立てるナースとは裏腹に、私はまったく気持ちが付いていかない。
せっかく起き上がった私は、もう一度その場で大の字に寝転がる。
大きなフワフワの犬の上で眠るような、心地よい温もりが背中を覆った。
「責務とかそういうの、どうでもいいよ。
どうせ私は死んだんでしょ?
天国でも地獄でも、適当に連れて行ってよ」
「成仏は私の仕事じゃないから出来ないよ。
担当が違うからね、担当が」
やたら強調して言ってくるあたり、ナースも大変なのだろう。
まるで本当の病院のナースみたいだ。
「じゃあその、責務とやらを全うしなかったらどうなるわけ?」
私はゴロンと横になり、自分の腕枕に顔をうずめる。
いつもなら態度が悪くて恥ずかしいけど、この空間には私とナースしかいない。
これまで抑え込めていた反発心が、こんな些細なことで刺激されていた。
「全うしないと大変だよ?
閻魔様に舌を引っこ抜かれるんだから」
「あんた、私が子供かなんかだと思ってる?」
たしかに、こんなグラマラスな人から見たら私は子どもかもしれない。
でももう高校生になるくらい大きな私が、今更閻魔なんて信じるものか。
「それに、死んだら痛みなんて忘れるんでしょ?
舌を抜かれた所で、そんなに困らないわ」
「でも、さっき頭を打った時、痛かったよね?」
たしかに。
余裕だった私の背中に、一筋の冷たい汗が流れる。
「頭を打っただけで、涙目になるくらい痛かったんでしょ?
舌を引っこ抜く時だけ、都合よく痛みが無くなったりするのかな?」
「で、でも死んだら痛みなんてないってよく言うじゃん……」
「それってアニメや絵本の話でしょ。
実際に死んだ人から聞いたことある?」
そりゃないよ。
あるわけないじゃん。
あるわけないからこそ、このナースが嘘だと言い張れる根拠もない。
ただ分かっていることは、さっきの痛みはかなり鮮明だったということだけである。
「もし私だったら、閻魔様は怖いから頑張るけどな~。
でも、加奈ちゃんがそこまで嫌だというのなら、そうすればいいけど……」
「あ、あのさ!」
さっきまでグイグイ押してきたのに、急にすんなり諦めようとする彼女を、私は思わず呼び止めた。
あんな脅し方をされて、その扱いはちょっと意地悪だと思う。
「ちなみに……その責務ってのは、どんな仕事なの?」
私が聞くと、ナースは途端に花が咲いたような笑顔を見せた。
「やる気になってくれたんだね!
さっすが加奈ちゃん!」
「やる気とかじゃなくて、念のためね!」
彼女は私を軽々と抱きかかえ、強く抱きしめてくる。
こんな細い腕のどこにそんな力があるんだ?
そう思ったけど、私は逆に何の抵抗も出来ない。
ちょっと腕や首が動くだけで、暴れるどころか逆に浮かび上がりそうな浮遊感すらある。
まるで今の私は風船のようだ。
「責務って言っても、やることは簡単だよ!
ある人の願いを恋愛を助けてあげるの!」
「急にメルヘンだね」
昔見たなぁ、そういう女児向けアニメ。
愛の力と人の命の重さが対等なのって、本当だったんだ。
意外と真理をついていたんだね、あのアニメ。
「恋の力はとっても凄いからね!
加奈ちゃんも恋、いっぱいしたでしょ?」
「私はそんな暇、なかったかな」
私は年相応の娯楽には、幼い頃から拒絶してきた。
テニスに明け暮れていた日々に甘いものなんて、一度もない。
「へぇ、奥手だったんだね」
「あなたってポジティブなのね」
明るい人と話すのって、大変だ。
「で、どこの誰のキューピットになればいいわけ?」
「それはね、加奈ちゃんもよく知っているあの子だよ!」
ナースが指を鳴らすと、何もない所から手帳が煙と共に現れる。
こういうのを見せつけられると、ここが現世じゃないんだなと改めて実感した。
彼女はページを慣れた手つきで捲ると、ある似顔絵を見せて来た。
それを見た私は、自分の責務とやらを心底呪ったのは言うまでもない。
そこに書かれた顔は、切れ長な目元にわずかばかりの幼さが残る男らしさを感じた。
整った顔つきに爽やかな笑顔。
そして欠伸が似合いそうな、一度見たら忘れないあの顔だった。
「加奈ちゃんには、同級生の智樹くんの恋のキューピットになってもらいまーす!」
そうかそうか、すっかり忘れていたよ。
私は生前、かなり酷いことをしたんだった。
そんな私に、楽な試練が与えられるわけがない。
きっと達成できないであろう試練を前に、私は乾いた笑い声を零すことしかできなかった。
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