第4話 片道切符
高校の始業式は、退屈を煮詰めたような息苦しい時間だった。
顔も知らない校長先生は、どこか本で読んだような聞き覚えのある深そうな話を延々と続けている。
自分の言葉じゃない話を、どうしてそこまで真剣に話せるのだろうか。
むしろその表情には、悦に浸るように薄っすらと笑みすら感じる。
それを見ていると、逆にこっちが恥ずかしくなってきた。
気を紛らわせるために、私は顔だけで少し辺りを見渡してみる。
すると、これから始まる高校生活に期待をした眼差しの同級生が何人もいた。
きっとその子たちは、将来の夢に向かって勉強を頑張るのだろう。
好きな部活動を始めて、青春を謳歌するのだろう。
アルバイトをして、欲しいものを買ったりする人もいるかもしれない。
目を背けたくなるほどの輝かしさに私は思わず顔を背ける。
すると、ちょうど私の顔を背けた先に、朝の爽やかな男の子が立っていた。
彼は並んでいると、なおさらスタイルの良さが際立ってしまう。
視界に入った瞬間、私は彼に吸い込まれるような感覚がした。
彼も校長先生の話が退屈らしく、長いまつげをしぱしぱさせながら、時折船を漕いでいる。
そろそろ倒れ込むんじゃないかというくらいふらついているのを見ると、私も気が気じゃなくなってきた。
すると、男の子は1度大きく首をカクンと前に揺らし、その動きに自分で驚いたように目を丸くする。
その様子が子供みたいで可愛いと感じてしまった。
すると、私の視線を感じたのか、男の子がこちらにこっそり顔を向けてきたのである。
たった1秒にも満たない時間、私は男の子と目が合ってしまった。
目を逸らすのも気まずくて困っていると、男の子は恥ずかしそうにはにかみ、指を顔の前に当てる。
今見たことは内緒にしていてくれと、ウインク混じりにそう口が動いていた。
私が小さく頷くと、男の子は安心したように再び校長先生の方を向き直る。
彼と目が合っていたのは、10秒にも満たないわずかな時間だった。
それなのに、校長先生の話の何倍も、私の意識は持っていかれてしまう。
例えるなら、真っ暗闇の中で薄っすらと灯る優しい光を見つけたような、不思議な感覚だった。
テニスを失ってから。
いや、正しくはテニスを始めてから、私の人生は色も温度も失っていた。
でもそれは仕方のないこと。
誰にも言えない悩みを抱えた私には、そんな荒んだ世界がお似合いだと思っていた。
それがどうだろう。
自分でも呆れるほど、あっさりと光を見つけてしまい、私の心は否定できないほど高鳴っていた。
もし、彼と仲良くなれたら楽しい高校生活が送れるだろう。
テスト前には、図書室で一緒に勉強したり。
帰りにカラオケや映画に行ったり。
ちょっとおしゃれなカフェにも行ってみたい。
まるで綺麗なシャボン玉のようにいくつも浮かんでくる夢物語を眺めて、私はふと現実に引きずり戻された。
今繰り広げられた妄想の私は、名前も知らない彼の隣を楽しそうに歩いている。
もう歩けない私が、そんなことを思い描いていたのだ。
やはり私の幸せは、絶対に手に入らない。
改めてそれを思い知らされた私が嘲笑するのと同時に、校長先生はやっと長ったらしい話を終えた。
中身のない無駄な話だったけど、自分を振り返る良い機会になったよ。
私は初めて、校長先生の挨拶というものに有意義を感じた。
その後、生徒は各自教室に戻って簡単なホームルームが行われるが、私のクラスに例の男の子はいない。
入学式の時も、彼は少し離れた列に立っていた。
いったいどの教室にいるのだろう。
特筆することのないホームルームを終え、一斉にみなが帰り支度を始めた。
私もそそくさと荷物をまとめて、いの一番に教室を出ていく。
しかし、少し廊下を渡った所で突然、車椅子が後ろに引っ張られた。
驚いて振り返ると、同じクラスになった女子3人組が、車椅子の持ち手を掴んでいる。
その表情は……友好的な話をしに来た様子ではなかった。
「あんたさ、ちょっと話があるから付き合ってもらうよ」
「ごめんだけど、私急いでるから離してくれない?」
私の言葉なんて最初から聞き入れるつもりはなかったらしい。
無視して私を、隅っこの空き教室まで押していった。
私がそこへ入ると、他の人が手際よくドアを閉める。
この3人組のリーダーらしい小太りの女の子は、ただでさえ細い目を更に細めて睨みつけた。
「あんた、智樹くんに色目を使っていたでしょ」
「誰? 智樹なんて人、知らないんだけど」
「あんたが入学式の時に、見惚れてた男の子よ」
そこまで言われて、やっと例の男の子の名前が智樹だと理解する。
まさかこんな形で知ることになるとは思わなかった。
「智樹くんはね、私たちと同じ中学だったの。
頭もよくて運動神経も抜群の、私たちのアイドルなのよ」
「そうなんだ。
私は彼とどうこうなろうってするつもりはないから安心してよ」
「調子に乗らないで。
あんたなんかが何かしたところで、智樹くんと釣り合うことは絶対にないから」
彼女の目が、私の足に向けられる。
意地汚い笑みに、彼女の顔が歪んでいった。
そこから、色んな罵倒を浴びせられた。
ネットで書き込めばたちまち炎上して、集中砲火を受けるであろう発言の数々に私は耳を疑ってしまう。
彼女は智樹くんから私を引きはがすことに必死なのだ。
醜いやり方だけど、これも恋愛において1つの技だろう。
そうやって敬遠することでしか、勝ち目がないと心のどこかで感じているはずだ。
彼女の顔に、中学の後輩の顔が重なって見える。
正々堂々戦っても勝てないから、誰も見ていないところで裏工作する。
そんな見え透いた劣等感が、彼女の目の奥に見てとれた。
「もう分かったから、その辺にしてくれないかな?
私の足、半年前にこうなったばかりだからそれ以上言われると辛いの」
「何それ。
悲劇のヒロインにでもなったつもり?
そういう所が気に食わないんだよ」
彼女は最後まで私を見下して、他の2人と共に空き教室を去っていった。
群れを成して行動しているところも、後輩たちにそっくり。
そう思うと、思わずクスリと笑ってしまった。
「どこに行っても、誰かの目につくんだね。
好きでこうなったわけじゃないのに、私が悪いかのように責めてくる」
やっぱりこの怪我程度では、私の罪は許されない。
それを再確認できた。
正直、私の心は限界に近い。
でも、あの頃のあの子は、もっと辛かったに違いないんだ。
「私も、そっちに行って直接謝っちゃえば、許してもらえるのかな」
空き教室の窓から見上げた空は、どんよりと曇っていた。
今にも雨が降ってきそうな不気味な雲に、どこか親近感がわいてくる。
こんな時、ちょっとしたことがキッカケで大雨が降ったりするものだ。
どうにか雨が降る前に帰れるように、帰宅中はずっと神頼みしていた。
しかし、家の最寄り駅に着いた途端、空の我慢が限界に達する。
大粒の雨がぽつりぽつりと降り始め、徐々に雨足が早くなった。
急いで帰ればと思ったが、家に帰ることは靴の中までぐっしょり濡れてしまう。
家に帰っても、誰もいない。
父はもちろん、母もパートの途中だろう。
濡れた服を脱ぎ、一苦労しながら家用の車椅子に乗り換えた。
母が帰ってくる前に、濡れた車椅子をどうにかしないと。
明日も学校だから、靴を乾かさないといけない。
冷えて重くなった体に鞭を打ちながら、苦労してまた楽しくもない学校へ行かなくてはいけないのだ。
改めてそう考えると、ふと私の中で何かが崩れそうな感覚に襲われる。
気をしっかりするために頭を振ると、テーブルの上にある物が置いてあることに気付いた。
それは、母の睡眠薬が入った小さな瓶。
いつもは棚に直してあるのに、たまたま忘れていったのだろう。
2錠も飲めば、すぐに眠れるお薬。
それが10錠以上は入っている。
私は何も考えず、それを手に取った。
今日は、いつもより特別辛かったというわけではない。
けれども、私はもう止まらなかった。
降り出した雨が豪雨になったように、私の行動は加速する。
睡眠薬の瓶の中身を、私は一気に口に放り込んだ。
水で流し込むことすら考えず、ぼりぼりと噛んで無理やり飲み込んだ。
死にたかったわけではない。
ただ、なんとなく衝動を抑えられなかった。
外の雨が強くなるにつれて、私は体の力が抜けていく。
雨音が聞こえなくなるまで、3分はかからなかった。
瞼が鉛のように重くなり、腕も上がらない。
音がくぐもっていく最中、最後に聞いたのは玄関が開く音だった。
誰かが駆け寄ってきた気がしたけど、それを確かめる前に私は深い眠りについたのである。
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