第3話 優しさに触れても

高校受験は、本当にしんどかった。

これまでテニスに打ち込んでいたおかげで、適当にしてきた数学の方程式とか、歴史の人物名とかがまったく覚えられない。

睡眠時間を極限まで削って、まるで何かに取りつかれていたかのように机にかじりついた。

かつて、これほどまでにペンを握ったことはなかっただろう。

ラケットのマメで硬くなった手に、ペンだこが出来始めた。

その鈍い痛みを感じる頃には、汗ばんだ地獄の夏は終わり、冷ややかな空気が揺蕩う重たい冬がやってくる。

暖房の効いた部屋では頭が痛くなるので、私は家の中でも服を何枚も着込みながら勉強を続けた。

吐く息が白くて、まるで外にいるかのようだったのを今でも覚えている。

あまり家にもいたくなかった私にとって、その感覚は少しだけ心が軽くなった。


父は勉強の成績にしか興味がなく、点数が上がっても無反応。

少しでも下がると、軽蔑したような視線だけを浴びせて来た。

一方母は、私のことをすぐに壊れるガラス細工のように扱い続けてくる。

そして、それが母にとっても心労なのか、リビングの小さな棚に入っている睡眠薬が、いつも3つほど瓶で保管してあった。

母は薬を飲まないと寝ることができない。

私が事故を起こす前から、何か恐ろしいものに監視されているような緊張を母は常に感じていた。

その原因は、きっと私。

私のことを産んでいなければ、今頃もっと素敵な家庭を築けていたのかもしれない。


しかしそれは、もう叶わないこと。

今の私にできることは、これ以上誰かに迷惑をかけないように、勉強だけを一心不乱にすることだけだった。


学校の先生すら心配してくるほど顔色が悪くなってきた時、私はやっと受験を終えたのである。

結果は合格。

夏の頃の自分の偏差値では到底届かないような学校だったので、母は涙を流して喜んでくれた。


「さすが加奈ちゃんね!

テニスじゃなくっても、あなたには頑張れて何でもできる才能があるのよ!

だからもう、切り替えて新しく楽しい趣味でも見つけてみよう?」


せっかくの高校生活なんだから、と母は言葉を選びながら私を抱きしめる。

車椅子に座っているせいで、上手く抱き寄せられないのだろう。

心地よさよりも、どことなく気持ち悪さが私の胸にモヤをかけた。


「パパ、加奈ちゃんは一生懸命頑張ったんだから、あなたからも何か言ってあげてよ」


夕ご飯の時間、父が仕事の合間に1度帰って来たので母がそう促す。

父は私の合格通知を見ると、まるで遠い地域の天気予報でも見たかのように無表情のままそれを私に突き返した。


「入学したからなんだという。

そこで学び、大学に行って、資格を取る。

それでやっと意味がある行為だろう。

こんな程度で喜ぶなんて、意味が分からない」


父は母を横目で見ながら、反論を許さぬ口調で言い返す。

母もこうなることが分かっているのに、なんで何度も父に言葉を求めるのだろうか。

いつか父が、私に笑顔を向けて褒めてくれるとでも信じているの?

そんなこと、あるわけがない。

母と違って私は父に期待なんてしていないから、傷つくことはなかった。

ただ、やっぱり父はそういう人なんだなと、無駄な確認作業をさせられるような鬱屈した気持ちだけは、この日も拭えない。


そうして、残りの中学生活をただただ消化していった私は、晴れて高校生になった。

可愛い制服に、お洒落な学生鞄。

本来ならウキウキして、窓から射しこむ光には希望を感じるのだろう。

少し大人に近づいた自分に惚れ惚れし、元気に家を飛び出すのだろう。

しかし、私はどんな制服だろうと鞄だろうと、車椅子の無骨さがすべてを台無しにしてきた。


お前の居場所はそんな輝かしい世界ではない。

縛り付けられるべき存在なんだ。


鏡に映る車椅子から、そんな声がにじみ出てくる気がする。


「私だって分かっている。

心配しなくても、浮かれたりしないよ」


私は高校生になっても浮かばれない気持ちを胸に、初めての登校をさっさと済ませるのだった。

学校へは、電車とバスを利用する。

片道でざっと1時間くらいだろう。

余裕をもって家を出なければ、確実に遅刻する。

それに加えて、最寄りの駅は少々田舎なので、あまりバリアフリーが完備していない。

電車の乗り降りや、ちょっとした階段では駅員さんの手を煩わせる必要があった。

私が毎朝登校するだけで、仕事を増やしてしまって申し訳ない気持ちが押し寄せてくる。

お腹の奥がグッと重くなるのを感じながら、私は補助を貰って電車を降りた。


降りた駅から学校までは、もう見える距離。

校門でジャージを着たガタイの良い怖そうな先生の、元気な挨拶が遠くから聞こえてくるくらいだ。

そこまで来ればもうすぐそこなのだが、ここでも最後に難関が残っている。

それが、校門前の小さな段差だった。

子どもくらいしか躓かなそうなわずかなものだけど、車椅子の私にとっては壁にも等しい。

少し勢いをつけて通らないと引っかかってしまう。


この日は登校初日ということもあって、その段差のことをすっかり忘れてしまっていた。

思わず車椅子が引っ掛かり、体が前のめりになる。

すぐに乗り越えようと勢いをつけるが、焦って目測を誤り、また力が足りずに乗り越えられなかった。


周りの人の目が、氷の針みたいにチクチクと感じる。

きっと本当は、誰も私なんかを気にしていない。

それが頭では分かっているのに、それでも恥ずかしいという気持ちはどんどん膨れ上がっていった。


あんなに嫌いな勉強も頑張って、やっと合格できたのに。

父からはさも当然のように言われるし、ここではさらし者になっている。


そう考えると、涙が浮かんできた。

ここで泣いたら、きっと心が折れて学校に行けなくなる。

私は唇を強く噛みしめ、もう一度その段差を乗り越えようとした。


その時、私の車椅子がふと羽のように軽くなったような気がした。

私の意思とは関係なく軽々と動き出した車椅子は、さっきまで立ちはだかっていた段差をひょいと乗り越えてしまう。


慌てて振り返ると、私の目の前に映ったのは、透き通るほど綺麗な瞳だった。

押してくれた人の顔が、鼻先のくっつきそうなほど近くにある。

私が声もなく驚くと、彼は恥ずかしそうに鼻を指で掻いた。


「ごめんね。

困っているように見えたから、勝手に手伝っちゃったよ。

大丈夫だった?」


彼は私と同じ高校の制服に身を包んでいる。

鞄には傷一つ付いていないのをみるに、彼も新入生なのかもしれない。

スラっとしたスタイルはまるでモデルみたいにバランスがよく、切れ長な目元にはわずかばかりの幼さに隠れた男らしさを感じた。

整った顔つきに爽やかな笑顔は、これまでも多くの女子を虜にしてきたんだろう。


「私は大丈夫。

助かったよ、ありがとう」

「その制服、君も同じ高校に行くんだよね?

そこまで押していこうか?」


どこまでも優しい彼は、私に柔らかな笑顔を向けた。

でも、こんな所でそんなことをされたら、周りからどう思われるか分からない。

格好いい彼に優しくされた日には、また女友達から嫌がらせをされる火種にすらなりうる。


「もうすぐそこだから気にしないで。

気持ちだけ受け取るね」


私は突き放すように笑顔を浮かべると、彼は嫌味を感じることなくすんなりと頷いてくれた。

すたすたと去っていく彼の後ろ姿は、足が長いおかげでどんどんと遠ざかっていく。

私は車椅子を進めながら、少しだけ自分の心臓が高鳴っていることに気付いた。

それをはぐらかすように、深呼吸して落ち着かせていく。


私がもし普通の女の子だったら、あんな人と仲良くなれたのかなぁ。


なんて、私が望むなんて罰当たりなことを考えながら、私は校門をくぐるのだった。

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