第8話 姉の来訪

 空が紫に染まり始める頃、僕は珍しく早めに会社を出た。スクラムボードに示される自分が担当になっているタスクから目を逸らしながら、「すみません、今日は姉が来るんで」とプロジェクトマネージャーの綿島わたじまさんとに伝えると、意外にもあっさりと了承してくれた。曰く、家族は大事にしろ、と。


「お疲れ様です」


 エレベーターホールですれ違った後輩の小野里に軽く手を上げる。彼は意外そうな顔をしたが、何も言わずに会釈を返してきた。


 地下鉄に揺られながら、スマートフォンの画面を開く。昨夜、姉からのメッセージに返信してから、やけに時間の流れが遅く感じられた。施設を出てからというもの、姉とはたまに連絡を取り合う程度。それが今夜、突然の来訪である。こちらからの連絡がめちゃくちゃだったのが原因だろう。


「ただいま」


 玄関を開けると、リビングの明かりが漏れている。床に座ってテーブルに向かう美羽さんの後ろ姿が見えた。教科書とノートが広げられ、宿題に取り組んでいるようだ。


「あ、お帰りなさい。今日は早いんですね」


 振り返った美羽さんの表情に、いつもと違う緊張が見えた。昨夜、姉が来ることを伝えてから、彼女の様子は少し落ち着かなくなっている。


「ええ、今日は早めに切り上げたんです。21時に姉が来るので」


「お姉さんは本当にいらっしゃるんですね」


 美羽さんの声には不安と期待が混ざっていた。


「少し、片付けしましょうか」


 スーツを着替えながら提案すると、美羽は素直にうなずいた。リビングに散らばった教科書を片付け始める美羽。その横で、僕は埃を払い、クッションを整える。二人で黙々と片付けを進めていると、不思議と心地よい空気が流れた。


 片付けを終えると、近所のコンビニに行く。お茶菓子と軽食を買い、急ぐように帰ってきた。買ってきた茶菓子を皿に盛り付ける美羽さんの姿を見ながら、僕は時計を確認する。


 20時30分。


 あと30分。姉に会うのは、どれくらいぶりだろう。考えていると、自分の心臓の鼓動が少し早くなっているのに気がついた。


 時計の針が21時を指した瞬間、インターホンが鳴った。姉らしい几帳面さだ。


「はい」


「陽介? 響子よ」


 懐かしい声に、思わず緊張が走る。玄関を開けると、スーツ姿の姉が立っていた。肩までの黒髪を耳にかけ、知的な雰囲気は昔のままだ。


「お仕事お疲れ様」


「ありがとう。相変わらず物の少ない部屋ね」


 靴を脱ぎながら、響子は玄関を見渡した。リビングに続く廊下に、美羽さんの靴が並んでいる。姉の視線がそこで一瞬止まったのが分かった。


 視線で問いかける姉を促し、室内へと招き入れる。リビングダイニングに入ると、美羽さんが立って待っていた。


「あの、こんばんは。美羽と言います」


 姉の顔を見るなり、美羽さんが丁寧に挨拶をする。僕にはよくわからないが、彼女の部屋着らしい。


「初めまして、響子です。陽介の姉です」


 美羽さんに挨拶を返した姉の視線が僕に刺さる。


「と、とりあえず座ってよ」


 内心、冷や汗をダラダラと垂らしながらも、なんとかソファに姉を座らせる。


「どうぞ、お茶を入れました」


 その間に、美羽さんがキッチンから緑茶を淹れてもってきて、リビングのテーブルに置いてくれた。


「ありがとうございます……で、陽介。どういうことか説明してくれるよね?」


 姉はソファに座ったまま美羽さんに会釈する。そして、緑茶を一口飲むと、先ほどよりも突き刺さるような視線をこちらに向ける。


「はい……」


 姉に急かされるまま、僕はこれまでのことを姉に報告した。雨の日に声をかけたところから始まり、美羽さんのお父さんから頼まれて一週間預かることになったこと。今日はその二日目であること。それらをすべて姉に報告する。


「なるほどね。あなたのお人よしが最大限発揮された結果ってことね。本当にあなたは昔っからそうよね。とはいえ、まさか犯罪を犯すとは思わなかったけど」


「ね、姉さん。ごめんなさい」


 ギロリという擬音が聞こえそうなほど強く睨まれる。小さくなり、頭を下げるしかない。姉弟ではあるが、歳が離れているところもあり、こういうときはまるで親のように叱ってくる。


「で、美羽さん。あなたのお父様からの依頼であり、愚弟が了承したことなので、一時預かりについては、どうこう言いません。でも、これだけは聞かせてほしいの。お父様との関係をどうしたいと思っているのかしら?」


 核心を突く質問に、美羽さんは一瞬言葉を詰まらせた。しかし、すぐに表情を整える。


「父には、先ほども LINE で連絡をしました。忙しいみたいですが、返信もありました。父との関係をどうしたいかということに、具体的なものは浮かんでいなくて。私自身、気持ちの整理ができていないんです」


 静かな声で、しかし芯の通った口調で美羽は語る。響子はじっと美羽を見つめている。


「それと、一週間後、家に戻れるかって聞かれると不安があって……陽介さんにはご迷惑をおかけしてしまい、すみません」


 申し訳なさそうに俯く美羽に、響子は何も言わない。代わりに、お茶を飲み干した。


「美羽さん、お茶のおかわりをいただけるかしら」


 美羽さんがキッチンに立った後、姉さんは私に向き直った。


「あの子、しっかりしているわね」


「うん。だから最初高校生だなんて思わなくって」


「それはともかく、しっかりしているのが少し心配ね」


 美羽さんが戻ってくると、姉さんは突然、昔の話を始めた。


「陽介、施設で暮らしていた頃のこと、美羽さんに話したことある?」


 予想外の展開に驚いたが、姉の意図が分かった気がした。


「いや。両親が事故で亡くなったことや、その直前に僕が喧嘩していたことくらいしか伝えてないよ」


「そう。陽介から聞いたとおり、私たちは10年前に両親を事故で亡くしているの。そのとき、陽介は高校1年生で、私は大学4年生。私は一人暮らしをしていて、今の職場に早々に内定をもらっていたわ。だから、陽介のことは私が引き取るつもりだったんだの。でも、陽介は私の手を振り切って、施設に入ることを選んだわ」


 姉さんの言葉に、美羽の手が一瞬止まる。


「私たちの両親はほとんど親戚がいなくてね。親戚と言ったら、私たち姉弟の二人だけのようなものだったのよ。それもあってか、陽介はいつも私のことを心配して手紙をくれたわ。自分のことより、離れ離れになった姉のことを気にしてね」


 昔を思い出すように姉さんが語る。少し恥ずかしくなって、僕は目を逸らした。


「そうだったんですね……」


 美羽さんの声が柔らかい。


「この子、昔から人のことばかり考えて、自分のことは後回しにする癖があってね」


 姉さんの言葉に、美羽が小さく笑った。二人の間に、自然と会話が生まれていく。僕は黙ってお茶を飲みながら、その様子を見守った。


 窓の外は完全な夜。しかし、リビングの明かりは三人を柔らかく照らしていた。


「そろそろ、お茶を入れ替えますね」


 美羽さんが立ち上がると、姉さんも席を立った。


「手伝うわ」


 キッチンに向かう二人の後ろ姿を見送る。姉さんは何を話すつもりなのだろう。ついつい耳を澄ませてしまう。


「ご両親のこと、陽介から聞いたわ」


「はい……」


「辛いことも、たくさんあったでしょう?」


 しばらくの沈黙。そして、美羽さんの小さな声が響いた。


「最近、お母さんのことを、よく思い出すんです。料理を作っているときやお茶を入れているときに。たぶん、料理やお茶をたくさん教えてもらったからだと思うんです」


 キッチンからは、ポットに湯を注ぐ音だけが聞こえてくる。


「でも、不思議と……ここにいると、陽介さんと一緒にいると、落ち着くんです」


 その言葉に、僕の胸が締め付けられた。視線を上げると、キッチンの入り口で姉さんと目が合う。姉さんは何かを見抜いたような表情をしていた。


 しばらくして、姉さんが一人でリビングに戻ってきた。美羽さんはまだキッチンでお茶の準備をしている。


「陽介」


 響子の声は、いつになく真剣だった。


「あなたなら大丈夫だと思う。その……美羽さんのこと、ちゃんと面倒をみなさいよ」


 思わず息を飲む。姉さんは続けた。


「でも、気をつけて。あの子は、あなたと同じ。人のことを考えすぎて、自分を見失いそうになっているわ」


 返事に詰まる僕のもとへ、美羽さんがお茶を持って戻ってきた。姉さんは自然な笑顔に戻り、美羽さんにお礼を言う。けれど、その眼差しには依然として鋭い観察の光が残っていた。


 僕は黙ってお茶を受け取りながら、姉さんの言葉の意味を反芻していた。


「そろそろ帰るわね」


 時計を見ると、22時を過ぎていた。姉さんが立ち上がる。


「また来るわね。美羽さん、ありがとう」


 玄関で靴を履きながら、姉さんは美羽さんに優しく微笑みかけた。


「こちらこそ、ありがとうございました」


 アパートの入り口まで見送る僕たち。夜の廊下は静まり返っている。僕たちの足音だけが、柔らかく響く。


「気をつけてね」


「ええ。陽介、また連絡するわ」


 別れ際、姉さんは穏やかな表情を向けていた。しかし、その眼差しには何か言いたげなものが残っていた気がした。


「いい人でしたね、お姉さん」


 部屋に戻る途中、美羽さんがぽつりと言う。


 黙ってうなずく僕の耳に、姉の最後の警告が響いていた。自分を見失いそうになるというのは、美羽さんのことだけでなく、僕への忠告だったのかもしれない。


 部屋に戻ると、美羽さんのスマートフォンが震えた。つい、画面を見てしまうと、新しいチャットメッセージの着信だった。


『明日、話がある』


 差出人は城之内じょうのうち 貴之たかゆきと書かれている。


 姉の来訪から始まった今夜の出来事が、新たな展開の予感へと変わっていくのを感じていた。

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