第7話 思いがけない提案
「そこの床は固いだろう。こちらのソファに座ってくれ」
正樹さんの意外な言葉に、僕は一瞬戸惑いを見せた。確かに一週間の預かりを承諾したとはいえ、まだ正座のまま緊張を解くことができないでいた。
「あ、はい……」
ゆっくりと立ち上がり、足の痺れを感じながら、示された一人掛けのソファに腰掛ける。二人掛けソファに座る
正樹さんに呼ばれたのだろう。再び現れた家政婦の
「では、具体的な話をさせていただければ」
お茶に口をつけた正樹さんに、僕は丁寧に頭を下げながら切り出した。背筋を伸ばしたまま、できるだけ落ち着いた声を心がける。
「ああ、そうだな」
正樹さんは、一呼吸置いてから話を始めた。
「まず、美羽の学校への連絡については――」
学校への連絡や通学、生活のルール、そして生活費。次々と具体的な取り決めが進んでいく。正樹さんの声は終始冷静で、時折小鷹狩さんの様子を確認するような視線を送りながらも、ひとつひとつ丁寧に話を詰めていった。
僕は正直、この展開には困惑していた。電話越しとはいえ、数時間前までは警察に通報すると言っていた人が、こうして冷静に娘の一時預かりの段取りをしている。しかも、その預け先はほぼ初対面の男だ。でも、その真摯な態度に、なぜか安心感も覚えた。
「もし必要な物があれば、取りに来てもらっていい」
正樹さんがそう言った時、小鷹狩さんの表情が少し明るくなった。一週間とはいえ、完全な断絶になると想像していたのかもしれない。そのため、一週間たたずとも帰ってきていいという言葉を聞き、安堵したのだろう。家を飛び出した娘に、扉を開けておくという父親の意思表示でもあったように思う。
僕の役割は、その扉が完全に閉じないように支え、その扉に戻れるようにすることなのかもしれない。そんな思いが胸の中で強くなっていく。
「では、美羽の荷物を」
「はい」
正樹さんが立ち上がると、小鷹狩さんも立ち上がる。 美羽の小さな声が聞こえる。彼女の方を見ると、少し不安げな表情を浮かべながらも、確かな意志の光を瞳に宿していた。それを見て、僕も反射的に席を立った。
「手伝います」
この一週間は、きっと僕たち全員にとって大きな意味を持つことになるだろう。そう直感した瞬間だった。
◇◇◇
薄い月明かりの下、小鷹狩さんの荷物を持って住宅街を歩く。彼女の方は小さなバッグを抱えて、一歩後ろをついてくる。時折響く足音と、街灯によって形作られる僕たちの長く伸びた影だけが、この静かな夜の存在を主張していた。
スーツケースの車輪が、アスファルトの継ぎ目を越えるたびに小さな音を立てる。夜の空気は少し肌寒く、春の終わりを感じさせた。
突然、背後から小さな声が聞こえた。
「今更ですけど……本当に、いいんですか?」
足を止め、振り返る。小鷹狩さんは俯きがちに、自分の靴を見つめていた。
「急に押しつけられて、迷惑じゃ……」
「大丈夫だよ」
自然と優しい声が出た。本当は自分でも不安だらけなのに、こんな風に簡単に返事ができる自分が少し意外だった。
「正直なことを言えば、不安なことはあります。お互い仕事や学校がありますし、一週間とはいえ、思いもよらないトラブルが起こるんじゃないかとか、いろいろ心配なことはありますよ。でも――」
街灯の光が美羽の不安げな表情を照らす。その瞬間、彼女を守らなければという思いが、胸の中で強くなった。
「今日の小鷹狩さんとお父さんを見て、家族といえど、距離をあける時間を取るのは大事だと思いましたから。それに、親権者に託された以上、ちゃんとしますよ」
小鷹狩さんの表情が少し和らぐ。何か言いかけた時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を確認すると、山田くんからのチャットメッセージだった。
『お休みのところ、申し訳ありません。明日の会議資料、確認お願いします。また聞きですが、緊急案件も入りそうです。』
返信の文字を打ち込もうとして、指が止まる。明日は休暇を取ったほうがいいだろうか。こんなこと初めてなので、どう対応したらいいか悩ましい。
「仕事、ですか?」
気遣うような小鷹狩さんの声に、慌てて首を振る。
「いや、大したことじゃないですよ。返しちゃうので、ちょっと待ってくださいね」
『資料は今夜確認しておきます。緊急案件は、明日出社したときに聞かせてください。』
送信ボタンを押して、画面を消す。見上げると、小鷹狩さんが心配そうな目で僕を見ていた。
「本当に、大丈夫ですか?」
「ええ。一応、サラリーマン3年目ですから。それより、もうすぐアパートだけど、何か必要な物はあります? 近くにコンビニもありますよ」
話題を変えながら、また歩き始める。仕事のことは、どうにかなるだろう。今は目の前のことに集中しなければ。
街灯に照らされた二つの影が、ゆっくりと前に進んでいく。その距離は、まだ少しぎこちなくて、でも確かに以前より近づいていた。
◇◇◇
コンビニで買ってきたおにぎりと惣菜を、小さなテーブルに並べる。正式に託された初日なのに、まともな食事を用意できないことに少し後ろめたさを感じた。
「ごめんね、こんな夕食で」
「いえ、十分です」
小鷹狩さんは丁寧にお箸を取り、「いただきます」と小さく呟いた。その仕草に、きちんとした家庭で育ったことが垣間見える。改めて、この一週間の重責を感じた。
「じゃあ、生活の細かいところを決めておきましょうか。お父さんとの話し合ったのは、これだけは死守するべしっていう最低限ですし」
おにぎりを一つ手に取りながら切り出す。大きなスーツケースはまだ玄関に置いたままだ。
「朝は何時に起きる?」
「いつもは六時です。準備して七時には家を出ていました……あ、ここからでも七時に家を出れば大丈夫そうです」
「それならよかった。僕は六時半に起きるようにしているから、朝シャワーとか使いたかったら気にせず使ってね。朝食は……」
「私が作りますね」
思いがけない申し出に、手が止まる。
「料理、できるんだ?」
「はい。母が……教えてくれたので」
少し寂しげに微笑む小鷹狩さんに、何も言えなくなる。代わりに、スマートフォンのメモ帳を開いた。
「じゃあ、必要な食材とか、生活用品をリストアップしておこう。明日、スーパーに寄って買い物するから。あ、後でお父さんから預かった生活費の一部を渡しておきますね。小鷹狩さんが生活に必要なものを買うのに使ってください」
画面に向かって話しかけながら、チラリと美羽を見る。彼女は少し表情を明るくして、頷いていた。
「あと、学校のことだけど」
この話題を出した途端、美羽の肩が少し強張る。
「毎朝、最寄り駅まで送っていきます。帰りは難しいかもしれないけど、できる限り駅まで迎えに行きますね。通学中に何かあったら、すぐに連絡してほしい」
「でも、お仕事が……」
「大丈夫。今の案件は一緒に働いている人に協力してもらえるはずだから」
本当は全く目処が立っていない。でも、小鷹狩さんの前では強がりを見せておきたかった。
「あの、
箸を置いて、小鷹狩さんがまっすぐに僕を見つめてきた。その瞳に、どこか期待のような光が宿っているように見えた。
「私、ちゃんと迷惑をかけないように……というか、一週間、精一杯頑張りますから」
その言葉に、胸が少し熱くなる。同時に、姉に相談しなければという思いが強くなった。これは自分一人で抱え込んで失敗してもいいような問題じゃない。
「ありがとう。僕も、できる限りのことはするから」
テーブルの上の惣菜が、少しずつ冷めていく。でも、二人の間の距離は、昨日よりも確実に縮まっていた。
「あ、そうだ」
立ち上がって、キッチンの引き出しから予備の鍵を取り出す。
「家の鍵。明日から必要になるでしょ」
差し出された鍵を、小鷹狩さんは両手で受け取った。その仕草に、どこか儚さと凛々しさが同居していて、思わず目を逸らしてしまう。
この子を守りたい。
その思いは、姉に電話をしようと決めた時より、さらに強くなっていた。仕事の調整も、なんとかしなければ。一週間という限られた時間の中で、僕にできることを精一杯やろう。
そう決意した僕の顔を、何か言いたげな表情で小鷹狩さんが見つめてくる。どうしたんだろう、と思っていると、小鷹狩さんがおずおずと口を開いた。
「あの、岳仲さん」
「ん?」
「お願いがあるんですけど」
テーブルに置いていた手を、小鷹狩さんが少し握りしめる。何か決意したような表情だ。
「この一週間……その、もう少しカジュアルに呼び合えませんか?」
「カジュアル?」
「はい。私のことは美羽でいいので、陽介さんって呼ばせてください」
思いがけない提案に、言葉が詰まる。確かに同じ屋根の下で生活するのに、堅苦しい呼び方のままというのも変かもしれない。でも――。
「それは、やっぱり……」
「お父さんからのお願いではあるんですが、一週間だけでも家族のような……」
言葉の最後を濁しながら、小鷹狩さんは俯く。その仕草に、どこか寂しさが滲んでいた。
「……わかった」
思わず口をついて出た言葉に、小鷹狩さんが顔を上げる。
「ほんとですか?」
「うん。じゃあ、美羽さんって呼ぶよ。僕のことは……」
「陽介さん」
すぐに返ってきた言葉に、少し照れくさくなる。でも、美羽さんの表情が明るくなったのを見て、これで良かったのだと思えた。
「じゃ、お風呂の準備をしてきますね、陽介さん」
名前を呼ぶのを楽しむような様子で、美羽は浴室へと向かっていった。その後ろ姿を見送りながら、スマートフォンを手に取る。画面には、まだ返信していない山田くんからのメッセージが残っていた。
◇◇◇
夜中の一時を回っていた。
LDK のソファに座り、膝の上に置いた仕事用のノートパソコンに向かう。会議資料に目を通そうとしても、今日起きた出来事が頭から離れない。
ドアを閉めた寝室では、美羽さんが寝ている。物音が聞こえないので、既に眠りについているのだろう。本当に、これでよかったのだろうか。
僕は家で一人暮らしをしている独身の男性。そこに女子高生が一週間も泊まるなんて、どう考えても普通じゃない。確かに親権者である正樹さんの許可は得た。けれど、もし何か問題が起きでもしたら……。
画面に映る資料の文字が、ぼんやりと揺れて見えた。目の疲れか、それとも不安のせいか。
仕事のことも気がかりだった。新人の山田くんと一緒に取り組んでいる今の案件。ジリジリと遅れが発生しており、そろそろテコ入れを考えなければならない。そんな 状況で、預かっている一週間の間、定時で帰ることができるのか。かといって、美羽さんを家に一人にするわけにもいかない。
「はぁ……」
深いため息が漏れる。その時、スマートフォンが小さく震えた。
『明日、そっちに行くから』
急な姉からのメッセージに、思わず画面を見つめ直す。
『重要な話があるの』
続けて送られてきた言葉に、胸が締め付けられる。姉は、この状況をどう思うのだろう。きっと僕の軽率な判断を叱責するに違いない。いや、それは当然のことだろう。僕に弟がいたら、きっと叱責する。
返信の文字を打とうとして、何度も消した。どんな言葉を選べばいいのか。ただ、姉の力を借りなければ、この状況を乗り越えられる自信はなかった。
『わかった。何時に来る?』
シンプルな返信を送ると、すぐに既読マークがつく。姉は、この時間までずっと起きていたのだろうか。
外からパトカーのサイレンが聞こえて、はっとする。
明日は、きっと大きな転機になる。そう感じながら、僕はゆっくりとノートパソコンを閉じた。
◇◇◇
目覚ましより早く目が覚めた。五時前。美羽さんに話した時間より一時間半も早い。朝食は美羽さんが作ることになっていたが、今日くらいはいいだろう。僕はキッチンに立ち、冷蔵庫の中身を確認する。
卵と冷凍した食パンしかないので、美羽さんに作ってもらうのも大変だろう。フライパンを火にかけ、スクランブルエッグを作り始めた時、背後でドアの開く音がした。
「あ……おはようございます」
寝ぐせの残る髪を手で押さえながら、美羽さんが現れる。予定より早い起床に、少し驚く。
「おはよう。起こしちゃってごめんね」
「いえ。何だか、緊張して目覚まし前に目が覚めちゃったんです」
「そっか。朝ごはん、もうすぐできるよ」
二人分の皿に、焼きあがったスクランブルエッグを盛り付ける。フライパンで焼くトーストの香ばしい匂いが、小さなキッチンに漂っていた。
その時、ポケットの中のスマートフォンが震える。画面を確認すると、姉からの新しいメッセージだった。
『夜九時に行くわ。陽介の状況もいろいろ聞かせてね』
「陽介さん?」
顔を上げると、美羽さんが心配そうに僕を見ていた。トーストが焦げそうなのも気づかないまま、僕は画面を見つめ続けていた。
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