第9話 幼馴染の心

◇◇◇ 城之内 貴之の視点 ◇◇◇


 教室に入ってきた幼馴染の美羽は、いつもと変わらない様子だった。クラスメイトの堤 まどかに「おはよう」と声をかけ、カバンから教科書を取り出す仕草も、昨日までと同じように見える。


 しかし、何かが違う。


 斜め後ろの席から美羽を見つめながら、違和感の正体を探る。記憶の中の美羽と制服は変わらず、茶色の髪も丁寧に結ばれている。けれど、その佇まいには、昨日までとは明らかに異なる何かがあった。


「美羽、新しいシャンプーでも使ってる?」


 まどかが美羽の傍らに立ち、首を傾げている。


「え? いいえ、いつもと同じよ」


「なんか違う気がするんだけどな」


 まどかの言葉に、心の中で俺も同意する。シャンプーが違うとかではない。美羽の纏う空気が、どこか大人びているんだ。そう、まるで一晩で大人になってしまったみたいに。


「そうだ、昨日。美羽、急に帰っちゃったじゃん。何かあったの?」


 まどかの質問に、美羽の動きが一瞬止まる。ほんの一瞬のことだ。すぐに自然な笑顔を浮かべて、美羽は答えた。


「ううん、父と少し揉めただけ。大したことじゃないの」


 父親との関係。それは美羽の中で常に複雑な影を落としている話題だった。母を亡くしてから、二人の間に出来た深い溝は、まだ埋まっていないように見える。


 けれど、今日の美羽の表情には、いつもと違う影が見える。瞳の奥に秘められた何か。幼馴染の俺には、美羽が何かを隠していることが分かった。


 チャイムが鳴り、担任の入室で朝のホームルームが始まる。美羽は前を向き、俺はその背中を見つめ続けた。


『話がある』


 昨夜送ったメッセージの返事は、まだない。


◇◇◇


 授業が終わりを告げるチャイムが鳴った。美羽が気になって仕方がなく、今日一日の記憶が定かじゃない。だが、教室の中が、一気に帰り支度の騒がしさに包まれているので、今のが最後の授業だったのだろう。


 美羽は丁寧にノートをしまっていた。いつもの癖だ。ノートの端がカバンの中できちんと揃うように、少し斜めに入れる。その仕草は小学生の頃から変わらない。


「美羽」


 声をかけると、彼女は自然な表情で振り返った。


「放課後、図書室で」


 朝から考えていた言葉なのに、どこか素っ気なく出てしまう。普段の俺らしくないことに、俺自身驚いた。


「はい、分かりました」


 美羽は特に表情を変えることもなく、いつも通りの声で返事をする。それが余計に気になった。昨日までなら、少なくとも「何かあったの?」とか「どうして?」とか、そんな言葉が返ってきたはずだ。


 そんなことを考えていると、美羽はまどかに手を振り、教室を出ていく。その背中には、やはり昨日までとは違う何かがあった。


 手は自動的に荷物をまとめていきながら、美羽の後ろ姿を目で追う。廊下に出た彼女は、スマートフォンを取り出していた。画面を見つめる表情が、柔らかくなる。


 それまで無表情だった顔が、ほんの少し緩む。見慣れない表情の変化に、胸の奥が妙にざわつく。誰からのメッセージなんだろう。


 今まで、美羽のあんな表情を見たことがなかった。


 歩いていく美羽は、俺の視界から消えていった。自分の机の前に立ったまま、俺は動けずにいた。まどかが「貴之くん、どうしたの?」と声をかけてきても、返事のしようがなかった。


 ただ、分かったことがある。美羽は、何か大きなことを隠している。そして、それは俺には打ち明けられないことなのだと。


◇◇◇


 図書室の窓際の席に、美羽と俺が向かい合って座っている。夕暮れに近い光が斜めに差し込み、美羽の横顔を優しく照らしていた。


 放課後の図書室は静かだ。そもそも、この学校の図書室は、という規模ではない。校舎とは独立した建物になっており、図書館と言った正しいくらいの外観。司書の先生は、少なくとも三人は常時いる。休み前の棚卸しや休み明けの入れ替えなどには、生徒のボランティアを広く募集している。何度か参加したことがあるが、学校の図書室とは思えない蔵書量で、近隣の学校にも貸し出しているということにも納得する。


 そんな図書館、もとい図書室の奥のほうで何人かの生徒が自習をしているが、俺たちの周りには誰もいない。ここの近くの本棚は、学校の授業や自習で使うような書籍がないため、あまり人が来ないのだ。そんな本棚の影に隠れるようにして座った二人の間に、重たい空気が流れる。


「父親とのことで、何かあったのか?」


 切り出した言葉に、美羽は一瞬目を伏せた。机に置かれた彼女の手が、かすかに震えている。


「大丈夫。心配かけてごめんなさい」


 顔を上げた美羽は、笑顔を作って答えた。優等生らしい丁寧な言葉遣い。けれど、その表情には何か違和感があった。まるで、仮面をつけているような。


 いつもの美羽なら、もっと素直な言葉で話すはずだ。幼馴染だから、というのがあったのだろう。時には俺を呼び出して、弱音や愚痴を吐くこともあった。でも今の美羽は、どこか遠くに行ってしまったように感じる。


「本当に?」


 問いかけると、美羽は黙って窓の外を見た。図書室の窓からは、校庭に植えられた銀杏の木が見える。その葉が風に揺れる音が、二人の沈黙を際立たせる。


「ええ、本当よ」


 再び俺を見る美羽の瞳に、どこか強い意志が宿っていた。それは彼女が母を亡くした時と同じ、何かを乗り越えようとする強さだ。けれど、その強さの中に隠された脆さも、俺には見えていた。


 俺たちの間に流れる空気は、幼馴染という親密さはなかった。まるでただのクラスメイト同士のように、言葉を選び、距離を測りながら会話をする。美羽との会話は、こんな風ではなかったはずなのに、それを変えることができない。


 窓から差し込む光が、徐々に夕焼け色に変わっていく。その光の中で、美羽の横顔がより一層大人びて見えた。


「お父さんは、正樹さんは最近どう?」


 少し沈黙が続いた後、小さな声で尋ねてみる。図書館の静寂が二人の声を包み込む。


「相変わらず。仕事は忙しそうで……」


 答える美羽の声も小さい。この話題の時だけ、彼女の声はいつも自然と小さくなる。母を亡くしてから、それは変わらない習慣だった。


「でも、大丈夫」


 また、その言葉だ。今日、何度目だろう。以前からまるで呪文のように繰り返される「大丈夫」という言葉。でも、今日はその言葉を言う度に、美羽が少しずつ遠くへ行ってしまうような気がした。


「美羽、もし何かあったら……」


 言葉を続けられないまま、俺は机に置かれた美羽の手を見つめる。小学生の頃、この手を握って公園まで走ったことを思い出す。でも今は、その手に触れることができない。


 焦りが募る。このまま美羽が何も言わずに帰ってしまったら。このまま、何かが取り返しのつかないことになってしまうんじゃないか。そんな不安が胸の奥で渦を巻く。


 その時、美羽のスマートフォンが小さく震えた。


「あ……」


 画面を見た美羽の表情が、一瞬にして柔らかくなる。硬い仮面が溶けるように崩れ、心から安堵したような表情を見せた。最後の授業が終わった後、廊下で見せた表情と同じだった。


 俺の知らない誰かに向けられる、優しい表情。今まで見たことのない美羽の顔が、そこにはあった。


「ごめんなさい。ちょっと返信を……」


 スマートフォンを操作する美羽の指先が、小刻みに動く。その仕草には焦りも緊張もない。ただ、穏やかな空気が漂っていた。


 夕暮れの光の中、俺は黙って美羽を見つめ続けた。幼馴染としての特権が、ゆっくりと失われていくような感覚。それは、まるで砂時計の砂のように、確実に、静かに、流れ落ちていくようだった。


「美羽、本当に大丈夫なの?」


 返信を終え、スマートフォンを仕舞った美羽に、思い切って聞いてみる。夕暮れはさらに深まり、図書室の窓から差し込む光は、オレンジから紫に変わりつつあった。


「ええ、大丈夫。大丈夫よ」


 またいつもの答え。でも、今度は声が微かに震えている。美羽が自らの指先を包むように握りしめるのが見えた。


「俺には、話せない?」


 自分でも驚くほど掠れた声が出た。美羽の瞳が、一瞬揺れる。幼稚園に入る前からの幼馴染。小さい頃から、一緒に遊び、いろんなことを話してきた。中学生になって、疎遠にもなった。でも、美羽と一緒にいたくて、同じ高校を選んだ。でも、一年生のときは別のクラスだった。二年生で同じクラスになり、俺は小躍りして喜んだものだ。でも、美羽との関係は、幼馴染のままだった。


 その時、美羽のスマートフォンが震えた。振動音が、図書館の静寂の中では大きく響く。


「あ、父から……」


 発信者を見た美羽が、電話に出る。その表情が、みるみる変化していく。


「え? 今、会社で……めまい?」


 聞こえてくる声に、美羽の顔から血の気が引いていく。


「休養室で休んでるって……大丈夫? 病院は?」


 正樹の声が、か細く響いてくる。「大したことない」と言っているようだが、美羽の表情は強張ったままだ。


「今から行きます」


 美羽が立ち上がる。慌てて俺も立ち上がった。


「一緒に行くよ」


 自然と出た言葉に、美羽は首を横に振る。


「大丈夫。貴之くんに迷惑はかけられないわ」


 その言葉に、もう踏み込めない何かを感じた。美羽は急いでカバンを手に取り、小さく頭を下げる。


「ごめんなさい。また……」


 言葉を最後まで言わないまま、美羽は図書室を出ていった。残された俺は、その背中を見送ることしかできない。今までにない距離感。それは、まるで深い霧の向こう側に美羽が消えていくような感覚だった。


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