第6話 父と娘の間で

 タクシーから降りた瞬間、この後のことを考えてしまい、緊張で足が震えた。小鷹狩こだかりさんに案内されるがままに歩き出す。今まで足を踏み入れたこともないような高級住宅街の街灯が、冷たい光を投げかけている。


「この先を右です」


 小鷹狩さんが小さく呟いた。彼女は僕の数歩前を歩いている。時折立ち止まっては、また歩き出す。その背中が、昨夜の雨の中で見た時よりも小さく見えた。


 石垣や日本の城壁のような塀に囲まれた家々が立ち並ぶ。どの家も庭木が整然と刈り込まれ、玄関灯が上品に灯っている。でも、温かみは感じない。まるで、誰も住んでいないような静けさだ。


「あの家です」


 小鷹狩さんの声が、夜の静けさを破った。大きな門構えの洋館。二階建ての白亜の壁が、月明かりに照らされている。


「小鷹狩さん」


 立ち止まり、動かなくなってしまった彼女に声をかける。僕の声にゆっくりと振り返った顔は、泣きそうだった。


「……すみません、怖いんです」


「分かります。僕も怖いですから」


「でも、帰らなきゃいけないんですよね」


「ええ。僕から言い出したことなんで、ちゃんと一緒にいますよ」


 小鷹狩さんは小さく頷いた。そろそろと、まるで足の踏み場を間違えたら落とし穴に落ちると言われた人のようなゆっくりさで門の前まで歩み寄る。おずおずと右手をあげていき、インターホンのボタンに指を近づけていく。その指が、かすかに震えている。


 だが、待てど暮らせど、インターホンのボタンは押されない。


「あの、よかったら僕が押しましょうか?」


「いえ、私が……」


  深く息を吸って、美羽さんがボタンを押した。チャイムの音が、夜の静寂を切り裂く。


 心臓の鼓動が早くなる。電話では警察を呼ぶのは後にすることの了承を得た。だが、実はもう警察を呼ばれているかもしれない。家の中や周囲に警察官が配備されていて、すぐにでも逮捕されるかもしれない。そんな恐怖が心を支配しそうになる。でも今は、目の前の少女のことだけを考えよう。


 玄関のドアが開く音がした。背筋が凍る。そこに現れたのは、厳しい表情の中年男性。移動中の小鷹狩さんに聞いたお父さんの名前は、小鷹狩 正樹まさきさんというそうだ。


「お父さん……」


 美羽さんの声が、夜気の中に溶けていく。


「入りなさい」


 低い、抑えた声。正樹さんの拳が、かすかに震えているのが見えた。小鷹狩さんの肩が一瞬強張る。


岳仲たけなか、といったか。あんたも入りなさい」


 その言葉には明らかな敵意が含まれていた。娘の前では冷静に振る舞おうとしているのだろう。怒鳴り散らしたいのを我慢しているといった雰囲気が感じられる。そんな父親の努力が、却って胸を締め付ける。


 玄関を上がると、廊下に柔らかな明かりが灯っていた。靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。背筋がまっすぐ過ぎて、不自然な緊張が漂う。


「リビングへ」


 正樹さんに促され、広間に通される。高級そうなソファセットが置かれ、大きな観葉植物が空間を彩っている。でも、どこか生活感が足りない。


「座りなさい」


 小鷹狩さんが、おずおずと二人掛けソファに腰を下ろす。僕も隣に座ろうと思ったが、僕は犯罪者だ。ソファに座れるような身分ではない。そう思うと、自然と床に正座をしていた。床にカーペットが敷いてあったのがかろうじて救いである。そんな僕に視線をむけたまま、正樹さんは正面の一人掛けソファに座った。まるで取り調べのような配置だ。


「この度は僕の軽率な判断により、ご心労をおかけし、大変申し訳ございませんでした。また、お話させていただく機会をいただき、ありがとうございます」


 正樹さんが口を開く前に、僕は両手を床について深く頭を下げた。いわゆる土下座というやつだ。


尾々野おおのさん、お茶を」


 正樹さんの声に、ドアから年配の女性が現れる。こちらの方が、家政婦の尾々野さんだろう。彼女は無言でグラスに入った冷たいお茶を置き、そっと部屋を出て行った。


 沈黙。


 部屋にあるであろう時計の秒針の音が、異様に大きく響く。僕は土下座をしたまま。正樹さんは、どう思っているのだろうか。暫定誘拐犯である僕へは怒りを感じているだろう。だが、娘のことはどう思っているのだろうか。小鷹狩さんの話を聞く限り、再婚話を持ち出したところ、娘が反発して出て行ったという状況。しかも、ただの家出だと思ったら見知らぬ男がついてきたのだ。きっと、苦しいんだと思う。


「説明してもらおうか」


 ようやく正樹さんが口を開いた。その声には怒りと不安が混ざっている。でも、それ以上に感じられたのは、疲れだった。


「俺の娘を、どうして連れて行った」


「違うの、お父さん。連れて行かれたんじゃなくて……」


「黙っていなさい、美羽」


 父親の一喝に、小鷹狩さんの肩が小さく震えた。家族なのに、こんなやりとりをしているということを聞いているだけで辛い。でも、これは二人の親子にとって必要な時間なんだと思う。


「岳仲、と言ったか」


 正樹さんの鋭い言葉が、僕に向けられる。僕はゆっくりと頭を上げた。そして、正樹さんと視線を合わせる。


「はい。岳仲 陽介ようすけと申します」


 自分の声が、予想以上に落ち着いていることに少し驚く。だが、僕なりに彼らの幸せのためにできることをしたいという思いが、僕の力になっているのだ。


「経緯の説明の前に、僕の自己紹介をさせてください。僕は、メグレズ・インフォメーションテクノロジーズ社でシステムエンジニアとして働いています」


 名刺を取り出し、テーブルの上に置いて差し出す。正樹さんは一瞬戸惑ったようだった。


「2日間徹夜してようやくトラブル解消の目処がたった昨夜も、終電近くまで残業をしていました。借りているアパートに帰ると、その階段で雨に濡れた小鷹狩さんを見かけたんです」


 正樹さんの目が、一瞬動いた。


「最初は放っておこうと思いました。でも、脇を抜けられるほど階段の幅は広くなくて、声をかけたんです。そうしたら、彼女は雨に濡れ、寒さで震えていました。行く当てもなさそうに見えて、通り過ぎるのはよくないと思ったんです」


 僕の言葉に、小鷹狩さんがそっと顔を上げる。


「ただ、深く考えずに家に招き入れたことは、間違っていました。アパートの階段に座り込んでいた理由どころか、年齢すらも聞いていませんでした」


 正樹さんは黙って僕を見つめている。その目に宿る不信感は、まだ完全には消えていない。


「今の気候でも、雨に濡れたまま放置すれば風邪を引いてしまいます。なので、一晩だけ泊まってもらい、今日には帰ってもらうつもりでした。いえ、そもそものところで、きちんと年齢や状況を確認し、警察に相談するなり、親御さんへの連絡を促すなり、家に泊める以外の選択をするべきだったと思います。高校生と知らなかったということは、ただの言い訳でしかありません。本当に、申し訳ありませんでした」


「それが本当だとして、どうして家に招き入れたんだ」


 正樹さんの声が震える。だが、さっきよりは柔らかい。時折、美羽の様子を窺う視線にも、怒りよりも心配が混ざっているように見えた。


 深く息を吸う。ここからが大事だった。


「小鷹狩さんの目を見たからです」


「目?」


「はい。あの目は、ただ家出をしたという人の目じゃなかった。何か、理由があるはずだと」


 正樹さんの表情が、かすかに揺れる。


「僕のことは、警察に通報いただいて構いません」


 僕は真っすぐに正樹さんを見た。


「ですが、その前に小鷹狩さんの、娘さんの気持ちを、もう一度聞いていただけないでしょうか」


 部屋の空気が、一瞬止まったように感じた。正樹さんは黙ったまま、娘を見つめている。小鷹狩さんは、また俯いてしまった。


「僕は、犯罪者になりました。保護者の許可なく、高校生を家に招き入れて泊めました。手を出していないからといって許されるわけではありません。ご家族の心労も考えず、僕の独りよがりで押し付けがましい親切によって、彼女を帰らせなかったのです。今は、その重みがわかっています」


 正樹さんの目が、ゆっくりと僕に戻る。


「でも、目の前で困っている人を見過ごすことは、できませんでした」


 窓の外で、雨が降り始めていた。


 不意に、正樹さんが深いため息をついた。その音で、凍りついていた空気が少しずつ溶けていく。


「今回、警察は呼ばない」


 その言葉に、美羽さんが顔を上げた。


「だが、今この場で美羽の気持ちを聞いても、親としてきちんと受け止められる自信もない。美羽には申し訳ないことだが、今回のことで俺のほうもいろいろと考えたいことができたんだ」


 一度言葉を切った正樹さんが、僕に視線を向ける。


「その、岳仲さんには迷惑をかけるのだが……」


 正樹さんは言葉を選ぶように間を置いた。


「一週間、美羽を預かってもらえませんか」


「え?」


 僕と小鷹狩さんの声が重なった。予想もしない展開に、二人とも言葉を失う。


「昨日の美羽の言葉は、しっかりと俺の心に刺さったよ。自分では、ちゃんと説明してきたつもりだった。でも、そうじゃなかったということがわかったんだ。俺に考える時間がほしい。美羽の父親として」


 正樹さんは疲れたように目を閉じた。


「それに、美羽も気持ちの整理が要るだろう。でも、ここにいては、それができない」


「お父さん……」


「お前の、美羽の気持ちを受け止められていなかったということが、よくわかったんだ」


 正樹さんは小鷹狩さんを見つめた。その目には、これまで見せなかった優しさが浮かんでいた。


「だから、少し距離を置こう。家族だからこそ、それぞれの考えをまとめるために物理的な距離をとったほうがいいだろうから」


「岳仲さん」


 今度は僕に向き直る。


「あたなにはただただ迷惑な話です。でも、お願いできませんか」


 目の前の親子を見つめる。昨夜からの出来事が、現実とは思えない。でも、この提案には意味があるような気がした。


「分かりました」


 僕の返事に、小鷹狩さんが驚いたように振り返る。


 雨の音が、また少し強くなった。昨夜と同じ雨が、新しい物語の始まりを告げているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る