第5話 それぞれの想い
「母は、私が中学1年生の時に亡くなりました」
「母は昔から痛みに強かったそうです。体調が悪くても、寝ていれば治ると。私や父が病院にかかるように言っても聞く耳もたずで。私の知っている限り、母が自発的に病院に行ったことはありません。それが良くなかったんでしょう。ある日、買い物に出た先で倒れ、打ちどころが悪くて意識を失ってしまいました。それで救急車で病院に運ばれて検査をすると、全身に癌が転移していることがわかったんです。その時点で、余命3ヶ月と宣言されてしまいました」
手の中のティーカップが、かすかに震えている。
「そこから母は緩和ケア病棟に入院しました。ですが、父は、ほとんど見舞いに来なかったんです。仕事が忙しいからって」
小鷹狩さんの目が、遠くを見つめている。
「私がお見舞いに行くたびに、父が来ているかを看護師さんに確認していました。でも、毎回返事は『来ていません』と。それを聞くたびに、母の前で怒っていたんです。お母さんが入院しているのに見舞いにも来ないお父さんはひどいって。それなのに、母は笑っていました。『お父さんは、忙しいのよ。美羽が来てくれるだけで幸せだわ』って。でも、きっと母は、最後まで父のことを待っていたんだと思います。だって、母のスマフォの待ち受けは父の写真でしたし、父の写真を写真立てに入れて飾っていたんです。私が行くと写真立てを倒して隠してたんですけどね。でも、結局……死に目にも会えませんでした」
ティーカップを置く音が、異様に大きく感じた。
「それから、父とはほとんど口をきかなくなりました。反抗期だったこともあって……」
「そうだったんですね」
「でも、このままじゃいけないと思って、高校に入ってから、少しずつ話すようになりました。でも、ぎこちなくて。父に何を言っていいのかわからなくて、無理して会話してる感じになっちゃうんです」
小鷹狩さんは深いため息をついた。
「ぎこちないまま2年ちょっとが経っちゃって。行きたい大学は寮があって、合格したら入ろうと思っているので、父と一緒に暮らすのはあと1年もないんです。私一人が焦っているような気がしていたら、父から『話がある』って呼ばれて」
声が詰まる。
「再婚しようと思っているって。再婚相手に会ってほしいって言われたんです。母が亡くなって、まだ5年なのに」
涙が頬を伝う。
「母の見舞いにも来なかった人が。死に目にも会わなかった人が。どうして……こんな簡単に」
僕は黙って聞いていた。この痛みには、何も言えない。
「……あの、小鷹狩さん。電話、してくれませんか」
「え?」
「小鷹狩さんのお父さんに。今すぐ」
「でも……」
「小鷹狩さんの気持ちは、よく分かります。でも、きっとお父さんは心配しています。いろいろ思うことはあると思いますが、小鷹狩さんもお父さんも生きています。生きているうちに、もっと話したほうがいいと思いますよ。小鷹狩さんの状況などは僕からお伝えしますので、電話をかけてくれませんか」
小鷹狩さんは、黙ったまま僕を見る。僕も、小鷹狩さんを見る。お互いに見つめ合ったままどれくらい経っただろうか。しばらくして、小鷹狩さんがスマートフォンを取り出した。スマートフォンを操作する指が震えている。呼び出し音が鳴り始めると、すぐに応答があった。
「もしもし、お父さん……」
相手の声が、こちらにも聞こえるほど大きい。小鷹狩さんは言葉を詰まらせ、僕を見た。
「電話、代わります」
携帯を受け取り、深く息を吸う。
「もしもし、僕は
『娘を、どこに連れて行った』
低い、威圧的な声。
「連れて行ったわけではありません。今からお嬢さんをお家まで送ります。どうしても、顔を合わせてお話しさせていただきたいことがあります」
『誘拐犯と話すことはない。今すぐ娘を返せ!』
「もちろんお送りいたします。あなたになくても、こちらには話すことがあるのです。ですので申し訳ないですが、警察を呼ぶのは話をし終えてからにしていただけないでしょうか」
一瞬の沈黙。
『いいだろう。住所はわかるな』
「はい。お嬢さんに伺いますので」
そう答えると、電話が切れる。小鷹狩さんが不安そうな目で見ている。
「行きましょう」
「でも……」
「今回だけでいいんです。僕のおせっかいだと思って、今回だけお父さんと話しませんか」
そう言って微笑んでみせた。でも、内心では怖い気持ちが荒れ狂っている。でも、今はこの少女の未来のほうが大切だった。
玄関で靴を履きながら、スマートフォンをポケットにしまう前に、一通のメッセージを送っておいた。
宛先は姉。
『少し、面倒なことに巻き込まれそうです。でも、僕なりに精一杯考えて行動します。何があっても、心配しないでください』
もし最悪の事態になっても、姉には心配しないでほしかった。僕が両親と喧嘩をするたび、慰めてくれたり諭してくれたり発破をかけてくれたりした姉。そんな姉は、両親が亡くなった時点で大学4年生だった。そして、卒業と就職が確定すると、僕を施設から引き取ろうとした。でも、僕は姉のもとには行かなかった。僕なんかのことを気にせず、姉だけの人生を生きてほしいと思ったからだ。
「行きましょうか」
夜の街に出る。小鷹狩さんと並んで歩きながら、彼女の将来に思いを巡らせる。親子の絆は、家族の絆は、簡単には切れない。でも、切れる時は一瞬だ。それは、僕自身がよく知っていることだった。
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