第10章 終焉、そして爪痕

 夜明け前。灰色の空が、重く暗い雲を纏ったまま村の山々を覆い尽くしていた。廃祠の広場には足元を照らす篝火だけが残り、集まった人々は互いに意識を研ぎ澄ませている。ここで再度実行される“封印の儀式”こそが最後の勝負――すでに何度も失敗し、人々を絶望の縁に追いやりながら、それでも再挑戦するしか道は残されていない。


 正木は腕を組み、祠の床に視線を落としていた。深い頭痛と手足のこわばりは相変わらずだが、今は自分自身の痛みよりも、この村を覆う重苦しい空気のほうが気になって仕方ない。人々は何度も挫折し、どれだけの犠牲を払ってきたか――それを思うと、ここで最後のチャンスを逃すわけにはいかない。


(これで終わらせる。たとえ俺自身がどうなろうとも、“甘キ爪”を封じ込めなきゃ……)


 目を閉じ、そう心に誓う。既に村の外部との通信は回復したり途絶したりを繰り返し、研究所からの支援も期待できるかどうか不透明。しかも、何より今や“甘キ爪”が村中に浸透し、最後の牙をむこうとしている。この数日で目撃例や幻覚被害が跳ね上がり、人間同士の対立や暴力事件が急増し、村が崩壊しかけるのを誰も止められない状態だ。


 そんな泥沼の中で迎える最終決戦の舞台には、皮肉にも廃祠とその周辺が選ばれた。先祖たちが怪異を封印したとされる祭壇と、取り戻した古い儀式具、そして村と研究所双方の情報をつなぎ合わせた「完全版」の儀式が、いよいよ行われようとしている。


### 最終決戦


 祭壇を囲むように篝火が配置され、その隣には先日まで使っていた獣皮の太鼓や木札が整然と並んでいる。かつては荒く使われていた道具が今夜のために入念に修繕され、古い巻物を参考にした祝詞が用意された。村の有力者や若者、研究所のスタッフといった面々が手分けし、これまでの教訓を反映させて手筈を整えている。


 一方、正木は動揺を隠せないまま立ち尽くしていた。彼が所属する研究所の新技術が“甘キ爪”を村へ引き寄せた可能性が高いという事実――これが胸に重くのしかかる。いくら封印を行っても、自分自身が再び怪異を誘発するなら、根本的な解決にならないのではないか。そんな疑問が何度も頭をもたげるが、今は考えても仕方ない。村を救うためにまず“甘キ爪”を押し返すことが最優先。そこに集中するしかなかった。


「正木、もうすぐだぞ。各自の位置取りも固まってきたし、儀式に必要な連中はほぼ揃った。夜が明けるまで、時間は限られてる」


 研究所の同僚・望月が声をかける。その顔にも疲労と緊張が浮かんでいた。もともと理論派の望月も、怪異と対峙する中で常識を超えた体験をし、自分の価値観を何度も揺さぶられたようだ。今となっては「科学では説明できないものもあるんだ」と、苦々しげに笑いながら封印の準備を手伝っている。


 さらに、因習派だった伴野(ともの)や数人の村の古参も加わり、儀式に参加する体制ができあがりつつある。この人選は一見バラバラだが、村で最も大きい発言力を持つ者から、若い世代、そして研究所の人間までが揃い、本来ならあり得ない協力体制を作り上げている。まさに、絶望の淵に立たされて初めて実現した一枚岩――“甘キ爪”への対抗手段としては最大の布陣と言えるだろう。


#### 人々の意志が一つになるか、それとも崩壊か


 もっとも、まだ安心はできない。村に根強い嫉妬や怨念は完全には消えておらず、ちょっとしたきっかけで口論が勃発しかねない。実際に過去の儀式でも、妨害や対立で無残な失敗が起きている。今回こそは「詰めの甘さ」を克服する――それが正木の合言葉であり、多くの仲間が共有している覚悟だが、最後の最後で破滅する可能性は依然として高い。


「……もうすぐ準備が整うよ、正木さん」


 看護師の石田ミキが報告にやってきた。彼女は村内の怪我人や発狂しかけた者の救護に追われてきたが、どうにか区切りをつけて儀式に参加してくれる。もしものときには医療面のフォローも必要だし、何より祝詞や古文書の解読にも加わる重要な役割を担っている。彼女自身も夜な夜な“甘キ爪”の足音や影を感じ取り、恐怖に苛まれてきた。もう限界だと言いながらも、最後まで諦めない強さを失っていない。


「ありがとう。今回は俺たちの側も本気でやる。失敗したら……ホントに終わるかもしれない」


 正木が呟くと、ミキもうなずく。一時的にまとまった村人たちの意志がこのまま一つになれば、もしかすると絶望の淵から奇跡が生まれるかもしれない。だが、今の村には「個々の欲が吹き出し、崩壊する」という対極的な未来も同時に存在している――それはまさに、どちらに転んでもおかしくない瀬戸際の状況だった。


### 勝利か敗北か


 儀式は深夜2時を回ったころに開始された。月は雲に隠れ、星もほとんど見えない。暗闇に揺らめく篝火の光だけが、祭壇をかろうじて浮かび上がらせる。昔ながらの手順を踏襲し、まずは太鼓を鳴らす者、祝詞を唱える者、外周の警戒に立つ者、それぞれが位置につき、正木とミキが中心に立って合図を送る。


「いまだ……!」


 望月が太鼓をドンッと打ち鳴らすと同時に、複数の村人が声を揃えて祝詞の冒頭を唱え始める。あちこちから怪しげな旋律が混じり合い、最初はバラバラなリズムも徐々に同期していく。不思議な一体感が生まれる一方、“甘キ爪”の影が既にこちらを窺っている気配がある。まるで鼻先に獲物をぶら下げられた獣が、今にも襲い掛かる瞬間を見計らっているようだ。


「怯むな、祝詞を止めるな!」


 正木が頭痛を堪えながら叫ぶ。彼は祭壇の石と木札を手にし、前回の儀式では不完全だった工程を完遂させるべく足を踏み出した。何度も練習した手順通りに、太鼓のリズムを頼りに石を中心へ据え、木札をかざす。ミキが補助に回り、かつて手に入れたノートの記述を即興で読み上げる。先祖が封じ込めたとされるあの“魔”を再び眠らせる――そのための最終動作だ。


 不意に、闇の中からギリギリ……ザリッ……という耳障りな爪の音が鳴り出し、幻のような爪先が篝火の光を削るかのようにスッと横切るのが見えた。村人たちが一瞬固まるが、今は決して騒いではいけないと、互いを見つめ合って耐える。誰かが逃げ出せば儀式は台無し、またしても人間同士の罵り合いが再燃する危険がある。


(ここで引いては終わりだ――)


 正木は頭の中で何度も唱え、歯を食いしばって石を掲げた。祝詞の節を曲げることなく繰り返し、木札を石に合わせる。その一挙手一投足に合わせて、太鼓がさらに激しいリズムを刻む。これまでの儀式以上に大掛かりで、参加者も多い。村に残る精鋭や研究所のメンバーが総動員されている。一体となった意志が、暗闇の壁を突破するかのように行動しているのだ。


「どうだ……! 効いてるのか……!?」


 伴野が荒い息で叫ぶ。すると、周囲の篝火が一気に揺れた。まるで見えない風圧が吹き付けたように火の粉が舞い、地を這うような黒い靄が広場を覆い始める。そこに浮かび上がるのは、幾度も村人を襲った“甘キ爪”のシルエット。正木たちはついに怪異の核と直接対峙する段階に入った――それこそ、最終決戦の合図だった。


 黒い靄はじわりじわりと人々の足元にまとわりつき、爪のような形状をいくつも生やしていく。ガリガリと耳を裂くような音を立て、人間の弱さを嘲笑うかのように翻弄する。その圧に耐えきれず、一部の村人がパニックを起こしかけるが、他の仲間が必死で支え合って動揺を食い止める。


「逃げるな! 今逃げたら、全部水の泡だ!」


「もう少し……もう少しだから……!」


 声を掛け合い、ぐらつく者を引き止める。以前のように嫉妬や怨念で崩壊することはない――少なくとも、今のところは意志が一つになっている。正木は祭壇の前に立ち、石を捧げるように高く掲げる。手足の震えは最高潮だが、負けるわけにはいかない。


「うおおおっ……!」


 思わず咆哮のような声が漏れた。何かが爪先を掴んだ感触があり、痛みが走るが、意地でも振り払わない。ついに“甘キ爪”そのものが実体を持って干渉してきたのか――周りにいる村人も悲鳴や呻き声を上げながら、太鼓と祝詞のリズムを維持する。壮絶な消耗戦の中、祭壇の石がかすかに光を放ったように見えた。


「もう一度、木札を合わせろ……!」


 望月がそう呼びかけ、ミキが正木の横に立って札を支える。途中で熱気にあてられ木札が焦げかけるが、彼女は必死に耐えている。追いすがる黒い靄が爪先を伸ばし、ふたりを引き裂こうとするが、祝詞や太鼓の響きによって牽制され、一歩及ばない。まるで最後の綱引きのように、互いが一歩も譲らないまま時間だけが過ぎる。


(頼む……これで終わってくれ……!)


 正木はこれまで何度も失敗した記憶を振り払い、さらに力を込める。もしここで“詰めの甘さ”が顔を出せば、またしても未完成のまま夜が明け、封印は失敗に終わるだろう。研究所の誤算で怪異を呼び寄せてしまった負い目もある以上、ここで止めを刺さなければ何の意味もない。死ぬ気でやり遂げるしかないのだ。


#### 克服の瞬間


 ついに、正木は頭の奥底にある恐怖と自責を抑え込み、全神経を儀式へ集中させる。“甘キ爪”が掴もうとしている部分を逆手に取り、石と札を一気に押し込むように合わせる。すると、祭壇を中心に眩しい閃光が走った。篝火の炎がぐんと引かれるように揺れ、人々が目を潰されそうなほどの光が広場を染める。


「光……? 何だ、この輝き……!」


 伴野や村人たちが驚きの声を上げる。望月は太鼓を打つ手を一瞬止めかけるが、ミキが「続けて!」と叫ぶ。すると、光の中で“甘キ爪”の黒い靄がピリピリ……と弾けるように割れ始めた。ザリザリとした耳障りな音が不規則に鳴り、闇のシルエットが何度も形を変えてあがき出す。


「やった……効いてるんだ……!」


 正木が奮い立つ。その瞬間、ついに“甘キ爪”の黒い塊が形を保てず霧散し、夜空へ引きずり上げられるように消えていく。まるで意地悪く笑うかのような声が最後に木霊し、人々は一斉に篝火の周囲に倒れ込んだ。一瞬にして音が消え、静寂が戻る。


 数秒の空白の後、誰かが「封印……成功したのか?」と呟く。視界に広がるのは、静まり返った廃祠の広場。あれほどまでに暴れ狂った闇はどこにも見当たらない。祭壇の石は淡い燐光を宿しており、正木は息も絶え絶えに石に手をついた。勝利なのか、敗北なのか――空気が張り詰めたまま、誰も言葉を発しない。


「……たぶん、封じた。いや、完全かどうかはわからないが……」


 望月が声を振り絞る。村人たちの何人かも、「おお……」という安堵と困惑が入り混じった声を漏らし、それから次々と地面に膝をつく。重圧から解放され、力が抜けたのだろう。正木もまた、祭壇の石をそっと撫でながら、深く息を吐いた。頭痛は相変わらずだが、少なくとも“甘キ爪”の黒い塊が物理的に暴れる気配は消えている。


「勝ったのか……」


 ミキが震える手で木札を回収しようとするが、札は焦げ跡のようにボロボロになっていて、半分ほどが燃え尽きていた。それでも最後まで持ちこたえてくれたからこそ、こうして封印らしき結末を迎えたのだろう。あまりにも大きな代償を払ったが、ようやく村に静寂が訪れた――それが「勝利」と呼べるかは、人それぞれかもしれない。


#### 犠牲があまりに大きい


 辺りを見回せば、生き残った者たちが息を呑み、顔を見合わせている。喜びの声が上がるでもなく、泣き崩れるでもなく、ただ呆然としている者が多かった。誰もがこの数日間の惨劇をくぐり抜け、消耗しきっていたのだ。家族や友人が何人も行方不明になり、家屋は焼かれ、研究仲間も犠牲となった。ようやく怪異が消えたとしても、あまりに傷跡が深い。


「勝った、のか……でも……」


 伴野は声を震わせ、地面に手をついて項垂れる。村の長老たちや有力者も姿を見せてはいない。そもそも、この儀式に参加する前にすでに半数以上が恐怖や病に倒れている。残された人々だけでどう再建しろというのか――そんな絶望感も混ざり合う。封印の成功は、同時に多くの喪失を改めて突きつける瞬間でもあった。


「何もかもを救えたわけじゃない。だけど、少なくともここで怪異が止まるなら……」


 正木が呟く。研究所が引き寄せた“甘キ爪”かもしれないが、それを一旦は封じることに成功した――そう信じたい。胸の奥には、仲間を救えなかった罪悪感がしこりのように残るが、これ以上の犠牲を出さなくて済むなら少しは報われるのかもしれない。


 そうして、祭壇での激闘からしばらく経ち、村はひとまずの「夜明け」を迎える。空はまだ曇天だが、黒い靄に包まれる感覚は次第に薄れていた。人々は互いに確認し合い、負傷者を手当てしながら、使い物にならない廃祠を後にする。


「生き延びたのか……」


 望月が遠い目をして呟いた。誰もが傷だらけだ。太鼓を叩いていた若者の手には火傷と擦り傷があり、祝詞を唱えた村の古参は疲弊しすぎて声が出ない。ミキはあまりの疲労に膝を震わせながらも、最後まで正木の腕を支えてくれた。全員、ギリギリの精神力で“甘キ爪”の爪先を弾き返したのだ。


 勝利か敗北か――結論を出すのはまだ早い。しかし、少なくとも人々は生きて帰ってきた。廃祠の中央にある石は再び静寂に包まれ、黒い気配は消え失せている。もしこれで完全に怪異が去ったのなら、それこそ大きな「勝利」だろう。だが、失われた命と傷ついた心は、今後どう扱えばいいのか誰も答えを持たないまま。大きな代償を払って得た決着は、村の風景を一変させていた。


### エピローグ


 それから数週間。村は世間的には「局地的な天災」や「原因不明の集団暴動」などの混乱とともに報じられ、表立った真相は曖昧に処理された。外部のメディアや警察が駆けつけたとき、既に被害のピークは過ぎており、研究所の支援も断続的に行われたものの、結局は山間の偏狭地で起きた不可解な事件として整理されるだけだった。死者や行方不明者の数が公式に報道されず、焼失した建物も一部は「自然火災」として処理される。研究所の話題もほとんど表に出ず、すべてが闇に葬られていく。


 正木はその後、研究所を退職する形で村を後にした。村の復興はまだ続いており、伴野やミキ、望月らが協力して最低限のインフラを整備している。外部との往来も復旧が進み、村に残る数少ない住民たちは、心身の傷を抱えながら新たな生活を再建しようと懸命だ。だが、その喪失感は計り知れず、失われた命や崩れた家屋の跡が痛ましく残る。


 そして、事件から数週間から数ヶ月後――


#### 爪痕を抱える正木


 都会の片隅、安いアパートの一室。机の上には研究関連の資料が散乱し、正木は窓の外をぼんやりと見つめていた。村での惨劇が終わって以来、頭痛や手足のこわばりは一時的に和らいだが、夜な夜な悪夢を見ては飛び起きる日々が続いている。夢の中では、いつもあの黒い爪が地面を削るように近づき、彼を招き入れようとしているのだ。


(結局、俺は“甘キ爪”を本当に封じ込めたのか? あれが消えたと信じたいが、心のどこかにまだ存在している気がしてならない)


 研究所を辞めたとはいえ、新技術との関連は完全に否定できず、自分が不注意だったことで村を危険にさらした罪悪感が離れない。そうした精神的な爪痕が、日常に戻れないほどに正木を苛んでいた。外見的には事件当時の傷も治りつつあるが、心の傷は依然として激しい痛みを伴う。数時間おきに脳裏をよぎる惨劇の記憶が、彼の平穏を容赦なく奪い去っているのだ。


「ただいま……」


 アパートのドアを開けると、そこに望月が顔を出した。復興の関係でしばらく村に残っていたが、短期的に用事で都会へ来た際、正木の安否を確かめに訪れたらしい。望月もまた似たような影を抱えており、仕事に復帰する気力を失いかけている。研究所も今回の事件に触れたがらず、彼の立場も微妙なままだ。


「どうだ……体調は」

「相変わらずだよ。悪夢ばかり見る。夜中に爪が壁を引っ掻く音が聞こえて……それで飛び起きる。俺、もうダメかもしれない」


 正木の自嘲的な言葉に、望月は苦い顔をしてうつむく。結局、村での儀式は成功とも失敗とも言い切れないまま決着がついた。大きな破局は回避できたかもしれないが、その過程で受けたトラウマは計り知れず、かろうじて生き延びた者たちの心を日々蝕んでいる。伴野やミキからは、手紙やメールで「どうにか村を建て直している」「これ以上死人は出ていない」といった近況報告が届くが、それで完全に安心できるわけではない。


「俺は明日、研究所に行ってみようと思う。新技術と“甘キ爪”の因果関係を、どうにか研究者仲間と解析したいんだ。おまえには酷かもしれないが、協力してくれないか?」


 望月の言葉に、正木は目を伏せたまま「正直、あの場に戻るのは辛い」と返す。しかし、逃げ続けても怪異が再発する可能性は拭えない。もし第二、第三の“甘キ爪”が呼び出されるようなシステムが研究所に残っているなら、それを止めなくてはならない――そう痛感しているからこそ、彼は小さく息を吐いて同意した。


「わかった。……俺も、中途半端なままじゃ気が済まない。村のみんなに申し訳ないからな。もし今後、似た事態が起きないように、徹底的に解明しよう」


 そう呟くと、胸の奥にかすかな決意が生まれる。村での体験から逃げるのではなく、それをしっかり受け止め、自分にできる償いを果たす。それこそが、正木が前へ進むための唯一の道だとわかっている。だが、思い出すだけで心が軋む。夜闇に浮かぶ廃祠の祭壇と、爪を突き立てて嘲笑う黒い影――それらはトラウマとして深く刻まれ、彼の睡眠を何度も破壊し続けるだろう。


#### “甘キ爪”は本当に消滅したのか


 正木は時折、思う。あの儀式の直後、本当に怪異は封じられたのだろうか? 表向きには、村はこれ以上の殺戮や暴力に襲われず、落ち着きを取り戻しつつある。だが、霧がかかった山道や廃屋を見るたびに、あの黒い足音が再現されるような感覚に囚われる。自分たちが見た幻なのか、それとも“甘キ爪”が潜伏しているのか。誰も確証を持てないまま時間だけが経過する。


 研究所も、事件を無難に処理するべく動いている気配があるが、根本的な解決策を見つけるにはまだ多くのデータが必要だ。そもそも“甘キ爪”という怪異現象を公式に研究するなど、風評リスクが高すぎるという理由で表立った発表は行われない。結局は闇に葬られる可能性が高い。それでも、正木や望月が内部から提言し、同じ惨劇を繰り返さないよう声を上げるべきなのだろう。苦痛と戦う中で、彼らは自分たちに課せられた使命を感じていた。


 アパートの窓から覗く街の灯は淡く、都会特有の喧噪も正木の心にとってはむしろノイズにしか感じられない。あの山深い村で見た夜空のほうが、よほど鋭く、苦々しいほどに思い出へ焼き付いている。もし“甘キ爪”が再び地上を徘徊すれば、今度は村だけでなく、大都市をも巻き込むかもしれない――そんな妄想すら頭をよぎる。


「なあ、もし本当に“甘キ爪”が消滅してなかったら、おまえはどうする?」


 望月が恐る恐る尋ねる。正木は答えに詰まり、無言で首を振った。考えたくもないが、可能性としてはゼロではない。自分の悪夢の中で、あの爪がまだ蠢いている以上、いつかまた別の形で災厄が顕在化するかもしれない。村の封印が完全ならばいいが、“詰めの甘さ”がどこかに残っていれば、決して油断できないと理解していた。


(それでも、俺たちがやるしかない。どんな形でも、あの怪異を封じ込め続けるしかない――)


 その決意が揺らぐたび、胸の奥にある爪痕が痛む。研究所が引き起こした負の連鎖。村が被った甚大な被害。仲間や家族を失った多くの人々――どれも元には戻らない現実だ。だが、少なくとも二度と同じ惨劇を繰り返さぬよう、今を生きる者が責務を負うということかもしれない。それが、無数の命を飲み込んだ“甘キ爪”に対抗する唯一の術なのだから。


#### 終わりなき爪痕


 それから暫くして、正木は一人で街外れの公園に足を運んだ。夜気がひんやりと肌を撫でる。街灯の届かないベンチに腰を下ろし、薄い月明かりの下で煙草に火をつける。吸えもしない煙をくゆらせながら、村の仲間たちのことを思い浮かべる。


 伴野はどうしているだろう。ミキは怪我人の看病でまた過労になっていないか。望月は研究所と掛け合ってくれているだろうが、あの体力と精神でどこまでやれるか。そして、何より“甘キ爪”という怪異は本当に沈黙を保っているのか――すべてが霧の中だ。


(結局、封印が完遂されたかどうか、今の俺には確かめる術はない。だけど……)


 煙草の煙が儚く宙に漂い、形を失って消えていく。それを見つめながら、正木は心の中で繰り返す。あの廃祠での最終決戦に臨み、人々の意志が一つになったあの瞬間――あれこそが奇跡だった。大きな犠牲と絶望の中で、ほんの一滴の希望を絞り出すように人間同士が手を取り合い、“甘キ爪”を退けた。たとえ再発のリスクがあろうとも、あそこにあった結束こそが答えだったのではないか。


(爪痕は残っている。それでも前へ進もう――)


 彼は静かに立ち上がり、夜空を仰ぐ。事件を社会的には「天災」「事故」として処理されようとも、真相を知る者は決して忘れないだろう。村の人々、研究仲間、そして自分自身の胸にもずっと“甘キ爪”の痕跡が宿り続ける。だが、それを呪いと捉えるか、克服の証と捉えるかは、これからの行動次第なのかもしれない。


### エピローグ(数週間〜数ヶ月後の景色)


- **村の様子**

廃屋や焼失した納屋の残骸は一部撤去され、道も徐々に整備が進んでいる。以前は行き交う人も少なかったが、外部からのボランティアや支援団体が出入りし、最低限の生活インフラを確保する段階に入っていた。だが、あの廃祠付近にはまだ近寄らない住民が多い。封印が完成しているかもしれないが、「あそこは呪われている」という噂は根強く、怖がる者が大半だ。


- **村人の葛藤**

伴野は引き続き村のまとめ役のような立場に立ち、復興作業を仕切っている。彼自身も夜な夜な悪夢を見てうなされるが、それでも「ここで立ち止まってはみんな救われない」という一心で踏ん張っていた。彼を含め、夜道で“甘キ爪”の影を見たという体験者は多く、深刻なPTSDが蔓延している。医療の手当てがまだ十分でないため、折れそうな精神を必死で維持しているのが実情だ。


- **研究所との関係**

望月やごく少数のスタッフが村の状況を定期的にチェックし、研究所には断片的に報告を上げている。ただし、公に「怪異が存在していた」とは認められないため、内部資料として扱われる見込みが高い。表向きは「山間地での不安定要因」「天災リスクに関する追加調査」という名目で、これ以上の深追いを避けているようだ。正木の退職も含め、事件の詳細を闇に葬る意図が垣間見える。


- **正木の近況**

アパート暮らしを続けながら、夜ごとに“甘キ爪”の夢に苛まれ、息苦しい日常を送っている。外見的には怪我も治り、普通の生活をしているように見えるが、心の中では村の光景が焼き付いており、誰とも深く会話をしようとしない。わずかに残る繋がりは望月やミキとの連絡程度で、「いつかは研究所の闇を暴きたい」という義憤のようなものが、かろうじて彼の意志を保っている。


#### そして、“甘キ爪”は本当に消滅したのか


 ある夜、正木は唐突に高熱を出し、病院で点滴を受ける羽目になった。医師によると「過度のストレスと睡眠不足からくる自律神経の乱れ」という診断らしい。彼は意識が朦朧とする中で、またしてもあの廃祠の夢を見た。あの黒い闇の中で、石を抱えて「封じるんだ……!」と必死に叫ぶ自分。そして、最後にうっすらと笑う爪の姿が見え――


 ふいに目が覚めると、白い病室の天井が目に入った。誰もいない夜の院内で、微かな機械音だけが響く。心臓がバクバクと高鳴り、冷や汗にまみれたシーツを握りしめながら、正木は確信する。**“甘キ爪”は完全に消滅したわけじゃない**。少なくとも、自分の心の中にはまだ存在し、爪痕となって生き続けている。もしそれを「怪異の残滓」と呼ぶなら、いずれどこかで再燃するかもしれない――そう思うと、恐怖と責任感が背中を走る。


(本当に終わったのか? あの封印は成功だったのか? あるいは……またいつか、俺を探しにやってくるのか)


 絶望ではないが、明るい未来とも言えない。だが、この爪痕を抱えながらでも生きていくしかないのだ。村で起きたことを忘れず、必要なら再び封印を施すために――。そう考えているうちに、正木は急に笑みがこぼれた。かつては何度も“詰めの甘さ”で失敗し、絶望し、仲間を失った。それでも今、生きている自分がいる。次に同じ危機が訪れたとしても、もう二度と同じミスはしないと心に誓っている。


「さあ、どう転ぶにしても、前に進むしかない――“甘キ爪”よ、おまえがまだそこにいるなら、次こそは完全に打ち砕いてやる」


 誰に聞かせるでもない決意表明を口にし、正木はベッドの上で目を瞑った。遠い頭痛の彼方に、山奥の村の静寂が広がる。薄闇の廃祠、火の粉が舞う夜空、耳を裂くような黒い影――どれもが現実に起きた出来事だった。しかし、今やそれはただの幻ではない。

 **封印は成功した**。少なくとも、村にとっては大きな前進だ。多くの犠牲があり、爪痕は深い。しかし、かろうじて生き延びた者たちには、再出発の道が残されている。正木もその一人として、自らの運命を背負い続けるのだ。


#### 余韻――


 そして、季節が一つ変わるころ、村から一通の手紙が正木のもとへ届いた。差出人はミキと望月の連名で、「村の復興がゆっくり進んでいる。怪しい現象はほとんど見られなくなったが、みんな怖くて夜の外出を控えている。伴野さんは奮闘しているが、精神的な負担が大きい様子」と書かれている。最後に「またいつか、元気になったら顔を出してほしい」と添えられていた。


 正木は手紙を読み返し、喉の奥が熱くなるのを感じる。自分はまだ村を訪れる心の準備ができていない。爪痕が疼き、あの光景を思い出すだけで胸が軋む。それでも、いつかは戻らなければ――。あの地で完遂したはずの封印が本当に役立っているのか、確かめに行かなければ――そんな思いが湧き上がる。


 **“甘キ爪”は本当に消滅したのか、それとも再び世界のどこかで爪を振りかざすのか**。それは誰にもわからない。だが、少なくともこの村では、怪異が一旦沈黙した形で区切りがついた。研究所の闇を暴く戦いはこれからだが、今は大きな山場を越えて人々が生き延びた事実がある。それだけでも、過去の悲惨さを思えば大きな前進だ。


(おまえはまだ、どこかにいるのか? ――甘キ爪)


 正木は手紙を机に置き、そっと目を閉じた。まぶたの裏で、あの祭壇と石、そして消えゆく黒い爪の影がちらつく。すべてが幻ならどれほど救われただろう。それでも、現実だったからこそ、彼はこうして生き延びたのだ。その爪痕を一生背負いつつも、次に同じ災厄が訪れぬよう足掻いていくのが、彼の生き方なのかもしれない。


### 終わりに

 かくして、村を蝕んでいた“甘キ爪”との戦いは、封印の成功という形で一旦の終焉を迎えた――そう表現してもいいだろう。しかし、その代償はあまりにも大きく、残された人々の心には深い爪痕が刻まれている。誰もが夜になると不安に駆られ、火を絶やさないようにしているという。山道を通る者は、尚も背後からザリ……ザリ……という足音を感じることがあると囁く。だが、それでも村は焼け跡を片付け、道を修復し、少しずつ生活を取り戻している。


 一方、正木は都会で薄暗い日々を過ごしながら、研究所への働きかけを続けている。表向きは会社を辞めた身だが、望月など内部の協力者と共に、新技術が再び怪異を呼び寄せることのないように警戒を怠らない。自分の“詰めの甘さ”を受け入れ、失敗を糧に成長するために――そう考えると、もはやこの先どんな困難が待ち構えようとも、きっと乗り越えられるかもしれない。


「終わり……なのか? それとも、まだ始まりか――」


 ある夜更け、正木は深い眠りにつく前、ふとそんなことを考えた。もしまた“甘キ爪”が顔を出すような事態が起きれば、今度こそ自分が立ち向かわなくてはならないだろう。村で手を携えた人々とともに、二度と同じ悲劇を繰り返さぬよう。「封印した」はずの闇が、爪痕として潜在しているのなら、自分たちが責任をもって監視し、封じ込み続ける――それが、新技術で怪異を呼び込んだ責任の取り方でもある。


 遠い夜空を見上げれば、あの山並みの風景が瞼の裏で蘇る。廃祠の前で協力した仲間、犠牲になった人々の叫び、全身を蝕むほどの恐怖と絶望――そして薄い光が見えたあの瞬間……。爪痕は一生消えない。だが、その痛みとともに生きることで、初めて怪異の再来を防げるのかもしれない。まるで、“甘キ爪”がそうすることでしか封印され続けないと、どこかで嘲笑っているようにさえ感じられるのだ。


 果たして、それを「勝利」と呼んでいいのかどうか――判断は各人に委ねられる。犠牲の大きさや余韻の重さを考えれば、敗北に近い結末かもしれない。しかし、かろうじて生き延びた者たちの姿は、惨劇を乗り越えてなお歩みを止めない意思を表している。


 **“甘キ爪”は本当に消滅したのか、それとも……**

 その疑問は霧のように明確な形を持たないが、少なくとも今は村に大きな混乱が再来していない。その一点だけを拠り所に、残された人々は進むだろう。研究所との闘いも続くかもしれない。怪異を確実に排除する術を見つけるには、まだ多くの研究と時間が必要だ。とはいえ、村に代々伝わる封印の知恵や、先祖の残した謎が完全に解明されたわけでもない。あらゆるものが中途半端なまま、その先の物語を紡ぐ余地が残されている。


 こうして、この長い夜は幕を下ろす。だが、夜明けの光が地を照らすとき、その光は真実を白日に晒すわけでもない。ただぼんやりと、山の頂を赤く染めるだけだ。

 “甘キ爪”は、人間の弱さと隙を嗅ぎつけ、理性を崩壊させる怪異として、古今東西で名前を変え姿を変えながら潜んできたのかもしれない。もしそれが事実なら、封印が一度成功したところで、完全に消滅する保証はない。ゆえに、生き延びた人々には何重もの不安が付きまとい、爪痕が痛むたびに恐怖が蘇る。それでも前へ――その揺らぐ意志こそが、“甘キ爪”にとって最も付け入りやすい獲物なのかもしれない。


 **終わりか、はたまた続きか…**

 いずれにせよ、正木はこの事件を通じて確かに変化した。もう“詰めの甘さ”に押し流されるのではなく、傷を抉られるたびに踏みとどまる新たな力を身に付けたのだ。今回の勝利も敗北も超えた先に、もし再び怪異が甦ったとして――そのときは、同じ悲劇を繰り返さないはずだ。自分や仲間たちの犠牲を無駄にしないために。


 こうして、長かった村の惨劇はひとまず幕を閉じる。しかし、山間にこだまする風の音、夜道でふと感じる視線、そして心の奥底に存在する“甘キ爪”の気配――それらは今後も決して消えることなく、かつて血塗られた大地がここにあった事実を語り継ぐ。爪の痕跡は、いつの日か再び人々の前に姿を現すかもしれない。それが数年後か、数十年後か、あるいは明日か――誰にもわからない。


 **最終決戦**――“甘キ爪”との直接的な対峙は、想像を超えるほど壮絶だった。人間の意志が一つになることで怪異を押し返すことに成功する一方、個々の欲や怨念が最後の最後まで妨害の火種を撒き散らし、儀式を破綻寸前にまで追い込んだ。

 **勝利か敗北か**――封印は成立し、多くの人々がかろうじて生き延びたが、犠牲の大きさと得体の知れない後遺症が残った。結果として、完全なハッピーエンドとは言いがたい。

 **エピローグ**――事件から数週間~数ヶ月後、村は表向きには事故や天災として処理され、正木を含む生存者たちには心の爪痕だけが刻まれている。村の再建は進むものの、“甘キ爪”の再来を恐れる声が絶えず、研究所との闘いも水面下で続く。正木は爪痕(トラウマ)を抱えたまま都会で日々を送り、時折村を思い出しては胸を軋ませる。今後、“甘キ爪”が完全に消滅したのか、眠りについただけなのか、誰にも定かではない。


 こうして、“甘キ爪”を巡る長き物語は、ひとまずの幕を閉じる。だが、その結末は終わりではなく、次なる始まりのようにも思える。人間の“甘い詰め”が残る限り、“甘キ爪”は形を変えてでも蘇るかもしれない。大きな災厄を免れたとはいえ、爪痕という形で人々の心に潜む恐怖は、これからも生き続ける。

 それでも生き延びた者たちは、また前を向いて歩き始めるのだ――心に残る深い傷と、かすかな希望を抱えたまま。

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甘キ爪 まとめなな @Matomenana

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