第8章 地獄の底へ

 正木は、宿の窓辺に立って仄暗い山の稜線を見つめていた。ここ数日、村を襲う惨劇が限界を超えて加速し、“甘キ爪”と呼ばれる怪異の存在がほのかな影ではなく、はっきりとした姿を見せ始めている気がする。夜道での足音や、廃屋に射し込む月明かりの中でうごめく黒い爪のようなもの――人間の弱さを嗅ぎつけるその気配は、もはや陰鬱な空想では片付けられないほど濃厚になっていた。


 村の夜道を歩けば、背後を引きずるようなザリ……ザリ……という音が聞こえる。古民家の佇む一角に足を踏み入れれば、誰もいないはずの廊下でバタンという扉の音が響く。あるいは山奥の洞窟を覗けば、闇にうっすら浮かぶ“何か”が、自分を誘うかのようにちらついて見える。そうした“実体”の片鱗に触れるたび、正気を保つのが難しくなり、まるで狂気の淵へと導かれるような錯覚を覚えるのだ。


 今宵も、宿の廊下で「何かいる……」という声を聞いた。大柄な宿泊客が鍵を落として慌てふためき、灯りもない暗闇の中で、床を這う黒い影を見たと怯えていた。真偽はわからないが、“甘キ爪”が自らの存在をアピールするかのような怪異が、村のあちこちで多発している。人間の弱さを嘲笑うかのように、ほんの隙を見せた者から、順番に正気を奪われていく――そんな不吉な連鎖が進行していた。


 正木自身も、つい先ほど廊下を歩いたときに金属的な爪で引っかかれるようなチリチリした感触を覚えた。しかし振り返っても誰もいないし、手元には傷らしいものもない。だが、微かな“やられた感覚”だけが残り、疲労した脳をさらに混乱させる。怯えてはいけないと思うほど、頭痛は増していく。まさに、“甘キ爪”が人の内面に巣食いはじめる前兆を、自分の身体で体感しているようだった。


◇◇◇◇◇◇


 翌朝、保健センターの看護師・石田ミキは、暗い面持ちで正木を呼び出した。どうやら、過去に遺されていた封印や退治の情報が、新たに見つかったらしい。名もなき村人が保管していた私文書の中に、古い隧道(ずいどう)と山奥の廃祠(はいし)へ行けば“甘キ爪”を封じる鍵が隠されている……かもしれない、という断片的なメモが出てきたという。そこには実体験が混ざった形で、「かつて何者かが怪異を地下に閉じ込めた」などと書かれているらしいが、詳細は曖昧だ。


「ほら、前に祠の地下洞窟で石碑を見つけたでしょ? あれとも関係があるかもしれない。ともかく、一度行って確かめるしかないって話になってるの」


 ミキは興奮しているような、あるいは不安を抑え込むような表情で早口にまくし立てる。“甘キ爪”の脅威がますます現実味を帯びる中、決死の探索でもしなければ何も変わらない――そんな危機感が彼女を駆り立てているのだろう。


「わかった。望月や他の仲間にも声をかけて、早めに出発しよう。できれば今日中に隧道と廃祠を回りたい。救援が来るとも限らないし、いつ道が崩れるかもわからないからな」


 正木は頭痛を抱えながらも動揺を抑え、そう返事する。実際、村の中でじっとしていても“甘キ爪”に精神を削られるだけだ。自分たちの意志で最後まで足掻いてみるしかない――それは危険に満ちた賭けだが、ほかに選択肢はなかった。


◇◇◇◇◇◇


 出発の準備を進める中、予想外の人物が協力を申し出た。かつては正木を「災厄の元凶」と罵倒し、暴力沙汰寸前になった村の男性・伴野(ともの)である。もともと村長サイドに近い立場だったが、ここ最近の犠牲者や怪異の顕在化に直面し、どうやら考えを変えつつあるらしい。


「もう村が崩壊寸前なのはわかってる。だが、黙っていても被害が増えるだけだ。“甘キ爪”ってのが本当にいるなら、そいつを封じなきゃいかんだろう。俺はな、昔から“甘キ爪”は迷信だと思ってきたが、この状況を見るとな……」


 伴野は悔しそうに言葉をかみしめる。村の古参としてのプライドや、外部の人間への不信感が強かったが、自分の親戚筋や友人も次々と行方不明や発狂に近い状態へ陥っている今、背に腹はかえられないというわけだ。正木もミキも、この協力申し出には驚いたが、拒む理由はない。むしろ心強い味方が増えたと歓迎する。ただ、お互いに旧いわだかまりが残っているため、ややぎこちない空気が漂うのは否めなかった。


 さらに、研究所から合流した望月や、村の若者数名も「やるだけやってみるか」と加わり、即席チームが結成された。顔ぶれはバラバラだが、“甘キ爪”を目撃した者も多く、危機感だけは共有できる状態だ。問題は、前回の探索でも散々苦労したように、幻覚や怪しいトラップが多発している点。仲間うちで意見が割れれば、一気に非効率へ陥る恐れがある。


「地図なんて当てにならないけど、一応ある程度のルートを決めよう。まずは隧道を確認してから、山奥の廃祠へ行く。途中で人間が入らないように封鎖されてる可能性もあるし、危険が多いだろうが、全員が散らばるのはご法度だ」


 そう言って正木は簡易の地図を広げる。伴野や望月が補足しながらルートを指し示し、村の若者らも暗い顔で黙って頷く。すでに迷信や対立がどうこう言ってる場合ではない。「とにかくやるしかない」という諦観に近い思いが、ここで一時的な和解を生んでいた。


◇◇◇◇◇◇


 昼過ぎ、人数に余裕があるため2グループに分け、正木・ミキ・伴野が先発隊として隧道へ向かい、望月と若者数名が後から合流する形をとった。隧道は村の北東部に位置し、もともと戦後に造られた簡易トンネルのようなものらしいが、今はほぼ使われていない。崩落の危険があるため、近づく人もいないはずだ。


 森の合間を縫って進むと、鬱蒼とした木々の先にコンクリート製の入り口が見えた。半ば土砂に埋まりかけ、上部の一部が剥き出しの鉄筋で補強されている。入り口付近は雑草が生い茂り、まるで自然に侵食されるがまま放置されたような姿だ。内部は真っ暗で、ちょうど大人一人がかがんで通れる程度の高さしかない。


「……ここ、怪しいな。昔、誰かが“甘キ爪”を封じる儀式に使ったって噂があるって、本当だろうか」


 伴野が警戒しながら懐中電灯を照らす。すると、奥のほうでカラン……という落石か鉄材が動くような音が響いた。まるで人がいるかのように生々しい音で、背筋に冷たいものが走る。


「一応、足元に気をつけながら進みましょう。下手に叫んだりすると崩れるかもしれないから、静かに……」


 ミキが小声で制止する。正木も頭痛を抱えつつ、「わかった」と頷き、息を飲んで暗闇へ踏み出した。コンクリート壁はところどころに亀裂が入っており、染み出す地下水がポタリ、ポタリと天井から滴る。長靴で水溜まりを踏む音がやけに大きく響き、カビ臭い空気が鼻を突く。


 十数メートル進んだ先で、左側に横穴のようなスペースがあるのに気づいた。小さな鉄扉が錆び付いて半開きになっており、中から生温い風が吹き出している。伴野が扉を押し開けると、何か獣の巣穴のように地面が掘り返されている。かすかに骨のようなものが散らばっているが、人骨なのか動物のものなのか判別がつかない。見れば見るほど不穏な気配を孕んでいる。


「これ、やばいな。昔、誰かの遺体が食い荒らされたとか、そんな噂もあったよな……?」


 伴野が眉をひそめる。誰も具体的な真相を知らないが、村の怪談話では「隧道で見つかった白骨死体は“甘キ爪”の仕業」などと囁かれてきた。もっとも、迷信か真実かは曖昧だったのだが、今の惨状を見ると冗談では済まない。背後でミキが手を合わせるようにして祈り、正木も唾を飲み込んで足を引いた。


 さらに奥へと進むうち、ガリガリ……という爪で何かを削るような音が微かに聞こえてきた。三人は思わず顔を見合わせ、逃げ帰りたい衝動に駆られる。だが、“甘キ爪”を封印する鍵がここにあるかもしれない以上、今さら引き返すわけにもいかない。


◇◇◇◇◇◇


 やがて隧道の中央部にさしかかると、予想外にも空間がわずかに広がっている場所があった。工事の際に作られた溜まり場なのか、コンクリ壁の一部が凹んでいて、そこに古い木箱らしきものが置かれているのが見える。懐中電灯を当てると、何かの道具や書類が詰まっているようだ。三人は目を合わせ、そっと近づいた。


「なんだこれ……?」


 伴野が木箱を開けようとするが、錆びた釘が噛んでいて簡単には開かない。仕方なくバール代わりの道具を使ってこじ開けると、中には汚れたノートのようなものや金属製の容器が入っていた。ノートを手に取ってページをめくると、古い字で「封鍵(ふうけん)ノ心得」とか「祠ノ石ヲ守ルベシ」といった文言がちらほら書かれている。どうやら誰かが“甘キ爪”の存在を意識して、独自に記録したメモの類いだと推測できる。


「ミキさん、ちょっと読んでもらえますか? 俺、頭がガンガンして集中できない……」


 正木が弱々しく言うと、ミキはノートを受け取り、懐中電灯を当てながらざっと目を走らせる。判読が難しい個所が多いが、文章の要点はどうやら「廃祠にある石を特定の手順で封じ込める」「封鍵のためにある器具や呪具を正しい順序で使用する」などというものらしい。詳しい方法までは書かれていないが、これまで見つけた断片情報と結びつければ、より具体的な儀式の手順を導ける可能性がある。


「これ、けっこう大事な情報だと思う。多分、廃祠の石を囲む形で何かを行うんだよ。前に見た石碑の断片にも、似たようなことが書いてあったし……」


 ミキが小声で解説する。伴野も「俺はそっちの封印とか詳しくないが、聞いたことあるな。先祖が石を通じて“魔”を封じた、とか……」と言葉を継ぐ。三人の頭には、山奥にある廃祠の光景が蘇る。あの地下洞窟の石碑や祭壇とも、もしかすると繋がっているのかもしれない。


 だが、まさにこのとき、“甘キ爪”の存在を思わせる異様な音がトンネル内に響いた。ギィ……ザリザリ……という、何か硬い爪がコンクリート壁をひっかくような音。しかも明らかに人為的な走行音ではなく、どこか獣のような低く湿った気配を伴っている。三人は息をのむが、暗い闇の中には光る眼すら見当たらない。


「逃げるか? あるいは、もう少し調べるか?」


 伴野が焦った声で聞く。正木は頭痛でフラつきながらも、「もう少しだけ……」と答える。手掛かりになりそうなノートや金属の容器を抱え込み、トンネルを探ろうとしたその瞬間、頭上からコンクリの破片がバラバラッと落ちてきた。思わず三人が飛び退くと、天井の一部が崩れかけている。あと少し遅ければ下敷きになっていたかもしれない。


「まずい! こんなとこ、いつ崩れてもおかしくない。撤退だ!」


 伴野がそう叫ぶと、正木もミキも同意せざるを得ない。ノート類だけ持ち出して、急いで入り口へ引き返す。ざわつく音は背後から追ってくるようで、誰かに捕まる前に逃げ延びるために無我夢中で走った。出口の近くに来ると、望月と若者数名が「大丈夫か!?」と呼びかけてきた。合流する約束だったが、トンネル内に入るに入れず心配していたらしい。


「無事……何とかね。でも崩落しそうだし、ここはもう使えないかもしれない。とりあえずノートが手に入ったから、廃祠へ向かおう。何か掴めるはずだ」


 正木は息を切らしながら、仲間たちにそう告げる。後ろのほうでは、ミキがノートを大事そうに抱え、一刻も早く読み解きたいという表情をしている。トンネルから離れたあたりに腰を下ろしてひと休みした後、彼らは次の目的地・山奥の廃祠へ向けて再び歩き出した。


◇◇◇◇◇◇


 山道を登る最中、突然、ザザッと茂みが動いて何かが飛び出してきた。若者の一人が悲鳴を上げ、望月が懐中電灯を向けると、そこには巨大なイノシシのような獣がじっとこちらを睨んでいる。黒く光る瞳は野生の狂暴さを宿し、牙をむき出しにして唸り声を上げたかと思うと、一瞬で消え去るように森の奥へ走り去った。


「な、なんだよ、今の……イノシシか?」

「いや、イノシシにしては動きがおかしかったぞ。大きさも普通じゃない……“甘キ爪”の影響で変異した化け物か?」


 もちろん単なる猪かもしれないが、この村に広がる怪異のせいで異常繁殖や凶暴化が進んでいる可能性は否定できない。皆、武器になるものをろくに持っておらず、こんな山道で襲われればひとたまりもないだろう。高まる不安を抱えながら、足早に廃祠へ向かうが、途中で幻覚めいた光景が目に飛び込んでくる。ある者は山肌に人影が立っていると錯覚し、またある者は茂みから笑い声が聞こえると怯える。幾度となく足を止め、意見が割れてしまう。


「見間違いだろ」

「いや、確かに声がした!」

「落ち着いてくれ、苛立っても進まないぞ」


 正木や望月が必死に制止するも、もともと意思統一が難しい寄せ集めチームだけに、小競り合いが絶えない。こうして非効率に時間が浪費され、気づけば夕闇が迫りつつあった。


◇◇◇◇◇◇


 ようやく山奥の廃祠に到着したとき、空はうっすら夜の帳をまとい始めていた。かつて正木が洞窟で見つけた祭壇や石碑との繋がりを感じさせる場所で、半壊した祠の周囲には倒木や蔓が絡まっている。あの地下への入り口はどうなっているのか――心臓がざわつく。もし“甘キ爪”がここで実体を持って待ち受けているなら、一瞬で正気を奪われるかもしれない。


「ノートには“石ヲ以テ封ジ”とか“周囲ニ札ヲ懸ケ”って書いてあった。でも、具体的にどの石かはわからなかったな……」


 ミキが呟き、伴野や望月が懐中電灯であたりを照らす。祠の床部分が抜けかかっており、下には空洞があるのか、黒々とした穴が見える。まるでまた地下空間へ誘うような造りだ。若者の一人が「怖くて近づきたくねえ……」と呟くが、伴野が「来たからには探らにゃ仕方ないだろう」と背中を押す。


 数人がロープを用いて穴を覗き込むと、そこには粗末な石段があった。どうやら旧い祭壇の地下へ繋がるパッセージのようだ。真下に何があるかは不明だが、先ほど手に入れたノートを参考にするなら、“甘キ爪”を封じる石や装置が存在するかもしれない。


「行こう。もう後戻りはできない。ここまできたら、死んでも行くしかないだろう」


 正木は両手で頭を押さえつつも、最後の気力を奮い起こす。手足のこわばりが激しく、身体が思うように動かないが、それでも立ち止まれば仲間の士気が折れる。彼が先陣を切って穴へ足を降ろすと、湿気を含んだ空気が一気に鼻を突いた。


◇◇◇◇◇◇


 予想通り、地下は狭く暗い通路が続いている。今まで正木が探索してきた場所と似た造りだが、こちらのほうが岩盤がむき出しで荒々しい。壁には古いお札の痕跡が貼り付いたまま風化し、床にはかつて誰かが足を踏み入れた跡が薄っすらと残っていた。その先には、神社の庫裏で見かけたような石造りの祭壇があり、中央に大きな石が祀られた形跡がある。


「ここじゃないのか、封印に使われたっていう“石”は……」


 伴野が照らした先には、複数の石が祭壇の上に積み重なっているが、その多くが割れていたり欠片になっていたりする。過去の衝突で壊されたのか、誰かが意図的に破壊したのか。いずれにせよ、原型を留めている石は一つだけで、中央付近に不自然に残されている。


「あれが……本命か」


 正木が息をのむ。“甘キ爪”を封じるための中核となる石だろうか。近づいてみると、人間の拳ほどの大きさがあり、丸いが所々に鋭い角がある。まるで何かの“爪”を象徴するかのようにも見えるし、触れるのをためらうような禍々しさを放っている。近づくだけで頭痛が増す気がするのは、錯覚かもしれないが……。


「ノートによれば、この石を正しい手順で扱い、“木札”と“祭具”を用いて結界を張るとか……」


 ミキが震える声でページを捲る。だが具体的なステップは曖昧で、誰もどうやって結界を作るのか分からない。せいぜい既存の知識から推測するしかないし、何より“甘キ爪”が既に強大な力を持っているなら、中途半端な儀式では太刀打ちできない可能性が高い。


 すると、後方で若者の一人が小さく悲鳴を上げた。「うわっ……!」と声が響き、皆が振り向くと、そいつは地面に倒れ込み、周囲を必死に指差している。視線の先には、闇の中でうごめく黒い影のようなものが見えた。懐中電灯を当てたが、何もいない。だが確かに、闇にうずくまる異形の爪のようなシルエットが、一瞬だけ映った気がする――それは何かを嘲笑うかのように消え去った。


◇◇◇◇◇◇


「ここまで深く入り込んで、このまま戻るのか? それとも……」


 伴野が青ざめた顔で問いかける。若者らは完全に尻込みしており、望月も「やるなら急いだほうがいい。もう時間がない」と顔を歪める。正木は手足の震えを覚えつつ、意を決して石に手を伸ばした。何もせずに帰れば、いずれこの地下空間から“甘キ爪”が完全体として地上へ出現し、村どころか周辺地域をも飲み込むかもしれない――そんな終末的なイメージが頭をよぎる。


「俺がやる。みんなは少し離れていてくれ。下手に巻き添えを食らうな」


 そう言うと、周囲は反発しかけたが、正木の決死の表情に押され、黙って後退する。石を掲げ、ノートに書かれた呪文の破片をどうにか口にしようとするが、頭が朦朧として言葉が出ない。そんな彼の手をミキがそっと支え、共に呟くようにして「退け……甘キ爪……」という断片的な文言を重ね合わせた。


「こんなんで本当に通じるのか……」


 伴野や望月が息をのみ見守る。だが、その瞬間、周囲がざわつくような低いうめきがこだました。岩肌や空気が震え、黒い塊のような何かが壁から剥がれ落ちるかのように現れた。そこには人間の形ではない、けれども生物的とも言えない爪や牙のような暗いシルエットが、光の届かぬ合間を滑るように動いている。


「う、うわあああっ……!」


 若者たちが総崩れで退き、伴野も震え声で叫ぶ。「これが……“甘キ爪”……?」と。正木はもはや頭が割れそうな痛みに耐えつつ、必死に石と木札を重ね合わせる。闇の存在は人間の弱さを嘲笑うかのようにヒタヒタと近づき、見えないはずの口から嘲りの息を吐きかけるようだ。光を当てても、そのシルエットはぼやけながらも確実に存在している。


「こいつを……封じなきゃ……!」


 正木の意識は半ばトランス状態に陥りながら、ノートで読んだ儀式を矯正するかのように動く。腕は震え、何度も石を取り落としそうになる。ミキも涙ぐみながら支えようとするが、正木の体は拒絶反応を起こし、石を抱えたまま床に膝を突く。暗黒の塊がさらに近づき、爪を振りかざすようにして空気を引き裂いた。


「やめろ……!」


 伴野が反射的に叫び、石の欠片を投げつけるも、闇はスルリと避ける。ただニタリと不気味な虚空の笑みを浮かべているかのようだ。まさに地獄の底へ落ちたような光景に、仲間は戦慄し、逃げ出す者もいる。だが、ここで退けば完全に終わり――そんな絶望感が正木を奮い立たせた。


「封印だ……封印するんだ……!」


 朦朧とする視界の中、正木は木札を石に押し当てる。細かい文字が書かれた札が音を立てて剥がれ、バラバラに飛び散るのを感じる。連動して暗黒の塊がバチッと火花を散らしたかのように震え、同時に正木の頭に激痛が走る。何かがぶつかり合い、拒絶する力がせめぎ合うような感触だ。


「こいつ……効いてるのか……?」


 望月が必死に懐中電灯で照らすと、確かに闇のシルエットが形を乱している。大きく上下に揺れ、もがくような動きを見せた。だが、完全に消えるわけでもなく、むしろさらなる暴力的な波動を放ちながら壁一面を覆い始める。まるで地下空間全体が“甘キ爪”の巣であり、自らを拡散しているようにも見える。


◇◇◇◇◇◇


「だめだ、こんなの……俺たちだけじゃどうにもならん!」


 伴野が絶叫し、若者数名は半狂乱になって出口へ殺到する。望月は最後まで正木を助けようとするが、自分も闇に呑まれそうな恐怖で堪らず足を引いてしまう。ミキも半ば泣きそうな顔で、しかし正木の腕を離さず「負けないで……もう少し……!」と声を振り絞る。そこには、これまで対立や不信があった者同士が、最悪の事態で手を取り合おうとする一瞬の光があった。


「正木さん……! あなたが導いてくれたこのチャンスを無駄にできない……!」


 ミキの呼びかけが遠のく意識に染み込み、正木は意地でも石を放さない。命の危険を感じるほどの激痛に耐えながら、石と札をもう一度合わせようと必死に腕を伸ばす。すると、不意に石が微かに光を帯びたように感じた。照明や懐中電灯の反射ではなく、内側からほの白い光が漏れ出している――それが幻覚なのか現実なのか、誰にもわからない。


「いま……何かが……!」


 何かが変わる。そんな確信が正木の胸を突いた。そして同時に、“甘キ爪”の暗黒シルエットが動きを鈍らせる。壁や空気を蝕んでいた黒い波動が、一瞬ふわりと消えかかり、再び戻るかのような断続的な揺らめきを見せた。まるで、この封印にある程度の効果があると示唆しているようでもあった。


「これなら……あるいは……」


 望月が目を見開く。伴野や若者たちも、そのわずかな後退に賭けるようにして、石や札を必死に抑え込む。混乱の最中、ぶつかり合う声や涙、息遣いが入り乱れ、勝機と絶望が拮抗する。今こそ和解し、協力しなければならない――その瞬間、彼らは互いの手を取り合って石の祭壇を囲み、“甘キ爪”の力と対峙した。


 すでに多くが失われたこの村で、残った人々が争いを越え、封印の手立てをようやく見出しかけている。前章までの対立や裏切り、暴力や放火で失ったものは大きいが、それでも一時的な和解が成立し、この瞬間だけはひとつのチームになっていた。山奥の廃祠という、まさに“地獄の底”へたどり着いた今、彼らの手中には確かな希望の光がかすかに宿る。


 ──“甘キ爪”との戦いは、まだ決着がついたわけではない。地下の闇は深く、怪異は完全なる顕在化に向けてなお最後の抵抗を示すだろう。だが、これまで分断されていた人間同士が一時的にせよ手を携えたことで、生まれた突破口もある。全ては次なる局面で判明する――その薄暗い廃祠の石の前で、正木は一縷の光を見出しながら、苦痛と闘い続けた。物語はまだ地獄の底を抜け切ってはいないが、ついに封印の鍵を掴む手がかりだけは失わずに済んだのだった。

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