第7章 縺れ合う恐怖と恩讐

 午前の曇り空が、まるで重い鉛のふたのように村を覆っていた。その中を正木は危なっかしい足取りで歩いている。夜通し苦しんだ頭痛と悪寒がまだ抜けず、視界の隅々が暗く揺れて見えた。しかし、宿で寝込んでばかりもいられない。自分がここまで振り回されながらなお残り続けている以上、何かをしなければならないという焦燥が彼を突き動かしていた。


 数日前に行った「封印の試み」は惨敗としか言いようがなく、結果として何も解決しなかった。むしろ、正木やその周囲に対する村人たちの疑いや不審が膨れ上がり、混乱は深まるばかりだ。とりわけ、村の一部住民からは「あいつこそ“甘キ爪”の手先だ」とまで言われ出す始末。弱り切った体でなんとか外を歩く正木の姿を、用心深そうに睨む人影も増えていた。


「正木さん……やはり宿で休んでいたほうが」

「ミキ、ありがとう。でも、どうしても外の空気を吸わないと頭がおかしくなる。それに、今はじっとしていても状況が悪化するだけだ」


 看護師の石田ミキが心配げに声をかけるが、正木は生返事をしながら歩み続ける。身体が限界だとわかっていても、自分が立ち止まったら誰が動くのか――そんな自責と苛立ちが交錯し、彼を休ませてくれないのだ。


◇◇◇◇◇◇


 村の中心部へ向かう道すがら、まるで気味の悪い人形のように、家々が閉じこもったまま沈黙を保っている。門扉には板が打ち付けられ、窓には内側から厚手のカーテンや障子があって、中の様子をうかがわせない。行き交う人もまばらで、互いに声を掛け合うことは滅多にない。一種の不信感が村全体を覆い、息が詰まるような重苦しさが漂っていた。


「……以前は、こんなに酷くなかったのに」


 ミキが声を落として呟く。彼女が保健センターに勤め始めたころは、閉鎖的ながらも最低限の活気はあったという。それが今や、人間同士の軋轢が剥き出しになり始めている。親戚や近隣同士でさえ口論が絶えず、夜になると「どこかで怒号が聞こえた」とか「家が荒らされた」という噂が飛び交う。失踪や謎の死が続く恐怖に追い詰められ、互いを疑う空気が加速しているのだ。


 そんな中、正木が道角を曲がると、背後で甲高い声が聞こえた。振り向くと、妙齢の女性が玄関先からこちらを見ている。けれども「近づくな!」というように腕を振り払い、睨みつけるような目つきで門をバタンと閉めてしまう。どうやら正木を見て一瞬警戒し、拒絶したようだった。


「見ろよ、あの反応……完全に俺を“災厄の元凶”扱いしてるじゃないか」


 情けなさと悔しさが混ざり、正木は苦い笑みを浮かべる。実際、最近になって「正木が村に来てから失踪が増えた」という疑惑をちらつかせる者が増えており、陰口どころか面と向かって罵声を浴びせる村人も出始めているという。


◇◇◇◇◇◇


 さらに奥へ歩みを進めると、小さな広場に数人の村人が集まっているのが見えた。どこか荒んだ空気を漂わせており、顔見知り同士らしいが険悪な表情の者も交じっている。そのうちの一人が、正木の姿を認めると、まるで汚物を避けるかのように横目で睨んだ。


「あんた、まだここにいたのかよ。さっさと出て行けって何度も言ってんだろ。あんたが封印だ何だって騒ぎ始めてから、余計に死者が増えてるんだ」

「……出て行きたくても道が崩れていて、車も故障していて動かせないんです。僕だって、好きで残ってるわけじゃない」


 正木が歯切れ悪くそう言い返すと、相手は顔をゆがめて笑った。


「どうせあんたが“甘キ爪”を呼び寄せてるんだろう? 言い訳してんじゃねえ。誰が信じるかよ」


 周囲の村人たちも、賛同するように小声で何かを囁き合っている。あからさまな敵意に、ミキが不安そうな顔をするが、正木はひとまず目を伏せて受け流す。それでも相手は引き下がらず、詰め寄るように一歩を踏み出し、声を荒げた。


「おまえのせいで、もう俺の家族もまともに眠れねえんだ! 子どもが夜な夜な怯えて泣くのは、おまえが“甘キ爪”を連れ込んだからだろうが!」

「ちょっと待ってください。確かに俺はここで封印を試みたり、調査をしてきました。でも、それは村の犠牲を減らすために……」

「偉そうに言うな、この疫病神が!」


 怒鳴り声とともに相手が正木の胸ぐらを掴もうとする。ミキが止めに入ろうとするが、腕を払われてよろめいた。その瞬間、正木の中で抑えていた感情が爆発しそうになり、思わず腕を振り上げかけるが、鈍い頭痛が襲ってきて動きが止まった。身体が熱く、意識が白んでいく。「こんなことで乱闘したら最悪だ」と理性が警鐘を鳴らすが、苛立ちはなおも残る。


「正木さん、だめ……こんなとこでやりあっても……」


 ミキの小さな声が聞こえ、正木は歯を食いしばって踏みとどまる。村人の一人が「あいつが暴れた!」と叫びそうになるのを恐れ、ギリギリで頭を冷やした。結果的に揉み合いにはならず、相手が罵声を吐き捨てて立ち去り、取り巻きも冷めた様子で散っていく。取り残された正木とミキは、荒い呼吸を整えながら肩を落とした。


「こういう衝突が、あちこちで起きてるんですよ。もう限界なんです、みんな……」


 ミキの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。正木は苛立ちと悲しみが入り混じる表情で頷いた。「わかってる。誰もがギリギリなんだ……」


◇◇◇◇◇◇


 そうしてようやく村長や伴野(ともの)のいる地区に近づいたころ、騒々しい人声が聞こえてきた。何事かと駆け寄ると、小さな納屋らしき建物が炎を上げて燃え上がっている。数人の村人がバケツリレーで消火を試みているが、火勢は想像以上に強く、すぐには鎮火できそうにない。


「火事……? まさか放火じゃないよな」


 正木は唖然としながら周囲を見回す。どこから火が出たのかはわからないが、風が強ければもっと大きな炎上に繋がりかねない。ミキも緊張した面持ちで「消防を呼ばなきゃ」と言うが、この村の通信は依然として不安定だし、そもそも外部との連携が遅れている現状だ。近くの住民がそれらしい連絡を取ろうとしているが、どうなるかわからない。


「くそ、手伝わないと……!」


 正木は動揺しつつもバケツを手に取り、炎に近づこうとする。だが、そこにいた住民の一人が大声で「おまえは来るな!」と制し、乱暴に突き飛ばしてきた。ミキが慌てて正木を支える。どうやら彼らは、正木が関わること自体を拒絶しているらしい。


「あんたが火元じゃないだろうな? 疫病神め、さっさと消えうせろ!」


 正木は言葉を失う。ここまであからさまに敵視されるとは――放火の犯人扱いされる恐れすら感じる。結局、バケツを奪い取られたまま、彼は為すすべもなく火元から遠ざけられた。ミキも半ば無理やり腕を引かれ、一緒に現場を後にする。火事の煙が村の空を汚し、どうしようもない虚無感が押し寄せた。


◇◇◇◇◇◇


 こうした暴力的な事件は、最近急激に増え始めている。先日は別の区域で夜間に物置が破壊され、食糧が盗まれたという話もある。人間同士の疑心暗鬼がピークに達し、誰もが不安と怒りをどこかにぶつけたいのだ。正木は“甘キ爪”の直接的な恐怖よりも、この人間同士の衝突が村を先に滅ぼしかねないと感じ始めていた。


 宿へ戻る途中、正木のスマートフォンがかすかに振動した。通信が不安定な中でも、どうにかメッセージを受信したらしい。画面を覗くと、それは研究所の望月(もちづき)からで、「救援チームを編成して出発した」という内容が断片的に書かれている。しかし文末は文字化けし、途中で途切れている。


「救援……会社や研究所が本腰を入れて動き出したのか?」


 正木の胸に微かな希望が湧く。これまで、行方不明や怪死が相次ぐ中、会社側はリスクを避けるため及び腰だった。けれども事態が深刻さを増し、ついに重い腰を上げてくれたのかもしれない。通信が途切れ途切れとはいえ、外部から支援が来るなら、この村も助かる道があるかもしれない――そう思いたい。


「ただ、問題は本当にここまでたどり着けるかだな」


 ミキも同じ懸念を抱いている。山道の崩落や車の故障、さらには謎の通信障害など、妨げる要素は山ほどある。救援チームが道中で事故に遭ったり、引き返したりする可能性も高い。希望が見えつつも、「詰めの甘さ」がふたたび機会を奪うのではないかという不安が拭えない。


◇◇◇◇◇◇


 結局、その日一日を通じて、会社や研究所からの追加連絡は得られなかった。夜になり、正木が宿で頭を抱えていると、突然外から大きな金属音が鳴り響いた。驚いて部屋を飛び出すと、廊下の窓から青白い光が走り、何かが爆発したかのような叫び声が聞こえた。慌てて宿の管理人と一緒に表へ出ると、すでに近所の人々が集まっている。


「どうしたんです?」

「わからん、何かが破裂したみたいだ!」


 声が飛び交う中、道の先に白煙が上がっているのが見える。誰かが「村外れのほうから車が来たらしいが、事故ったか?」と口にした。もしかして――正木は嫌な予感に駆られ、ミキを伴って急いでそちらへ駆けつけた。


 道端には古いトラックのような車が横転し、車体がひしゃげている。運転席からはすでに誰もいないが、破損した荷物が散らばり、ガソリンの燃えた匂いが漂う。人影も見えないし、血痕らしきものもない。しかし、まぎれもなく激しい衝突があった形跡がある。


「これ……救援チームの車じゃないよな?」


 ミキが不安げに呟き、正木も胸がざわつく。ナンバープレートや車種を確認するが、どうやら地元のものらしく、研究所の車両ではなさそうだ。とはいえ、肝心の運転手が見当たらず、周囲の村人も「近づくと爆発するかも」と怯えている。結局、誰もが慌てふためくだけで、積極的に救助活動を行おうとはしない。


(せっかく外部からの救援が期待できたというのに、こんな形で事故が続いては……)


 正木は苛立ちをこらえながら、もうどうにもならない現実を突きつけられていた。村の状況はますます混迷を極め、外部との連携も断たれがち。人間同士の疑い合いと事故、そして通信障害や自然災害が、まるで“甘キ爪”の意志のごとく邪魔をしてくる。ここまで運の悪い巡り合わせが重なるのは、まさに「詰めの甘さ」を嘲笑う怪異の仕業なのかもしれない。


◇◇◇◇◇◇


 そんな暗い気持ちを抱えて宿へ戻ると、管理人が沈痛な面持ちで出迎えた。


「正木さん、さっき保健センターから連絡があったんです。村で調査に協力していた人が……行方不明になったって」

「……またか。誰が……?」


 脳裏には何人もの顔が浮かぶ。村の若者や老人、すでに行方不明扱いの者も多い。誰が消えてももう不思議ではない現状だが、聞けば聞くほど恐ろしい。すると管理人は控えめに言葉を選びながら続けた。


「どうやら、正木さんと一緒に神社や倉の調査を手伝ってくれた人物らしいです。あの、名前は……」

「松川さんか? それとも加藤さん? まさか……」


 管理人も正確には把握していないらしく、「加藤という人のようです」と曖昧に答える。正木は頭を抱える。加藤はごく最近まで祭具の話を教えてくれたり、古文書の解読に協力したりと、間接的に手を貸してくれた村の住民の一人だった。あくまで裏で情報を提供してくれたため直接顔を合わせる機会は少なかったが、それでも彼の支援がなければ正木の封印に関する調査はもっと遅れただろう。


「加藤さんまで……。くそっ……俺があんな封印なんて動きをしたせいで、狙われたのかもしれない」


 自責の念が正木の胸を刺す。実際に“甘キ爪”が狙ったのか、あるいは人間同士の衝突に巻き込まれたのか。それすらも定かではない。ただ、村の閉塞が極限まで来たこの状況で、調査に協力していた人が次々と犠牲になれば、それこそ正木への疑惑と憎悪がさらに増幅するだろう。

 現に管理人も「くれぐれも気をつけてください」と言いながら、複雑そうな表情をしている。自分の宿に滞在している客が“災厄の元凶”扱いされているのは、決して気持ちのいいものではないだろうし、逆恨みされて放火される可能性もある。既に安全地帯など村のどこにも残されていないのだ。


◇◇◇◇◇◇


 夜更け、正木は部屋のベッドに横になりながら、加藤の顔を朧げに思い出していた。彼は町へ出た経験があり、比較的フラットな視点で村の伝承を教えてくれた人だった。ひどく古い巻物の所在を知っていたり、神社の倉が使われていない理由などを正木にそっと伝えたりと、陰ながら協力を惜しまなかった。彼がいなければ、正木はもっと早々に調査を諦めていただろう。


(もう戻ってこないのか……? 本当に俺のせいなのか……?)


 部屋の暗がりで、そう自問する。自責と嘆きが混ざり合い、胸がぎゅっと締めつけられるようだ。外では風が強くなり、窓を揺らしている。こんな夜が何日続いただろうか。思考がまとまらず、疲労だけが溜まっていく。


 するとスマートフォンが微かに震え、画面を見ると今度は会社の上司からの短いメッセージが届いていた。どうやら救援チームが出発はしたものの、山道の土砂と車両トラブルで大幅に遅れているらしい。しかも通信が安定せず、位置情報や進捗を送れない状況だという。苛立ちと一緒にわずかな希望が胸をかすめるが、結局それも曖昧なままだ。


「また、詰めの甘さ、か……。いつもこうだ」


 正木は天井を仰ぎ、声にならない嘲笑を浮かべた。ギリギリのところで救いが届かない。行方不明者が増え、村人同士の衝突が激化し、どうにもならない袋小路に迷い込んでいる。自分の生来の“詰めの甘さ”も、この状況に拍車をかけているようで、やるせない苛立ちが込み上げるばかりだ。


◇◇◇◇◇◇


 翌朝、憔悴した表情の望月が宿を訪ねてきた。研究所から合流し、調査やサポートを進めていたはずだが、最近は通信トラブルで互いに連絡が取れない日々が続いている。そんな中、望月は血相を変えて正木に言った。


「村の東側で、今度は研究仲間の山本が行方不明らしい。あいつは確か、データをまとめるって言って単独行動してたんだが……まったく連絡がつかないんだ」

「研究所の人間まで……。一体どうなってるんだ? 山本は慎重な性格だったはずだよな。迂闊に山奥に入るタイプじゃないだろう」


 正木の胸が急激に冷える。これまで調査に協力してくれた村人だけでなく、自分の研究仲間まで犠牲になりかねない事態。もし山本が何らかの手がかりを見つけ、それが“甘キ爪”や村の因習の逆鱗に触れたのだとしたら――そんな暗い想像が、全身をざわりと震えさせる。


「警察を呼んだほうがいいって、俺も言ってるんだが、村長サイドの連中が“外部を巻き込むな”って頑なに反対するんだよ。もう手がつけられない」

「くそっ……このままじゃ本当に全員が犠牲になる。救援も期待できない状況で、どうしろっていうんだ……」


 正木は苛立ちをあらわにし、頭を抱える。望月も同じ思いなのだろう、拳を硬く握りしめている。山本がどこへ行ったのか、あるいは村の外へ脱出を試みて失敗したのか、可能性は幾つも考えられる。しかし、この通信障害と山道の崩落が続く中で、捜索や連絡の手立ては限りなく乏しい。まさに絶望的な状況と言えるだろう。


◇◇◇◇◇◇


 その昼過ぎ、保健センターから連絡があり、正木と望月、そしてミキは集合を命じられた。何事かと急いで向かうと、そこには疲弊しきった表情の職員たちが集まっており、一部の村人も顔を出している。どうやら誰かが重体で運ばれてきたらしく、センターはてんやわんやの有様だ。


「また新たな犠牲者が……?」

「詳しくはまだわかりません。村のはずれで倒れていたらしくて、顔や身体に爪痕のような傷があったとか……」


 職員がそう言うのを聞いた瞬間、正木は胸が痛んだ。“甘キ爪”によるものなのか、それとも誰かの仕業か。どちらにせよ、まるで悲劇が連鎖している。中へ入ると、応急処置を受けている男性が目に留まったが、出血がひどく、意識はない様子だった。ミキもすぐに処置を手伝いに回り、正木は遠巻きに見るしかなかった。


 やがて、村の中から集まってきた何人かが、「また正木が何かやったんじゃないのか」と囁き合う声が聞こえる。今となっては、不可解な事件が起きるたびに正木が疑われるのが常態化している。彼の見えないところで、影口や殺気に近い視線が飛び交う状況だ。頭痛と倦怠感、そして深い罪悪感が混じり合い、正木はセンターの廊下で青ざめながらうずくまる。


(もう勘弁してくれ……俺だって何もしたくてやってるわけじゃない……)


 そう胸中で叫んでも、周囲の視線は変わらないどころか、ますます尖っていく。もしこの怪我人が亡くなったら、また正木に矛先が向くだろう――そんな予感が胸を締め付ける。空気は重苦しく、誰一人笑顔などない。


◇◇◇◇◇◇


 夕方、センターから宿へ戻った正木は、やるせない気分を抱えたまま廊下を歩いていると、管理人が小声で声をかけてきた。


「正木さん、あんまり大きな声では言えないんですが、村の有力者たちが“もうこいつを追い出すしかない”って相談してるって話が聞こえてきたんです。噂ですから確証はないけど、何か動きがあるかもしれません」

「追い出す……この状況でか? 道は崩れてるし、車も動かないんだぞ。どうやって追い出す気なんだ」


 怒りを抑えつつも、正木は唇を噛む。まさか暴力的な手段で村の外に放り出すのか、あるいは物理的に拘束してどこかへ置き去りにするのか。極限状態の村人の行動を、もはや常識で測れなくなってきている。管理人の顔にも恐怖が滲んでいる。宿が焼き討ちに遭う可能性だって、ありえなくはない。


「……でも、あくまで噂だから、今どうこう言えなくて。本当にすみません、こんな状態で……」


 申し訳なさそうに俯く管理人を前に、正木は力なく笑うしかなかった。いよいよ、人間同士の対立が絶望的な段階に入っているのを肌で感じる。もし今夜あたりに放火や襲撃が起きても不思議ではないし、何をどう防げばいいのかもわからない。


◇◇◇◇◇◇


 深夜、激しい雷鳴が村を揺らす。稲妻の閃光が窓の外を染め、雨が強く打ちつける。正木は布団に横たわったまま、頭痛に耐えつつうわごとのように「最悪だ、最悪だ」と繰り返していた。全身が熱っぽく、手足のこわばりが増している。もはや立ち上がるのもひと苦労だ。


(これが“甘キ爪”に精神を蝕まれかけている状態なのか。自分が自分でなくなる寸前、ってやつかな……)


 そんな悲観的な思いが頭をよぎる。隣室ではミキや望月が何か話し合っている声が微かに聞こえるが、耳鳴りがひどく、内容まではわからない。外の雷鳴と雨音が重なり、まるで世界が怒りと嘆きに満ちているかのようだ。


 そこへ突然、廊下から激しい叫び声が聞こえた。「火事だ! 火事だ!」――再び火災が起きたのかと正木は飛び起きようとするが、体がついてこず、膝をついて倒れ込んだ。ミキがすぐに扉を開けて駆け寄ってくる。


「正木さん、宿の裏手で火の手が上がってるらしい! とにかく外へ避難を……」

「くそ……まさか、俺を狙った放火か……?」


 血の気が引く思いで立ち上がろうとするが、めまいでふらついて視界が霞む。望月が後ろから支え、「俺に任せろ!」とばかりに正木を抱えるように廊下へ連れ出した。宿の管理人や他の宿泊客も顔を青ざめて騒いでいるが、どうやら裏手の小屋が燃えているようだ。火花がどんどん舞い上がり、激しい煙が立ち込める。


◇◇◇◇◇◇


 なんとか宿の正面口から避難するが、外は雷雨。視界も悪く、火元へ近づくのは困難だ。管理人が「すぐ消火しないと建物に燃え移るぞ!」と叫ぶが、誰もが混乱し、バケツもままならない。突如、背後から「正木がこの火を仕掛けたんだろうが!」という怒声が飛んできて、正木と望月はギョッと振り返る。そこには先ほど衝突した男たちの姿があった。


「何を言ってるんだ! あいつは今まで部屋にいたぞ!」

「黙れ、研究所の連中もグルなんだろ! これで村を全部燃やし尽くす気か!」


 全く筋の通らない言いがかりにもほどがあるが、こうして暴力的な言葉が飛び交い、命の危険が迫る状況で、対話は不可能に近い。小競り合いの中、正木は再び強烈な頭痛に襲われ、目の前がチカチカと暗転しかける。見え隠れする人影と言葉が混ざり合い、何が現実かわからなくなる。


(俺が……本当に放火したのか? まさかそんなはずない。でも、何も信じられなくなりそうだ……)


 思考がぐらつき、地面を支えにしながら倒れ込む。周囲の怒号や雷鳴が遠ざかり、再び自分が崩れ落ちていくのを感じた。もはや自己を保つことすらできなくなっているのかもしれない。


◇◇◇◇◇◇


 どれくらい時間が経過しただろうか。薄い意識の中で、正木は目を開ける。どうやら宿の一室らしい。雨の音はまだ続いているが、先ほどの火事はどうなったのだろう――そんな疑問が浮かぶが、体が言うことをきかない。隣にはミキの姿があり、タオルで正木の額を拭いてくれている。


「火は……なんとか鎮火したけど、裏の小屋は全焼。あなただって危ないところだったのよ……」

「そうか……。放火の犯人はわかったのか?」

「わからない。ただ、明らかにあなたを追い詰めるための犯行だって噂が流れてる。外に出たら、またあなたが狙われるかもしれない」


 ミキの声は沈み切っており、恐怖と疲労が滲んでいる。しかし、彼女はなおも続けた。


「でも、会社や研究所の救援が近づいてるという話を、さっき望月さんが聞いたって。もし無事に来てくれたら、あなたを保護してくれるはず……」

「間に合うのか……?」


 弱々しく呟く正木に、ミキは確証を持てず、俯くばかりだ。わずかな希望が見えつつも、どうせまた詰めの甘さで機会を失うのではないかという懸念が消えない。実際、この村ではことごとく救援や助力が不発に終わり、むしろ人間同士の殺し合いに近い対立が始まっているのだ。


◇◇◇◇◇◇


 やがて深夜、雨は小降りになったが、雷雲はまだ遠くで光を放っている。廊下の窓から外を見下ろすと、火事の後始末に疲れ果てた村人たちが散発的に帰路につくのが見える。誰も笑わず、みな険しい顔をしていて、正木への敵意がある者もない者も、この地獄絵図の中でどう動いていいかわからないのだろう。


 部屋に戻ると、望月が暗い表情で立っていた。


「救援の車、またトラブルだってよ。数時間以内に着くかもって連絡があったけど、道中で土砂崩れか何か起きたらしい。連絡が途絶えてる」

「……本当に詰めが甘いというか、運が悪いというか……」


 正木は苛立ちよりも虚脱感が強く、もう何も言えない。自分がここにいる限り、何一つ事態は好転しないのかもしれない――そんな絶望が胸を支配している。再び人間同士の憎悪が燃え上がる前に、何とか救援が到着し、正木を含めた数名が無事に村を離れられれば、多少なりとも光が差すのだろうか。


◇◇◇◇◇◇


 その後、夜が明けきらぬうちに衝撃的な知らせが舞い込む。加藤に続いて行方不明になった研究仲間の山本が、変わり果てた姿で発見されたのだ。宿の管理人や保健センターの職員が慌てて伝えに来るが、遺体というよりはほとんど見分けがつかないほどの状態だったという。詳細は伏せられたが、明らかに普通の事故や災害ではないらしい。


「……嘘だろ。あいつまで……」


 望月は片拳を壁に叩きつけ、くぐもった声で呻く。正木は言葉が出ない。山本はさほど親密ではなかったが、同じ研究員として、村に来てから何度か情報交換もした仲間だ。自分と同じように“甘キ爪”の恐怖をまざまざと感じながら、必死に村の現状をまとめようと頑張っていたはずなのに――。


 これによって、正木の責任感と罪悪感はさらに強く刺激される。「村にとどまって封印を試みる」という選択が、仲間を巻き込んだのではないか。自分の“詰めの甘さ”が山本の死を招いたのだとさえ思えてならない。周囲の村人の目も、いよいよ決定的に正木を排除しようという空気が漂い始めていた。


「ここにいる限り、また誰かが死ぬ。俺が原因なら、さっさと出て行ったほうがいいのか……」


 そう呟く正木の横で、ミキが「そんな……」と声を詰まらせる。だが、望月も返す言葉が見つからず、苦々しげに沈黙する。もはや村は暴力と疑念にまみれ、外部の救援は失敗続き。次の犠牲者が出るのは時間の問題だろうし、正木自身が生きてこの地を出られるかさえわからない。


 ──こうして“甘キ爪”に追いつめられた村は、人間同士の恩讐をむき出しにしながら、さらなる破滅へと突き進もうとしていた。暴力・放火・死の連鎖が繰り返され、正木の理性は限界を迎えつつある。外からの救援がわずかに兆しを見せても、タイミングの悪さと事故が重なり、ことごとく無に帰してしまう。

 研究仲間までも犠牲となり、正木は自責の念と恐怖に押し潰されそうだ。誰かを救うどころか、自分こそが“災厄”を引き寄せている――そう思わずにはいられないほどに、村は地獄絵図を深めていく。理性を欠き始めた正木の瞳には、ただ夜の闇が濃く映るばかりだ。今後、封印などという対策がまともに機能するのか、それともすべてが手遅れになってしまうのか。答えはまだ、どこにも見つからないまま、縺れ合う恐怖と恩讐の炎が燃え盛ろうとしていた。

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