第6章 “甘キ爪”の素顔
翌朝、正木は夜明け前に宿の布団を抜け出すと、まだ残る頭痛をこらえながら廊下へ出た。傍らには看護師の石田ミキが立っており、「無理しないでください」と小声で言いながらも、彼女自身も疲労の色が濃い。その手には、昨晩から準備していたメモが握られていた。そこには、この村における「開かずの間」のような祠について、断片的に聞き集めた噂が書き留めてある。
「どうやら村の南側の森の中に、古い祠があって、実質的に誰も近寄らないらしいんです。村長たちも鍵を持っているのかどうか曖昧だし、何かが封じ込められているって話だけが伝わってるみたいで……」
ミキはそう説明する。いわゆる「神社の倉」とは別に、古来より「開かずの間」扱いされている祠が存在するらしい。そこには“甘キ爪”に関する重要な記録や儀式道具が眠っているとのうわさもあり、それこそが正木たちが探している最後の手がかりになるかもしれない。しかし、村が混乱している現状では、公に調べられる見込みは薄い。だからこそ今、ひそかに出向いて確認するしかない。
「本当に行くのか? まだ身体も万全じゃないだろう」
心配そうに声をかけるのは同僚の望月だ。昨日、車を整備して何とか村を脱出する算段を立てていたが、結果は芳しくなく、部品の交換も難しい状況だという。崩落の危険性と道具の不足も相まって、今すぐ村を出ることは現実的ではない。それならば、せめて“甘キ爪”の正体を掴み、多少なりとも打開策を見いだすべきではないか――正木はそう考えた。
「こんな状態だし、どうせ腰を据えて調べる時間なんてもう残ってない。だからこそ、最後に祠を見ておきたいんだ。あそこには俺たちの知らない“真実”があるはずだ」
言葉の端々に覚悟が滲んでいる。正木は夜通し葛藤した末、これが最後のチャンスだと思った。それで自分の身体を犠牲にしてでも、一矢を報いるしかない。ミキと望月も反対しきれないのは、村の衰退と犠牲者の増加を目の当たりにしているからだ。もう黙っていても悲劇が続くだけなのであれば、たとえ危険を冒してでも真相に迫るほうがまだ道があると信じたいのだ。
◇◇◇◇◇◇
朝方、宿を出た正木たちは、できるだけ人気のない裏道を通って森のほうへ向かった。荷物は最小限。いつまた失神しそうな発作に襲われるかもわからないが、のんびりしている余裕はない。村人の多くが怯えて家にこもっている現状では、人目を避けるのも容易そうだった。
森へ入ると、深い緑の匂いとしっとりした湿気がまとわりつく。前日の雨で下草が濡れており、足元を滑らせないよう慎重に歩く。途中、傾いた祠をいくつか見かけるが、それらはどうやら目的のものとは違うらしい。現地の噂によれば、さらに山の奥にある祠こそが“開かずの間”扱いされている場所だという。
「道なりに行けば着くって話だけど、ほんとに歩ける道があるんだろうか……」
望月が呟く。確かに、かつての参道らしき石畳は苔むして崩れかけており、普通に歩ける状態ではない。藪をかき分け、虫を払いのけながら進むうち、やがてごく小さな鳥居が倒れかけた格好で姿を現す。石柱はひび割れ、額束が半分落ちている状態だ。どうやらこの先に祠があるらしいと、三人は直感した。
「ここをもう少し行った奥に、問題の祠があるはず……」
ミキが地図を見ながら言う。村の昔ながらの文献に一節だけ記された地形図を参照すると、どうやらこのあたりが該当しそうだ。期待と不安が入り混じる胸のうちを押さえつつ、倒れた鳥居をまたいで先へ進むと、細い獣道のような道が木々の間に続いていた。
◇◇◇◇◇◇
十分ほど暗い林を歩くと、視界が開けたスペースに出る。そこには高さの低い祠がひっそりと立っていた。古い木造の屋根は苔だらけで、扉部分には打ち付けられた板と朽ちた鍵のようなものがかかっている。脇には石灯籠と思しき残骸が倒れ、まるで何百年も放置されてきたような寂れ方をしていた。
「これが、村の人間が言う“開かずの間”なのか……」
正木はしばし言葉を失う。ここまで荒れ果てているとは思わなかった。よほど長い間、誰も近づかなかったのだろう。扉の板に触れると、湿気を含んだ木がミシリと音を立て、崩れそうになる。
「無理やりこじ開けるしかないのかな……」
望月が提案するのもやむを得ないが、できれば静かに開けたい。が、鍵は錆び付き、半ば折れかけている。だが、慎重に力を込めたところ、案外あっさり板と扉が一緒に外れた。湿気と腐食で釘や金具が形を成していなかったのだ。ミキが懐中電灯を照らすと、祠の奥にすぐ壁が見え、空間そのものは驚くほど狭い。
「これは……“部屋”というより、洞窟や地中へ通じているのかも?」
そんな予感を抱かせるほど、足元に向かって穴のような隙間が続いていた。暗くて先が見えないため、ミキがさらに明かりを深部へ投げ込む。すると、ほぼ垂直に階段らしきものが地下へ続いているのがわかった。三人は顔を見合わせる。まさか地下施設が隠されているとは――村の人々が容易に近づけないのも納得だ。
「行くか……?」
正木が息を呑む。身体は倦怠感で鉛のように重いが、引き返すわけにはいかない。ここに来た目的を果たすため、彼らは恐る恐る地下へ降りる。階段は狭く、石の壁は湿気で滑りやすい。懐中電灯の灯りも十分とは言えず、足元の状態を確かめるために何度も足を止めながら、数十段を下ると、小さな横穴のような空間に出た。
◇◇◇◇◇◇
洞窟というほど大きくはないが、横に広がる空間があり、そこには何か古い祭壇のようなものが据えられている。粗末な木製の台座と石の塊が中央に置かれ、周囲の壁には墨や土で描かれた奇妙な模様が走っていた。天井には重い空気が溜まっているのか、呼吸するたび胸が押しつぶされるような圧迫感を感じる。
「これ……祭壇? でもかなり荒れてるし、何かを奉っていた形跡はほとんどないな」
望月が呟く。ミキは足元を照らし、壊れかけた木箱や巻物の切れ端が落ちているのを発見した。正木も近寄ってみると、そこには以前見たような古文書の断片が転がっていた。濡れてボロボロになり、判読困難なものがほとんどだが、「甘」「爪」といった文字の断片が確認できる。
「やっぱり、ここにも“甘キ爪”に関する記録があったのか。村の古い儀式を行う場だったのかもしれないな」
正木はそう推測する。さらに祭壇の前には石碑のようなものが倒れていて、そこにはびっしりと小さな文字が刻まれている。だが、多くが風化や墨塗りのような痕跡で潰されており、残っている文字からは断片的な情報しか読み取れそうにない。まるで誰かが意図的に決定打となる部分を破壊したかのようにも見える。
「やっぱり大事なところは読めない。肝心の方法とか、封印の詳細が……」
「ちくしょう、どれもこれもわざと消されているのか?」
望月が忌々しそうに歯ぎしりする。ミキも石碑の隅々を探るが、ヒントになりそうな箇所は泥や墨で塗り潰され、どうにもならない。まるで本当に人間の手で「ここは見せたくない」とばかりに処理された形跡すらあるのだ。誰が何のために? この村が“甘キ爪”に怯えるよう仕向けているのか、それとも逆に外部に知られたくなかったのか。謎が深まるばかりだった。
◇◇◇◇◇◇
それでも、いくつかの判読できる箇所を照らし合わせると、「甘キ爪」は人間の“心の甘さ”に入り込み、徐々に理性を奪う存在である、という確信が強まる記述があちこちで見つかった。つまりこの怪異は、外から襲ってくるというよりも、むしろ人間の弱った精神に寄生するように広がるのかもしれない。だからこそ、迷信や恐怖心を煽れば煽るほど、被害が拡大してきたのではないか――正木はそんな仮説を抱く。
「この村で失踪や死が相次いだのも……もしかすると、当事者たちが既に“心の甘さ”を突かれていたからか。俺も頭痛や幻覚に悩まされてるし、まさにヤバい状況だよな……」
独り言のように呟くと、ミキが目を伏せる。彼女は正木の体調を把握しているだけに、これ以上深く関与すれば、彼が“甘キ爪”に完全に取り込まれる危険を感じているのだろう。だが、いま引き返しても犠牲が減るわけではない。三人は祭壇と石碑を一通り写真に収め、何とか読み取れそうな断片をメモに書き写す。
すると、その最中に正木が突然ふらつき、片膝をついて倒れ込んだ。頭痛とめまいが一気に襲ってきたのだ。望月とミキが慌てて支えるが、声をかけても反応が遅く、焦点が定まらない。
「正木、しっかりしろ!」
「ごめん……頭が割れそうで、ちょっと……休ませて……」
小さな悲鳴のような声を漏らし、正木は壁に寄りかかるように座り込む。洞窟の湿った空気が呼吸を余計に苦しくさせる。心拍が速まり、手足のこわばりが強くなった。まるで身体を外から締めつけられるというより、内側から悲鳴を上げるような痛みだ。
◇◇◇◇◇◇
そのとき、洞窟の奥のほうからかすかな風が吹き抜け、ひゅう、と不気味な音が鳴る。三人は思わずそちらに注意を向けたが、特に人の気配はない。ただ、何かの足音のようにザリ、ザリと地面を引きずる音が聞こえた気もする。望月が懐中電灯を向けるが、そこには岩肌があるだけ。暗い闇が広がっているだけのように見える。
「行こう。これ以上ここにいたら、正木が危ないし、俺たちも危険だ」
望月の判断は正しいだろう。ミキも頷き、正木の肩を支えながら階段を引き返す。ここで倒れてしまえば、もはや助けを呼べる相手もいない。暗闇が嫌な圧力を放つ中、何とか上まで登りきると、地上の光がほんの少しだけ希望を与えてくれる。扉を出た瞬間、外の空気が生温く感じられ、思わず全員が深呼吸した。
「とりあえず、帰るぞ……。メモした情報は後で整理して、どうにか封印の手掛かりを探そう」
望月がそう提案し、正木とミキは頷く。しかし、正木の表情はまだ白っぽく、意識も朦朧としている。祭壇の石碑で見た“甘キ爪”の由来が頭を離れず、あたかも自分が奴に喰われる運命を、今まさに辿っているかのように思えてならない。
◇◇◇◇◇◇
宿へ戻る途中、森の抜け道でふいに悲鳴が聞こえた。血の気の失せた声が風に乗って響き渡り、三人は身を強張らせる。少し先のほうから村の若者が駆け出してきて、怯えた顔で言葉にならない声を上げている。
「助けて……あっちで……!」
「落ち着いて、何があった?」
ミキが声をかけると、若者は息を切らせながら「人が倒れてる」としか言わない。様子が尋常ではなく、三人は仕方なく彼の案内で森の別ルートへ足を踏み入れた。正木は身体が重くて動きづらいが、ここで見捨てては後味が悪いし、救命の可能性を捨てるわけにはいかない。
数十メートル進んだ先で、彼らは恐ろしい光景を目撃する。木の根元に男性が倒れており、そこら中に血が散っている。息はもうしていないようだ。服が大きく裂かれ、胸元や腕には引っかいたような痕跡が見える。まるで大型の獣に襲われたかのような傷だ。
「こんなの……“甘キ爪”の仕業だって、また村の人たちは騒ぐんだ……」
望月が呆然と呟く。ミキは脈を確認しようとするが、手が震えてうまく触れられない。正木も近づいてみるが、男性の顔は茫然とした恐怖の表情のまま固まっており、既に息絶えているとしか思えない。足元には大きな血痕が広がり、あたりに鉄錆のような臭いが漂っている。
「……俺のせいかもしれない」
突然、正木がうわごとのように呟く。ミキや望月はぎょっとして彼を見つめる。
「どういう意味だ? おまえがやったわけじゃないだろう」
「わからない……けど、俺が“甘キ爪”に取り憑かれてるなら、気づかないうちに誰かを誘い込んで殺してるのかも……。頭がもう変になりそうだ」
愕然とする望月とミキ。実際、正木はここ数日、自分の行動を完全に記憶しきれていない瞬間があり、幻覚や悪夢の合間で何をしていたか曖昧な時間が増えていた。もし“甘キ爪”が人間の心の隙を利用して操るなら、自分があやつられてしまっている可能性は否定できない――そう思うと、恐怖が体の芯を凍りつかせる。
「違う、そんなわけない。正木さんがそんなことするはずがないよ」
ミキは泣きそうな声を上げるが、彼自身が疑心を抱いている以上、簡単に払拭できるわけではない。亡くなった男性を見つめながら、三人は言いようのない重苦しさに苛まれた。
◇◇◇◇◇◇
結局、遺体を発見した若者は村に報せに行くというが、村長や有力者がどう動くかは期待できない。現場検証や警察を呼ぶにも、これまでと同様に揉み消されてしまうかもしれない。なんとも言えない虚脱感を抱えながら、正木たちは重い足取りで宿へ戻った。
村は今や極限状態に近い。夜中に外を歩く者はほとんどおらず、昼間も人影が薄い。もはや限られた者だけが食糧を買い出ししたり、最低限の用事を済ませたりするために家を出るだけだ。行方不明や遺体の発見が続く中、誰もが怯え、内部で対立する派閥もある。そんな極限下で、正木はなおも自分が災厄を呼んでいるのではと疑い始めていた。
「何とかして“甘キ爪”を封じる儀式を探さなきゃ。たとえ不完全でも、村に残ってる古い呪術や祭事を試すしかない」
正木は朦朧としながらもそんな提案を口にする。望月とミキも、今は否定する気力すらない。村の誰かが「大昔にそうした儀式があった」という話を断片的に伝えてくれていたし、祭壇のある洞窟でもそれを暗示するような記録が確認できた。問題は、具体的な手順や道具がわからず、決定打となる情報が欠落していることだ。
「どこかにまだ隠されているか、あるいは古い道具が残っていればいいが……」
望月が苦い顔で言う。村長や伴野に頼もうにも、もうまともに取り合ってくれるはずがない。むしろ、「余計なことをするな」と一喝されて終わりだろう。けれども正木は、体が限界の今こそ、逆に言えば最後のチャンスだと考えた。周囲を巻き込む手段がないなら、少人数でもやれることを試してみるしかないのだ。
◇◇◇◇◇◇
翌日。正木は宿の部屋で資料を広げ、以前に神社や倉で入手した古文書のコピー、それから昨夜持ち帰ったメモを突き合わせる。頭痛で視界がぐらつくが、少しでもヒントを洗い出そうと必死だ。その結果、「獣の皮」「祠の石」「呪文を唱える祭具」といった単語が出てくる記述を複数回発見する。どうやら昔は、獣の皮を張った太鼓か何かを叩きつつ、特定の経文のようなものを唱え、石の周囲を回って封印を施す――そんな儀式があったらしい。
「普通の神社でいう祝詞(のりと)みたいなものか。問題はその呪文がどんなものか、石ってどの石か、ほとんどわからないことだらけ……」
苛立ちを抱えながら、正木は紙に大まかな流れを箇条書きし、「封印の段取り案」を作り始める。望月やミキも手伝うが、何分にも曖昧すぎて、これが本当に“甘キ爪”に通用するか自信はない。だが、ほかに策がない以上、試す価値はあるかもしれない。
「村の社務所や神社の倉庫を調べれば、昔の祭具が残ってるかもしれない。怖いけど、もう一度侵入するしかないかな……」
ミキがそう言い出したとき、正木は一瞬逡巡した。以前、あの神社の倉には鎖が掛け直され、警戒が強化されているのを見ている。下手すれば捕まって追放されかねない。それでも覚悟を決めるのが今の正木の立場だろう。犠牲者がこれ以上出るのを黙って眺めるわけにはいかないし、もはや自身の命すら怪しいのであれば、やるしかない。
◇◇◇◇◇◇
夜半になる前、三人はこっそり神社へ向かった。昼間だと人目につきやすいが、夜なら村の人々も家から出ようとしないので逆に好都合だ。懐中電灯を頼りに苔むした石段を登り、扉が閉じられた社務所の裏へ回る。案の定、倉には新しい鎖が掛かっているが、以前ミキが保管センターで見つけた合鍵の類はもう使えないらしい。意を決し、望月が工具でこじ開けを試みる。
金属がギリギリと軋み、途中で嫌な大きい音が鳴ったが、何とか鎖が外れた。三人は急いで扉を開け、中へ滑り込む。中は真っ暗で、埃っぽい空気がむわっと立ち込める。棚や箱が前回よりも整理された形跡があり、誰かが手を入れたのかもしれない。気配を探りながら奥へ進むと、何やら太鼓らしきものや古い道具が集められている一角に出た。
「これ、獣の皮……? かなりボロボロだけど、張ってあった形跡があるね」
ミキが太鼓の台座に触れると、ボロボロの革が崩れ落ちそうになる。まさに古びた祭具そのものだ。別の箱には欠けた鈴や御幣のようなものが見える。しかし、封印に必要かもしれない具体的な道具がどれなのか不明瞭だ。正木は焦りを感じつつ、一つひとつを調べようとするが、身体が再び悲鳴を上げはじめ、めまいで視界が揺れる。
「正木さん、座ってて。私たちが探すから」
ミキと望月が作業を続ける間、正木は倉の床に腰を下ろした。扉の隙間から月明かりがわずかに射し込み、倉の中をさらに不気味に照らし出す。彼は頭を抱えながら、自分が今どれほど危険な位置にいるかを痛感する。外で誰かが様子をうかがっているかもしれないし、“甘キ爪”そのものが近くに潜んでいるかもしれない。そんな恐怖を押し殺しつつ、耐えるしかない。
すると不意に、倉の壁越しにかすかな人影が動いたような気がして、正木は背筋を伸ばす。誰かが外を歩いている? それとも月の光の加減か? 耳を澄ましても静寂が続くだけで、足音は聞こえない。ただ妙な圧迫感が倉の中に漂い始め、息苦しさが増してくる。頭痛に拍車がかかり、手足がじわじわと冷たくなる。
(まずい、また“甘キ爪”に脳を侵食されてるのか……?)
そう思った瞬間、耳元でかすれ声のようなものが聞こえた。声にならない囁き、あるいは風の音かもしれないが、「おまえのせいだ」というフレーズが頭にこびりつく。正木は目を閉じ、両手で耳を押さえる。今ここで錯乱してはすべてが無に帰す。じっと耐えながら、なんとか落ち着きを取り戻そうとする。
◇◇◇◇◇◇
最終的に、ミキと望月は古い太鼓の胴と、擦り切れた獣革の一部、そして使い道のわからない細長い布切れと木製の札を持ち出すことにした。手がかりになるかはわからないが、村の古い資料と照らし合わせれば、簡易的な封印の再現くらいはできるかもしれないとの判断だ。それ以上長居すると危険なので、三人は手早く倉を出て扉を元に戻すと、闇に紛れて宿へと急いだ。
夜道を歩く間、何度も立ち止まって背後を確認する。誰も追ってはいないようだが、風に混じる鳴き声のようなものが聞こえたり、遠くのほうで微かな光が揺れたりする。正木は身震いしながら、「急ごう」としか言えない。身体が限界近く、足取りが重くなり、心臓がバクバクと高鳴る。まるで死の淵を覗き込む気分だった。
◇◇◇◇◇◇
翌朝、三人は眠い目をこすりながら、さっそく簡易的な「封印儀式」を検討し始める。古文書の断片を並べ、写真やメモを突き合わせ、“甘キ爪”に効果があるとされる手順を推測で組み立てる。事前に山の祠や社務所で見つけた記述を総合すると、大まかな流れは下記のようだった。
1. **獣革を太鼓に張り、特定のリズムで叩きながら呪文(祝詞のようなもの)を唱える。**
2. **村の外れにある祠または祭壇の石を中心に、一定の周回行動を行う。**
3. **木札に“甘キ爪”を退散させる旨を記し、封じ込める。**
問題は、どの石を使えばいいか、呪文とされる文字列が何かという点が曖昧すぎること。また、道具の破損が激しく、本当に太鼓を鳴らせるかわからない。だが、何でもいいから試してみるしかない――みな状況が行き詰まっているがゆえに、一縷の望みにすがる思いだ。
「下準備に時間がかかるし、場所をどうするかも決めなきゃいけない。山の洞窟に戻るのは危険すぎるし、かといって村中でやると騒ぎになるかも……」
望月が考え込む。正木は頭を押さえながらも、「やっぱりあの地下の祭壇が本丸っぽいけど、俺たちだけじゃ無理かもしれないな……」と弱音を吐く。しかしそのとき、ミキが震える声で言った。
「実は……村の端のほうに、昔の祭壇跡みたいなところがあるって聞いたことがあります。小さい石囲いがあって、神社でも祀られないような独特の空間らしいんです。そこならこっそり使えるかも……」
「でも、そんな場所を探してるうちに、また犠牲者が出たらどうする? 俺がさらに取り返しのつかない事態を招くかもしれないし……」
正木の言葉は悲観的だが、ミキは首を横に振る。
「逃げてても仕方ないし、村長や伴野さんも頼りにならない。誰かがやらないと、絶対にこのまま悪化するだけだと思う。正木さん、頑張りましょう、私も付いていきます」
その決意に、望月も「ここまで来たらやるしかないだろう」と加勢する。正木は深く息をつき、「わかった」とだけ答える。こうして不完全な封印儀式を強行する流れが決まる。段取りは甘いし、必要な道具や手順が合っているかもわからない。それでも踏み出さなければ“甘キ爪”の脅威から逃れられない――そう感じるほど、三人の恐怖と焦燥は限界に近づいていた。
◇◇◇◇◇◇
その夜。封印を実行しようと決めた当日、すでに日没を過ぎ、空気がひんやりと冷たく感じる。三人は最低限の荷物を背負い、村の外れにあるという「祭壇跡」を探し始める。ミキの記憶頼みだが、かつて高齢者から話を聞いた場所らしく、廃屋を通り越した先の小さな広場にあるらしい。しかし、実際に行ってみると、案の定雑草や茂みに遮られて場所がわからない。
「ここら辺のはずだけど……光が届かないし、道がまったく見えないな」
ミキが不安げに懐中電灯を振り回す。頭上では木々が闇をさらに深くしていて、虫の鳴き声すら気味が悪い。正木はめまいをこらえつつ、「あっちに小道がある」と木をかき分ける。すると、痩せた石段が見え、その先に小さな石垣で囲まれたスペースが出現した。どうやらそこが目的の場所らしい。
石垣の中央には、崩れた祠の台座のようなものが鎮座している。周囲には枯れ草が積もり、足を踏み入れるとまるで墓地のような静謐な空気が漂う。不気味ではあるが、まさしく人の立ち入りがない“特別な空間”という印象だ。ここに薄暗い太鼓と、木札を準備し、三人は旧来の封印儀式になぞらえた段取りを始める。
◇◇◇◇◇◇
「まず、太鼓を鳴らすリズムだけど、古文書にちらっと出てた“シシ呪”とかいうフレーズを当てはめてみた。この回数で叩いて、それから札を祠の石にかざして……」
望月が紙を見ながら説明する。完全な憶測に過ぎないが、拠り所はそこしかない。ミキが獣革の剥がれかけた太鼓を軽く叩くと、ぼそぼそした鈍い音が響く。決して心地よい音ではなく、まるで亡者の嘆き声のようにも聞こえる。正木は手の震えを無理やり抑えながら、呪文らしき文句を、古文書にある断片からつなぎ合わせたものを口ずさんでみる。
「……んぐ、やっぱり無茶苦茶だな。でもやるしか……ない……」
途中で吐き気が込み上げ、声が詰まる。それでも必死に言葉を繋げ、太鼓の鈍い音とともに、周囲を回るようにして動き始める。足元は暗く、段差や石につまずきそうになるが、ミキと望月が懐中電灯を照らしてくれている。やがて三人で円を描くように石垣を回り、中央の崩れた祠を囲む形を作る。
「ここで……木札を祠の台座に……」
ミキがそう言いながら、古い木札に“退散”の文字を走り書きしたものを、崩れた祠の石に貼りつけようとする。だが、湿気で思うようにくっつかない。望月が紐でくくりつけようとするが、焦りで手がもつれて作業が進まない。焦る気持ちばかりが空回りし、「やっぱり甘いよ……」という正木の呟きが夜空に溶けていく。
そのとき、突如として背後の木々がザワッと揺れた。木の枝がきしむような音が響き、誰かの足音のようにガサガサと茂みを踏む音が聞こえる。三人は一斉に身を固め、懐中電灯を向けるが、人影は見えない。風が吹いたのか、獣が通り過ぎただけか、わからない。ただ、胸を締め付けるような不安が一気に増幅していく。
「早く終わらせよう。これが完全じゃなくても、少しでも効果があるなら……」
正木が声を震わせながら呪文を再開する。望月が太鼓を鳴らすペースを合わせ、ミキが札を宙にかざすようにして祈りめいた言葉を発する。見よう見まねの儀式だが、やらないよりはマシという心境だ。だが、その最中に正木の頭痛が猛烈に襲い、視界がゆがむ。
「うっ……」
崩れるように地面に手をついた瞬間、視界の端で影が動いた。今度こそ人影か? 懐中電灯が照らされ、何もいないことを確認しても、頭の中には黒い影がちらつく。まるで自分の中に巣くう“甘キ爪”が外化したかのように、恐怖が形を成して迫ってくる。
「正木さん!」
ミキが駆け寄るが、正木は呼吸を乱しながら「やめろ、近づくな」とかすれ声を出した。もし今、自分が無意識に“甘キ爪”の傀儡になっているなら、近寄る彼女を傷つけるかもしれない――そんな妄想が頭に浮かぶ。自分ではそれが正気か狂気かわからなくなっていた。
「封印だ……封印を完成させろ! 俺に構わずやれ……」
苦しげに顔を上げ、正木は叫ぶ。ミキと望月も目に涙を溜めながら、雑な段取りを続けていく。太鼓の音は乱れ、呪文は覚束ない。それでも必死に台座を囲むように周回を繰り返し、最後に木札を祠の中心へ固定しようとした。
◇◇◇◇◇◇
しかし、とうとう耐えきれなくなった正木が大きくのけぞり、悲鳴のような声を上げた。「ぐあああっ!」――頭痛が頂点に達し、身体が痙攣を起こすかのように震える。望月とミキが慌てて支えに回るが、その拍子に太鼓が倒れ、獣革がボロリと外れて地面に落ちた。木札も歪んだ角度で台座からずり落ちる。
「くそっ……これじゃ……!」
望月は苛立ちを露わにしつつ、もうどうしようもないとばかりに苦い顔をする。ミキは正木を抱きながら、「大丈夫、しっかりして!」と呼びかけるが、正木の意識は朦朧とし、既に呂律が回らない状態だった。不完全どころか、儀式はほぼ失敗に終わったかのように見える。
「結果がどうであれ、ここから離れなきゃまずい。正木がこのままじゃ危ない!」
望月の言葉に、ミキは泣く泣く頷く。夜の闇は深く、足元も悪いが、ここで倒れたらもっと危険だ。失敗したという思いと、“甘キ爪”の脅威に直面する恐怖で、三人の表情は絶望に染まっていた。
◇◇◇◇◇◇
儀式をやり終えた(実際は未完)三人が宿へ戻る道中、正木は何度も記憶を失いかけた。身体の震えが止まらず、痛みと寒さと熱の境界で意識が行き来する。結局、封印どころか、逆に“甘キ爪”を刺激してしまったのではないかという不安すら頭をかすめる。
「やばい、正木がこのままじゃ……。病院へ行くにも崩落が……」
望月は焦りを隠せない。ミキもハンカチで正木の顔を拭いながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す。自分たちが追い詰められるあまり、準備不足のまま突き進んでしまった結果、正木の病状を悪化させただけなのではないか――そんな自責の念が三人の足を重くしていた。
やがて宿にたどり着いたころには、日付が変わる直前で、外灯もほとんど消えている。管理人が慌てた様子で正木を抱え込み、部屋へ運ぶのを手伝ってくれた。三人の表情から、ただならぬ事態だと察したのか、それ以上は何も尋ねない。
薄れゆく意識の中で、正木は「本格的な危機意識」を初めて痛感した。もはや自分はいつ死んでもおかしくない状況だ。“甘キ爪”の犠牲者として、このまま理性を失い、周囲を巻き込んでしまうのではないか。そうなれば、村はますます混沌へ引きずり込まれるだろう。やるせなさと恐怖が交錯し、頭の中で「詰めが甘い」という言葉がこだまする――それは、彼の人生にまつわる嘲笑であり、ここまで追い詰めた怪異の声でもあるかのようだ。
(……終わり、なのか……?)
目を閉じた瞬間、遠のく意識の彼方で、木霊のような声が聞こえた気がする。「まだ……だ。まだ、終わってない」という囁き。誰の声なのか、正木にはわからない。ただ、どこかで“甘キ爪”が自分を呼んでいるのか、あるいは自分に立ち向かってほしいと願う何者かの声なのか――そう考えているうちに、彼は深い暗闇へ飲み込まれていった。
──こうして、無謀ともいえる封印の試みは失敗に終わり、村はなおも“甘キ爪”の魔手から逃れられないでいる。正木自身が大きな危機に瀕し、いつ理性を喪失してもおかしくない状況だ。果たして次に目覚めたとき、彼はまだ自分として存在していられるのか、それとも邪悪な“甘キ爪”の一部となってしまうのか。夜の闇は何も答えをくれず、ただ静かに、悪意を孕んだ空気で村を満たしていくのだった。
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