第5章 崩れゆく現実

 正木は、がたつく宿のベッドから身体を起こすと同時に激しい頭痛に襲われ、思わずこめかみを押さえた。まるで夜通し金属音を聞かされていたような鈍い痛みが後を引き、視界の隅がぐにゃりと歪んで見える。外は既に薄い朝日が差し込んでいるが、彼にとってそれは憂鬱な一日の始まりを告げる合図に過ぎなかった。起き上がるだけで息が切れ、倦怠感が全身を覆っている。ここ数日、悪夢と睡眠不足、そして村で続発している惨事のストレスで心身ともに限界が近づいているのが自分でもわかる。


 洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗うと、手のこわばりが気になった。指の関節がぎしぎしと音を立てるような感覚があり、力を込めようとしてもうまく握れない。ちょうど昨日あたりから急に悪化した症状で、最初は寝不足による痺れかと思っていた。しかし、今は明らかにただの疲労やストレスだけでは片付けられない違和感がある。まるで身体のどこかが、自分の意志とは別に悲鳴を上げ始めているようだった。


「こんなの、ストレスに決まってる……」


 そう自分に言い聞かせながら、正木は鏡に映る自分の顔を凝視する。眼の下には濃いクマができ、顎のあたりの肉はそげ落ちているように見えた。夜ごとまとわりつく悪夢は“甘キ爪”を想起させるおぞましい内容ばかりで、眠りにつくたびに冷たい汗をかいて飛び起きる。かといって昼間は次々と持ち上がる事件の対応に追われ、脳が休む暇もない。いつまでこんな状態が続くのか、考えただけで胃がぎゅっと縮こまるようだった。


 外へ出ると、村の通りには人影がまばらにしか見えない。気温はさほど低くないが、妙に肌寒い空気が漂っているのは、村全体を取り巻く不気味な雰囲気のせいなのだろう。正木は身をすくめつつ、保健センターへ足を向けた。昨夜、看護師の石田ミキから「今後の方針を話し合いたい」とメッセージが入っていたからだ。彼女もまた、次々と増える失踪や惨事に疲弊しているはずだが、それでも歩みを止めてはいない。そんな彼女の存在が、今の正木にとっては数少ない拠り所だった。


◇◇◇◇◇◇


 保健センターの扉を開けると、廊下の奥からミキが慌ただしく歩いてくる。彼女の顔にも疲労の色が濃いが、相変わらずシャキッと背筋を伸ばしていて、何とか踏ん張っている様子だ。


「正木さん、おはようございます。顔色、相当悪いですね……大丈夫?」

「ありがとう。でも大丈夫だよ、きっと。そっちこそ忙しそうだね。何かあったの?」


 互いに労わりの言葉を交わしつつ、応接スペースへ移動する。古い長椅子とテーブルが置かれた簡素なスペースだが、いまや二人にとっては作戦会議の定位置になりつつあった。ミキは熱いお茶を淹れてきてくれ、紙コップを正木へ渡すと、おもむろに深いため息をつく。


「昨日はまた行方不明者が出たみたいで、結局手がかりが見つからなかった。しかも外部に連絡を取ろうとしても、村の回線がやたら不安定なのか、繋がったり途切れたりで、連絡が取りづらいんです。携帯の電波も入りにくいし……。もう限界ですよ、こんなの」

「やはり……。僕も研究所からの連絡が途切れがちだし、送ったメールもいつ着いたのかはっきりしないんだ。圏外になっているわけでもないのに、妙に不安定で……」


 正木はそう言ってスマートフォンを取り出す。しかし、圏内表示にはなっているにもかかわらず、メッセージの受信ができていない。こうした通信の不具合は、これまでにも山間部で起こり得ることではある。しかし、従来は場所や時間帯を選べば通じていたはずだ。今はまるで、何か目に見えない力が村を外界から遮断しようとしているかのようで、不気味さを募らせる。


「それと、もう一つ。今朝、役場の職員さんと話したんですが、昨日の豪雨で山道の一部が崩れかけてるらしくて、車では迂回しないと通れない場所があるとか。下手すればしばらくの間、封鎖になるって噂も……」

「封鎖? そんな……。じゃあ、もし急にこの村を出ようと思っても、満足に走れない可能性があるってことか。僕もレンタカーを宿の近くに停めてるけど、ちゃんと走れるかどうか……」


 不吉な空気が漂う。何重もの封鎖が、まるで正木たちを村に閉じ込めようとしているようだ。彼は軽い頭痛を覚えながら、胸の奥に冷たいものが張りつくのを感じる。それでも「こんな考え、ただの被害妄想だ」と否定したくなる気持ちもある。しかし、偶然にしてはタイミングが悪すぎると思わざるを得ない。


◇◇◇◇◇◇


 話し合いを終えたあと、正木は保健センターを出て宿へ戻ろうとしたが、急に身体のふらつきが強くなり、その場にへたり込みそうになった。慌てて壁に手をつき、なんとか踏みとどまる。さきほどまで普通に動けていたはずなのに、突然めまいが押し寄せてきたのだ。指先もこわばり、震えが止まらない。


(このままだと……やばい。いよいよ倒れるかもしれない)


 そう思いながらも、強く頭を振って意識を保つ。誰かに助けを呼ぶべきかとも思ったが、ここで騒ぎを起こしてはミキやセンターのスタッフに余計な負担をかけるだけだ。なるべく人目を避け、廊下の隅へ移動して深呼吸を繰り返す。数分ほど経過すると、めまいが少し治まり始めた。


(ただの寝不足とストレス……だよな。気にするな)


 そう必死に自分に暗示をかけながら、何とか足を動かす。頭痛はまだ残っているが、この程度ならどうにか歩ける。こんな弱気では“甘キ爪”につけ込まれるぞ、と自分を叱咤する。だが、その一方で「もし本当に心身の限界が近いなら、検査を受けたほうがいいんじゃないか」と冷静な声も頭をよぎった。しかし正木は、その可能性をあえて頭の片隅へ追いやる。いま病院に行くにも、村外へ出る道が危ういのなら行けないし、自分がダウンすれば捜索活動どころではなくなる。それこそ“甘い判断”だと周囲から責められるのではないか──そんな不安が先に立ってしまうのだ。


◇◇◇◇◇◇


 宿に戻ると、玄関先に見覚えのあるスーツ姿があった。望月(もちづき)、正木の研究所の同僚である。彼は今回のプロジェクトのサポート役として後から合流したが、村の混乱と失踪事件が続く中、研究どころか対応に振り回されているらしい。昨夜からメール連絡も途絶えていたため心配していたところだ。


「正木、おまえ大丈夫か? なんか顔が真っ青だぞ。やっぱりもう帰ったほうがいいって」

「帰るにしても、車がまともに通れるかわからないし……。僕のレンタカーも整備不良なのか何なのか、微妙な調子なんだ。エンジンのかかりが悪いし、スピードメーターも一昨日から調子がおかしくて……」


 さらに追い討ちをかけるように、望月は研究所からの連絡事項を伝える。「過去にも似たような伝承があったかもしれない」という情報が、都市部にある大学の民俗学研究室から得られたという話だ。それをもとに、研究所の上層部は「追加の資料を送るから確認してほしい」と言っているらしい。しかし正木はどこか苛立った表情を見せ、首を振る。


「今さらそんな情報を突き止めたって、何かが変わるのか? 古文書に“甘キ爪”なんて散々書かれていたし、もう正体不明な化け物がいるとしか思えない状況だ。民俗学的にどうこう検証してる余裕なんてないよ、こっちは……」

「おい正木、どうしたんだよ。いつもならむしろこういう話こそ飛びつくタイプだろ。研究所が急いで取りまとめた資料なんだ、ちゃんと聞いて……」

「いいんだよ、どうせ机上の空論だ。こっちは実際に犠牲が出てるんだぞ? 悠長に“似た伝承があります”なんて言われても、もう手遅れだっての!」


 声を荒らげた正木を前に、望月は言葉を失う。これまでの正木なら、新たな知見が得られたとなれば自ら先頭に立って解析を進めただろう。しかし今は、度重なる失敗や悲惨な出来事で精神がすり減り、追い詰められた状態にある。苛立ちと虚脱感のはざまで、自分でもコントロールできない感情の波が押し寄せているのだ。


「すまない……こっちの事情がありすぎて、まともに対応できない。頭も痛いし、考えがまとまらないんだ……」

「……わかった。無理はするな。いったん宿で休めよ。調査や捜索は俺が代わりにやるからさ」


 望月はそう言って正木の肩を軽く叩いた。だが正木は、その優しさにさえ苛立ちを覚えてしまう。村で犠牲が増える一方なのに、自分は休むのか? 本当は最前線で踏ん張らなくてはいけない立場のはずだ。そのモヤモヤした感情をどう処理したらいいのか、彼にはもうわからなかった。


◇◇◇◇◇◇


 結局、正木は夕方まで宿の部屋にこもり、煎れたてのコーヒーを何杯か口にしながら、届いたばかりの大学の民俗学資料を斜め読みすることにした。望月が置いていった封筒の中には、全国各地に伝わる「心の隙を狙う妖怪伝承」の類が列挙されている。名前や姿形は異なるが、その手口は「人間の弱点を嗅ぎつけ、錯乱に追い込む」という共通点を持っているというのだ。


「……どれもこれも、“甘キ爪”に重なるような話ばかりだ。やっぱり、これを参考にすれば何か解決策が……」


 ちらりとそんな淡い期待が頭をもたげる。しかし、古今東西の妖怪譚は概して「封印」や「退散」の方法があやふやなものが多い。祭事や祈祷によって一時的に鎮めたという話はあるが、具体的な手順の記載は薄く、今回正木が見つけた古文書の状態と大差ない。安易に「お祓いすれば済む」というようなものでもなく、まして現代医学で説明できる話でもなさそうだ。


「……結局、どうすりゃいいんだよ」


 苛立ち混じりに資料を投げ出し、正木は頭を抱え込む。ひどい倦怠感とともに頭痛が再び激しくなってきた。喉の奥に苦い液体がせり上がるような感覚があり、そのままトイレへ駆け込んで胃液だけを吐き出す。鏡で顔を見れば、唇の色は悪く、ひどい顔色をしている。こんな状態で捜索や交渉ができるのか? 自分でも疑問に思うが、それでも引き返す道がないのが現状だ。


(帰るにしても、山道が通れるかどうかもわからないし……)


 そして彼は、ふと非常用バッグを確認しようとベッド脇に置いた旅行鞄を手に取った。最低限の衣類とノートパソコン、研究所の書類などをまとめているものだが、その底に入れていたはずの車の整備キットや簡易地図が見当たらない。どこかで紛失したのか、それとも誰かに盗まれたのか。混乱の中でチェックを忘れていただけかもしれないが、それにしてもタイミングが悪い。


「……これじゃあ、いざというとき車が動かなくても、どうしようもないじゃないか」


 携帯がまともに繋がらず、山道もあやしい。車の調子も悪く、整備キットは紛失。研究所や民俗学者から資料は届くが、実際の解決策は見当たらず。村では失踪者や犠牲者が増える一方。どこを向いても袋小路だ。そんな思考がぐるぐると頭の中を駆け巡り、再度強烈なめまいに襲われる。


 倒れ込みそうになるのを支えようと、咄嗟にテーブルに手をついた。しかし指先が固まっているせいか、うまく力が入らず、手のひらが滑って床に膝をつく形となった。ふと顔を上げると、壁際の暗がりで何かが動いたような気がして、心臓がドキリとする。しかしよく見れば何もない。ただ自分の影が揺れただけかもしれない。


「落ち着け、落ち着け……」


 自分にそう言い聞かせながら、呼吸を整える。幻覚や悪夢に苛まれるのはストレスのせいだと、何度も反芻した。だが、本当にただのストレスなのだろうか? もし“甘キ爪”の呪いがもう自分の身に迫っているのだとしたら……。そう考えると、理性では否定しても感情が先に震え出す。寝不足で精神が過敏になっているだけだ、と頭ではわかっていても、心がまるで追いつかない。


◇◇◇◇◇◇


 やがて夜が深まり、宿の周囲は静寂に包まれた。正木はベッドに横たわるものの、眠るのが怖かった。再び悪夢を見るくらいなら、いっそ夜通し起きていたほうがましだと思うほどだ。以前は夜中に感じた足音や爪音に怯えたが、いまや自室の中でも何かが潜んでいるような錯覚を覚える。闇が怖いのではなく、自分の内側から生まれる幻覚が怖いのかもしれない。


(こんな状態で、明日からどう動けばいい?)


 脳裏には村の山道の崩落や車の故障、通信の不安定さなど数々の封鎖が浮かんでは消える。まるで外の世界が遠ざかっていくような感覚だ。もし一度村を出られれば、病院で診てもらって休養を取り、体勢を立て直せるかもしれない。しかし、それすらもままならないのが現状。かと言って、村の中で倒れこんでしまえば“甘キ爪”にまともに喰らわれてしまうのでは──そんな恐怖が頭から離れない。


 結局、正木は夜半を過ぎたころにうとうとし始める。夢なのか現実なのかわからない朧げな意識の中、誰かが耳元で何かを囁いているような気配を感じた。言葉は聞き取れないが、まるで「おまえもこっちへ来い」と誘われているかのような、不気味な感触。それに応じるように、体のどこかがじわりと熱を帯び、手のこわばりがさらに強くなる。だが、夢うつつの意識ではそれを止める術がない。


 目が覚めた時には、窓の外が白み始めていた。時計を見ると午前5時前後。喉はカラカラに渇き、体中が重苦しい。床に落ちたタオルケットを拾おうとするが、指先がうまく曲がらず手が震える。今度は単なる凝りや痺れというレベルではないほどの強張りを感じた。


(まずい……本当にやられてきてるかもしれない。早く病院へ……いや、そんなこと言っても道が……)


 半ばパニックになりかけたところで、スマートフォンが振動した。画面には“研究所”と表示されている。どうにか指を押し当ててスライドし、通話に出ると、しばらく雑音が混じった後に上司の声が聞こえてきた。


「正木君か? 聞こえるか? こっちは資料を送ったが、メールが全然届かないみたいでな……。山道の通行止めの話も聞いたが、そちらは大丈夫なのか?」

「……すみません。こちらも回線が不安定で……そっちには情報が届いてないんですね。正直、いい状態じゃありません。車も壊れそうだし、村人も行方不明が続出してて……」


 ガサガサとノイズが混じり、通話が途中で途切れがちになる。要領を得ないまま数秒が経ち、ようやく上司が聞き取りやすい声で何か言いかけた。


「……緊急で……撤退の……準備を……。いいか、早く戻ってこい……」


 しかしその瞬間、通話はブツリと切れ、スマホは圏外マークに切り替わった。思わず叫びたくなるが、声も出ない。上司は「早く戻れ」と言っていたが、戻れる環境にないのが現状だ。車で山道を突破するか、あるいは誰かに助けを呼ぶしかない。だが頼みの警察や業者は、すでにこの村には入りづらい状況にある。


 正木は床にスマホを放り投げると、激しい頭痛と苛立ちを抱えたまま布団に沈んだ。手足のこわばりは引かないし、何より精神的に限界だ。自分の不甲斐なさに怒り、村の呪縛に怒り、同僚や研究所にも八つ当たりしたい気分になる。だが、それらすべての矛先は結局、どこへぶつければいいのか誰も教えてくれない。自分で動かねばならないのはわかっているが、体は動かず、通信もままならず、道も壊れかけている。まさに八方塞がりだった。


◇◇◇◇◇◇


 その後、早朝にもかかわらず外が騒がしくなり、宿の管理人が「また失踪者が出たらしい」と教えてくれた。しかも「村の外へ逃げようとして車で出発したら、そのまま戻ってこない」という噂があるのだという。崩落しそうな山道へ向かったのか、あるいは別ルートを探して道に迷ったのか。どちらにせよ行方不明で、安否はわからないらしい。


 正木はベッドの上から動けないまま、それを聞いて背筋が凍る思いがした。もし村を出ようと車を走らせても、崩落や故障で立ち往生してしまうのではないか。そうなれば結局は“甘キ爪”に喰われるだけではないのか。そんな不安がよぎり、頭が拒絶反応を示すようにズキズキと痛む。もはやどこにも逃げ場がない感覚に苛まれ、彼の意識は次第に断続的な闇に覆われていく。


(動かなきゃいけないのに……動けない……)


 頭痛と倦怠感、指のこわばり。まるで身体が蝕まれ始めたかのようだ。このまま床で横になりながら、やりすごそうにも不安は消えてくれない。外では惨事が進行中で、村では救いを求める声があるかもしれない。いや、もしかするともう皆が絶望して、何もかもを諦めてしまったのかもしれない。そんな最悪の想像が膨らむばかりだ。


◇◇◇◇◇◇


 午前中のどこかで、望月が再び部屋を訪れた。ノックの音で意識がはっきりし、ドアを開けると、彼は紙袋を携えて入ってくる。どうやらコンビニで買った栄養ドリンクや軽食を差し入れに来たらしい。


「正木、飯もろくに食ってないだろ。これ、口に入れろよ。あとで保健センターに行くぞ。少し薬をもらったほうがいい」

「……ありがとな。でも、保健センターに行って治せるものでもないだろう。気持ちの問題だし……」

「いいから黙って来い。ミキさんだって心配してるんだ。おまえが倒れたら、ますます事態が深刻になるだけだろうが」


 無理やり起こされ、正木は栄養ドリンクを一気に飲み干す。すると、多少気分が変わるのか、めまいが少し和らいだ気がした。彼は望月の手を借りて部屋を出ると、ゆっくりと宿の通路を進む。幸いにも天気は快晴で、少なくとも外を歩くには問題なさそうだ。


「村を出るのは、しばらく難しいな。崩落のせいで、まともなルートは限られてるらしい。車もダメなら、歩きで山を越える? 冗談じゃないが、最悪そうするしかないのかも……」

「本当にそこまでしなきゃいけないなら、覚悟を決めるしかない。でも、少なくともおまえが今の状態じゃムリだ。せめて体調を整えないと」


 二人は保健センターへ向かう道すがら、村の荒んだ風景を目にする。人影がめっきり減り、通りには土砂や落ち枝が散乱している。道沿いの民家も、一部は戸板が閉ざされていて、まるで廃屋のように人気がない。ところどころですれ違う村人たちは皆うつむき、誰に対しても硬い表情を崩さない。挨拶すら交わそうとしない姿に、村が完全に崩壊し始めているのを肌で感じる。


 そして保健センターの建物を前にしたとき、正木はふと背後に誰かの視線を感じて振り向いた。だがそこには、野良犬のような黒い影が路地裏へ駆け込む姿が見えただけ。野良犬にしては大きな輪郭だったようにも思えるが、深追いする気力はなかった。何か嫌な胸騒ぎが残るが、「気のせいだ」と心の中で打ち消すことしかできない。


◇◇◇◇◇◇


 センターの受付で待っていると、ミキが眉根を寄せて出てきた。どうやら夜間救急の対応があったらしく、寝不足の様子が明らかだ。それでも必死に笑顔を作って、「とりあえずここで血圧を測ってみましょう」と正木を案内する。医師と呼べる人材はほぼいないが、簡単なバイタルチェックくらいならできるのだ。


「……正木さん、手がすごく冷たい。このこわばり、いつから続いてるの?」

「二、三日前から急にひどくなって……。最初はただの疲れだと思ってた。でも、悪化してる気がする」

「一度ちゃんと検査をしたほうがいい。外の病院に……いや、でも道が……」


 ミキも苦しそうに言葉を区切る。医療者としては、外部の病院で精密検査を受けさせたいが、今の村の交通事情では容易でない。ましてやこの緊急事態の中、正木だけを村外に送り出すことが果たして可能なのか。センターにも重病の老人や失踪者の捜索で体力を消耗した若者たちが押し寄せており、人的余裕もない。


「薬を出そうにも、薬剤の在庫も限られてるし、本格的な治療はできない。どうしてもっていうなら、誰かが送っていくしか……」

「いや、いいんだ。大丈夫……これくらい、気合いで何とかするから……」


 そう言いながら、正木はすでに自分が気合いではどうにもならない段階にいるのを薄々察していた。しかし、ここで弱音を吐けば、村のためにも研究のためにも最悪の結末を招きかねないという恐怖があり、踏ん切りがつかない。覚悟を決めるのが遅すぎた──そんな自責の念が胸をチクリと刺す。


◇◇◇◇◇◇


 結局、その日は軽い精神安定剤のような薬とビタミン剤を処方され、村の簡易ベッドで少し横になることになった。ミキが調整してくれたおかげで、センターの一角で小休憩を取れる場所を確保できたのだ。望月も「少し寝たほうがいい」と勧めるので、正木は大人しく横になる。しかし、仮眠をとろうとしても頭痛でなかなか意識が飛ばない。


(こんなときに、また誰かが失踪したら……)


 不安ばかりが増大していくが、一方で身動きの取れない自分に苛立つ。やがて意識が曖昧になりはじめ、夢とも現実ともつかないイメージが視界に重なった。民家の軒先で血だまりが見え、そこに“甘キ爪”らしき黒い影がのしかかっている。やめろと叫ぶ声は出せず、まるで金縛りのように身体が動かない――そんな悪夢のような映像だ。


 はっと目を開けると、センターの天井照明が目に飛び込んできた。外はすっかり夕方のようで、誰かが廊下を行き来する足音が聞こえる。現実に引き戻された安堵と、まだ残る悪夢の名残がせめぎ合い、正木は荒い呼吸を繰り返した。


「……正木さん、大丈夫?」


 顔を上げると、ミキが心配そうにこちらをのぞき込んでいる。どうやらうめき声を上げていたらしく、彼女が飛んできてくれたのだ。正木は脂汗でべったりになった髪をかき上げ、何とか声を振り絞る。


「悪い夢を見てただけだ……。すまない、騒いだかな」

「ううん。それより顔色ひどいよ。やっぱり外へ出る手段を探ったほうがいい。こんな状態じゃ、ほんとに倒れちゃう」


 ミキの言葉に、正木は「倒れたら終わりだ」と頭で反芻する。だが、現状では外へ出ようにも手詰まりだ。崩れた山道を歩くか、故障しかけの車を騙し騙し乗るか――どちらにしても危険が伴う。しかも村の住民の中には、そんな無謀な行動をとったきり消息を絶った者がいるという噂すらある。


「もう少し……様子を見てからにしよう。望月に車の状態を見てもらって、行けそうなら明日か明後日には出る。問題は、僕が外へ出る間に、また事件が起きないとも限らないことだけど……」

「……うん。でも命あってのものだね。もし正木さんが倒れたら、どのみち誰も助からないと思うんだ」


 残酷なようでいて、事実を突きつける言葉に、正木は反論できない。手のこわばりと頭痛は相変わらずで、微熱のような悪寒も続いている。精神的にも肉体的にも限界が近く、このまま村に残っても役に立たない可能性が高い。むしろ、これ以上状況を悪化させてしまうかもしれないのだ。


◇◇◇◇◇◇


 日が暮れ、正木はセンターを出て宿へ戻る道をまた望月と歩いていた。だが、道半ばで嫌な臭いが鼻をつく。何かが焦げたような、それとも獣の血生臭い臭いのような、形容しがたい異臭が路地裏から漂ってきた。望月も気づいたらしく、顔をしかめる。


「なんだこれ……行ってみるか?」

「やめよう。危ないかもしれない。村人はこんな遅い時間に外出を控えているし、どうせ何も得られないだろ」


 正木は弱腰な自分に気づきながらも、心底恐怖を感じていた。もしそこに“甘キ爪”がいたらどうする? 手足が今の状態では、逃げることすらままならない。実際に村の夜道で何者かを目撃した人が狂乱状態に陥ったという噂を耳にしており、とても探索する気にはなれない。


 そんな彼の態度に、望月は驚いたように眉を上げる。しかし無理強いはせず、「わかった」とだけ返し、宿へ向かう足を速める。どこかで何かが起こっていようと、誰も対処できないのが今の村の現実だ。この崩れゆく世界の中で、正木はただ怯え、自分の体調すらまともに管理できない惨状に苛立つ。しかし声を上げようとしても、喉が引きつるように痛むだけだった。


(俺は……どうすればいい……?)


 ようやく宿の前に差しかかるころ、頭の中にノイズのような雑音が鳴り始める。視界がチカチカと瞬いて眩しく、足元がふらついてくる。もう一歩も動きたくないという疲労が全身を支配し、膝が崩れそうになったそのとき、望月が慌てて支えてくれた。


「おい正木、しっかりしろ!」

「ごめん、もう……限界みたいだ。部屋に戻って、休ませてくれ……」


 宿の階段を上がり、部屋の布団に倒れ込むと、すぐに意識が遠のきそうになる。頭痛がズキンズキンと波を打ち、手足の感覚も鈍く、悪寒と熱が入り混じった不快感に包まれる。遠くで望月が「すぐミキさん呼んでくるからな」と声をかけるが、まともに返事できない。意識の淵で、ただひたすら身体を丸めるしかなかった。


◇◇◇◇◇◇


 闇と夢の境界をさまようような時間が続いた。ときおり幻聴のような声が耳元で囁き、「詰めが甘い」「おまえのせいだ」と責め立てる。目を開けても暗闇の中、誰かの姿があるわけではない。ただ、ドアの外で誰かが足音を立てている気配がするたび、心臓が跳ね上がる。身体が動かない恐怖が何倍にも増幅され、冷や汗がシーツに滲む。


(もう終わりなのか……こんな形で……?)


 自暴自棄な思いが頭をよぎるが、不思議と涙は出なかった。感情はとっくに枯れ果て、残されたのは呆然とした恐怖と微かな諦め。閉ざされた村で、外へ逃げ出すこともできないまま、こうして“甘キ爪”に喰われるのだろうか――。その予感が、淡々と彼の意識を包み込み、泥の底へ沈むような眠りへと引きずり込む。


 それでも、かすかに呼ぶ声が聞こえる。遠いどこかで望月やミキが名前を呼んでいるような気がする。気づけば頬を誰かが叩いている。ぼんやりと目を開けると、そこには宿の管理人とミキの姿があった。


「正木さん、わかりますか? 私たちの声が聞こえます?」

「……ああ……ミキ、さん……」


 脈拍や体温を測るミキの表情は必死だ。望月も汗だくの様子で、タオルを手にしている。どうやら軽く意識を失っていたらしく、起こしてもらったようだ。正木は微かに唇を動かしながら、「すまない……」とそれだけ呟くのが精一杯だった。


「管理人さんがミニバンを貸してくれると言ってるの。車をすぐに動かせるかわからないけど、もし動けば街まで送れるかもしれない」

「街まで……行ける……のか……?」


 その提案は、正木にとって一筋の光に思えた。しかし山道の崩落や車の故障がある以上、本当にたどり着ける保障はない。絶望の淵に立たされているゆえに、そのわずかな可能性さえ、もはや何かの罠なのではと思ってしまうほどだ。だが、ここで行かないなら、どうせこの村の闇に呑まれるだけだろう。


「……明日、試してみよう。少しだけでも休んで、体力を戻して……。それでダメなら、歩きでもなんでも……」

「わかりました。じゃあ、今夜はゆっくり寝てください。できる限りの看護はしますから」


 ミキの声を聞きながら、正木は朦朧とした意識のまま瞼を閉じる。何とか外へ出られるかもしれない。しかし、“甘キ爪”が村の外にも広がっているとしたらどうなる? それを考えると、ぞっとする部分もあるが、それより先に体が限界を訴えていた。ここで休まなければ、明日を迎えられないかもしれない。


 ──崩れゆく現実の中、正木はわずかな希望を抱いたまま深い眠りへ落ちていく。だが彼の頭痛と手足のこわばりは、すでに単なるストレスの域を超え、“甘キ爪”の餌食となりつつある兆候なのかもしれない。翌朝、本当に無事に村を出られるのか、それともさらなる絶望が待ち構えているのか。答えは霧の向こうに隠され、夜の闇だけが静かに村を覆っていくのだった。

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