第4章 村の秘密と対立

 朝焼けが村の山々を朱に染め始めたころ、正木は久しぶりに目覚ましのアラームより先に起き上がった。連日続く行方不明騒ぎと不眠により身体は重いが、不思議と頭は冴えている。このまま何もしないでいては、次の犠牲者が出るだけだ──そう考えた正木は、一つの決断を下した。神社の倉にあるとされる古文書を、本格的に探し出して解読すること。これまで“甘キ爪”に翻弄されるばかりだったが、たとえわずかな可能性でも、それが失踪事件の解決や呪いを断つ糸口となるなら挑んでみる価値はある。


 だが、正規の手続きを踏んで閲覧を申し出ても、村長や有力者が首を縦に振るとは思えない。そうなれば役場を通すのも難しいだろう。そこで思い浮かんだのが、保健センターの看護師・石田ミキの存在だ。彼女は村の慣習にしばられず、住民の安全を第一に考えている数少ない人物。彼女に相談すれば、表立ってではなくとも何らかの助力を得られるかもしれない。そう確信した正木は、まだ陽が昇りきらないうちに宿を出て、保健センターへ向かった。


◇◇◇◇◇◇


 保健センターの扉を開けると、中はまだ薄暗く、廊下の電灯がほんのわずかな光を落としている。昨日は夜遅くまで患者の対応や捜索に携わっていたはずだが、ミキは既にデスクに向かって書類を整理していた。彼女は正木の足音に気づき、目を上げると疲労の色が混じった微笑みを浮かべる。


「おはようございます。こんな早くにどうしたんです?」

「時間が惜しいんです。話を聞いてもらいたくて……」


 そう言って、正木は“甘キ爪”の古文書を探す計画を打ち明けた。村長や伴野(ともの)といった古参たちが非協力的な以上、正攻法では限界がある。しかし、以前に神社の倉付近で紙束を見つけかけたことや、伴野が「古文書はほとんど読まれず放置されている」と漏らしたことから考えると、実際に倉のどこかに保管されているのは間違いなさそうだ。そこに何らかの手がかりがあるかもしれない。


「ただ、本当に大丈夫なんですか? 村の人たちは、あの倉には近づくなって言い続けてきましたし……。もし見つかれば、正木さんがただで済むとは……」

「そうかもしれない。でも、こうして次々と失踪や不可解な出来事が起きている以上、何か行動を起こさないと。僕自身も“甘い判断”ばかりで後手に回って、犠牲を出してしまった。少しでも可能性があるなら、賭けたいんです」


 正木の言葉に、ミキは苦悩の表情を浮かべながらもしばらく黙っていた。そして小さく息をついた後、意を決したように口を開く。


「わかりました。実は、あの神社の合鍵らしきものが、ここに保管されているらしいんです。正確には、倉を開くための古い鍵だと聞いたことがあって……。書類の中にその記録があったはずなので、探してみます。もし見つかったら、おそらく深夜か早朝のほうが人目を忍びやすいでしょう」


 思わぬ協力に、正木は何度も頭を下げる。彼女が身を挺してまで力を貸してくれるのは、単に好奇心ではなく「この村をどうにか救いたい」という強い思いからにほかならない。彼らは連日苦しむ住民を見てきた。もし伝承を軽視していてそれが間違いだとしたら、もう後戻りはできない。その危機感は、正木の心にも共鳴していた。


◇◇◇◇◇◇


 それから数時間後、ミキはセンターの古い棚の奥から錆びついた鍵束を見つけ出し、そのうちの一本が神社の倉に関連するとされる物だと割り出した。資料には「祭事倉庫」「祠倉の解錠用」といったあいまいなメモしか残っていないが、少なくとも普通の民家の鍵とは形状が違う。問題は、これが本当に倉の扉に合うかどうかだが、確かめるしかないだろう。


 人目を考慮し、正木とミキは夕刻にセンターを出る。村の人が夕食をとり、家にこもり始めるころを狙って行動し、神社へ忍び込むつもりだ。近所の山道や鳥居付近で見られる可能性を避けるため、遠回りの小道を通って行く段取りを立てる。二人とも後ろめたい気持ちはあるが、それでもやらなければいけない──その思いが足を進める原動力となっていた。


◇◇◇◇◇◇


 夜のとばりが降りる寸前、正木とミキは人気のない裏道を慎重に進む。鶏や犬の鳴き声すら聞こえない静寂が、両人の不安をかき立てる。やがて朽ちかけた石段と苔むした鳥居が見えてきた。ここが噂の神社。あたりに明かりはなく、二人は小型の懐中電灯だけを頼りに境内へ入った。


 境内の奥には、鎖で厳重に閉ざされた倉の姿がある。以前、正木が見かけたときと変わらず、錆びついた鉄鎖が横に走り、古びた錠前が一点で扉を固定している。ミキが手にした鍵束と照らし合わせながら、一本ずつ試してみるが、うまくかみ合わない。暗闇の中、何度もがちゃがちゃと鍵を差し替えていると、三つ目の鍵を差し込んだときに、錠前がカチリと音を立てた。


「いけそう……です!」


 ミキが小さく声を弾ませる。正木は周囲に誰もいないかを確認し、鎖を外すのを手伝った。すると扉は重々しく軋んだ音を立て、わずかに隙間を開く。内部からは埃と黴の混じったような湿った空気が流れ出し、嫌な臭いが鼻を突く。しかし躊躇してはいられない。二人は懐中電灯を手に、倉の中へ静かに足を踏み入れた。


◇◇◇◇◇◇


 内部は想像以上に荒れ果てていた。床には崩れた木片や藁の切れ端が散乱し、壁には白いカビのようなものがこびりついている。柱のあちこちが腐食しているようで、崩落しないかひやひやするほどだ。正面には頑丈そうな木箱が何個も積み重なっており、まるで封印するかのように巨大な蓋で覆われているものもある。ここで祭事の道具や文献を保管していたのだろうか。


「手分けして調べましょう。文字の書かれた巻物や古い帳面があれば、それが手がかりになるはず……」


 ミキがそう提案し、二人は懐中電灯の光を頼りに作業を始めた。何十年も放置されていたのか、箱の蓋が固着しているところも多く、開けるだけでも一苦労だ。中身は朽ちかけた紙束や、神事で使うらしき半紙、祭具のようなものが混在している。それでも箱の奥には手書きの和綴じ本や巻き紙が見つかり始め、次第に二人の作業スピードにも熱がこもる。


 そんな中、正木は古ぼけた和綴じ本を手に取り、中を開いてみた。表紙にはかすれて読みにくいが“甘”の字と“呪”のような文字が見受けられ、背筋がぞくりとした。中をめくると墨で走り書きされた古文らしき文章が並んでおり、“甘キ爪”という文言が断続的に登場している。まさに探し求めていた史料かもしれない。


「ミキさん、これ……おそらく“甘キ爪”に関する記録だと思います!」


 小声で呼びかけると、ミキも興味深そうにそばへ寄ってくる。しかし、書かれている文字は旧仮名遣いや当て字、さらには崩し字まで混在しており、簡単には意味を取れない。専門の古文書学者でなければ完全な解読は難しいかもしれない。それでも二人は懐中電灯の光を当てながら、地道に断片を拾っていった。


 どうやらこの文書には、“甘キ爪”が人の心の弱さを嗅ぎつけ、身体と魂を蝕む過程が克明に書かれているらしい。逃れられなくなるまで徐々に内面を蝕み、あるとき突然発狂したり失踪したりする。その様子が血生臭い筆致で描かれている。さらに、“甘キ爪”が封じられる以前は、ほぼ毎年のように犠牲者が出ていたという記述もあるようだ。村人が儀式を行い、一時的にこの存在を山奥の祠へ“封じ込めた”とされる一節も見える。


「……やっぱり、この村には昔から“甘キ爪”を恐れる慣習があったんですね。封じ込みに成功していた時期があったなんて……」

「それが今になって再び表に出てきた、ということなのでしょうか。でも、どうやって封じたのかが肝心なのに、そのあたりが文字が消えていてよくわからない……」


 肝心の部分――すなわち、呪いを断つ儀式や手順が書かれていると見られるページが水濡れやカビで消えかかっており、要領を得ない。それどころか、破れていたり真っ黒に汚れたりしていて、何も読み取れない箇所が多い。これでは“甘キ爪”の正体や弱点に迫るのは難しいかもしれない。それでも、完全なデタラメではなく、村の実情とも合致する歴史的事実が書かれている――その確証を得ただけでも収穫だと言える。


◇◇◇◇◇◇


 二人が倉を出ようとしたとき、何者かの懐中電灯が境内を横切るのが見えた。思わず息を潜めて倉の中に戻り、外の様子を伺う。足音と光が遠ざかっていくのを確認し、どうにかその場を離れることに成功するが、心臓がバクバクと鳴って止まらない。もし見つかれば、古文書を持ち出すどころか、村から追放される可能性すらある。


 何とか抜け道を辿って保健センターへ戻ったころには、時刻は深夜に近かった。倉から持ち帰った和綴じ本と巻物の一部をテーブルに広げ、二人は頭を付き合わせてざっと内容をまとめる。やはり決定打になるような「封印の方法」は欠落していたが、“甘キ爪”が封じられた時期や犠牲者の記録といった有力な情報が断片ながらも得られた。少なくとも、この化け物は一朝一夕に現れたわけではなく、長い年月にわたって村に影を落としていたのだ。


「これを……村長や有力者に見せれば、何か変わるんでしょうか。それとも、やっぱり隠す一派が動いてくるのかな」

「わからない。少なくとも、僕たちが軽々しく公表すれば、“騒ぎを起こすな”と強引に奪い取られかねない。でも、いつまでも隠していても、被害は増える一方だし……」


 ミキと正木は険しい表情を交わした。失踪者はすでに複数名にのぼるが、村は半ば放置状態で、対策は進んでいない。仮にこの史料の存在を明るみに出しても、村長やその取り巻きがどう反応するかは予測がつかない。地位や面子を重んじる彼らが、自分たちの不作為を認めるとも思えない。だが、このまま二人だけで解決できる問題でもなさそうだ。


◇◇◇◇◇◇


 翌朝。村は不気味なくらい静まり返っていた。曇り空が厚く垂れ込め、山裾から冷たい風が吹きつける。正木が宿を出て役場の前を通りかかると、人が集まってざわざわと声をあげている。見れば、村の若者が慌てた様子で誰かに報告しているようだ。どうやら、またしても失踪もしくは事故が起きたらしい。


「どういうことだ……? 昨日だか一昨日もそんな話が……」

「正木さん!」


 人垣の中から、望月という研究所の同僚が姿を見せた。彼は後から村へ合流する予定だったが、急きょ現地入りしたらしい。望月は息を切らせながら、正木のもとへ駆け寄ると、衝撃的な事実を告げた。なんと村外れで朝早く、遺体と思われるものが発見されたのだという。それが今回行方不明になっていた川原か、あるいは別の失踪者かはまだ確認が取れていないが、とにかく大変な事態だ。


「警察を呼ぶのかって話になってるんだけど、村長サイドは“大騒ぎにするな”と止めてるらしくて。混乱してる状態だ」

「……やっぱり、そう来るか」


 予想していた展開とはいえ、正木の胸は重く沈む。確かに、外部に知らせればマスコミや捜査関係者が大勢入り込み、村全体が混乱に陥るかもしれない。だが、だからと言って事態を隠蔽してしまえば、さらに惨事を招く可能性が高い。何より、発見された亡骸が川原や他の行方不明者なら、もはや一刻の猶予も許されないはずだ。


 望月によれば、研究所としてもこれ以上の事件が続くなら、調査プロジェクトを凍結せざるを得ないという。つまり、正木が抱えている仕事上の責務も、崖っぷちに立たされている状態だ。研究者として村に入ったはずが、いつしか事件の渦中に巻き込まれ、何も成果を出せないまま撤退を強いられそうになっている。それに対し、正木の感情は焦りと罪悪感でぐちゃぐちゃだった。


◇◇◇◇◇◇


 結局、村の有力者層と、迷信扱いする派閥との対立が一気に表面化し始める。元々「昔からの因習を重んじる」一派が村長や伴野らの周辺におり、“甘キ爪”を下手に刺激するなという立場を取ってきた。逆に、若手や都市部と行き来している住民の中には「そんなの迷信に過ぎないから、警察を呼んで事実を明らかにしろ」と主張する人も増えている。両者の意見は真っ向からぶつかり、村の会合はいつも以上に荒れ始めた。


 正木は研究者という肩書きを持つせいか、「やっぱり迷信だろう? なら大人しくしていてくれ」と迷信否定派から圧をかけられる一方で、「あんたがいらないことを嗅ぎ回るせいで“甘キ爪”が目を覚ました」と因習派から疎まれる。どちらにつくのが村のためになるのかも判断できず、ただオロオロするばかりで、余計に状況を拗らせてしまう。


 さらに悪いことに、保健センターのミキが動いていることを嗅ぎつけた一部の有力者が、「勝手に倉を開けただろう」と疑いを口にし始めた。証拠こそないものの、風聞が広がるのは時間の問題だ。彼女や正木が摘発されれば、古文書の情報は握り潰されるかもしれない。二人は自分たちが発見した史料をどう扱うか、次第に身動きが取れなくなりつつあった。


◇◇◇◇◇◇


 そんな中、村外れで発見された遺体の身元確認も曖昧なまま放置されそうになっていた。誰が見ても警察を呼ぶべきだが、有力者サイドが「行方不明者の一人かもしれないが、もう朽ちかけていて判別不能だ」などと発言し、強引に回収しようとしているとの噂が飛び交う。実際に検証させれば、“甘キ爪”などという伝承を信じている村のイメージが外部に晒されるのを恐れているのだろう。


「こんな状態で、村を助けるどころか、かえって事態が悪化してるんじゃないか……」


 正木は望月にそう漏らした。彼の目から見れば、正木は完全に自信を失いかけているように映っていた。研究どころではないし、村全体が疑心暗鬼に陥り、出口のない暗闇をひたすら歩んでいる状態だ。望月は励ましとも叱咤ともつかない口調で言う。


「だけど、甘い判断ばかりしてズルズル来たら、もっと酷い状況になるんじゃないか。村が分裂するにせよ、外部の助けを借りるにせよ、何か決断しないと。おまえはどうしたいんだ?」

「……わからない。僕が何を言っても、誰も耳を貸さない。古文書の一部を見つけたって言っても、信じる人と馬鹿にする人の対立が激しくなるだけだし……」


 答えにならない答えしか返せず、正木は苦々しい思いで唇を噛んだ。彼は幼いころから、“後一歩”という局面で詰めを誤る癖があった。それでも会社では大過なくやってこられたが、この村では通用しない。いや、それどころか、自分の甘さが多くの人命を左右する要素にまで拡大してしまっている。こんな自分が、どうやってこの“甘キ爪”と渡り合えばいいのか。


◇◇◇◇◇◇


 夜になると、再び悪夢のような時間が始まる。村人たちの間では「また足音を聞いた」「夜中に誰かが家の扉を叩いた」という話が絶えず、特に因習派はそれを“甘キ爪”の活動だと主張し、迷信否定派を責め立てる。逆に、否定派は「疑心暗鬼になってるだけだ。風の音や小動物の仕業を、大げさに捉えている」と一蹴する。正木は両者の板挟みで、どう収拾をつければいいのか見通しが立たない。


 その夜、正木が布団に入ってもまったく眠れず、ただ外の気配に怯えていると、ふいに携帯が震えた。画面を見るとミキからのメッセージだった。


「また一人、若者が行方不明みたい。ごめんなさい、今から少し捜してみます。状況は混乱していて、詳しいことはまだわかりません」


 読んだ瞬間、胸が締めつけられる。次から次へと増える失踪。警察を呼ぶべきという意見があっても、有力者たちは「静観しろ」としか言わない。村人の中には、何かに怯えて家から出ない者も増えているし、否定派の連中は「不注意なだけだ」と相手にもしない。これ以上どうしようもない状況に追い込まれているのがわかる。自分の“甘さ”が、またしても惨劇を防ぎきれなかったのだろう。


「もう、どうすれば……」


 それでも正木は布団を飛び出し、外に出ようと考えた。ミキの捜索に加われば少しは力になれるかもしれないし、気休めでも動かなければじっとしていられない。だが、ドアノブに手をかけたとき、またしても爪でひっかくような音が窓の外から響き渡る。脳裏に“甘キ爪”という文字が閃き、冷たい汗が背中を流れ落ちる。意を決して窓を開けるが、そこには闇が広がるばかりで、月は雲の向こうに隠れていた。


「……幻聴、だよな」


 自嘲するように笑いながら、正木は外の静寂を見つめた。まるで何か得体の知れない影が、村を食い尽くそうと暗躍しているかのようだ。古文書には、その姿を捉えられない化け物のように書かれていた。“甘い心を持つ者の背後に寄り添い、そっとその魂をかじる”──恐怖心だけが膨らみ、次々と惨劇が起こる現状は、まさにその通りかもしれない。


◇◇◇◇◇◇


 翌朝、やはり新たに一人が行方不明だという話が噂として村中に広まった。どこまで本当かはわからないが、少なくとも村長や伴野らのもとには情報が届いているらしい。しかも彼らは「すぐに騒ぎ立てるな」という姿勢を崩さず、半ば強引に平静を装い続けている。同じ村の若者たちは怒りと恐怖を募らせ、対立は一層深刻化していった。


 正木は力なくため息をつきながら、神社の境内へ足を運んだ。昼間だというのに、薄曇りのせいで境内は薄暗い。数日前にミキと潜入した倉は、再び鎖がかけられているが、錠前が新しいものに交換されているのに気づく。どうやら誰かが気づいて対策を取ったのだろう。これでは二度と入ることは難しい。せっかく手に入れた史料も不完全で、呪いを断つ決め手を見つけられないまま。時間だけが過ぎる。


 ふと、どこからか人の気配がして振り返ると、鳥居の向こうに伴野が立っていた。いつにも増して険しい表情でこちらを見つめている。彼は村長の意を汲む立場ながら、実際に失踪を嘆いてもいる複雑な人物だ。今この瞬間も、怒りや悲しみが混ざり合う複雑な感情を抱えているように見えた。


「……あんたは、まだ村のことを調べるつもりか?」

「調べたいです。けど、どうしていいかわからない」

「なら、何もしないほうがいい。下手に動いて、さらに犠牲を増やすだけだ。村の連中は“甘キ爪”を刺激する行動を嫌ってるんだよ」


 その言い方に、正木は口を噤んでしまう。伴野の言うこともわからなくはない。だが、すでに犠牲は出続けているし、待っていれば解決する保証もない。このまま“甘キ爪”に怯えて暮らすのは、あまりにも理不尽ではないか。しかし、伴野は諦観まじりの眼差しで言葉を続ける。


「“甘キ爪”は、弱っている人間を喰らうんだ。自分の力を過信している奴でも、心の甘さがあればやられる。あんたが村に来てから、立て続けに行方不明が増えてるのは事実だ。いろんな憶測が飛び交っているが、どれにしたって、あんたも無関係じゃないんだよ。だからもう、頼むから何もするな。どのみち、この村は昔からそういう運命なんだ」


 聞いていて胸が痛む。確かに正木は、村へ来てから何も良い結果をもたらしていない。研究者としての立場を上手く使うこともできず、住民とも折り合いがつかず、失踪や死を防げなかった。もしかすると、来なければ余計な刺激が入らず、こうはならなかったのか――そんな考えさえよぎる。


◇◇◇◇◇◇


 夕刻、保健センターで再びミキと合流した正木は、伴野とのやり取りをそのまま伝えた。するとミキも少しショックを受けたような表情を浮かべ、「今朝、私も役場で嫌味を言われました。勝手なことをしているから不幸が増えるんだって」と明かす。誰もが誰かを責め、苛立ちや不満ばかりが募っていく現状は、確実に村を分断し始めていた。


 その夜、悲報が村を駆け巡る。昼間のうちに不明とされていた若者が、“また”村のはずれで倒れていたのを発見されたが、すでに息はなく、遺体の損傷が激しい状態だったという。詳しい事情はわからないが、普通の事故では説明できないほど無残な様子だと噂されている。まるで動物に噛みつかれたかのような、爪痕のようなものが身体中に残されていた、と口々に言う者もいる。恐怖と怒りが増幅し、村の空気は完全に混乱の渦へと巻き込まれていく。


「どうして……まただなんて……」


 ミキからその話を聞いた正木は、言葉を失うしかなかった。古文書に書かれていた“甘キ爪”の餌食となる被害者像と酷似している気がしてならない。だが、何も確たる証拠はなく、全てが闇の中だ。ただ一つ明らかなのは、自分の“甘い判断”がまたもや事態を食い止められなかったという事実だけだ。


 翌日、研究所からはプロジェクトの打ち切りが検討されているという連絡が入った。安全面に問題がある上、すでに複数の犠牲者が出ている以上、会社としてもこれ以上のリスクは負えないとのこと。正木が失踪事件の解明に力を注ぎすぎていることや、結果を何も出せていない状況も、大きなマイナスポイントとして見られている。望月を通じて「早めに撤収を検討してくれ」との打診すらあった。


 村は血なまぐさい惨劇が続き、外部の協力もままならないまま、正木を含む数名が翻弄されているだけ。因習派と迷信否定派の対立は決定的に深まり、互いに責任のなすり合いを始めている。そうこうするうちに、失踪者や死亡者がさらに増えるかもしれない。まさに最悪のシナリオが現実味を帯びていた。


「……このまま、終わるしかないのか」


 正木は夜の宿で一人、深い絶望に沈んでいった。脳裏には、「倉で見つけた古文書を最後まで解読できなかった」という悔恨がこびりついている。呪いを断つ手立てが、あのかすれた文字のどこかに眠っていたのかもしれない。あるいは、もっと早期に警察や専門家を呼び寄せていれば、事態がここまでこじれなかったかもしれない。それら全ての可能性を、己の曖昧な姿勢が刈り取ってしまったのだ。“甘キ爪”が何者であれ、それは人の弱さを嘲笑い、わずかな隙間をついてくる。


 こうして、村にはさらなる惨劇の影が忍び寄っている。古文書のわずかな断片が明らかになったとはいえ、最も重要な封印や対処法は霧の中。住民同士の対立は激化し、いつ暴力的な衝突が起きてもおかしくない状態だ。正木は無力感の波に呑み込まれながら、深い夜にただ身を委ねる。それは、まさしく“甘い判断”を繰り返した報いのように、自分自身を追い詰める刃となって突き刺さっていた。


 ──そして、その闇は誰の足元にも広がり続けている。果たして“甘キ爪”という呪いの正体は何なのか。せっかく手に入れた史料をどう生かすべきなのか。日に日に増す犠牲と破滅の予兆を前に、正木は再び重大な選択を迫られることになるのだが、そのときには既に多くの手遅れが積み重なっているとも知らずに……。

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