第3章 迫り来る影
翌朝、正木は倦怠感の残る体を引きずるように起こし、宿の窓辺に立った。夜中に何度か物音や視線を感じて目が覚めてしまい、ぐっすり眠れた気がしない。外を見ると、村の一角にはすでに朝日が差し込み始めているが、どこか不穏な影が長く伸びているようにも思えた。昨日までは何ともなかった通りが、いまや鬱蒼とした闇の名残を湛えているような錯覚がある。だが、いつまでも怯えているわけにはいかない。今日は企業から指示された調査、つまり新薬の臨床研究という本来の業務を進めるため、村人たちと正式にコンタクトを取らねばならなかった。
朝食を急いで済ませると、正木は研究所から託された書類や試験薬のサンプルをカバンに詰め込み、宿を出た。村の中心部へ続く道は人通りが少ない。民家の戸口をふと見ても、カーテンや雨戸が閉められているところが多く、外に出ようとする気配を感じない。朝のはずなのに活気がまるでないのは、この村特有の閉鎖的な空気がさらに濃くなっているせいだろうか。あるいは、深夜から早朝にかけて、何か良くない出来事があったのかもしれない。そう思うだけで気が重くなる。
やがて役場に近い建物が見えてくる。この村の“公的施設”らしきものは大して数がなく、保健センターと簡易的な役場、そして学校跡地のような廃屋があるくらいだ。正木はまず役場へ向かい、先日顔を合わせた職員に声をかけた。村での調査を本格的に始めるので、協力してくれる住民を紹介してほしいというのが主な用件である。だが、カウンター越しに座った職員は相変わらず気乗りしない様子で、「それは難しいですねぇ」と言葉を濁すばかりだ。
「まあ、村長に会うのが一番早いでしょう。あの人が首を縦に振れば、ある程度は皆動くはずです。ただし、機嫌を損ねると厄介ですよ。ここじゃ、有力者の意見が大きいんで」
そう言ったきり、職員は奥へ引っ込んでしまった。正木は苦々しい思いで一人廊下に残され、天井の蛍光灯を仰ぎ見た。いくら田舎の狭いコミュニティだとしても、もう少し協力してくれたっていいじゃないか──そんな苛立ちが頭をもたげる。だがここで腹を立てても仕方ない。結局、誰かしら“村のキーマン”に会い、説得を重ねるしかないのである。
ほどなくして、先ほどの職員が戻ってくると「村長はこの時間なら多分、家にいるでしょう」と簡単な地図を差し出した。場所は役場から少し離れた高台のあたり。もともとこの村を仕切る家柄らしく、比較的大きな屋敷があると聞く。正木は一礼して建物を出た。冷たい風が身体を吹き抜け、一瞬意識がはっきりする。まだ朝だというのに、どこか日差しが力弱いのは気のせいだろうか。
◇◇◇◇◇◇
地図を片手に坂道を上って行くと、確かに立派な塀に囲まれた古い屋敷が見えてきた。門には黒い屋号の看板が掛かっており、このあたりでは名の通った一族なのだろう。入り口に近づくと、警戒心をあらわにした大柄な男が顔を出し、「どちら様です」とけんもほろろに言う。正木が名乗り、研究員として村の調査を進めたい旨を説明すると、男は一瞬訝しげな目を向けたが、しぶしぶ奥へ取り次ぎに行った。
しばらく待たされた末、ようやく縁側のある部屋へ案内される。そこには六十代前後の男性が座布団の上に鎮座し、背筋を伸ばした姿勢のまま正木を迎えた。彼がこの村の“村長”あるいは“有力者”らしい。白髪が目立つが、眼光は鋭い。紺色の和服をきちんと着こなし、いかにも古い家の当主といった威厳が漂っている。
「遠方からご苦労なこったな。で、あんたは何の用で、何をしに来たんだ?」
開口一番、その重々しい声が正木の胸を打つ。彼は改めて自己紹介しつつ、新薬の臨床研究と村の行方不明事件、そして奇妙な症状が出ている住民をサポートできないかという意図で動いている旨を手短に語った。研究所から預かってきた書類も広げてみせるが、村長はまったく表情を崩さない。それどころか、黙ったまま正木を見据え、まるで値踏みするように沈黙を貫いている。
「……新薬の研究など、私たちには関係ない話だな。そもそも、ここいらの人間が病院に行くのは稀だ。そんなら変なことを調べるより、静かにしていてもらいたいくらいだ」
「ですが、行方不明になったり精神的に不安定になっている方も多いと聞きます。警察沙汰にもなっているし、保健センターでも対応に困ってる様子で……」
正木が淡々と話を続けても、村長はあからさまに興味を示さない。むしろイラつきを含んだ声音で、「よそ者が余計な口出しをするな」とばかりに腕を組んだ。どうやら伝承に関する話題も同様に、外部から首を突っ込まれるのは不愉快らしい。研究者として合理的に調べたい正木と、長年この土地を支配してきた伝統や慣習を護りたい村の有力者とでは、いわば水と油。最初から話が噛み合わない空気が充満している。
「この村のことは、村の人間がどうにかする。行方不明だろうが病気だろうが、よそ者が踏み込む問題じゃない。あんた方が調べようが調べまいが、どうでもいい話だ」
「そんな……でも、実際に被害が出ているなら、早めに原因を突き止めるべきでしょう?」
「原因? 昔からの言い伝えで、そういうことが起きると決まっている。人が減っていくのは自然の摂理だ。むしろ騒ぎ立てることで、村に混乱をもたらすような行為こそ迷惑だと思わんか」
そう言い放つと、村長は「もう話は終わりだ」とでも言うかのように座を立つ。正木は開いたままの書類を片付けることすら忘れ、呆然とその後ろ姿を見送った。あまりにも頑なすぎる態度に閉口しつつ、どうにか粘って再度言葉をかけようとするが、当主が奥に消えると同時に先ほどの大柄な男が現れ、無言で退去を促してくる。事実上の“面会終了”というわけだ。
「すみません、失礼します……」
正木は苦い思いを抱えたまま屋敷を後にした。村長と村の古参たちがこうした態度を取り続ける限り、公式に協力者を得るのは絶望的だろう。しかも、その裏には「行方不明の件はよそ者が踏み込んではいけない事柄」と固く信じる空気がある。まるで何か都合の悪いことを隠そうとしているのか、あるいは「甘キ爪」の伝承に対して妙な確信を抱いているかのようにも見えるが、今のところ正木には確証がない。
◇◇◇◇◇◇
半ば投げやりな気分で坂を下っていると、ふいに名前を呼ばれた。見れば、保健センターで看護師をしている石田ミキが、小走りにこちらへ駆け寄ってくる。彼女は珍しく焦った表情を浮かべており、正木に息を切らせながら声をかけた。
「正木さん……今、役場から連絡があって……村であんたに協力してくれてた若い子が、行方不明になったって……」
「えっ……? 協力してくれてた若い子って……」
正木は急いで頭の中を整理した。まだ村に来て数日しか経っていないが、あれこれ情報を集める過程で、手助けしてくれた村の若者が二、三人いる。その中でも特に活発に動いてくれた青年がいた。二十代前半くらいで、「都会に出たいけど踏み切れない」と言っていた彼である。何度か話をして、街の大学に通う方法や仕事のことを相談されたこともあった。名前は確か、川原という苗字だったはずだ。
「川原くんが……行方不明? まさか、いつから?」
「正確には今朝から連絡がつかないらしいの。昨夜、近所の人が彼が家に帰るのを見たって証言してるけど、その後の足取りがわからないって」
正木は冷たい汗が背中を伝うのを感じた。自分と一緒に村の現状を回ろうと言っていたのは昨日の夕方頃で、その際「明日の朝にでもまた連絡する」と話していたばかりだ。しかし当日になって連絡が来ないので不審に思っていたところ、こういう事態になったのか。もしかすると、彼の失踪には“甘キ爪”が関わっているのではないか。そんな嫌な予感が否応なく頭をもたげる。
「とりあえず、役場や村の人たちが捜索に動き始めたみたい。でも……村長や古参の人は、あまり大事にはしたくないみたいなのよ。もう勝手に山へ入ったんだろう、とか言ってて」
「何それ……。彼がどうして急に姿を消すんだ。そもそも山なんて、この時期に一人で入る理由は……」
ミキは俯きがちに、「わからない」と小さく首を振る。村には行方不明になる人が珍しくないと言っても、タイミングがあまりに合致している。正木が村長に会いに来たこの日に、しかも調査に協力してくれていた青年が突然消えた。それを運命的と捉えるか、あるいは村側が何か策を講じたのか。どちらにせよ気味が悪い。
こうなると正木は、いても立ってもいられない気持ちになる。このまま手をこまねいていたら、彼が二度と戻ってこないかもしれない。だが、勝手に山狩りを始めるわけにもいかず、村の捜索チームに混ぜてもらうのが最善だろう。ミキに案内を頼み、正木は急いで集落の外れにある倉庫前へ向かった。
◇◇◇◇◇◇
そこにはすでに十数人ほどの村人が集まっており、捜索に必要な道具やライト、食糧などを準備している。顔ぶれの中には、以前にも人探しを経験しているであろう中年男性たちがいて、自然とリーダー役を買って出ている。しかし、正木が近づくと彼らは露骨に眉をひそめた。
「またよそ者が来やがったか。余計な混乱を招くだけなんじゃないのか」
「俺たちのやり方でやるから、口出ししないでくれよ」
冷たい視線と言葉が飛んでくる。さすがに正木も気分が滅入るが、ここで引き下がるわけにはいかない。あくまで目的は川原を探すことであり、自分の研究のためだけに動いているのではない。そのことを懸命に伝えると、なんとか捜索グループの末端に加えてもらうことを許された。
「いいか、あんたは余計なとこに首を突っ込まないこと。危ないと思ったらすぐ引き返せ」
「わかりました。指示には従います」
半ば脅しのような口調で念を押されつつ、正木はグループに合流する。先頭には猟師崩れのような恰幅のいい男が銃を持って立ち、後方にはフォークリフト用のライトを手にした若者がいる。村の山道には外部からの車では入りづらい場所が多いため、徒歩での捜索が中心になるようだ。足元は悪いし、日の沈むのも早い。無事に見つかるかどうか、正木の胸には黒い不安が渦巻いていた。
◇◇◇◇◇◇
しばらく林道を進んでも、川原を見たという情報はさっぱり出てこない。さきほど村の奥にある廃屋や神社のあたりも確認したらしいが、足取りはまるでつかめず、かといって山の奥深くへ行くには危険が伴う。捜索グループの中には明らかにイライラを募らせている者もいて、「もともと上京するとか言ってたから勝手に村を出てったんじゃないのか」とか、「いずれ帰ってくるだろう」などと言い出す始末だ。
「命に関わるかもしれないのに、そんな適当でいいんですか!」
思わず声を荒らげたのは正木だった。けれど、その瞬間、まわりの男たちから険悪な視線が集中する。まるで「お前には関係ないだろう」と暗に示しているかのようだ。明らかに雰囲気が悪くなり、ほんの数秒、気まずい沈黙が流れる。
「……とにかく、これ以上進むのは危険だ。暗くなるまでに引き返す。川原が見つからなかったら、また明日だ」
リーダー格の男がそう言い放つと、他のメンバーもそれを受け入れる素振りを見せた。誰も彼を引き止めない。少しでも深い山に踏み込めば、こちらが遭難するリスクが高まるし、過去にそうやって捜索隊が怪我をした事例もあるのだという。確かに安全を考慮すれば仕方ない面はあるが、正木にはあまりに早すぎる打ち切りに思えた。
「ちょっと待ってください。まだ可能性を探せるはずです。近所の人の証言で、川原くんは夜遅くまで家にいたんでしょう? なら山に入る時間なんて……」
「だからって何だ。勝手に飛び出して行方をくらます奴のために、こっちが危険を冒す必要はない。悪いが、あんたにどうこう言われる筋合いもない」
「……」
正木は悔しさをこらえながら言葉を飲み込んだ。このままでは拉致があかない。捜索隊がいくらかエリアを回ったとはいえ、実質的には入り口付近をうろついただけに近い。それでも村人たちは“一応やった”という既成事実を作り、あとは天に任せるような態度を取ろうとしている。心のどこかで「またか」と、諦め半分になっているのかもしれない。村長も含め、“失踪”については長年にわたり半ば慣れっこになっているフシがある。
結局、捜索グループはそのまま村へ引き返すこととなった。正木はその最後尾を歩きながら、責任感と不安で胸が押しつぶされそうになる。もしこのまま何もしなければ、川原は取り返しのつかないことになるかもしれない。そうなったとき、自分は後悔に苛まれるだろう。とはいえ一人で山へ入り込むのは無謀だし、夜の山中は危険すぎる。進むも地獄、退くも地獄。それが今の心境だった。
◇◇◇◇◇◇
日が暮れる頃、正木はどうにか宿へ戻ってきた。思いのほか疲労が大きく、足元がふらつくほどだ。ろくに休憩も取らずに動いていたうえ、村人たちとの精神的な軋轢が重くのしかかっている。部屋の椅子にどさっと腰を下ろすと、空腹よりも虚脱感のほうが先に立ち、食事のことは二の次になっていた。
あの青年が失踪したことで、正木の“甘い判断”が引き起こした結果ではないか……という疑念が自分自身を責め始める。村に来たときから感じていた違和感を、もっと真剣に捉えていれば、あるいは村の伝承を軽視しなければ、防げたのではないか。彼は親切心から正木の調査を手伝おうとしていたはずだ。そんな川原を危険に近づけてしまった可能性は拭えない。
考えが堂々巡りになり、頭痛を覚え始めたころ、部屋のドアがノックされた。管理人が「保健センターのミキさんが来られましたよ」と声をかける。正木は立ち上がってドアを開けると、ミキは緊張した面持ちで「少し、話があります」と言ってきた。部屋の中に通し、状況を聞いてみるが、川原の行方に関して新たな情報は得られていないようだ。役場や村の捜索も今日は終了し、あとは明日の朝から再開するとのこと。
「でも、正直言って、また形だけの捜索になりそうな気がするんです。実は……あの村長さんとか有力者たちは、今回の件であまり騒いでほしくないみたいで……」
「やっぱり……。僕も屋敷で直接話してみて、そう感じました。何か隠してるんでしょうか」
「わからない。でも、行方不明になる人は一向に減らないし、こういう話を他所へ持ち出すと圧力がかかる場合もあるんですよ」
ミキの語気は強くないが、その表情には失望と恐怖が入り混じっている。よそ者である正木以上に、村の中で孤立しそうな危うさを抱えているのだろう。保健センターに勤める人間として、なんとか住民を救いたいと思っても、周囲の理解が得られない構造がここにはある。
二人してため息をついた頃、廊下の奥から不意にガタガタという物音が響いた。強い風でも吹いたのかと思い、気にせず話を続けようとするが、今度は宿の外で人の話し声らしきものがした気がする。正木は首を傾げながら窓へ近寄り、カーテンを少し開けて外を覗いた。だが、暗闇が広がるだけで、人の姿は見えない。
「気のせい、ですかね……。なんだか最近、妙な物音や視線を感じてばかりで」
「私も、夜中に起きると外に誰かいるような気がするんです。足音というか……。でも、見に行くと何もない」
そう言い合うと、二人とも自嘲気味に笑った。あまりに不可解な出来事が続きすぎて、神経が過敏になっているのかもしれない。だが、その“過敏”こそが大事な警鐘である可能性もある。今はまだ決定的な証拠がないため、精神的な疲れのせいで済ませているが、もし本当に何者かが夜な夜な忍び寄っているのだとしたら……考えるだけでもぞっとする。
◇◇◇◇◇◇
やがてミキが宿を辞してからしばらくすると、部屋の照明を落としても眠気が湧いてこない。正木は布団に入ったまま、カーテンの隙間から月明かりが差す天井を見つめる。頭の中には、「甘キ爪」の呪いにまつわる話がちらついて離れない。自分がまるで、目に見えない巨大な罠に追いつめられているのではないか──そんな気すらしてくる。
深夜、うとうとし始めたころだろうか。外から明らかに人が歩く音が聞こえてきた。砂利道をシャリシャリ踏むような音が、宿の近くを旋回しているような気配だ。眠りの浅い正木はすぐに目を覚まし、布団から抜け出して窓のそばへ寄る。しかし、勇気を出してカーテンを開けても、そこには誰もいない。おそらく夜風が木の枝を揺らし、砂や小石を擦る音を立てているだけだろう──そう必死に自分に言い聞かせた。
だが、そのとき、今度は背後の廊下でコツッという足音を感じた。宿の廊下はフローリングではなく畳敷きと板の間が混在しているため、人の足音が伝わりにくいはずなのに、明確に床がきしむ音が響いたのだ。「まさか、ミキさんが戻ってきたのか」と思いドアへ近づくと、次の瞬間には音がピタリと止む。完全な沈黙が戻り、ただ心臓の鼓動だけが耳にうるさく響く。
「誰か、いるんですか……?」
小声で呼びかけても返事はない。ドアの隙間から廊下の明かりがうっすら漏れ、周囲の影を形作っている。恐る恐るドアを開けて外を見回すが、誰の姿も見当たらない。ただ静まり返った廊下が、夜の冷気にさらされているだけだった。気のせいかもしれないし、もしかすると宿の管理人が点検していたのかもしれない。だが、なんとも言えない嫌な感覚が胸を締めつける。
そのまま眠れるはずもなく、正木は部屋に戻って布団の上で膝を抱え込むように座り込んだ。暗闇の中で、川原の行方がどうなったのか、不安と自責の念がぐるぐると渦を巻く。“爪”に引っかかれたような傷跡が残る廃屋や、神社の倉で見かけた「甘キ爪」の文字、そして村長をはじめとする住民たちの沈黙。全てが繋がり合って、何か巨大な闇が蠢いているように思えてならない。
◇◇◇◇◇◇
朝方、いつの間にか浅い眠りについていた正木は、どこか騒がしい声で目を覚ました。慌てて身支度をして窓から外を覗くと、宿の前の道に数人の村人が集まっている。まるで何かが起きたかのようにざわついていた。突拍子もない嫌な予感が走り、正木は急いで部屋を飛び出し、外へ出て声をかける。
「どうかしたんですか?」
「正木さんか……いや、まただよ。また一人、行方不明かもしれないって」
話を聞くと、昨夜から連絡が取れないという村の女性がいるらしい。決して多くはないこの村の人口で、短期間に行方不明が二件も続くのは普通ではない。それも川原の捜索がままならないうちに、さらにもう一人失踪者が出た可能性があるというのだ。明らかに何かが狂い始めている──そんな確信が正木の中で膨れ上がった。
村人たちの間にも、不安や疑心暗鬼が広がっているのか、今朝は怒りや混乱が見え隠れしている。それでもなお、古参の者は「騒ぎ立てるな」「そのうち戻ってくる」と繰り返すだけだ。真剣に捜索しようと呼びかける若者もいるが、まとまりがなく、リーダーとなって旗を振る存在がいない。まるで集団がバラバラに崩壊していく兆しを見ているようだった。
「どうすれば……」
正木は頭を抱えたくなる。企業から託された研究のことなど、正直どうでもよく思えてきた。このままでは自分が何をしようと、村人同士が対立し、失踪者が次々と増える可能性だってあるのだ。だが、そんな危機感を抱くのは彼と数人の若者、それからミキくらいのもの。村長や有力者は頑なに外部との接触を拒み、伝承や呪いを“当然の帰結”として受け入れているかのように振る舞っている。
やりきれない思いを抱いたまま、正木は再び廃屋や集落の外れを自分の足で確認しに行こうと決めた。警戒は必要だが、じっとしていても状況は悪化するだけだろう。万が一、どこかで川原やその女性の痕跡が見つかれば――そんなかすかな望みにすがりつくように、彼は動き出す。
◇◇◇◇◇◇
しかし、その日は朝から冷たい雨が降りだし、視界も足元も悪化の一途をたどった。廃屋が点在する区域はぬかるんだ地面がさらに泥濘み、とても捜索できるような状態ではない。やむを得ず、正木は保健センターに避難する形で身を寄せた。ミキと話をしながら、失踪事件のデータをもう一度見返し、何か共通点や手がかりがないか探る。
「村に長く住んでいる人から見ると、最初は高齢者の失踪が多かったって話なんです。認知症や体力の衰え、事故が原因だろうと思われていたけど、その後、若い世代にも広がった。一説には、“何か”が村全体を浸食し始めているからだという噂もあるらしい」
「“甘キ爪”が、より幅広く人を狙うようになったということかもしれませんね……」
正木の言葉に、ミキは深刻そうな表情でうつむいた。二人とも正確にはわからないが、この村を覆う不安定さが加速しているのは明白だ。伝承を軽視してきた正木も、ここにきて“甘い判断”が悲劇を呼んでいることを痛感しはじめている。あの爪が本当に存在するとしたら、いつ彼ら自身に襲いかかってきてもおかしくない。
◇◇◇◇◇◇
夜になり、雨は一向に止む気配を見せない。保健センターを後にする際、ミキは「今日は宿へ戻ったら早めに休んで」と念を押してきた。外を歩き回って体を冷やすだけ無駄だし、屋外の捜索もできないなら少しでも英気を養うべきだと。正木もそれを受け入れ、宿までの帰り道を足早に進んだ。雨が地面を叩く音と自分の足音だけが響き、狭い路地の暗さがいつにも増して不気味に感じる。
宿に到着し、部屋に戻って荷物を下ろすと、そこには奇妙な疲労感が重くのしかかった。ベッドに横になると、すぐに眠気が押し寄せてくる。夕食を摂る気力も失せ、かろうじてコンビニで買ってきた栄養ドリンクを口に含むが、どうにも身体が言うことをきかない。どこかでずっと張り詰めていた神経が、一気に緩んだのかもしれない。
いつの間にか深い眠りに落ちていたらしい。ふと目が覚めると、時計は夜中の二時を回っていた。窓の外を見れば、雨脚は少し弱まっているようだが、時折風がゴウゴウと音を立て、屋根や樋を揺らす。真夜中の村を照らすものはほとんどなく、街灯もまばらで、空には雲が厚くかかっている。ふと耳をすますと、今度は雨ではなく、建物のどこかを引っかくようなコリコリという音が聞こえた気がする。
「……風か?」
自分にそう言い聞かせてみたが、不自然に規則的な音が続いている。爪で壁をこするような、乾いた摩擦音。心臓がどくんと高鳴り、正木は思わず息を呑んだ。まさか人間の仕業か、あるいは野生動物が外壁を登っているのか。あるいは、それこそ“爪”というワードが脳裏を支配しているせいで、幻聴を聞いているだけなのか……。
意を決して部屋の照明を点けると、すぐさま廊下に出てみた。だが、そこはしんと静まり返り、雨漏りを防ぐバケツがポツンと置かれているだけ。さっきの音は聞こえない。気のせいだったと自分を納得させようとするが、背中には冷や汗が伝い、神経が高ぶっている。声にならない「誰かいませんか」という問いを、心の中で繰り返すしかなかった。
何も得られないまま部屋に戻り、暖房をつけて布団に潜り込む。すると、今度は窓のほうでカリッ、カリッという音がするような気がしてならない。心拍数が上がり、再度起き上がって窓へ近づくが、外は暗闇と雨粒が揺れるだけで、人影も動物の影も見当たらない。到底落ち着けるわけもなく、正木は布団に潜って耳を塞いだ。
(気のせいだ、ただの疲れだ、眠りが浅いからだ……)
そう繰り返し唱えつつ目を閉じても、頭の中には「甘キ爪」という言葉がこびりついて離れない。詰めの甘い人間を嘲笑うかのように夜な夜な忍び寄る存在──もし本当にそんなものがあるなら、自分は今まさにその格好の標的になっているのかもしれない。誰かの爪が壁を引っかく音は、まるで捜索を放棄した報いだとでも言わんばかりに思える。忌々しいほど頭から離れず、再び浅い眠りのなかへ沈んでいくしか術がなかった。
◇◇◇◇◇◇
朝になると、雨はすっかり上がり、空気は少しひんやりしているが透き通った光が村を照らしていた。正木はろくに眠れた気がしないまま、鉛のように重い身体を起こす。いつもなら朝の清々しさに救われるところだが、今日は違う。自分が完全に疲れ切っているのを自覚し、さらに外へ出るのが億劫に感じられる。それでも、行動しないわけにはいかない。川原や他の失踪者を何とか救いたいという思いが、彼の足を進める原動力になる。
しかし、この日も村人たちの捜索はぐだぐだなままだった。一応、名乗り出た数名が山道を簡単に見回ったり、廃屋をざっと覗いたりするが、すぐに切り上げてしまう。一人や二人、真剣に探そうとする若者がいるのは救いだが、全体の意志がまとまらず、またしても空転する。正木が助けようとすると「余計なお世話だ」と突き返される悪循環。まるで何かが意図的に事態を混乱させ、捜索を阻んでいるようにも思えた。
夕方、再び保健センターへ立ち寄ると、ミキから憔悴しきった様子で「収穫なし」という報告を聞かされた。悲しいことに、行方がわからないまま時間だけが過ぎていく。村がこうしている間にも、川原やもう一人の女性の命が危機に瀕しているのかもしれない……と思うと、正木は胸が張り裂けそうになる。これが“甘い判断”の代償だというのか。自分がもっと早く強行的に動けていれば……そんな後悔だけが増大し、やるせない夜がまた訪れる。
◇◇◇◇◇◇
その夜、正木は再び宿の自室で眠りにつこうとしていた。外は少し風が強いが、雨は降っていない。廊下で足音を聞くこともなく、窓を引っかくような音もしない。ただし、そんな静けさがかえって恐怖を煽る。いつか突然、あの爪が襲いかかってくるのではないか、という妄想が頭をよぎって離れない。
(自分でここまで追い込まれるなんて……俺は何をやっているんだ)
布団の中で独り言のように呟き、ひたすら息を整えようとする。川原や他の失踪者を救えないまま、日々が過ぎていくのを黙って見ているなんて耐えられない。だが、村の人々に頼ろうとしても翻弄されるばかりで、まともな協力は得られない。もしこのまま事態が進んでいけば、次の犠牲者は自分か、あるいは保健センターのミキかもしれない。そんな絶望の予感すら沸き起こってくる。
(もう、何が現実で何が幻覚かもわからなくなる……)
正木は力なく目を閉じる。すると夢の中で、川原や村の若者たちの悲痛な叫び声が聞こえ、闇夜の中に“甘キ爪”の巨大なシルエットが浮かび上がっていく。必死に逃げようとするが身体が動かず、その凶器のような爪先がゆっくりと心臓へ近づいてくる──そんな悪夢が延々と続いた。目覚めたときには、シーツが汗でぐっしょりと濡れており、まだ朝の五時前だというのに疲労困憊だった。
どれほど後悔や恐れに苛まれようと、村の現状は変わらない。いよいよ、本腰を入れて“甘キ爪”の正体に迫るしかないのかもしれない。これ以上、伝承を軽視する態度を取り続けると、さらなる犠牲が出るだけだ。だが、具体的にどう行動すればいいのか。視界は依然として暗闇に覆われ、出口は見えない。“甘い判断”を繰り返す正木の背後で、迫り来る影がますます濃くなっていることに、彼自身うすうす気づいているのだろう。だが、その影がどんな形をしているのか、どれほどの力を持っているのかは、まだはっきりとわからない。
──こうして、村での研究調査は事実上の頓挫を迎えようとしていた。新薬の臨床どころではなく、人命がかかった緊急事態なのに、誰も本気で動かない。むしろ村長のような有力者をはじめ、多くの住民は表向き静観を決め込み、まるで「起こるべくして起こっている災難」として受容しているように見える。その薄気味悪い無力感と闇の深さが、正木の心をじわじわと蝕み始めていた。さらに、夜な夜な忍び寄る幻のような足音や爪音は、まるで“甘キ爪”が次に食いつく獲物を選定しているかのように思われ、正木をさらに不安の底へと引きずり込んでゆくのだった。
迫り来る影は、果たして幻か、それとも現実か。正木に残された手段はきわめて少なく、そのどれもが危険を孕んでいた。次の犠牲者が出る前に、あるいは自分自身が犠牲になる前に――なんとか動かなければならない。そう頭でわかっていながらも、彼の“甘い判断”が再び決定的な一手を打つのを遅らせている。もはや後戻りはできない状況に追い込まれながら、正木は闇の中でもがき続けるしかなかった。
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