第2章 山間の村と“甘キ爪”の伝承

 正木は、宿の布団から抜け出すと、夜明け前の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。すでに何度か村の中を歩き回ってはいるが、昨夜の悪夢じみた感覚はまるで消えていない。宿の狭い部屋にこもっていると、不安と不気味な静寂がまとわりついてくるように思われ、少しでも外の景色を見れば気が紛れるのではないかという期待があった。実際のところ、この村では外へ出ても気味の悪さが薄れるわけではないのだが、それでも閉じこもっているよりはましだと信じたかった。

 曇天の空は藍色を帯び、やがて黒から青に移ろうとする境目に、ひんやりとした風が切り込んでくる。標高が高いせいか朝晩の温度差はかなり激しく、深呼吸をするたびに体が小さく震えた。すると、宿のスタッフが早朝の掃除に出てきたのか、背後の勝手口が開いてわずかに明かりが漏れる。スタッフと視線が合うと、相手は短く会釈し、正木も同様に軽く頭を下げた。互いに言葉を交わすことはなく、その場に漂う沈黙が再び重たい空気を形作る。よそ者と村人、その溝は村の古い石段のように深く刻まれているのかもしれない。


 やがて東の空がうっすら白み始めると、正木は意を決して宿を離れ、村の入口に近いほうへ向かった。昨夜のうちに「保健センターへ行く」とは決めていたが、朝早く訪ねるのもどうかと少し迷う。とはいえ、他に当てもないのだから、動き回るほかはない。村の大通りといっても舗装が十分にされているわけではなく、雨水でできた轍がそこかしこに残っている。足元に気を取られていると、遠くからぎい、と古い引き戸の開閉音が聞こえてきた。視線を向けると、玄関先で井戸水を汲むらしい老婆がこちらをじっと見ている。朝の挨拶くらいかけたいところだが、彼女は目が合った瞬間にすぐ顔を背けてしまった。正木は心の中でため息をつきながら、そっと足を速める。


 村を歩き慣れていないせいもあって、道が微妙に入り組んだ箇所では迷いがちだ。しかも案内板や標識のたぐいは少なく、同じような茅葺き屋根やトタン屋根の家が続いているため、土地勘のない人間には地図を片手にしていても難しい。正木は時々スマホの地図アプリを開いてみるが、この辺りではGPSが不安定らしく、ほとんど役に立たなかった。結局、役場からもらった手描きの雑な地図を頼りにするしかない。


 ようやく保健センターらしき看板が見える建物にたどり着いたのは、朝食の時間を大きく過ぎたころだった。外観はくすんだ水色のペンキが塗られており、「村立保健センター」と小さな表札が掲げられている。引き戸を開けると、受付のカウンターには誰もおらず、カレンダーと村の広報紙らしきものが置かれているだけ。中の様子を窺っていると、廊下の奥から看護師の石田ミキが姿を見せ、正木の顔を見るなり声をかけてきた。

「おはようございます。早いんですね」

「すみません、朝早くに。ちょっとお話を伺いたくて」

 ミキはどこか困ったような笑みを浮かべたが、面倒がっている様子ではなさそうだ。彼女は他のスタッフに一声かけてから、「ここじゃ落ち着かないから」と、センターの脇にある応接スペースへ正木を案内する。そこは古い長椅子とテーブルがあるだけの簡素な場所だったが、外よりは幾分暖かい。


 温かいお茶を出してもらいながら、正木は村の現状や失踪事件について改めて尋ねる。ミキは一通り説明したあと、中心となる情報をまとめて再度口にした。

「やっぱり、ここ数年で失踪が急増しているのは事実です。それから、不眠や幻覚を訴える人が複数いて、普通の治療じゃ改善しなくて……。ストレスや環境要因という説もありますけど、どこか腑に落ちないんです。検査をしても特筆すべき異常は出ないですし」

 正木はノートを取り出してメモを走らせる。彼自身が昨晩感じた不穏な気配や、村全体が帯びているような重苦しい空気を説明できる科学的根拠はまだ見つからない。ある程度の疲労や精神的ストレスで説明することは可能かもしれないが、事故や事件が重なりすぎている印象は否めなかった。


「ところで、村の長老の伴野さんに聞いたんですが、“甘キ爪”という伝承があるとか……。保健センターの方では、そういう話は把握してますか?」

 そう切り出すと、ミキは一瞬たじろいだように見えたが、やがて小さくうなずく。

「ええ、話くらいは聞いています。といっても、詳しく知っているわけじゃないんですけど、神社の倉庫みたいなところに、かなり古い文献が眠ってるらしいんです。誰もきちんと読んだことがないって聞きますけど……。この村には昔から“あまい人間を狙う魔物がいる”なんていう怖い噂があって、それを茶化して“甘キ爪”なんて呼んだとか。今では本気で信じてる人なんてほとんどいないと思いたいですけど」

 そう言いながらも、彼女の表情は複雑だった。まるで何か心当たりがあるかのようでもあり、この村で起きている不可解な出来事が、完全に迷信とは言えない部分を示しているようにも感じられる。


◇◇◇◇◇◇


 保健センターを後にした正木は、再び村の狭い道を歩き出す。ミキから聞いた話をまとめると、医学的なアプローチだけでは到底説明できない事象が多すぎる。そして“甘キ爪”という謎めいた存在。その正体が何であれ、この村の人々には根強い不安と恐怖が残っているのは間違いない。そのせいでよそ者に冷たく当たる人も多いのだろうし、ひたすら隠そうとするような態度をとる住民もいるのかもしれない。

 正木は思案しつつ歩くうち、いつの間にか村の中心部らしき場所を通り過ぎ、やや廃屋が目立つ方角へ足を向けていた。軒が崩れかけた民家や、ガラスの割れた窓が風にあおられてカタカタ鳴っている。それほど古くはなさそうな木造家屋にもかかわらず、急に人がいなくなったような寂れ方をしているのが目につく。どうやらここは、村から人が出て行ったあと、誰も住まなくなったエリアなのだろう。


 周囲を見回していると、一軒の家の前に「立入禁止」と書かれた白い札が貼られているのが目に留まった。赤い文字が薄くなりかけており、いつのものか定かではないが、何やら普通の注意書きよりも深刻な雰囲気を放っている。正木は足を止め、ふと好奇心に駆られる。入ってはいけないと注意されると、かえって中を見たくなるのは人の性分だろうか。

 もっとも、勝手に侵入すれば怒られる可能性もあるし、危険な場所であることは間違いない。床が抜けかけていたり、屋根が崩れかけているかもしれない。しかし、正木の「何かを突き止めたい」という思いがそのリスクを上回りそうになっていた。


「まずいかな……」と自問しながらも、彼は周囲に人影がないことを確認すると、静かに敷地内へ足を踏み入れる。家の正面は草が生い茂り、玄関戸は木が反っており隙間ができている。鍵がかかっている気配はなく、恐る恐る押してみると、軋むような音を立てながらわずかに開いた。その隙間から溜まった埃のにおいと、どこか湿った土のにおいが鼻をつく。


 玄関を抜けると、すぐに土間があり、壁には子どもの身長を測ったらしい印や、古びたカレンダーが貼りついたままになっていた。かろうじて読めるカレンダーの日付は十数年前で止まっている。ここで暮らしていた家族は、いったいどんな理由で家を手放したのか。あるいは失踪者の一人だったのか、あるいは単に村を出て行っただけなのか。想像は膨らむが、確かめようのないまま、正木は慎重に足を踏み進める。


 奥の居間に入ると、そこには畳が敷かれていたが、湿気のせいでかなり傷んでいるようだ。壁には仏壇らしき箇所があり、周囲には古い雑誌やチラシが散乱している。部屋の隅にはタンスが倒れたまま放置され、引き出しの中身が飛び出している。まるで一度に大量の荷物をまとめて運び出そうとして、途中でやめたかのような印象を受ける。

 正木はマスク代わりにハンカチを口元に当て、床を踏むたびにきしむ音を警戒しながら室内を観察する。すると、部屋の隅に古い段ボール箱が積まれているのが目に留まった。何の変哲もない梱包用の箱だが、一部が開いており、中に紙類が詰まっているように見える。


「これは……」

 彼はおそるおそる箱の中身を手に取った。何枚かの写真、そして書きかけの手紙のようなもの。写真には、この家に住んでいたと思われる家族が笑顔で写っていた。幼い女の子と若い夫婦らしき姿。家の前で撮影したのだろうか、背景には見覚えのある玄関が映っている。その顔は穏やかで、こんな荒れ果てた家の現状からは想像できないほど幸福そうだ。

 手紙には「おばあちゃん、元気にしてる?」という冒頭の文章があり、故郷に向けたメッセージのようだった。しかし途中で文章が途切れており、まるで書きかけのまま放置されたように見える。封筒らしきものも見当たらない。彼らに何が起きたのかはまったくわからないが、こうして読んでいるだけで胸を締めつけられるような気持ちになる。


 奥から風が吹き込み、障子がバタバタと揺れた。埃が舞い上がり、正木は咳き込みそうになる。すると、裏口のほうからかすかな音が聞こえた気がした。猫か小動物が入り込んでいるのか、それとも……。

 正木は念のため足音を忍ばせ、裏口へと近づく。扉は閉まってはいるが、外から鍵がかかっているようで開きそうにはない。ただ扉の隙間から、何かが覗いているような錯覚を覚えた。暗がりの中に、うっすらと光る何か。人間の目の反射なのか、それとも小動物のものなのか。次の瞬間、突如として風が強く吹き込み、扉がガタリと揺れた。驚いた正木は思わず後ずさりし、何かにぶつかって尻餅をつきそうになる。


 振り返ると、そこには何もいない。倒れたタンスと散らかった雑誌、風で倒れかけた掃除道具だけが暗い室内に転がっている。彼は背中に冷たい汗をかきながら、「こんなボロ屋に一人で入るんじゃなかった」と後悔しかけるが、探求心のほうがまだ勝っていた。何かこの村の“真実”につながる物的証拠が見つかるかもしれない──そんな期待が捨てきれないのだ。


 結局、さらなる危険を冒すのは得策ではないと判断し、正木はそれ以上奥に踏み込むのをやめた。段ボール箱から写真数枚だけを撮影し、部屋の様子をスマホに収めると、足早に玄関へ引き返す。すでに日は高く昇り、外の光が強くなり始めていた。玄関から外へ一歩出ると、まるで生温い風が体に巻きつくような感覚がある。廃屋に漂っていた冷たい空気に浸っていたからだろうか、何とも表現しがたい気味の悪さが後を引いた。


◇◇◇◇◇◇


 村をさらに奥へ進むと、明らかに居住者の数が減っていることがわかる。見渡す限り、数軒の家しか生活感がなく、他は取り壊されかけや朽ちかけの建物が点在しているだけ。その合間をぬうように畑や雑木林が広がり、簡易な用水路が家々を繋ぐように張り巡らされていた。ときどき水の流れがゴボゴボと気味の悪い音を立てるが、人の姿はほとんどない。

 やがて、神社らしき建造物が見えてきた。昨日も足を運んだ場所とは別の社かもしれない。こちらは小さな祠のような建物で、鳥居もやや新しめだ。誰かが管理しているのか、草むしりが行き届いた形跡があり、入口の玉砂利も比較的きれいに整えられている。正木が鳥居をくぐろうとすると、突然隣の茂みから男性が姿を現し、「何してるんだ」と声をかけてきた。驚いて振り向くと、作業着姿の初老の男性が鋭い目でこちらを睨んでいる。


「すみません。研究所から来た正木といいます。このあたりを少し見て回っているんですが……」

 正木がそう言いかけた瞬間、相手の男性は「ああ、あんたか」と言わんばかりに視線をそらす。どうやら、村の中ではすでに正木の存在が伝わっているらしい。男性は面倒くさそうに、「ここは掃除当番が交代でやってるだけだ。見るもんなんかない」とそっけなく答えた。

「そうですか……。あの、こちらにも神社があるようですけど、村にはほかにも古い社や庫裏があると聞きまして……」

 正木が話を続けようとすると、男性はつまらなさそうに手を振って遮った。

「いるなら勝手に見ればいい。ただ、余計なことはしないでくれ。村にはいろいろあるが、よそ者が口出ししていいことじゃないんだ」


 彼はそれだけ言い残すと、茂みのほうへ戻って行った。正木は脱力感を覚えながら、神社をちらりと見上げる。どうやらここに古文書があるわけではなさそうだが、村の人間は皆、この土地の成り立ちや言い伝えに干渉されるのを嫌っているのかもしれない。今までの態度から見ても、“甘キ爪”をはじめとする伝承に関して、よそ者に積極的に情報を与えるつもりはなさそうだった。


◇◇◇◇◇◇


 その後、しばらく道なりに進んでみると、昨日訪れた神社の前に差しかかった。苔むした鳥居と崩れかけた拝殿が半ば朽ち果てたようになっている。倉の扉は相変わらず厳重に鎖で閉じられており、中を覗くことはかなわない。正木は鎖をじっと見つめながら、伴野(ともの)が言っていた「古文書」のありかに思いを馳せた。ここを強引にこじ開けて入るわけにもいかないが、何とか正式な方法で閲覧する手段はないのだろうか。

 頭をめぐらせていると、社務所らしき建物の横に、埃をかぶった木箱が置かれているのが見えた。普段から管理されていないのか、蓋が少し開いていて、内部に紙の束が詰まっているように見える。正木は周囲に人の気配がないのを確認し、そっと近寄って箱の中を覗き込む。

 中には祭事の要項やら、村のお祭りの記録らしき書類が折り重なっており、いかにも役場の雑多な資料が放り込まれたような印象だった。その中に紛れて、手書きの巻き紙のようなものが見えた。毛筆で何やら意味ありげな文が書かれている。懐中電灯の明かりがあれば読めるだろうが、今の昼間の状況でも薄暗い影が差し込んで判読しにくい。


 引き抜こうとしたところで、箱の下部からガタガタと不安定な音がした。慌てて片手で支えるが、どうやら木箱の底が抜けかけているらしい。下手をすれば、中身ごとガラガラとこぼれてしまう可能性があった。慎重に紙束を動かそうと試みたが、折り重なった書類が引っかかって簡単には抜き出せない。

「こりゃまずいな……」

 小声でつぶやき、どうにか紙束の端をつかんで少しずつずらそうとするが、箱の底から蜘蛛か何かの虫がさっと飛び出してきて、思わず手を離しそうになる。何とかこらえて、慎重に紙束を少しだけ引き上げてみる。そこには、“甘”という文字が目立つ古い文章が書かれていた。断片的にしか読めないが、「甘キ爪ニ……」「アマイ心ヲ……」というフレーズがちらりと目に入る。


 正木はドキリと胸が高鳴った。これはまさに“甘キ爪”を示す資料ではないか。多少強引でも持ち帰って読めば、何か大きな手がかりを得られるかもしれない。しかし、勝手に公的な資料を持ち出していいのかという倫理面の不安や、村の人々の怒りを買うリスクが頭をよぎる。そもそも、こんな場所で発見したというだけでは正式な手続きを踏んでいないし、後々トラブルを招きかねない。

 逡巡していると、急に鳥居のほうから人の足音が近づいてくる気配がした。砂利を踏むザリッ、ザリッという音が規則的に聞こえ、どうやら誰かがこちらを目指して歩いているようだ。慌てた正木は資料を元に戻そうとしたが、手元がもつれて箱の角にぶつかってしまう。すると、箱の底が抜けかけていた部分がバリッと音を立て、数枚の紙が滑り落ちる形で散らばった。


 なんとか紙を拾い集めるが、焦るあまり上手く重ねられず、さらに二三枚が風に飛ばされかけた。すぐに手を伸ばして押さえ込むものの、状況はかなり危うい。足音は確実に近づいている。怪しまれる前にどうにかしなければ、と必死になって紙を箱に戻そうとしたとき、男性の声が聞こえた。

「……あんた、そこで何をしてる」

 振り向くと、そこには伴野が立っていた。昨日出会ったときと同じ険しい表情で、目には怒りとも不信ともつかない光が宿っている。見られてしまった、そう悟った正木は、一瞬頭が真っ白になるが、どう言い訳しようか頭を回転させる。


「い、いえ、少し気になって。この箱、壊れそうだったんで、書類を整理しようかと……」

 明らかに苦しい言い訳だったが、伴野は一喝するでもなく、ゆっくりと歩み寄ってきた。そして箱の中を一瞥してから、溜め息をつくように呟く。

「まったく、役場の連中もいい加減だ。この神社は昔から放置されてるし、祭事の記録もろくに管理していない」

 そう言うと、伴野は正木の手から紙束をひょいと取り上げた。正木は咄嗟に抵抗しようとしたが、伴野の勢いに負けてしまう。紙束を確認した伴野は、そこに“甘キ爪”の文字があるのを一瞥し、眉をひそめる。


「まさか、あんたがこれを探していたのか」

「正直、探していたというか、気になっていました。村の失踪や奇妙な出来事と何か関係があるのではないかと思いまして……」

 正木がそう答えると、伴野はもう一度重いため息をついた。

「役場のやつらは何も教えちゃくれなかったろう? まあ当然だ。変に騒がれても困るし、外の人間に何かしてもらえるとも思っちゃいない」

 伴野の口調には、諦観の色が混じっていた。彼は紙束を丁寧に重ね直し、箱の上に置く。そして正木のほうを向き、低い声で言葉を続ける。

「“甘キ爪”の伝承について、詳しく知りたければ俺に聞け。だが、あまり深入りするんじゃない。甘い考えを持ってる奴ほど、あいつは狙ってくるからな」


 その言葉に、正木の胸は一瞬凍りつくような感覚に襲われた。甘い考え──まるで自分の“詰めの甘さ”を指摘されているかのようだ。この村に来るまでに、何度も思い知らされた自分の弱点。研究所では結果オーライで乗り切ってきたが、ここでは通用しない気がする。

「正直に言えば、怖いです。でも、放っておけません。僕はここで行方不明になった人たちの原因を知りたいし、助けられるものがあるなら助けたい。それに……自分自身も確かめたいんです。自分の甘さが、どれほど危険なのか」

 正木がそう口にした瞬間、伴野の目がわずかに動いた。怒りでもなく、嘲笑でもなく、どこか痛ましいものを見るような目。彼はひと呼吸置いてから、重々しく語り始める。


「この村にはな、“甘キ爪”という、おそろしいものの噂が昔からある。そいつは人の心に生まれた隙間に入り込んで、理性やら判断力を奪うんだ。要は“詰めが甘い”奴ほど、そこを突かれる。いったん囚われたら、もう自力で抜け出すのは難しい。結果として、行方不明になったり、狂ってしまったり……」

 聞いているうちに、正木は体の芯が冷えるような恐怖を覚える。自分が追い求めていた伝承は、単なる迷信や古いおとぎ話ではなく、実際に村人の生活を脅かしてきたものかもしれない。しかも、その“甘キ爪”とやらは人間の弱さに付け込むとされる。まさに自分の最大の欠点が、そこに突き刺さるような気がした。


「もうやめとけと言いたいが、あんたの性分じゃ、そうもいかんだろう。俺は今から山のほうを見回りに行くが、もし来たいなら一緒についてこい。ただし、命の保証はしないぞ」

 伴野がそう言い放つと、正木は迷いながらも頷いた。ここで引き下がるよりも、少しでも多くの情報を得る機会を逃したくないという思いがあった。多少危険を冒してでも、先へ進みたい。それは研究者としての好奇心か、それとも自分の中にある“甘さ”を克服したいという意地なのか。答えは自分でもよくわからないが、足は自然と伴野のあとについて動き出していた。


◇◇◇◇◇◇


 神社の境内を離れ、伴野とともに裏山へと続く細い山道を歩く。足元は苔や落ち葉で滑りやすく、ところどころに倒木が道を塞いでいる。伴野は慣れた足取りで回り道を見つけたり、木の枝を払い除けたりして先に進んでいくが、正木は何度もつまずきかけ、そのたびに冷や汗をかいた。

 山道を登り始めて十分ほど経ったころだろうか。視界が開けた場所に出ると、そこからは村の全景が一望できる。所々に瓦屋根やトタン屋根の家が見え、その合間に木々が折り重なるようにして広がっている。遠くから見ればのどかな田舎の風景だが、実際には多数の廃屋や行方不明者の噂が渦巻いている場所なのだ。正木は複雑な思いで下界を見下ろした。

「ほら、こっちだ」

 伴野に促されて、さらに奥へと足を運ぶ。やがて大きな岩が隆起したようになっている場所に出た。そこには古い祠の残骸があり、砕けた石灯籠や崩れかけの鳥居が倒れている。この付近は人の手がほとんど入っていないらしく、草や蔦が絡まり放題。ひと昔前に誰かが整備していた形跡がわずかに残るものの、今は廃墟同然だ。


「昔、ここには“甘キ爪”を封じるための祭壇があったと言われている。もっとも、どうやって封じたのか、いつ封じたのか、詳しいことは残っていない。誰も触れようとしないからな。神社の倉にある古文書も、事細かなやり方が書いてあるわけじゃないらしい」

 伴野の声には、どこか諦めと憤りが入り混じっているように聞こえる。正木は祠の跡へ近づき、足元の石をどかしながら内部を覗き込んだ。そこには朽ちた木の破片や土の塊が堆積し、何が何だかわからない状態だ。かすかに見える碑文の欠片には、風化した文字が刻まれているが、読み取ることは難しそうだった。


「村の連中は、ここを近寄ってはいけない場所と決めつけている。危険だとか、たたりがあるとか、そういう話ばかりだ。だが、村に起きている失踪や奇病が現実問題としてある以上、原因不明と片付けてはいられん。俺も何度か確かめようとしたんだが、どこをどう調べたらいいのか、さっぱりわからん。専門の学者にでも頼めばいいんだろうが、そんな予算も人脈もない」

 伴野はぼやくように言いながら、石灯籠の破片を蹴り飛ばすような仕草をした。正木は少し心を痛めながら、その場に膝をついてさらに奥を覗き込む。何らかの痕跡が残っていないかと目を凝らすが、積み上がった土砂と枯れ葉に覆われてしまっており、素人目にはまったく見分けがつかない。


 そのとき、突如として森の奥から奇妙な音が響いた。甲高いような、低いうめき声のような、はっきりしない音。風が木々を揺らしているだけかもしれないが、正木にはそれが人の声にも思えた。思わず伴野のほうを見ると、彼も警戒するように身を固めている。

「もし人がいるなら、声をかけたほうが……」

 正木がそう言いかけた瞬間、伴野は首を振って制止した。

「下手に呼びかけるんじゃない。あんた、まだこの村の怖さをわかってないな。ここでは、人の形をした“何か”が出るかもしれないんだ。行方不明になった奴が戻ってきたとしても、それが本当に本人とは限らん」


 伴野の言葉に、背筋が凍る思いがした。確かに村には失踪者が続出している。もし彼らが戻ってきたとしても、すでに“甘キ爪”の餌食になっているのだとしたら──正木の頭はそんな嫌な想像でいっぱいになる。途端に足がすくむような恐怖を感じながらも、彼は息を呑んで森の奥を見つめた。

 しばらく息を殺して待ってみたが、再び同じ音が聞こえてくることはなかった。静寂が戻り、木の葉が揺れるサワサワという音だけが耳に残る。伴野は「今日はここまでだ」と言わんばかりに踵を返し、来た道を戻り始めた。正木も慌てて後を追いかけるが、さきほどの奇妙な音が頭から離れない。もしあれが人の声ならば、助けを求めるものだったのか、それとも恐ろしい存在が発する声なのか。答えはわからないままだ。


◇◇◇◇◇◇


 山道を下っている途中、正木はあえて伴野に話しかけなかった。変に質問を重ねれば、今の自分には理解しきれない真実が次々と顔を出しそうで、少し怖かったのだ。むしろ、あの音について深く考えるのを一旦やめたほうが精神衛生上いいのではないかと思うほどだった。

 集落の入口まで戻ると、さきほどまで感じていた寒気が嘘のように、むしろ蒸し暑さすら覚える空気が広がっている。午後の日差しが斜めに差し込み、村の家々に長い影を落としていた。伴野はぼそりと「俺はもう戻る。あんたも無茶はするなよ」と言い残し、村の中心部とは反対の道を進んでいく。おそらく自宅か、あるいは自分が管理している作業場へ向かうのだろうか。

 正木は一人取り残され、無意識にため息をつく。山間部独特の息苦しさ、そして得体の知れない伝承。すでに半日以上村の中を動き回っているが、その疲労は街中の数日分にも匹敵しそうだった。


 “甘キ爪”は詰めの甘い人間を狙う。そう聞かされて以来、正木はまるで自分が常に狙われているような錯覚に捉われている。確かに自分は爪の甘さならいくらでも自覚があるし、それゆえに大きな失敗をしたことはないものの、小さな危機は何度も乗り越えてきた。もしかしたら、それこそがこの村で致命的な結果を招く原因となりうるのではないか──そんな悪夢めいた考えが頭から離れない。


 どうしても気分を変えたくなった正木は、一度宿に戻ってシャワーを浴び、少し着替えをしようと考えた。先ほどの山道でかいた汗が肌にこびりついているし、午後からはもう少し体系的に情報整理をする予定だ。神社で見つけた資料、廃屋で拾った家族の写真、保健センターでの話などを一度まとめておきたい。

 だが、宿へ向かう途中でまたしても視線を感じた。振り向くと何もないが、一定の距離を置いて誰かにつけられているような気配がある。自分の足音が途切れるとき、ほんの一瞬、もう一つの足音が消えるような感覚。かといって確信は持てず、ただ気味の悪さだけが積み重なっていく。


◇◇◇◇◇◇


 ようやく宿へ戻った正木は、管理人に声をかけて鍵を受け取り、自室へ入る。ベッドに腰を下ろすと、疲労がどっと押し寄せてきて、しばらく動けなくなりそうだった。だが、先にシャワーだけでも浴びておこうと浴室へ向かう。

 シャワーの水音が、多少ではあるが頭の中のざわめきを洗い流してくれる。何とか気持ちをリセットしつつ、体を拭いて部屋に戻ると、ドア越しにロビーのほうから管理人と誰かが話している声が聞こえた。少しだけ耳を澄ますと、どうやら保健センターのミキが訪ねてきたようだ。

「正木さん、いらっしゃるんでしょうか。ちょっと伝えたいことがあって……」

 彼女の声に、正木は急いで服を着てドアを開ける。すると、ミキはほんの少し安堵の表情を浮かべて、手にした封筒を差し出した。

「さっき、上司が“これを正木さんに渡してくれ”って。村の医療記録の一部だそうです。警察には一応届けてあるんですけど、どこまで調べるかは正木さんの判断にお任せしますって」


 正木は受け取った封筒を開いてみる。そこには村で起きた失踪事件の被害者一覧や、幻覚症状を訴えた人々の簡単なカルテのコピーが入っていた。名前や年齢、性別、症状の経過などがざっくりまとめられている。中には、「夜中に妙な声を聞いた」「誰かに呼ばれる気がする」といった不可解な訴えが多く見られ、既視感を覚える。自分も昨日から似たような体験をしているからだ。

「ありがとうございます。これは助かります……」

 そう言ったものの、正木の声は沈んでいた。改めて数字や経緯を目の当たりにすると、この村が抱える問題の深刻さが一段と際立ってしまう。行方不明者が何人もいる上に、原因不明の精神症状が続出。そのうち何割かは都会へ逃げるように村を出て行った、という記録もあるらしく、根本的な解決には程遠い現状だ。


 ミキはすこし心配そうに正木を見つめる。

「本当に大丈夫ですか? 村で変なことに巻き込まれていないか心配で……」

 その言葉に、正木は「大丈夫ですよ」と笑って返すが、自分の笑いがぎこちないのを自覚していた。実際、不気味な足音や視線を感じているし、山中であの奇妙な声を聞いたばかりだ。しかし、ここでミキに話したところで、具体的な解決策が生まれるわけではない。むしろ彼女の不安をあおるだけかもしれないと思い、結局は胸の中にしまい込むことにした。


「何かあったら、すぐ連絡してくださいね。私たちにできることは限られてるけど、放っておけないですから」

 そう言い残して、ミキは宿を後にした。正木は部屋に戻り、先ほどの封筒の中身をテーブルに広げて再度目を通す。被害者のリストを指で追ううち、ある名前に視線が留まった。

 それは、十数年前にこの村を訪れたという研究者らしい人物の名前だ。仮に田中という名だとしよう。田中は、山の土壌に関する研究でここに滞在していたが、数日後に行方不明になったと記録されている。同僚が捜索願を出したものの発見されず、結果として“神隠し”に近い扱いを受けたようだ。結局、警察の捜査も打ち切られ、事件性があるかどうかすらわからないまま終わっている。


 正木は身につまされる思いで、その文書を読み込んだ。自分と同じ研究者が、この村に来て失踪している。田中もまた、“甘キ爪”に気づき、それに囚われてしまったのだろうか。そう考えるだけで背筋が寒くなる。

 同じ轍を踏まないためにも、慎重に調査を進めなければ──と頭ではわかっていても、甘い詰めがどこで炸裂するかわからないのが正木の悪癖でもある。意志と行動がちぐはぐになることが過去にも多々あった。周囲に警戒を呼びかける役目を担うべきなのに、気づけば一人で危険な場所へ足を運び、奇妙な物音や足音に怯える始末。そんな自分を嘲笑うかのように、“甘キ爪”という存在がさらに牙をむいてくるのではないかと想像してしまう。


◇◇◇◇◇◇


 日はもう西へ傾きかけている。窓の外を見やると、夕焼けが山の稜線を赤く染め始めていた。深呼吸をして気分を落ち着かせ、正木はおおまかな行動計画を立てる。まずは、保健センターのミキや役場の職員、そして伴野のように何か手がかりを知っていそうな人物から可能な限り話を引き出すこと。特に神社の倉に保管されている古文書を何とかして正式に閲覧する許可を得られないか、模索してみること。あとは、実際に失踪者の家族がどこかに残っていないか探すのも一案だが、それはかなりの手間になりそうだ。

 計画をざっとノートに書き込み、ひとまず夕食をとるために食堂へ向かう。宿の廊下を歩いていると、天井の蛍光灯がちらつくように点滅し、まるで短いフラッシュを焚いたように視界がパッと暗転した。思わず足を止め、「停電か……?」と呟くが、すぐに明かりは復旧し、あたりには何事もないような雰囲気が戻っている。


 しかし、その一瞬の暗闇の中で、どこか遠くから笑い声のようなものが聞こえた気がした。男女かさえ判別がつかないような短い笑い声。幻聴かもしれないが、この村では何が起きてもおかしくないと身構えてしまう。結局、その後は特に異変も起きず、正木はだましだまし夕食を済ませる。出てきた味噌汁と漬物の味は意外においしく、少しだけ心が安らぐのを感じた。


◇◇◇◇◇◇


 夜になり、再び部屋に戻った正木は、部屋の電気を消して窓を開けた。外の冷たい空気が入ってきて、昼間の疲れがほんの少し和らぐ。夜空は雲が多いせいか、星はあまり見えない。それでも、遠くの山並みがわずかな月明かりを反射し、稜線が墨絵のように浮かび上がっている。静寂が戻り、どこからか虫の声がかすかに聞こえるが、人の気配はほとんど感じられない。

 今夜こそ熟睡できればいいが、どうにも不安が募る。あの廃屋や神社の倉、そして山の祠の跡で感じた恐怖。伴野の言葉にあった“甘キ爪”の正体は何なのか。正木がそれを見極めようとするたびに、まるで見えない手が背後から伸びてきて、こちらを誘うような気配がある。


 窓を閉め、カーテンを引こうとしたとき、ふいに背後がざわりとした。まるで誰かが部屋の中に立っているかのような感覚が押し寄せる。慌てて振り返っても、そこには誰もいない。だが、心臓が早鐘を打ち、冷や汗がにじんだ。頭の中で「気のせいだ」と言い聞かせながらも、この村では何が起きても不思議ではないと感じてしまう。

 結局、そのままソファに腰を下ろし、ノートパソコンを開いてはメモを見返しながら、“甘キ爪”の謎を整理しようと試みる。しかし、まとまった情報は少なく、どこか断片的で具体性を欠く。目に見えない存在に悩まされる恐怖は、確固たる根拠を持たないからこそ深く心を蝕むのだろう。


 ふと時計を見ると、すでに深夜を回りかけている。さすがに眠らなければ明日に差し支えるが、布団に入るのが怖い気もしてならない。眠ろうと目を閉じた途端、あの山中で聞こえた不気味な声や、廃屋で感じた視線が脳裏をよぎってきそうだからだ。それでも身体は疲れており、気づけばまどろむように意識が遠のいていく。

 深い眠りに落ちる瞬間、正木は夢か幻か、あの朽ちた祠の前に立っている自分の姿を思い浮かべる。そこには大きな“爪”のような影がうごめいていて、自分の背後をなぞるようにゆっくりと近づいてくるのが見える。やめろ、という声にならない声が喉の奥で絡まるが、体は動かず、ただ冷たい汗と恐怖に包まれたまま、意識が闇へと沈んでいく。


 ──こうして、村の夜は再び深まっていく。“甘キ爪”という伝承は、ただの迷信ではなく、確かに人の心を狙う脅威として、この土地に根を張っているのかもしれない。詰めの甘い人間を嘲笑うかのように。その存在が、正木の足元を掬うように影を伸ばしていることに、彼はまだ十分に気づいてはいない。明日以降、さらなる不可解な出来事が彼を待ち受けているとしても、もはや後戻りはできないだろう。自分自身の甘さが死への道につながりかねないことを、彼は予感しながらも、まだ霧の向こうを手探りし続けるしかないのだ。


 その夜の闇は深く、村の外れには一筋の街灯も見当たらない。ただ風のざわめきと、遠くのほうで小さな動物が鳴く声だけが、寂しく響いている。やがて雲に隠れた月が少し姿を現し、山肌をかすかに照らした。底知れない闇の中、もし“甘キ爪”という魔物が本当にこの村を徘徊しているとしたら、今この瞬間にも、誰かの心の隙間を爪でこじ開け、逃れられない呪いを刻みつけているのかもしれない。

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