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 わたしは数日後、二つの動画投稿サイトにアカウントを作った。

 活動名はアルコイリス、虹という意味。いつかの放課後、紗奈と話し合って決めた言葉だ。紗奈が描いてくれたシンプルな虹のアイコンに、ヘッダーはわたしがあの時撮った虹の写真。洗練されたデザインと淡い色で彩られたトップページ、名前の横につけた音符マークに胸が弾んだ。

 年齢なども明かさず、完全覆面アーティストとして活動していくつもりだ。

『心に虹を届けます』。チャンネルの概要欄、一番上にはそう書いた。あの時、紗奈がぽつりと呟いた言葉。それが、わたしたちふたりの新しい夢になった。



 時刻は朝七時、朝日の降り注ぐ教室は静か。窓際で本のページを捲っていると、紗奈は跳ねるような足どりでわたしの席にやってきた。

「あの、最初の投稿のことなんだけど」

「この間聴かせてくれた、綺麗なピアノのは?」

「あれは試作だし、別にもういいかな。帰ったら新しく作ってみるね、歌詞がつけられそうな感じの曲。上手くいくかわからないけど」

 髪の毛をさらりと耳にかけ、紗奈はにっこりと笑った。

「わかった、すごい楽しみ」


「あ、そうだ。琴は歌、得意?」

「うん、一応」

 楽器は弾けないけれど、歌なら得意だ。中学生の頃なんて、一日中カラオケに引きこもって練習したりしていたし。

「よかった! じゃあ、一緒に歌おう。レコーディング、できるようにしてみるね」

 わかったありがとう、と返すと紗奈は静かに微笑んだ。

 隣で一緒に歌ってくれる友達ができたこと、それだけでこれまでの鬱屈とした日々がいっぺんに、綺麗に救われたような気がした。虹が立ったあの日から、この高校に入れて良かったと何度胸を撫で下ろしたことだろう。

「動画はどうする? イラストとか絵とか、そういうのは」

「あ、わたしたちで撮ればいいんじゃない?」

 わたしの思い付きの提案に、紗奈は驚いて目を丸くした。

「二人でさ、いい感じの動画撮ってこようよ。綺麗な風景の場所探して。確かうちに、お父さんがもう使ってないカメラがあったはずだから、それ使おう。撮ってきた動画に歌詞だけ打ち込んで、簡単に編集すればできあがるんじゃないかな」

 早口でまくしたててしまったことを、小さく後悔するも束の間。紗奈はふわりと声を揺らして、静かに笑いかけてくれた。

「わぁ、良いね」

「じゃあ放課後とか日曜とか使って、少しづつ撮影するかぁ」

「だねー」

 何気ない日常の風景を撮って、それを繋げてMVにする。決まった方針に、わたしの胸は一層弾んだ。



 翌週、紗奈は完成した曲をわたしに聴かせてくれた。彼女と出逢って、ちょうど一カ月ほどの月日が流れた頃だろうか。

「これ、どうかな」

 二人だけの、放課後の教室。紗奈の瞳は、相変わらず自信なさげに揺れていた。

 控えめな言葉達と共に渡されたスマホを覗きこむと、何章節ものトラックにドラムやギターが細かく打ち込まれていた。一体この曲ひとつに、彼女のどれだけの時間と精力が注がれているのだろう。

「超絶技巧じゃん」

 首を勢いよく横に振った紗奈は恥ずかしいのか、とことこと廊下の方に歩いていってしまった。自分が作ったものを審査されているようで耐えられないのだろうか、そんな気持ち、分からなくもないけれど。わたしがこんな曲を作れたら、世界中の人に聴かせて回るのになぁ。


 イヤホンを耳に差し込んで数秒、楽器の音一粒一粒が水のように流れ込んでくる。この前聴かせてもらったものよりもはるかにクオリティの高い曲、それは複雑で繊細な、美しいメロディで構成されていた。しばらく曲に聴き惚れていると、紗奈が教室のドアの方からわたしを伺っていた。あまりの完成度に、どうやって生きたらこんな曲が作れるの、と問いただしたくなってしまう。けれどそんなこと聞いたって紗奈は、きっと謙遜しながら逃げていってしまうのだろう。

「すごく、すごくよかった」

 纏っていた緊張が解けたように、紗奈は口許をほころばせた。


「あの、歌詞って」

 小さな紗奈の声に、はっとして彼女の瞳を見る。わたしが、紗奈の曲に言葉を乗せるのだ。さっきの美しい曲の中、主旋律だけが冷たい音で打ち込まれていたことを思い出す。

「うん、わたしが書くよ」

 そう、自信ありげに答えてみる。まだ何の構想もなければ、何のアイデアも浮かんでいないのに。少し考えてみたとて、言葉一つ出てこないのに。

「これって、タイトルもわたしが決めていいの?」

「うん。全部琴がつけて」

 紗奈は首を傾けながら、上目遣いでそう言った。わたしより背の低い紗奈にそうやって見つめられると、少しくすぐったい気持ちになる。紗奈の傍にいると、彼女の柔らかな雰囲気に染まっていくような、その度に自分が少しずつ大人になっていっているような、そんな手触りがした。


 この感情を、書かなければならないと思った。揺れる心とか、そういうものを、今の未熟な言葉でいいから、書かなければならないと思った。

 どうしてだか今なら書ける、と思った。


 家に帰って、わたしがペンをとったのは二十三時を過ぎた頃だった。紗奈に送ってもらった曲のデータを何百回も再生して、浮かんだ言葉をはめては消して、文字数を合わせて、伝えたい言葉を出力していく。言葉を乗せて口ずさんでみて、気に入らなくて全部消して、また歌詞をつける。初めての感覚だった。紗奈の曲の美しさをそのままに、自分の表現したいもの、世界観を言葉にする。頭の中にばらばらに存在していた欠片を、ピースを繋ぎ合わせて、紗奈のメロディに溶け込ませていく。

「できた」

 ペンを置いて、見上げた空は水色だった。目蓋をこすって欠伸をひとつ、早朝の空気を肺に取り込む。澄んだ空と裏腹に重い頭を動かしながら、自分の言葉を染み込ませて、それを何度も反芻する。よし、これできっと大丈夫。

 歌詞を書くこと、自分の言葉を紡ぐこと。それは苦しくて頭が痛くて、だけど最高に楽しい行為だということを知った。それに気付いてしまった五月の朝、太陽が昇っても冷めない興奮、わたしの心臓の高鳴りは止まなかった。


 一睡もしないまま、放り投げてあった通学リュックを手に取る。勢いよく背負ったそれはいつもより心なしか軽く、どこか羽が生えたようだった。鍵を開けて玄関を飛び出すと、先に広がる景色はまだ寂しい色をしていた。数メートル先も上手く見えない彩度のない街、今日は濃い霧がかかっている。もう少しすれば、きっと晴天になるだろう。

 紗奈のメロディと私の言葉、それに合わせて流れる映像。わたしたちがいつも見ている風景と、この街の美しさを切り取るにはどこを映し出せばいいのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、わたしは緑の並木道までやって来ていた。学校はもう目の前だ。校門をくぐり廊下を抜けて、一番のりで登校している紗奈の元へ向かう。紗奈は薄暗い教室でひとり、静かに英単語帳を見ていた。

「書いたよ」

 後ろから声をかけて、綺麗に清書した紙を渡す。

「え、もう? すごい」


 すかさず自分の席に戻り、わたしは化学の教科書を広げる。

 あんなに必死に書いたのに、紗奈の前ではすかした雰囲気を醸してしまう。自分の書いた歌詞を読まれている場面なんて、直視できるはずがなかったのだ。

 そんなことを思ってから、昨日の紗奈と同じじゃないか、なんて小さな笑みがこぼれた。

「うわぁ、綺麗」

 背中から聞こえてくる紗奈からの言葉、ひとつひとつに過剰に反応をしてしまう。夜通し考えたあの言葉達は、紗奈の目にどう映ったのだろう。手元の課題など、まるで手につかなかった。

「ちょっと待って、歌詞見ながら聴いてみてもいい?」

「うん、もちろん」

 しばらく経って、紗奈はわたしにいくつもの嬉しい言葉をくれた。ここの言葉選びが良いとか、この表現が好きだとか、直接言ってくれるものだから頬が熱くなってしまう。


 そこからの日々は充実したものだった。これまで何かに打ち込んだことないわたしにとって、あまりに刺激的な毎日が続いた。無限に広がる、創作の楽しさを知ってしまったのだ。

 紗奈のメロディラインに、自分の言葉を並べて光を灯す。自分たちの作品を、自分たちの日常で色づけていく。率直に言うと最高だった。

 どうしてわたしは、今までの人生で表現をしてこなかったのだろう。そう、何度も悔やんだ。

 二週間ほどかけて歌を練習した末、次の週の土曜日にレコーディング。日曜日には紗奈の家にお邪魔して、動画編集と最終調整という忙しい日程だった。


 そしてやって来た、日曜日。

 足元に咲くたんぽぽ、ひとりぼっちのブランコ、少し曲がったガードレール。散った桜に降りる遮断機、春の通学路。一週間かけて撮りためてきた動画を簡単に繋げ、手書き文字の歌詞を合わせる。タイトルを入力して、サムネイルを設定。

 恐る恐る、「公開」のボタンをクリックした。細く息を吐いて、紗奈としばらく見つめ合う。

「投稿、しちゃった」

「どうしよう、ね」

 どうしよう、と繰り返す紗奈の表情は嬉しさを隠しきれていないようだった。ふふ、と笑い返す彼女の頬は、ゆらゆらと静かに紅潮していた。


 瞬く間に中間テストの期間に入り、ふたりの創作は一時休止になった。高校に入って初めてのテストだったけれど、紗奈に助けてもらいながらなんとか切り抜けることができた。

 テストが終わった日の放課後、わたしと紗奈はまたあのカフェに来ていた。一番安いアイスコーヒーを頼んで、ゆっくり口つけながら投稿サイトの管理者画面を開く。

 一瞬、液晶は真っ白になった。数秒間のLording、画面に映し出されたのは5203回再生、という文字だった。通知欄をクリックすると、いくつかのコメントが目に飛び込んでくる。

『すごく綺麗』『応援してます』『これ初投稿ってまじ』

 自分達の作品に向けられたのであろう、嬉しい評価の数々に目を見張る。ありえない、という言葉が最初に出てきた感想だった。

「ねぇ、紗奈、すごいよ」

「え」

「初投稿だし、まだ一カ月も経ってないのに」

「………」

 無言で画面を見つめる紗奈の顔には信じられない、と書いてあるようだった。わたしも、全く同じ気持ちだった。え、あ、ありがとう。紗奈はそう繰り返して、その画面を凝視していた。

 紗奈の旋律は、わたしの言葉は、確かに誰かに届いたのだ。わずかだとしても、誰かの心に触れることができた。その証拠である画面を、ふたりで呆然と見つめていた。




 並木道には新緑が揺れ、照りつける日差しに目が眩む。いつの間にか、春が終わり夏がやってきていた。真新しい夏服の半袖、風に当たる肌がくすぐったくて涼しい。

 四時間目、数Aの授業中。シャーペンの先を見つめながら、次の曲のコンセプトを考える。数式の横にはくだらない妄想と歌詞のアイデアが、崩壊しかけた文字で書き連ねてあった。誰にも見せられないようなノートを閉じたところで、昼休みを告げるチャイムが鳴った。


「あ、琴、わたしね、パソコン買ってもらえることになったの。親に作曲のこと少し話したら、結構応援してくれて。あんまり高くないやつだけど、あと一週間くらいで届くみたい」

 購買で買ったパンの袋を開けながら、紗奈はそう言った。わたしは水筒を開けて、冷たい麦茶を喉に勢いよく流し込む。

 そうか、紗奈は作曲のこと、親に言ってるんだ。そして親も、彼女のことを応援してくれているんだ。いいな、なんて心の隅で小さく呟く。

「えっ、おめでとう!」

「ありがと。前よりも操作楽になるから嬉しい」

 紗奈は声を弾ませた。出会った春よりも軽快なリズムだった。

「すごい、じゃあ動画編集とかもやりやすくなるね」

「うん! あ、そうだ」

 紗奈はスマホを取り出して、いつもの作曲アプリをタップする。

「またデモ作ってみたんだけど」

「え、もうできたの? 早っ」


 その曲は、風鈴が鳴らす涼やかな音から始まった。相変わらず美しく、夏らしい雰囲気の曲だ。コメント欄では聴くタイプの天然水、なんて表現されるのだろうか。流れるようなピアノの旋律を聴いているうちに、夏のバス停とプールサイド、堤防の向こうに広がる海の情景が浮かび上がってくる。彩度の高い、刹那的な夏の風景だ。紗奈の心の美しさが、そのまま透写されたような素敵な曲だった。

「あのさ、これ、間奏のところに小さく波の音入れたらいいんじゃないかなって思って」

 思いついたままの言葉を、つい口に出してしまった。

 あ、いいかも。紗奈はそう言い、もう一度通して曲を聴いた。そして、また顔を上げる。

「え、まって、めっちゃいい」

 やばい、絶対良い、と繰り返す紗奈。彼女の砕けた口調はレアだ。いつも礼儀正しい言葉を使っている彼女の、心から漏れ出すような言葉たち。本音を聞けたような気がして、心が高揚するのを感じた。

「わたしたちで行く? 海、ここから結構遠いけど」

「行きたい!」

 即答だった。紗奈の瞳の奥が、きらっと光って潤むのが分かった。

「じゃあ、夏休みになったら行こう。七月のうちにでも」

「うん!」

 海に行けば、歌詞の着想だって得られるかもしれない。高校一年生、夏が始まった合図だった。




 七月最後の土曜日、夏休みが始まって一週間ほど経った頃。

 紗奈とは、駅前の時計台で待ち合わせをしていた。時間ぴったりに現れた彼女は、白いワンピースを着ていた。そこにあったのは、絵本から出てきたみたいな、小さくてかわいい少女の姿だった。五月蠅い蝉の音が、辺りにじりじりと響いていた。

 電車で二度乗り換えをして、青い海を目指す。初めて乗る路線、電車の窓から見える景色はどれも新鮮で、瞬きの度に光り輝いていた。

 電車を降りると駅の喧騒を抜けて、人のまばらな海岸へと進んでいく。考えてみると、海に来たのは小学生ぶりのことだった。

 どこまでも続く青い空には大きな雲が悶々と浮かんでいて、列をなす雲の終点あたりには薄ら月が浮かんでいた。

「月、綺麗だね。まだ昼なのに」

「うん」

 紗奈は、吐息を含んだ声で小さく頷いた。

「波も月も、全部綺麗」


「いいよね、夏の概念的なものって」

「うん、一瞬を切り取ったような感じが、すごく、良い」

 光が透けて、ゆらゆらと水面が動いていた。目をそむけたくなるような眩しさを、わたしは焼き付けるようにして見つめていた。

「ね、裸足になろう」

 靴下を脱いで、素足のまま浜辺に触れる。火傷しそうな温度の砂を抜けて、冷たい波の中に入っていく。ひやり、肌に水飛沫がかかる。振り向くと、紗奈がわたしに笑いかけていた。

 差す陽光が心地良くて、だけど苦しくて、夏なんて一生終わらなければいいと思った。叶わない願いを弄びながら、わたしは海を眺め続けた。海も空もどこまでも青くて、その青さにずっと縋っていたかった。

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