初虹はふたり

夜賀千速

1

 降りやまない白雨が、教室の窓を強く打ちつけていた。



「あ、えっと、竹内紗奈です。南中から来ました。あ、あの、好きなことは曲を作ること、です」

 俯きがちに答えたその子が席に座ると、じゃあ次ー、と担任の声が響いた。後ろの席の男子が立ち上がって、短く自己紹介をする。部活はサッカー部に入る予定です、よろしくお願いします。じゃあ次ー。

「……」

 少しの静寂があって、前の席の生徒からの視線がわたしに向いていることに気がついた。大きな音を立てて椅子を引き、冷たい指先を握りしめる。

「北中出身の園部琴です。趣味は読書と音楽鑑賞です。よろしくお願いします」

 高鳴る心音を抑えながら席に着き、頬杖をついて窓の外を眺める。校庭の葉桜はぐっしょりと濡れ、雫が絶え間なく滴っていた。LHRの終わりを告げる声が聞こえ、先生が廊下に出ていく。その途端、教室中が喧騒に包まれる。溢れる透明の雨粒が、葉っぱの先を動いて落ちていった。


 期待も失望もしていないうちに、高校生活のスタートが切られていたようだ。話したこともないクラスメイトは既に友達をつくり、一緒に登下校をしたりしているらしい。ふざけた声が、教室の後ろの方から聞こえてくる。

 ひとり廊下に出ると、多くの先輩がわたしたちの教室の前に並んでいた。部活勧誘をしているのだろうか、教室から出てくる新入生に片っ端から声をかけているようだ。わたしは人だかりを避けて階段を降り、別棟のある方へと向かった。野球部の激しい掛け声が聞こえてきて、そこを足早に通り過ぎていく。


 前を歩いていた新入生に続いて、三階までの階段を上る。別棟の壁は真っ白で、どこか憂いを帯びた冷たい空気をしていた。

 三階に辿り着くと、そこだけがやたらと明るい灯りに照らされていた。

『軽音楽部』、とポップな字体で書かれたポスターが目に入る。センター分けの背の高い先輩が、新入生歓迎コンサートのチラシを配っていた。

「きみたちも見学?」

「あ、はい」

 耳元で、もうひとつの声がした。すぐ横に立っていた茶髪の女の子と、数秒間目が合う。

「じゃあ、一緒にこっちきて」

 手招きをされ、部室の案内と楽器の紹介をされる。沢山の一年生が、先輩たちの周りを取り囲んで質問をしていた。やはり軽音部は文化部の中でも、高い人気を誇っているようだ。

 一通り見学が終わると、わたしは静かにその場所を離れた。どこか、自分がいていい場所ではないような空気をしていたのだ。ここは人との対話が上手くて、楽器経験がある人が入るような部活だ。バンドを組んで文化祭で演奏、なんて漫画のような青春に憧れてもいたが、入ったとて他のメンバーと上手くやっていける自信がなかった。わたしはもっと、静かで落ち着ける場所に身を置いていたい。薄暗い階段に、上履きの音が響いた。


 すると二階の踊り場に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。肩までの、さらさらの茶色の髪。わたしはその姿を見ると同時に、その背中に反射的に声をかけた。慣れない勇気を振り絞ったからか、緊張のあまり手に汗が滲む。

「あ、あの、竹内、さん?」

 竹内さんはぱっと振り返り、心底不思議そうな表情をした。後先考えず親しくもない人を呼び止めた自分に対して、小さな後悔が生まれる。

「そう、です」

 彼女は頭上に疑問符を浮かべたまま、わたしの瞳を見つめた。

「あ、あの、さっき、曲作れるって言ってたよね」

「うん」

「すごいなって思っただけ。あの、それだけなの、ごめんね」

 鞄を握りしめて、わたしはそこから逃げようとした。自分から話しかけに行ったくせ、数秒ごとに襲ってくる気まずさに耐えることができなかったのだ。


「あ、待って!」

 階段を駆け下りていると、彼女はわたしを呼び止めた。

「あの、少しだけ時間ある?」

「うん」

「あ、あの、どこか行ったりとか……。あっ、やっぱごめん、予定あるよね」

「ううん、大丈夫だよ」

「……ほんと?」

「うん、今日はもう何もないし。部活見学も、もういいかな」

「そうなの? じゃあ」

 竹内さんは細い髪を揺らして、薄桃色の唇を動かした。そのまま、二人で昇降口へ出る。

「せっかく高校生になったから、カフェとか行ってみたくて。ちょっと遅いけど入学祝い、みたいな」

「カフェ! いいね、楽しみ」



 心が躍るままに、折り畳み傘を勢いよく開く。透明なビニールに、ぱらぱらと雨が落ちてくる。竹内さんは背が低く、大人しめで清楚な印象の女の子だ。仲良くなれたらいいなぁ、なんて思いながら灰色の校門をくぐった。



 着いたのは小さな商店街を抜けた先にある、学校から歩いて十五分ほどのお洒落なカフェだ。案内された窓際の席に腰掛けると、竹内さんは申し訳なさそうにわたしを見た。

「ごめんね、突然誘っちゃって」

「えっ、謝らないで。ここ、前から来たかったところだし」

「よかった……。わたしもここ来るの初めて」

 彼女は静かに笑って、かすかに濡れたブレザーを脱いだ。綺麗な照明が頭上で光っていて、神秘的な雰囲気を作っている。万華鏡がくるくる回っているような、そんな光だった。

 メニューを開いてひとしきり悩んだあと、わたしはホットケーキとメロンソーダ、竹内さんはクレープとアイスコーヒーを頼んだ。


「軽音、入るの?」

 そう訊くと、彼女はゆっくりと首を横に振った。

「ううん、一応見に行っただけで、わたしはいいかな。あんまり明るい雰囲気得意じゃないし。園部さんは?」

「わたしも同じ。みんなで演奏するのも楽しそうだけど、ちょっと怖くて」

「だよね、わかる」

 明るいノリを求めらるような空間が苦手なのは、竹内さんも同じだったようだ。

「どこか、他の部活には入るの? 見学しに行く予定とか」

「今のところないかな。他にひとりでやりたいこともあるし」

「やりたいこと、って」


「……作曲?」

 わたしは彼女の瞳をじっと見つめて、もう一度そう訊いた。

「うん、そんなに大したものじゃないけど」

 竹内さんは曖昧な笑みを浮かべ、スマホを触って作曲アプリのようなものを開いた。

「まだ始めたばっかりだけどね」

 彼女は白い指先でそれを操作し、画面をわたしに向けてくれた。

「うわぁ、すごい」

 細かいトラックがいくつも分けられていて、一目見るだけで精密に作られているのがわかる。

「これ全部、スマホだけで作ってるんでしょ?」

「うん、まぁ。ゆくゆくは本物の楽器も使ってみたいけど」

「えぇ、すごすぎ」

「そうかな……。あの、これ、聴いてみる?」

「うん!」

 竹内さんは鞄から有線イヤホンを取り出し、それを手渡してくれた。


 制作画面の上に表示されている、三角の再生ボタンに触れる。

 その瞬間、美しく繊細なメロディが耳に直接響き始めた。

 最初は高音のピアノだけだったメロディに、彩を添えるようにドラムやギターが加わっていく。様々な楽器や音が合わさって、それは壮大な音楽になっていった。高音と低音がピースをはめるように重なっていく、一瞬で聴く人を虜にする宝石のような曲だ。

 例えるならば、そう、目の前に夜空が広がっていくような。凍る空気の中、瞬きひとつできずに星の輝きに目を奪われたような。なんて、大げさかもしれないけれど、この曲にはあまりにも強い引力があった。一度聴いたら忘れることのできない、奇跡の旋律だと思った。


「え、天才じゃない?」

 一瞬で心を掴まれたくせ、口から出た言葉はそれだけだった。竹内さんは首をかしげて、不思議そうに曖昧な笑みをこぼした。

「本当に本当に、すごいと思う。天才だよ、誇張も何もなしに」

「そうかな……」

「ネットに投稿したりとかはしないの?」

「あ、いつかはやってみたいと思ってるんだけど。そういうのに疎いから、投稿の仕方とかよくわからなくて。それに、この曲歌詞とかないから。あんまり需要ないよ」

「いや、需要とかじゃなくて。絶対アップした方がいい。いつか誰かの目に留まるようになるよ、この曲は誰かの心に届く」

「そうかな」

 竹内さんは、自分がどれだけの才能を持っているか理解していないようだ。彼女は何事もなかったかのように、綺麗な首筋に手を当てていた。

「絶対そうだよ! もっと多くの人に聴いてもらうべき」

「そんなに? ありがとう」

 謙遜しつつも、彼女は真っ白だった頬を赤らめてくれた。

「でもわたし、投稿するなら歌詞をつけてちゃんとした曲にしたい」


 彼女がそう言った瞬間、白いお皿を持った店員さんがテーブルの前にやって来た。

 目の前に置かれた、メロンソーダのしゅわしゅわを見つめる。次々に上っていく泡沫越しに、竹内さんの切実な声を聴いた。


「わたし、文章の才能とかなくて」

 彼女が下を向いた途端、照明の光が睫毛の影をつくった。

「だからインスト曲は作れても、歌詞が書けない。本当に、文章の才能がないの」

「才能、なんて文章に関係あるかな。心があれば、誰でも書けるんじゃないの」

「書けないよ。繊細な感情とか、そういう伝えたいものがあったとしても、それを言語化する能力がないから」

 からん、とグラスの中の氷が音を立てる。

「じゃあわたしが書くよ、歌詞」

 竹内さんが紙ストローを持ったまま、ぱっと顔を上げた。

「わたしでよかったら、だけど……。動画編集とかも、よければ」

「え?」

 戸惑いの色を見せた竹内さんを見て、わたしはやっと我に返った。

「いや、あの、やっぱりごめんね。突然こんなこと口走っちゃって。迷惑だったよね、嫌だったら断って。忘れていいよ」

 慌てて弁明をしようと、言葉を何度も繋ぎ合わせる。

「違う違う、嬉しくて。わたし、夢だったの。自分の曲に歌詞をつけてもらえるの」

「えっ」

 竹内さんがくれたのは、わたしの想像を何倍も上回る嬉しい言葉だった。

「それなら」

「もう夢、叶っちゃう」

 夢心地のような、そんな会話だった。さっきまで靄がかかっていた心に、あたたかい光が差していくような感覚。二人で創作できること、素晴らしい曲に歌詞を書けること、その全ての喜びが身体中に巡る。

「じゃあ次の夢は、わたしたちで決めよう」

「うん」



 お店を出ると、さっきまで灰をかぶったようだった空が一転、春の明るさに満ちていた。

「あ、あの、竹内さんじゃなくて紗奈って呼んでほしい」

 彼女は綺麗な瞳で、明るい茜空を見ながら言った。

「えっ、いいの? じゃあわたしのことも琴って呼んで」

「わかった。琴って名前、ほんとかわいいよね」

「琴、なんて名前つけられたくせ、何の楽器も弾けないんだけどね。紗奈も、すごい良い名前」

「ありがと、嬉しい」


 通学鞄を揺らしながら、ふたりで光の広がる街を進んでいく。

「あ、待って」

 一歩先を歩いていた紗奈が紺色のスカートを揺らし、ゆっくりと振り返った。

「虹」

 淀んでいた心に澄んだ風が吹くような、そんな感覚だった。紗奈の言葉と同時に、茜色の空を見上げる。すっかり晴れ渡った空の上には、美しく細い虹がかかっていた。


「なんかさ」

 紗奈は今だけのこの景色を、瞳に焼き付けるようにして空を見ていた。

「虹を届けられるように、なれたらいいよね」

 あ、ごめん、今の忘れて、と紗奈が慌てて続ける。

 ううん素敵、そう言ってわたしは空にシャッターを切った。

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