3

「ラスサビの転調格好よすぎ」

「ほんと? そこはわたしも気に入ってる」

 一緒に曲を作るようになって、五カ月ほどの月日が流れた頃。

 紗奈の曲は、時が進む度に磨かれていた。どの曲にも紗奈の色はあるのだけれど、ひとつひとつの曲が個性を持っていて、そのどれもが高いクオリティを保っている。彼女の音は、日ごとに息づきを増しているようだった。わたしもそれに見合う歌詞と動画を作らなければいけないと、彼女の曲を聴く度に強く思った。

「あ、この前の、Future Bassの方なんだけど。書いてみたから、よかったら」

 教室の机からファイルを取り出し、手書きの草稿状態のものを紗奈に渡した。汚い字で試行錯誤したものだが、彼女にはその跡を見られたって構わない。紗奈には素の自分を、そのままのわたしを、見せられるようになっていた。

「わぁ、いいね」

「なんか変えた方がいいとことかある?」

「ううん、あるわけない」

 首をゆるやかに振り、紗奈はわたしの言葉をかき消した。そのしんとした表情に、いつものような優しい微笑みはなかった。何かが違う、と思った。

「あ、ほんと? ありがと」


 冷たい風を切るように、紗奈はゆっくりと踵を返した。水垢がついた窓ガラスに手をあて、その先に広がる街明かりを見据えていた。わたしには彼女の小さな身体が、世の痛みをいっぺんに背負っているように見えた。

「ねぇ、次の動画だけどさ」

「MVのことを、少し話したくて」

 静寂だった。わたしの言葉など耳に入っていないかのように、紗奈は後ろを向いたままだった。いつも笑って話を聴いてくれる、どこまでも優しい彼女の姿はそこにはなかった。


「わたし、これからどうすればいいんだろう」

 微かな声だった。小さな息は、夕方の空気に吸い込まれるように消えた。

「ああいや、突然虚しくなっちゃっただけ」

「そっか」

 沈んだ太陽の方向を見ると、放課後の空を藍色が覆いつくしていた。四階から見える夜景は美しいけれど、ふとした瞬間にそのまま堕ちていってしまいそうな怖さがある。

「あのさ、琴」

 なに、と振り向いて首を傾ける。

「音楽で、何ができると思う?」

 底なしの悲しみを孕んだ、あまりに綺麗な声色だった。空気を裂いたようなその声は、黒い影の落ちた教室によく響いた。

「音楽なんてただの空気の振動で、」

「歌詞も小説も、ただの文字の羅列だね」

 紗奈の言葉に被せるように、わたしは強く張った声でそう言った。吐いた息が、冷ややかな空気に混ざって溶けていった。

「うん」

「でもわたしたちはただの空気の振動に、心動かされてきた」

「そうだね」

 深く頷いた紗奈の睫毛は、小刻みに震えているようだった。


「創作なんて勝手にやってろよって、自由に作って楽しくやれよって話なのかもしれないけどさ。それって無理だよね、普通に考えて」

 紗奈はわたしに背を向けたままそう言った。

「自由に創作なんてやってらんないよ。ひとつひとつ悩まないと先に進めないもん。こんなことしててお金にもならないのに、とか将来どうするの、とか、誰も救えないのに、とか色々思っちゃうじゃん」

 言葉が、洪水のように溢れていた。いつもは言葉少なな優しい彼女の、感情の吐露。紗奈の言葉ひとつひとつが、心に深く伸し掛かって、離れない。

「そう、だよね。自分の創作物で心を動かされた人なんていないんじゃないか、この創作に意味があるのかとか、いちいち考えちゃう」

 言葉に出してから、わたしもずっと紗奈と同じだったのだと気付く。創作に打ち込む度に感じる靄、どうしてだか苦しくなるあの感情の正体を、やっと知れたような気がした。


「創作するようになってから、なんだかすぐに心が揺らぐようになっちゃって。どうしてかな、苦しい時が増えて、耳を塞ぎたくなっちゃって、あのね、心が弱くなっちゃったような気がする」

 わたしも、同じだ。でも、と顔を上げる。

「心が深くて、それを埋めるように創作してるから、じゃないかな。だからその揺らぎは、大切なものだと思うよ」

 影を見ていた紗奈の瞳が動いて、わたしの視線と僅かに絡んだ。

「弱いのは、わたしもそうだよ。その代わり、心に深度があるんだと思う。美しいものをみたとき、それを美しいと思える心があって、だからそれを曲にしたり物語にしたりするんでしょう。いつも静かだけど絵が上手い人がいるのとかもさ、寡黙だからこそ内面が潤ってるってことなんじゃない? もちろん、全員がそうってわけじゃないと思うけど」

 熱を持って放った言葉に、紗奈は少しだけ頷いてくれた。


 日の落ちた真っ暗な教室を出て、誰もいない廊下をふたりで歩く。硬いローファーの鳴らす足音が、静まり返った校舎に響いていた。

「紗奈はさ、なんで曲作るようになったの?」

「どうしてだろう。もともと音楽が好きだったってのはあるけど……。自然に、かなぁ。よくわかんない。今は色んなこと考えながら作ってるけど」

「そっか、自然に」

「創作する理由なんてなんでもいいよね。認められたいからでも、有名になりたいからでも。自分だけのために作ってるとしても」

「うん」


「あ、でも。わたしが創作してるのって、誰かに何かを伝えたいから、なんだと思う。わたしね、大きな感情が自分の中にあっても、溜まったそれを処理する方法が曲する以外ないの。普通の人みたいに、感情の共有が綺麗にできないから。非情なわけじゃないのに」

 分かる、と思った。伝えたいことがあって、でも伝えられなくて、だから言葉を紡ぐのだ。わたしだって、そういう風に生きている。きっかけをくれたのは、全部紗奈だった。

「わたしも、歌詞にしたりしないと深い部分の感情は伝えられないかも。間接的にじゃないと自分を表現できなくて、それでこんなことをしてるのかもしれない」


 外に出て、冷え切った空気を肺に取り込む。あの夏はもう過去になり、葉は明るく色づく季節になった。その葉もすぐに地に落ちて、次は凍えるような寒さがやって来る。季節は巡っていくのだ。

「あぁ、音楽で生活したいなぁ」

 紗奈はさっきの会話の余韻のままに、悲痛な声でそう言った。

「いいよね芸術家は。成功した創作者は。生み出すことで生活できるとか最高じゃん、創作に打ち込むのがどれだけ辛いのなんか、痛いほど分かってるけどさ」

 息継ぎもないままに、紗奈は苦しそうに続ける。スカートの裾が揺れて、流れた夜風が肌にあたった。

「心が弱くても外に出なくても自分の世界を創っているだけで称賛されるの、うらやましいな。自分の創ったものを誰かに届けていれば、死ねないという理由だけで生きてしまっていること、それも全部許されるのかな。わたしだって創作者になって全部作品にして、感情も何もかも使い果たしたかった」

 やるせない感情を振り切るように、紗奈は少しだけ笑った。

「まぁ、そんなこと言ったって必死にやるしかないんだけどね。結局は努力だと、そう思ってるしかない」

 紗奈はそこまで一気に言って、溜め息と共に視線を空へ泳がせた。彼女の綺麗な横顔が街灯に照らされて、ぼやけて滲んでいた。


 ◇


「えー、来月の上旬から、三者面談期間に入ります」

 先生がそう言い、教室中から不満の声が上がる。まだ高一なのに、と思ったも束の間、前の席の人からプリントが回された。

 家に帰って、ソファで料理本を読んでいた母に白いプリントを渡す。途端、母の瞳から光が消えた。

 リビングを出て行こうと立ち上がると、母はわたしを呼び止めた。

「勉強もしないで、いつも部屋で何してるの」

 あ、うん、歌詞を書いてる。あとは動画作って投稿したり、とか。そんなことなど言えるはずもなく、いつも曖昧な言葉で濁していた。

「勉強は、してるよ」

「本当に? 大学行くんでしょ? 今からちゃんとやってないと間に合わないよ」

「あ、うん」

 ねぇ、わたしは何がしたいんだっけ。あぁ、もう。わたしはずっと、このままここで歌詞を書いていたいのに。

 逃げるようにその場を離れ、ドアを勢いよく開けた。自室に戻って布団に倒れ込み、スマホの電源ボタンを押す。液晶に光が灯って、通知バーが表示される。紗奈からのメッセージだった。

『わたし、音大に行こうと思う』

 目を見張った。音大、の二文字を見つめる。

 格好いいと思った。紗奈は決断したのだ。大学でも音楽を学ぶこと、それを使って生きていくこと。紗奈にはあんな才能があるんだから、進路に活かすのは当然だ。そして紗奈の親も、それを応援してくれている。

 そう思ってから数分後、わたしの心の奥深くで、感情が暴れていることに気がついた。

 既読もつけずに、そのメッセージを放置した。そのまま、日々が流れた。行き場のない焦燥を抱えて、創作から少しだけ離れた。紗奈に対して湧いた感情、それを嫉妬と呼ぶのだと気付いたのは、数日経った後だった。


 それから、紗奈とわたしは何度か衝突をした。他愛ない会話から生まれたすれ違いが、言い合いに発展してしまったのだ。

 そして一週間くらい経った頃だろうか、紗奈はしばらく学校を休んだ。理由は分からなかった。わたしの言葉が紗奈を傷つけてしまったのか、それとも別の何かがあったのか。保健室には来ているという噂もあったが、ひとりで話しかけに行く勇気も、メッセージを送る勇気もなかった。カーディガンを羽織って進むいつもの通学路は、横に紗奈がいないだけで酷く息が詰まった。

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