4
数日後、わたしは放課後に紗奈の家を訪れることを決めた。
久しく会っていないので怖くもあったが、わたしは彼女に謝りたかった。わたしが、彼女の心を閉ざしてしまったのではないかと思っていた。本当に言いたかったことが、まだ胸の底に残っていた。
インターホンを押すと、紗奈のお母さんがドアを開けた。眉を静かに下げた彼女のお母さんはわたしにお礼を言い、紗奈の部屋の前まで通してくれた。
白くて綺麗な扉を、ぎこちないリズムでノックする。
「大丈夫?」
数秒後、紗奈は扉を開けた。
「ごめん、大丈夫じゃないよね」
彼女は終始無表情だった。
「入って」
色のない唇を動かして、紗奈はわたしを部屋に入れた。彼女の部屋に来るのは、夏に動画編集をした時以来だった。しばらく、その場に沈黙が流れる。わたしは通学鞄を覗いて、渡すプリント類をファイルから取り出した。
「あの、心配で」
どうすればいいのか分からず、ありきたりな言葉で静寂を破った。
「なんか、つらくて」
「そっか」
言葉を続けられない自分に嫌気が差して、わたしは鞄の紐を強く握った。
「曲が、つくれないの」
「うん」
「なんかもう、よくわからない」
「そういう時は、無理につくろうとしちゃだめだよ」
「そうかも、しれないけど。何も生み出せないのなら、生きてる意味なんてない」
否定したかった。紗奈は生きているだけでいいのだと、曲なんて作らなくていいよと、そう伝えたかった。でもそれを言葉にできなくて、もどかしくて、自分も同じなのだと気が付いた。
結局、わたしもそうなのだ。いい文章が書けないと、ぴったり言葉がはまらないと、それだけで自分に価値がないと思ってしまう。創作をしていない自分に、どうやっても価値が見出せない。自分の中心に在る創作がなくなったら、どうやって生きていけばいいか分からなくなってしまう。紗奈も、きっとそうなのだろう。
「曲なんて誰でも書けるよ」
色褪せた、乾いた声だった。
「そうだね」
「わたしじゃなくても、他の誰かでも。もっといい曲が書ける人はいっぱいいる」
「そうだね」
紗奈は顔色一つ変えずに、床に置かれたプリントに目を落とした。
「でも、わたしは、紗奈の曲がいいかな」
彼女は唇を固く結んだまま、何も言わなかった。
「紗奈の曲は、優しいから。わたしは紗奈の曲が好きだよ」
そうかな。紗奈はそう言って、わたしの言葉を軽く受け流した。自嘲するような笑みをこぼす彼女を見て、わたしは胸が苦しくなった。彼女はわたしの言葉を、表面的に受け取っただけだ。心を閉ざして、その言葉を丁重に阻んだ。どこまでも優しい彼女らしい、あまりに苦しい拒絶だった。
「あのね、わたし、本当にすごいと思ってるよ。誰にでも優しい紗奈のこと。曲とかそういうのじゃなくて、本当に、人間として尊敬してる」
ありきたりな誉め言葉しか出てこない自分には苛々するけれど、彼女への本心を伝えたつもりだった。
「優しいなんてさ、何にも取り柄がない人が言われる言葉だよ」
全てを捨て去るような紗奈の言葉に、わたしは咄嗟に喉が絞まった。
「そんな、こと、ないと思うけど」
「そんなことがね、あるの。何にも特出したものがなくて、特別がなくて、ありふれていて、褒めるものがないから、仕方なく優しいって言われてるだけ」
紗奈は何も、分かってない。
「何言ってるの。紗奈は曲が作れるじゃん。その時点でもうわたしとは違うし」
「やめて。そんなの何にもならないの」
琴、もうやめて。紗奈はそう、はっきりとわたしに言った。
「紗奈が曲が作れなくなったとしても、わたしは紗奈と友達でいる」
「わたし、本当は優しくなんてないよ」
「それは」
違うよ、と言おうとしたその刹那、紗奈がわたしの瞳を静かに睨んだ。
「だって優しいふりしてないと、何されるかわかんないじゃん。誰にもできる気づかいをして、気を配っているふりをして、それで最低限だよ。最低限、ここにいていいんだって思える。少しでも善行を重ねてないと、生きてちゃいけない気がするの。それだけ。全部偽善」
「優しいふりができるのなら、それは優しいのと同じだよ」
わたしの思いを、紗奈に分かってほしかった。美しい心を持っている紗奈は素晴らしい存在で、それだけでここにいていいのだと、それを理解してほしかった。自分のことは棚に上げて、言い聞かすように言葉を並べ立てた。
「優しすぎるのは、琴の方だよ。優しさは時に、罪にもなるの」
だから、紗奈は、優しすぎるんだよ。自分じゃなくて他の人を大切にしてばっかりで、心が綺麗すぎるんだよ、優しすぎるの。でもわたしはそんな紗奈が、美しい紗奈が大切で、だから。
「そうかな。そう思えること自体が、紗奈の優しさなんじゃないの? 人格が美しくて、綺麗なんだよ」
「違うよ。違うの、怖いだけ。わたし、優しさを盾にしてるの」
呼吸を落ち着かせて、部屋の生ぬるい酸素を吸って、胸中の靄を吐き出すように紗奈は続けた。
「わたしさ、最近分かったんだ。怖いんだよね、全部が。情けないけど、怖いの。学校が怖い、勉強が怖い、社会が怖い、親が怖い、それで逃げるように偽善者ぶって、意味の分からない曲を作って、何も変われてない。曲なんて作ったってそんなの何の利益も生み出さないのに。誰の役にも立てないのに」
「そんなことないよ、紗奈の曲は誰かを救ってるよ」
「根拠は」
「根拠って、そりゃ、感動したってコメントいっぱいきてたし」
紗奈の才能を称賛する声が、MVのコメント欄には溢れ返っていたはずだ。彼女だって、沢山の言葉に目を通しているはずなのに。
「それは琴の歌詞が綺麗だからでしょ」
「それだけじゃない。歌詞だけじゃ、人なんて救えない」
「そうかな。そもそも救いって何なんだろうね。なんだかもう、気持ち悪い。一度苦しみを救ったって、一度夜が明けたって、その人はどうせまた別のことで悩むんだよ」
紗奈の痛切な言葉に、胸の奥が重く軋んだ。確かに、そうかもしれない。わたしたちが与えた救いなんて、一時的な気休めに過ぎないのかもしれない。わたしもそう思う、けれど。
「それでいいんじゃない。一度救った知らない誰かが、もっと大きな壁にぶつかるのは当たり前だよ。その時は、他の誰かが助けてくれる。別の誰かが書いた曲とか、小説とか、大切な人にもらった言葉とか、そういうものに出会うんだよ。みんなそうやって、必死に生きてる」
自分の心に言い聞かせるように、言葉を揺るぎなく紡いでいく。知らないうちにわたしの中に絡まっていた糸をほどいて、揃えながら一つの言葉にしていくような、そんな感覚だった。
「全部救いたいなんて、それこそこっちのエゴだよ。一度だけでも何かを与えられたなら、それだけでいいんじゃないかな。一時的な救いでいい、一心に作った曲が消費されたっていい、それでいいんだよ。わたしたちは自由に作ってればいいの」
わたしは強く言い放った。壁時計の秒針の、世界を刻む音が部屋に響く。わけのわからない焦燥に押しつぶされてしまいそうな心を、ぎりぎりのところで保っていた。
「それはそう、だけど」
紗奈は目を伏せながら、大きく吸った息を吐いた。
「ごめん」
咄嗟に出た言葉は、たったそれだけだった。苦しんでいる彼女をさらに苦しめて、自分の言いたいことだけを彼女にぶつけて、否定し続けたわたしは最低だと思った。
紗奈は立ち上がって窓のカーテンをめくり、その先に広がる色のない景色を見つめていた。
「ねぇ、紗奈」
ん、と紗奈は振り返った。光のない瞳をした彼女は、いつにも増して消えてしまいそうだった。
「わたし、大人になりたくない」
「それは、わたしもそうだよ。もうずっと、一生高校生のままでいい」
進路調査票、親に決められた大学、三者面談、脳裏に浮かぶのは忘れたい記憶ばかりだ。重く痛む脳内に、いつかの苦しみがフラッシュバックする。
「紗奈はいいじゃん、夢を応援されてるんだから」
そう言ってしまってから、自分の失言に気がついた。紗奈が深く、しっかりと傷ついたのが分かった。最低だと思った。わたしが放った言葉が紗奈にとってどれだけ苦しいものだったのか、理解したのは数秒後のことだった。紗奈が一瞬浮かべた、絶望のような表情。棘が、胸に刺さって抜けなかった。
「大人になることが感性を失っていくことなんだったら、一生子供のままでいたいな。それならこのまま、大人になんかなる前に」
「そうかも、しれないけど」
紗奈の口から溢れる言葉を、遮ったのはわたしだった。
痛みをこらえるような彼女の言葉には、どこか嘘がないような気がして、怖くて仕方がなかった。わたしが知りたくない何か、覗きたくないもの、真っ暗な深淵に、紗奈はいつもふらふらと近づいていく。
「ごめんね」
そう言い残して、プリントだけ置いてその場を立ち上がった。逃げるように紗奈の家を出て、家路を走っていく。前に進んでいく度冷たい風が頬にあたって、移りゆく季節は残酷だと思った。辺りは真っ暗で、今にも暗闇に呑み込まれてしまいそうだった。
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