第3話 人生で初のお泊りの日は



 多分、こういうのを放心状態っていうんだ。今のわたしには、時間や場所の感覚もない。


「佐野さん」


「えっ? あ、はい」


 一柳くんの声で、我に返った。


「今日は終了だって。邪魔になるよ。そこにいると」


「あ……わかりました」


 ぼんやりしたまま、ふらふらと立ち上がる。


「どうするの? 今日」


「今日は……これから、千鶴ちゃんのところに」


 とにもかくにも、約束したんだから。千鶴ちゃんに何があっても、千鶴ちゃんの味方をしてあげなくちゃ。いろいろと傷つきすぎて、あんな行動を取っちゃったのかもしれないし。


「千鶴ちゃんなら、とっくに先輩と帰ったよ」


「ええっ?」


 今、何て?


「今日はごめんって、佐野さんに伝えてくれって」


「嘘……」


 だって、この時間じゃあ、終電はとっくに出ちゃってる。


「そんな変な女、放っとけよ」


 少し離れたところから、人見くんの声がする。


「ちょっと待ってろよ。そういうわけにもいかないだろ?」


 おっくうそうな口調で人見くんに応えてから、一柳くんが向き直った。


「タクシー代、あるの?」


「……タクシーなんて、何万円かかるか」


 だって、今夜は朝まで千鶴ちゃんと過ごすつもりで……。


「なら、うちに来なよ」


「はい?」


 何かの聞き間違いかと思って、顔を上げた。


「泊めるよ。しょうがないから」


「や、でも……!」


 たしかに、助かるけれど。でも、いきなり、男の子の……しかも、一柳くんの家に?


「心配しなくても、二人きりじゃないよ。玲もいる。あ、なおさら、不安?」


「いえ……」


 人見くんは人見くんで、わたしのことをにらんでるし。


「こっち」


「あ……待って」


 こんなところに一人残されたら、困り果ててしまう。ためらいながらも、一柳くんと人見くんの背中を追うしかない。






「ドーゾ」


「……おじゃまします」


 通された部屋は、まさに雑誌で見るような、おしゃれでシンプルな男の子の一人暮らしの部屋。


「適当にして。こっちも、好きにやってるから」


「あ、うん」


 心細さに負けて、ここまでついてきてしまったけれど。


「明るいところで見ると、この女なおさらヘン」


「おまえも、よけいなことは言うなよ。関係ない子なんだから」


 やっぱり、失敗だったかもしれない。泊めてもらえることに感謝しなくちゃいけないとわかっていても、とてつもない居心地の悪さに泣きそうになる。


「寝るなら、そこのソファね」


「……ごめんなさい、本当に」


 当然ながら、何のメリットのない人間に、一柳くんも必要以上には優しくしてくれないんだ。


「そうだ。昨日買ったの、聴かせろよ」


「ああ、あのフランスのテクノ・レーベルの」


 すでに、わたしの存在はないものとして、盛り上がってる。せめて、おとなしくしていようと二人から視線をそらすと、部屋の中には、すごい数のCDとレコード。考えてみたら、放送研究会っていうくらいだもんね。


 人見くんが、ああいうクラブなんていう場所に違和感なく出入りしていそうなのも、意外だったけれど。でも、人見くんも、一柳くんも、なんて楽しそうに音楽の話をするんだろう ————— 。






「…………!」


 目が覚めた瞬間、見慣れない光景に驚く。そう。ここは、一柳くんの部屋。


 情けなくて、どうにもならない気持ちで、二人のようすをうかがっているうち、いつのまにかソファで眠っちゃってたんだ。あの二人に寝顔を見られるのなんて、耐えられないと思っていたけれど、わたしも疲れきってたんだなあ。


 ベッドで眠っている一柳くんと、そのすぐ下で横になってる人見くん。綺麗な寝顔。あんなひどい人には、とうてい見えないのに。


「あ」


 そっと立ち上がろうとしたとき、毛布が床に滑り落ちた。これって、やっぱり……わたしのために、一柳くんがかけてくれたんだよね。


 さすがに、このまま、黙って帰っちゃうわけにはいかない。たしか、駅から歩いてくる途中にコンビニがあったはず。二人を起こさないように静かにドアを閉めて、記憶を頼りに目的地へ向かう。


「…………」


 コンビニの中の大きな鏡に映った、全身のわたし。人見くんが変だって言う気持ちもわかる。だって、千鶴ちゃんに借りた服は、わたしに全然似合っていなくて、どこもちぐはぐ。無理してる感が、全体から漂ってくる。


 でも、しょうがないじゃない。わたしは、千鶴ちゃんじゃないんだもん。一柳くんや人見くんとも違う。目立たないように、おとなしくしていないと、きっとまた嫌な思いをする。


 気持ちを切り替えて、店内の陳列棚に目を移す。男の子は、朝でもたくさん食べるよね。サンドイッチと、おにぎりを何種類か。無難な緑茶と、食後のコーヒーもあるといいかな。


 人見くんには、べつにお世話になっていない気もするけれど、迷惑をかけたということで、一応全部ふたつずつ……。


「あ。一柳くん」


「ああ」


 レジで会計を済ませて、外に出たところで、入れ違いで店に入ろうとしていた、一柳くんと顔を合わせた。


「待って……!」


 そのまま、店の中へ進んでいこうとする一柳くんを、あわてて呼び止める。


「これ」


「え?」


「迷惑かけちゃったから……お詫びになるかわからないけど、朝ごはん。人見くんと食べて」


 今の自分の格好も恥ずかしくて、下を向きながら、コンビニの袋を一柳くんにくんに押しつけた。


「泊めてくれて、ありがとう。助かりました。もう、こんなことにならないようにするから」


 あのサークルも、もうやめよう。わたしには合わない。千鶴ちゃんには悪いけれど、もっとラクにいられるような場所を見つけるの。


「なんだ」


「えっ?」


 見上げると、一柳くんは前みたいに優しく笑っていた。


「何もなかったみたいに、黙って帰るつもりだったんだろうなと思った」


「そんなこと、しないよ」


 しっかり答えてから、再び視線を落とすと。


「なんか、誤解があったかな。お互いに」


 力を抜いた柔らかい口調で、一柳くんが続ける。


「意外と、ちやほやされないと気がすまない子なのかなーとか」


「そんなこと……!」


 そっか。そんなふうに受け取られちゃってたんだ。


「とりあえず、佐野さんもお腹空いてるでしょ? こんな食べきれないから、佐野さんも戻って、一緒に食べよう。コーヒーは俺がいれるよ」


「ううん」


 あわてて、自然に引っ張られそうになった手を引っ込めた。


「どうしたの?」


「わたしに、優しくしてくれなくていいから」


 もう、この前みたいな思いはしたくないの。


「優しくしてもらえなくたって、ノートくらい、いつでも貸すから」


「佐野さん?」


 驚いた表情で、一柳くんがわたしを見る。


「そう、だから……」


「この前の、聞かれてたのか。ごめん」


 そこで、右手でわたしの髪に触れた、一柳くん。


「そうか。だから、ずっと髪を押さえてたんだね」


「あ……」


 覚えてたんだ。


「ううん。いいの」


 いたたまれない気持ちになって、視線をそらす。


「この髪型が似合わないのは、本当のことだし。さっきも、鏡で……」


 浮いてるの、自分でもわかったもん。


「バカにしてたわけじゃないよ」


 一柳くんに、頭をそっと撫でられた。


「似合ってないのは、たしかだけどね。根元の方、綺麗なストレートなのに。もったいないよ」


「え……?」


 きっと、一柳くんは、女の子をドキドキさせる天才だ。


「本当はね、ノートも必要ない。貸してくれる友達なら、いくらでもいるし。あのときは、まともに先輩の相手するのが面倒で、適当に答えただけ。聞かれてるなんて、思ってもなかったから。ごめん」


「……ううん」


 自分の心臓の鼓動がうるさくて、返事をするだけで精一杯だったけど。


「やっぱり、帰るね。わたし」


 家に戻って、一度シャワーを浴びたら、すぐに行きたいところがあるから。


「わかった。ありがとう、佐野さん」


「わたしの方が、ありがとうだよ」


 一柳くんの顔を真正面から見たのは、初めてかもしれない。思っていた以上に、吸い込まれそうな瞳の威力。


「それじゃあ、わたしはここで」


「また、学校でね。佐野さん」


「うん」


 赤くなっているのを悟られないように、早足で歩き出した。春休みに貯めたお金は、まだ残ってる。美容院に、ストレートパーマをかけに行くんだ。


 呼び方は、「優貴ちゃん」から、「佐野さん」になってしまったけれど、以前よりも近くに感じられるようになった気がする、一柳くん。好きになってしまったかもしれない。どうあがいても、届くわけのない人なのに。






 まっすぐに戻った髪は、わたしの顔に、一瞬でなじんだ。でも……。


「整くん、2限は心理学でしょ? 一緒に行こ?」


「うん。行こう」


 一柳くんは、他の女の子たちの輪の中にいて、わたしは近づくこともできない。好きになってもどうにもならないと自覚しているはずなのに、一柳くんに声をかけられることを期待してしまう矛盾。


 わたしも、いいかげんに教室に向かおう。まだ、千鶴ちゃんも来ていないみたいだし……と、そのとき。


「あ」


「…………?」


 目の前に、なぜか大きく目を見開いた、人見くんが立っていた。


「な、何? どうしたの?」


 わたしを凝視する人見くんに、うろたえてしまう。


「思い出した」


「思い出した?」


 いきなり、何?


「長谷川と、よく一緒にいた女」


「えっ?」


 今頃、気がついたの?


「バ……バカじゃないの? 人見くん」


「あ?」


「信じられない。信じられないくらい、ヘン」


 なんだか、今までの嫌なことは全部、人見くんのせいみたいな気がしてきた。


「変な人。人見くんなんて、いいのは顔だけ」


「何なんだよ? 急に。おかしいのは、この前のおまえの服と髪型だろ?」


「違う。人見くんだもん」


 授業が始まっちゃう。人見くんに背を向けて、速足で歩き出した。


「ヘンって、先に言った方がヘンだろ?」


「じゃあ、やっぱり、人見くんがヘンなんじゃん」


 ムキになって、追いかけてくる人見くん。純ちゃんが、前に言ってたとおりだ。まるっきり、子供みたい。


「いきなり、何そんな強気になってるんだよ?」


「べつに。人見くんには関係ないもん」


 わたしも、女の子たちと遠ざかっていく、一柳くんの後ろ姿を追うように歩く。一柳くんに惹かれていく自分を、止められない。やっぱり、間違いだった。わたしは、一柳くんの家に泊めてもらったりしちゃいけなかったんだ。


 きっと、わたしは懲りもせず、かなわない恋を今度は四年間も抱えることになる。



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