アタリ-2

 何故なおとがお守りがわりと称してマスコットを渡してきたのか、そもそもどうして俺の夢を変だと判断したのか、気になることはあったがその場で掘り下げることはできなかった。聞いたとして、より一層恐ろしい現実が明らかになるだけだろうと思ったからだ。

 なおとがああいう言動をしたのは俺が覚えている限りでは初めてだった。彼はそれほどオカルトに精通しているわけでもなく、好きだと言っていた試しもない、はずだ。けれど、俺を不安にさせないようにと気を遣わせてしまっていたのかもしれない。そんな彼が初めて、俺を多少不安にさせてでも忠告しなければならないと判断したのだとしたら、今俺に関わっているものはどんなに恐ろしいのだろう。

 帰宅してから、ひとまず言われた通りに消臭剤をストラップに振りかけた。気にしないのが一番いい、と彼は言っていたが、自分の部屋のちょっとした隙間や暗がりが気になってしまう。ひょっとしたら、あの女はもう、こちらをのぞいているんじゃないか。厭な妄想ばかりが膨らんでいく。無音の空間に耐えられなくて、たまらずテレビをつけた。

 電気を消して、暗がりの中で目を閉じて、眠りにつく。これまでの人生で至極当たり前だった習慣が、今ではなんだか恐ろしい。なおとに貰ったマスコットは枕元に置いておいた。夢はあくまで心理的なものだと割り切って、俺は今日も眠る。深刻に考えすぎるのもいけない。どうか最悪の事態が起きないようにと願う。


 ──くすくすくす。


 俺は明るい部屋の中にいた。朝焼けなのか、夕焼けなのか、オレンジ色のあたたかな光が空間を満たしている。自分がベッドに横たえていることに気がついて、ゆっくりと起き上がる。あたりを見回すと、そこが実家の子供部屋であるとわかった。片付けられていない勉強机があって、開けっぱなしのランドセルが椅子にひっかけられている。

 耳のすぐそばでくすくすと笑い声が聞こえる。不思議と厭な気はしなかった。まるで妖精が周りを飛び回っているような、ちいさな笑い声だった。

 コンコン、と扉をノックする音が聞こえる。


「まもる」


 あの声だ。お父さんでもお母さんでもない声だ。名前を呼ばれたので、身体が勝手にベッドから降りる。扉の前に立つと、向こうに気配を感じた。


「まもる、あけて」

「あけるな」


 後ろから声がした。同じ声だ。ぞわりと全身が粟立って、硬直してしまう。

 扉を開けるか、開けずに振り向くか。今この空間においてはこの二択しかないのだと、直感で理解する。


「まもる」

「あ、け、るな。あけるなあけるなあけるな」


 俺の手がドアノブに触れると、後ろから聞こえてくる声の様子がおかしくなった。早送りでもしているようだ。

 どちらが正しいのかなんて、俺の頭ではちっとも理解できていない。しかし俺の体は、何かに背中を押されるようにしてゆっくりとゆっくりとドアノブに手をかける。力を込める。


「あけるな、あけるな、あけるな、まもる、まもる」


 絶えず声がしている。後ろから俺を引き止める声。ドアの向こう側の声。耳の奥でくすくすと笑い声。

 カチャリ、ドアが開いた。隙間から漏れ出ているのは光だ。あたたかい光だ。隙間を無理やりこじ開けるようにしてドアがゆっくりと開いていく。眩しい光が部屋の中になだれこんできた。


 ──くすくすくす。


 ドアの先には廊下が続いている。慣れ親しんだ家の風景だ。

 ドアの前には誰もいなかった。あたたかな光だけがこの場を包んでいた。

 それがひどく悲しくて、虚しいことのように思えて、勝手に涙が込み上げてきた。


 カタンと鳴った物音で目が覚めた。まだ部屋は暗い。スマホで時刻を確認するとまだ一時だった。そういえば、何か夢を見た気がするのに内容をほとんど覚えていない。こんなにすっきりした目覚めはいつぶりだろうか。とはいえ、今起きたとて二度寝するほかないのだが。

 水が飲みたくなって起きあがろうとしたそのときだった。突然ツンと鼻をつく異臭がした。驚いて辺りを見回すが、暗がりでは見えたものではない。立ち上がって電気をつけて、臭いの出所を探ろうとした。

 そして、すぐにわかった。枕元だ。そこに転がっているマスコットから、錆びた鉄のような濃い臭いがしていた。異常事態だというのは考えるまでもなかった。


 ぱき、ぱき


 心臓が跳ねる。プラスチックが潰れるような音が自分の部屋の外から聞こえてくる。寝る前に捨てたペットボトルのゴミが音を立てているのだろう、と思った。

 それを確信するために廊下の先へと向かう。変わった様子はなにもないいつもの廊下だった。ほら、やっぱり何てことなかった。そう言い聞かせて部屋に戻ろうとした。

 やけに冷たい風が頬を撫でた。まるでどこか窓の隙間が開いているような。

 風が吹いている方に、視線が向く。向いてしまった。外に広がっているのは真っ暗闇だ。

 いや、窓の外にあるのは、ただの暗闇じゃない。カーテンの隙間、窓の隙間から、何かがこちらをのぞいている。目だ。白と黒の目玉だ。


「──くそっ……!!」


 これは夢ではないと本能が告げている。

 俺はこれ以上進めなくなって後退りした。あの窓に近づきたくなかった。けれど、後ろにあるのは玄関の扉だけだ。

 どれだけ瞬きしても影は消えない。それどころか、ゆっくりとこちらに近づいているような気がした。逃げなければ。でも、どこに?

 そのとき、ヴーッヴーッと部屋の方から機械音が聞こえた。自分のスマホだ。火事場の馬鹿力のような瞬発力で、机に置いてあったそれを掴んだ。

 なおとからの着信が届いている。俺は迷うことなく通話に出た。


「っ、なおと、なんで急に……っ」

『聞こえてるか?今どこにいる!?』

「うちにいる、さっきまで寝てたんだ、でも急に外に何か……!」

『わかった、今行くから!、目閉じて耳塞いでてくれ!』


 なぜ今の状況を把握されているのか、なぜ対処法がわかるのか、不可解なところは山ほどあったが、今の俺にできるのはなおとの言う事に従うことだけだった。

 目を閉じて、耳を塞いで、何も気づかないふりをする。バクバクと心臓の音が鳴り響く。遠くでざわざわと何かの囁き声が聞こえる気がする。

 時間の流れがひどくゆっくりに感じられる。今にも暗闇がすぐそこまで迫っているのではないか、と不安に囚われる。思わずその場に座り込んだ。恐怖で気が狂いそうになるのを、必死に押し込めた。


 ──ピンポーン。呼び鈴が鳴った。

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いみごと 花いずみ @iykyk

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