第3話

 結局、文太を引き取れたのは、一年を過ぎたときだった。特に厳しかったのは経済面だった。幸子は茂雄に無断で自宅と土地を売った、さらに息子の健介を無理やり就職活動させた。といってもやはり就労経験のない四十過ぎの中年など正社員で雇ってくれるところはなく、コンビニのアルバイトに採用された。健介はフルタイムで働き、その給料全てを家に入れるように幸子は迫った。茂雄はさすがに横暴な幸子の行動と、それ以上に健介から襲われると思って反対したが、臆病な健介はすんなりと了承して、実際金を家族口座に振り込んだ。決して収入面は高いとは言えなかったが、安定はしていた。それがぎりぎりクリアしたのか、文太は再び家にやってきた。月齢は一歳六ヶ月になっていた。もう立ち上がってすたすたと歩いている。幸子は「腹ばいとかはいはいとかもっと一緒に成長を見てやりたかった」とブチブチ文句を垂れていたが、これからは世間に隠すことなく育てられるじゃないかと説得すると、幸子も頷いていた。

 娘の美紀が帰省してきたとき、文太を見て悲鳴に近い声を上げていた。

「いつ、つくったの?」

 賃貸に引っ越したことより先に文太の話題が出た。

「養子だよ」

 茂雄はすぐに否定した。ただでさえ還暦すぎても会社に酷使されて体力がないというのに六十過ぎの老婆と抱き合ってなどいられるわけがない。

 文太は人見知りせずに美紀に抱きついた。美紀も最初は戸惑っていたが、あまりにも文太が愛嬌を振り撒くのでしばらくすると頭を撫でていた。

「文ちゃん、かわいいね」

「当たり前よ、私の子だもん」

「私もなんですけど」

「あんたはもう大人でしょ」

 幸子の言い方は冗談にしては抑揚の無い口調だった。まるで幸子の実子は文太ただ一人と言いたげなものであった。

 美紀も機嫌を損ねたのか、いつも夕飯を食べて帰るところが、午後三時すぎには自宅アパートを出ていった。幸子は美紀の様子を気にすることもなく、文太の額にキスをしていた。

 茂雄は健介のコンビニのアルバイトはもって一ヶ月だろうと思っていたが、一年経った今でも継続できていた。それどころか、日にちが経つにつれ、健介に笑顔が増えて、猫背がまっすぐになり、ぶくぶくと醜く肥えていた体も引き締まった。これは単に外で体を動かすようになっただけではなく、部屋で筋力トレーニングを始めるようになったことが大きく影響している。健介は一度ジムに通いたいと幸子に申し出ていたが、案の定あっけなく断られていた。それにしても健介の変貌ぶりには驚かされる。時おり文太の成長さえもかすむほどの驚きだった。

「文太が来たときは正直、僕はいつか両親に殺されるか、自殺する運命と思ったけど、外で働く機会をもらえて、社会の一員に慣れた気がするんだ。今では文太にも母さんにも感謝してるよ」

 その中に茂雄が含まれていないのは少々気になったが、引きこもりでニートだった茂雄が見違える発言をしたときには涙ぐんだものだった。

 茂雄自身にも変化があった。なんだかんだ言っても文太はかわいらしく、一日ごとに成長していく姿が愛おしかった。仕事にも精が出た。その会社ではシルバー雇用が続いたが、長年教えていた後輩が独立するからついてきてくれないかという誘いに乗り、還暦を過ぎて会社を経営するメンバーになった。幸子は大反対したが、茂雄は珍しく画を貫いた。その会社は利益を上げ続け、収入も三倍になったが、引っ越しはしようとも思わなかった。もし会社が傾いて路頭に迷ったとき、高い家賃のところでは生活ができない。別にこの古いアパートにも愛着を感じはじめていたことだし、引っ越しに労力も使いたくなかった。

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