4-4 試練② 怒れる妻1

        

「そっちが本当にその気ならやってやるんだから。剣道初段を舐めないでよ! キェェェ!」



 妻は私に屁(実)を放たたせまいと新聞紙を丸めた棒とハエ叩きの二刀流になって応戦し始めた。立ち向かってきた妻に袋叩きにされる私。思わぬ猛反撃に合い体中の至る所を容赦なくはたかれ続ける。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「こうなったら、やっちゃえ。ハトちゃん!⭐️」

  VS

《チキショウ! もう一押しだったのに!》

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 そうして叩かれ続けると頭が冷静になり、急激に怒りの感情が消えていった。次第にあれほど昂っていた感情は情けないという気持ちに変わってしまっていた。恥ずかしさを伴った。ただただ情けないという羞恥の気持ちだった。



「キエエエェェ! チェスト!チェスト!チェストーー!」



 ‥‥私は今、一時的な感情に身を任せて何をしようとしたのだろう? 

 傷つけるつもりで・・・・・・・・‥‥‥だと?

 私が妻を傷つける?

 私はいったい何をしようとしたんだ?

 思い知らせれば良かったのか? 泣かせれば満足だったのか? そんな事をすれば虚しい結果しか残らないのは明らかではないのか?

 女が何を言おうとも結局のところ男の方が強いのだ。それを知っていながら、よりにもよって暴力で訴えようなどと‥‥‥。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「そうです。ウミネコ様、暴力からは何も良いものを生み出せません」

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 普段の私だったらどうだろうか? こんなことで怒るはずもなかった。まったくもって恥ずかしい。一時の感情に惑わされ、正気を失って、すっかりどうかしていたのだ。


 この醜態なんだ? 

 これが私なのか?


 こんなはずはなかった。私はもっと大人であったはずだ。立派な人間だった。今まで長く生きてきて、怒りを爆発させたくなるような瞬間は少なくなかったが、その時々にも、私は己の心を律し、一人の成熟した大人として振る舞えてきたはずだった。

 それなのに‥‥‥だ。


 社会に生きていく上では、時に怒りを示さなければならない事はあるだろう。身を守るため。叱るため。正義や権利を主張をするため。上手に怒りを示すことも立派なスキルだからだ。

 だがこれは何の怒りだ? こんな甘え切った感情を吐き出すことを私が自分に許したというのか?

 これでは暴れ回るヤクザ者や、駄々っ子と同じではないか。

 決してそんな人間にはなるまいと心に強く戒めていたはずなのに、自分自身が軽蔑していたそうした愚かな人間に、進んでなり果てようとしていたのだった。

 たった一つの怒りを我慢できずにだ。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

「怒りを静めて省みるのです。さあ、自分自身を見つめて。あなたにはそれができる」

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 ああ‥‥、と悲嘆してしまう。

 あの時、怒りに身を任せて一線を越えてしまえばどうなっていた事だろう。間違いなく尻からが出て大惨事となり、ただの悪口だったうんこ親父は、名実ともにうんこたれ親父となり、それを知った娘はもう口も聞いてはくれなくなったろう。


 そして、今–––––––––。


 冷静になって、私は自分がしようとした事を思って恐れ震える。衝動的に築き上げてきたすべてを壊そうとしていたのだ。父親としての尊厳も、愛情も、家族からの信頼も何もかもだ。

 もし、やっていたら本当に取り返しのつかない事態になっていた。怒りというものはそれほど自分を見失わせるものなのだろうか。 

 ‥‥‥私は本当に愚か者だ。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

《させねーよ。ケケケケ》

    VS

「あ、コイツ!⭐️」

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 だが、それでも‥‥‥‥。



◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆

《ケケケ‥‥。シャーーー!》

◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆



 ––––––それでも私には‥‥!



          ⚪︎



〝それでも〟と叫んだこの私は、この後、何と言っただろうか?

 客観的に見て、この瞬間、この時にこそが、深く反省する絶好の機会だった。

 全力で自分の非を詫びて妻に謝るべき時だった。


 だが、私はこの時、その機会を退けて、こう思ってしまった。

 言い訳をしたい。すぐにでもそうしなければならぬ。

 そうして、できるだけ急いで体裁を整えなければならない。

 さもなければ羞恥心で男としての尊厳が死んでしまいそうだ、と。


 晒した醜態を自分のものとして受け止められない私は。妻を労ることよりも、まずは自分の見栄が大事なのだと判断したのだ。自分でしでかしたものの惨状を直視することができない情けない男には、崩れ落ちた自尊心を立て直す言い訳が何より重要だったからだ。



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