4-3 試練① 憤怒による破綻
私は我慢強く、怒るに遅い人間だと思っている。その証拠に結婚してから一度も妻とは喧嘩らしい喧嘩をしてきたことはなかった。我儘な娘がどんなに暴れ回ろうとも、けして手を上げることもなかった。しかし、これ
‥‥などと言い連ねたが、これは言い訳なのだろう。
愛と憎しみは表裏一体のもの。信頼していた妻に無下にされたことで、心の奥底に隠されていた何かのスイッチが入ってしまった。真心を込めて言った『愛してる』という言葉が退けられると、私の中に一気に怒りの炎が燃えがってしまったのだ。それは今までの二人の平穏な関係からは想像もできないものだった。
◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆
《ヒャッハー。怒れ怒れ、ウミネコ!》
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100歩譲って飯のことはいい。我慢もしよう。だが、––––だが! 妻のお前が、夫であるこの私の愛の
なあ、お前が今無視したものの意味が分かるか‥? 分かるはずもないよな。そんな風に無下にできるのだから、お前にはさぞかし無価値なものだったのだろう。
‥‥それはな。いつか渡そうと思って、長年懐で温めて隠し持っていたプレゼントのような大切な想いだった。やがて来る日のために取っておいた、とっておきの幸せな想いが詰まった胸一杯の真心であったものだ。
それを‥‥。
それを、お前はーーー!
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《‥‥ケケケケ!》
VS
「あ、あいつ。ウミちゃんの怒りを増幅させている⭐️」
「いよいよ始まってしまいましたね」
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だったらいい。もういい。そんなものゴミのように捨ててしまえばいい。‥‥‥だがな、そっちがその気ならばもう我慢をしない。私は私の権利を主張してやろう。
おい! 家事もせずにくっちゃべり続けるなど、働いて家庭を守っている一家のあるじたるこの私を何だと思っている! しかも、見ろ。私は誰とも知れぬ誰かに、私の家庭は最高なのだと鼻高々に自慢してしまったのだぞ。男のメンツまでお前に傷つけられたのだ。いったいどうしてくれるのだ! おのれ、夫に恥をかかせおって! 許さん許さん、許さんぞおお!
「ひぃい、あなたやめて。これ以上、おならをしないで!」
私は物凄い剣幕で怒りに怒った。そして、妻が悲鳴を上げるのも構わずに尻に力を込めて、妻に向けて百連発のラップを奏で出したのだった。心は強い怒りと、思い知らせてやりたいという思いで一杯だった。
プッ、プツクプツク、プンプン
プツッ、プツクプツク、プンプン‥‥‥
黙れ! ずっと我慢していたが堪忍袋の緒が切れた!
おい、私は誰だ?
お前たちを働いて養ってやっているのは誰なんだ?
言ってみろ!
私は家長なのだぞ。この家で一番偉いのではないのか!
お前は誰だ?
夫たる私を、常に立てて、付き従う妻ではないのか!
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《ヒャッハー、やっちまえ! 言って分からない女は拳で支配しろ!》
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だったら何を怠けている!
遊んでないで妻たる義務を果たせ!
お前は誰だ! ええっ? 誰なんだ!
「ひぃぃ。これ以上オナラはしないで! くっさいのー!」
なんだその顔は! それが夫を敬う態度か!
臭いだと? ふざけているのか!
お前を養ってやっている私の屁を有難いと思わないのか!
かげ! 尻に鼻をつけ、笑顔で屁をかいで、愛してると返事をしろ!
◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆
「‥‥くっ、ちょっと厳しいです。怒りの感情がもの凄く強いですね」
「やっばいじゃん⭐️ じゃあ私も力を使うね⭐️ いっくよー⭐️」
「大丈夫。私が抑えます。あなたは声をかけて」
「ラジャー⭐️」
VS
《‥‥ウケケケケ!》
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心は完全に黒い感情で染まり、許せないと言う思いで支配されてしまっていた。自制の効かない怒りの感情は、さらに大きな怒りの感情をへと増幅されてゆく。
私は声を張り上げた。傷ついたこの気持ちを言い尽くさねばならなかった。「分かれ」と叫び続けたのだ。
それなのに妻は私の気持ちに応えようとしない。正当な権利を叫んでいる私に対して謝罪もせずに誠意がない。夫への義務をさぼって、悲鳴を上げるばかりの妻が許せなかった。
妻の悲鳴を聞いて、ここで止まらなければ、という思いがよぎったが、止まることなどできなかった。私のさらなる容赦のない怒りが妻を襲った。
私は火山の如くガスを噴射させて、怒鳴り声をあげたのだ。
ブーーーーーー
ブホォーー!!
と、屁の音が雄叫びを上げて部屋中に響き渡る。
「きゃあーーー!」
妻は私の屁の音のあまりの大きさに恐れ慄き震えた。腰を抜かしていた。
私は妻のその悲鳴を聞きながら思った。
自分のこの正当な主張が軽んじられるなどあってはならない。私の正しさはこの胸の内に湧き上がる怒りの感情が証明してくれている。だから私は何も間違っていない。止まる必要などないと。
私は勢いづいた激情に心を任せた。そして怯える妻に叫んだのだった。それは妻に対して「従え」と支配を要求する強い命令だった。
⚪︎
夫が屁をこいたのだぞ!
ならばお前は!––––––––––––
【うみねこの命じる理想の妻】
『あなた、くっさいわー。もー、やめてよー。‥‥‥えっ、何よ、改まって。ちょっとー。恥ずかしいからやめてよ。やだわー。いい歳して、愛してるだなんて。ウフフ。あら、ヤダ、もうこんな時間。ご飯の支度をしなくちゃ。あなたのオナラを嗅いでたらお腹が空いてきちゃった』
–––––––––などと優しく微笑みながら三つ指を立てて夫を尊ぶべきではないのか! それが正しい妻のあり方というものだろう! 違うのか!
続けて娘は、––––––––––––
【うみねこの命じる理想の娘】
『あは、オナラが目にしみちゃった。お父さんのおなら、本当にくっさいんだから〜。もー、やめてよねー。アハハハ‥‥。あ、そうだ。臭いオナラと言えばなんだけど、突然だけど言うね。えへへ。‥‥お父さん、いつも私たちのために働いてくれてありがとう』
––––––––––ちょっと健気な感じで涙を流しながら、父の屁を吸いつつも朗らかに笑うべきなのだ! それが父を敬う娘というものだろう。父と娘の楽しいコミュニケーションのあり方だろう。おならを嗅いだらその臭さに親の苦労を知り、日頃の感謝を思うべきなのだ!
違うのか!
なのにアイツはいつも私を馬鹿にして蔑んで‥‥。
この前もお茶目なお父さんを演じながら冗談で笑わそうとしただけなのに‥‥。アイツの顔に近づけて屁をこいただけなのに‥‥。本気で親を刺そうとまでしてくる‥‥。
どうしてなんだ。どうして‥‥‥‥。
⚪︎
などと最初は声も大きく、居丈高に命令する口調であったが、だんだんと萎んでいった。自分の言い分を言い募るにつれて、声は次第に弱々しいものになり、最後には願望と失望が混ぜこぜになった愚痴を私は吐露していた。
愚痴を言い始めると、怒声のトーンはだいぶ下がっていたが、それは怒りがおさまったのではない。まだ怒りの種火は燃えている。再び燃え上がる機会を得ようとしている。私はまだまだ怒り足りないのだ。
しかし人間はいつまでも怒っていられる訳ではない。怒りの継続時間は6秒と言われており、なんだかんだと熱した感情は冷めていってしまう。だから継続的に怒り続けるためには、適宜、燃料を投下し続ける必要がある。
不平不満は怒りの感情を燃やすための燃料となる。私は自分が燃え続けるために、無意識の判断で、いったん緩急をつけることにしたのだ。ここぞというタイミングで被害者の顔に切り替えて、自分を傷つけるように愚痴を言い募り、鬱憤を十分に蓄えていっていた。そして、もう一度、大きな感情の爆発を引き出そうとしていた。
ぷーー‥‥‥
ぷすぷす
プピっ
と、静かに屁を出す。すかしっぺに近い弱々しい威力のものだったが、これは新たな噴火の前触れとなるものであった。
そう、私の心の中では、再び怒りの炎がメラメラと燃え上がって来ていた。
◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆
「うみちゃん、怒っちゃダメ。愛だよー!⭐️」
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‥‥ぐぬっ!
『こんなにもお前たちのために苦しんでいると言うのに、お前たちはいったいどこまで私をコケにすれば‥‥‥!』
と叫び出そうとした瞬間だった。
急に脈絡なく落ち着いてしまった。振りかぶろうとしていた力が、いきなりすっぽ抜ける。ガクンとするようにだ。
怒りを動力としていたのに、今まで突き動かしていたそのエネルギーが忽然と消えてしまった。走行中の車から燃料がなくなった時ように、それからもうピクリとも動かない。
こうなると思考もままならない。
戸惑いながら自分を動かそうと試みる。やはりエネルギーは消えており、エンジンの再始動はならなかった。
力を失ってしまった私は、まるで胸にポッカリと広大な穴があいてしまったようだった。
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「落ち着いて〜⭐️ どーどーどー⭐️」
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急に虚しさが胸に入り込んできて私を打ちのめした。
胸の内にひしめていた怒りの感情がすっぽりと無くなると、その胸の空洞を埋めようと、何か代替えとなる熱情を求めた。––––––求めたが、何もなかった。
激情が過ぎ去った後というのは虚しいものだ。自分を突き動かし、一心不乱に追い求めた熱がすっかり冷めてしまうと、大きな虚無感だけが残った。
自分が何もない。とても虚しい存在に感じられた。
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「怒りは人を盲目にします。周りが見えない事は勿論ですが、何よりも自分を見失ってしまうのです。どうか冷静になって自分の心を見つめ直して下さい」
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‥‥‥私はお前達とおなら一つで許し合い、笑い合うことのできるそんな幸せな家庭を作りたかった。自分たちがすでにそんな家族であると勝手に思い込んでいた。
すべては私のエゴだったのか。私はお前たちを愛していた。なのに‥‥‥。
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「うみねこ様。あなたの愛する人の顔を、もう一度よく確かめて下さい」
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ふと妻の顔をよく見てみるべきだという思いがよぎった。妻はずっと怯えていた。さっきまで悲鳴を上げて叫んでいた。
激情に夢中になっていた為に、見ようともしなかったものが、微かな胸の痛みを伴って、ようやく見えてきたのだ。
そうしてふと思った。
私は自分の言い分を言い連ねるだけの為に、妻にあんな顔をさせるべきだったのだろうか? 私の怒りはそれほどの意味のあるものだったのだろうか?
いったい私は何をしているのだろうか‥‥‥‥?
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《ウケケ‥‥。そうはさせねーよ。カワイソウだなー。ヒャヒャヒャ。お前は本当にカワイソーだ。偉そうにしていたのにコケにされた。妻にも娘にも軽んじられて、随分と惨めじゃないか。‥‥ヒヒヒ》
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何かを一瞬だけ悟りかけて、ソレからすぐに目を逸らした。
深い悲しみが、その何かを悟ろうとするのを阻止したのだ。胸の虚無には、いつの間にか深い悲しみが入り込んできていた。気づかない内に新たな暗闇が心を覆ってしまっていたのだ。
私は自己憐憫に囚われていた。自分が哀れで可哀想だという思いが、今さっき悟りかけた重要な事を忘れさせたのだった。
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《人間とかいう玩具は笑えるよなー。ヒヒヒ。不平不満だけが怒りの薪になる訳じゃねーぜ。怒りに繋がる動線は一つじゃないんだな。これが》
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それからは感情がおかしなことになった。自己憐憫に囚われれば、さらに悲しみを深くしてゆくのが自然な流れだと思うのだが、私は怒り出した。
自分が可哀想だと思うばかり、悲しみが少しづつ怒りを思い出させていったからだ。悲しみの感情を着火材にして、胸の奥底で消えかかっていたドス黒い炎が、徐々にぶり返してくる。
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《悲しみだって使いようによってはいい薪になる。ケケケ、簡単につけこめるぜ〜。特に自分をちっとも悪いとは思わない被害妄想に取り憑かれた自己憐憫のナルシストちゃんはな!》
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悲しみに取り憑かれた私は、慟哭に至るまで自分を憐れんだ。
胸に痛みが広がってゆく。
なんて自分は可哀想なのだろう。こんなに自分はよくやっているのに。頑張っているのに。自分は何も悪くないのに‥‥‥。
なのに、なのに‥‥。
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「あ、ダメダメ。簡単に引っ掛かっちゃ⭐️」
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私はとんだ道化だったという訳だ。
何も伝わってなかった。最初から何も分かち合えてなどいなかった。
私の屁は言葉ではなく、ましてや笑いでもなく、軽蔑だけを生み出していただけだったのだな。
すべては思い込みと、ただの願望だったのだ。
私はこんなにもお前を、お前たちを愛していたのに‥‥‥‥。何故なんだ!
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《それ、怒れ、ウミネコ!》
◆–––––––––––––––––––––––––––––––––––––◆
そうして怒りは十分な糧を得た。
悲しみを糧にして、急激に沸点に達したのだった。
どあああああああ! チクショウ!
‥‥愛していたんだよ。お前たちを。
私は‥‥。お前を!
それを、それを‥‥‥。
私が一方的に愛情だと思っていた行為は、ただの屁だと? ふざけるな!
よくもよくも私を裏切ったな!
「もう許して、おならはもう嫌なの。くっさいのーー!」
怯える妻を見て、さらに私の憤りは増長した。怒りの感情を思いっきりぶつけてやりたいという気持ちになり、歯止めが効かなくなってくる。
愚かなことにあれほど愛情を深くしていてた伴侶にだ。しかし今は逆に、その情の深さが愚かさを増長させる要因になっている。
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「ウミネコ様、ダメです! それはやってはいけない!」
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実を言うと腹の中にはもうガスはない。何も残っていないのだ。先ほどのすかしっぺ時の「プピっ」に不吉な音色を聞き、それを悟っていた。私は
だというのに私にはもう自制が効かなかった。
怒りだ。強い怒りが自我を支配する。これ以上やってしまえば一線を越えた破滅的で自滅的な暴力になってしまうだろう。それでも私は妻を
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